鶴田雅英(PP研運営委員/大田福祉工場/丸木美術館)
▲▲民衆の安全保障▲▲
ウクライナでの戦争をめぐる「市民の意見30」紙上での議論は大切な話ではないかと思った。しかし、あまり噛み合っていないようなので、自分なりに考えたことを書いてみた。
議論として、目に見える形で開始されたのが、杉原浩司 さんによる「ウクライナの人々の尊厳を認めること」https://www.iken30.jp/bulletin/192/ からPDFにリンク
(SNSでは、ウクライナ戦争でウクライナの問題を指摘する論調への批判を杉原さんは以前からしており、杉原さんにまとまった文書を書くように、ぼくが頼んだこともあった)
この文章の執筆の動機について、杉原さんは以下のように書く。
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本誌6月1日号の特集「ウクライナ戦争を考える」に対して感じた強い違和感がこの原稿につながっている。侵略を仕掛けた 戦争犯罪人であるプーチン (ロシア)ではなく、侵略を受けたウクライナと支援する アメリカの側を批判するトーンが共通して いたからだ。とりわけ冒頭の海老坂武さんによる「ウクライナの戦争に思うこと」には、かなりのショックを受けた。それに輪をかけたのは、ある討論集会で旧知の市民運動の友人2人から、相次いで海老坂論文への賛意が表明されたことだ。一体これはどういうわけなのか。強い疑念だけではなく、憤りさえ湧いてきた。
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(ちなみに、ここで杉原さんが否定している海老坂さんの文章は ここ からPDFで読むことが出来る)
そして、
人々は「戦わされている」だけなのか
という見出しで始まる文章につながり、そこで杉原さんはゼレンスキーによるすべての人への戦争参加を強制する総動員は否定しつつも「侵略を受けている困難な状況の中で、武器を取ることも含むそれぞれの選択をしている人々の主体性を、もう少し尊重してもいいのではないか」と主張する。他にもいくつかの論点が挙げられているが、まず、この論点について、考えることが求められているように思った。
武力による「侵略を受けている困難な状況」があるときに、武器を持って闘わなければ、とりあえず、その段階では、侵略に抵抗できない。それは厳然としてある事実だ。しかし、日本国憲法は、国際紛争の解決のために戦争という手段を選ぶことを拒否した。そんな理想主義を選び取った。
現状の日本では、目の前に突きつけられたウクライナの現実を前に、軍拡主義者は大手を振って軍備増強を唱え、それが実現しつつある。選び取った理想主義は、文面だけを残して、かなぐり捨てられている。事前にも事後にもロシアとウクライナの戦争を止める効果的な努力を日本政府が行ったようには見えない。
そんな状況で、私たちはどう考えるべきなのか、始まってしまった侵略戦争を前にどんな行動が求められるのか、どんな言論が必要とされるのか、どのような結論を持つにせよ(残念ながら、ぼくには現状でこれといった結論はないだが)、ここをちゃんと考えることが求められているのではないかと思う。
しかし、繰り返し、言っておきたいことは、侵略をさせないための対話や戦争を回避する手段が最大限選ばれなければならないということであり、そのことは多くの識者が指摘している話ではある。例えば、雑誌『世界』の2022年5月号で梅林宏道さんは「時代錯誤の核共有論」という文章で以下のように書く
しかし、忘れてはならないのは、戦争はある日突然には始まらない。戦争の芽を育てる年月があったから戦争が始まる。平和への努力で戦争を防ぐことはできるし、それ以外に戦争を避ける方法はない。(64頁)
ここは繰り返し、何度でも上記の視点が重要であるということを明記しておきたいと思う。そして、今回の事態の中で、戦争を避ける努力がどれだけ行われてきたのか、詳しい状況はぜひ、研究者やジャーナリストに分析して欲しいところだが、この努力がちゃんと行われたようには見えにくい。
■メディアの状況について
「市民の意見30」とか「週刊金曜日」のような反戦運動・左翼側のメディアは、マスメディアのロシア非難一色の状況に異を唱えるために、ロシア非難だけでいいのかという論調を掲載する。そのことに杉原さんは反論し、ウクライナの民衆の多くは自主的に闘っているのであり、侵略されている側のナショナリズムは認められるべきだと主張する。
このあたりがとても微妙な話だ。戦前、日本の民衆の多くも日本帝国主義のために自主的に闘っていた。もしかしたら、ウクライナの民衆の9割がゼレンスキ―を支持するように、日本帝国の民衆の9割も、少なくとも表面的には目の前の戦争を支持していたのではないか。
そして、今回のウクライナの戦争、確かに起きてしまったことは、ロシアによる一方的な侵略という話だが、侵略される側のナショナリズムを支持するといった場合に、帝国主義的な国家同士の争いで侵略された側のナショナリズムも支持されるべきなのだろうか? 今回の戦争の代理戦争的な性格をどう見るかという課題でもある。杉原さんはアジアを侵略した日本と侵略されるウクライナを混同してはいけない、代理戦争という見方は間違いであるという真野森作さんの以下の意見を引用する。
国際政治を大国同士のパワーゲームのように読み解き、中小国やその国民の主体的判断や行動を軽んじる見方ではないか。
確かにそう言える側面もあり、今回のウクライナ戦争もそれとまったく無縁とは言えないかもしれない。しかし、今回の戦争を単純に帝国主義的な性格の国家と侵略された被害国という風に描くことが妥当なのかどうかという部分が意見が分かれるところだろう。そこには帝国主義間の争いという側面もあるのではないか?
また、イラク戦争で「フセイン政権叩きが行われた記憶はない」と杉原さんは書く。米国の侵略に反対しつつ、「フセイン政権を支持するわけではない、ひどい政権だ」という声は、それなりにあったのではないかとぼくは記憶している。そこは検証が必要な部分かもしれない。
そしてで重要だと感じたのが、以下の視点。同じ雑誌『世界』5月号の特集で塩川伸明さんはインタビュー記事で「今回の侵攻にいたった背景として、NATOの東方拡大の動きが指摘されています」というインタビュアーに応えて以下のように言う。
塩川 背景説明に入る前に、まず確認しておかなくてはならないのは、ロシア軍によるウクライナへの攻撃は正当化する余地のない蛮行であり、ロシア国内を含む世界の多くの人たちからの強い非難は当然だということです。
この前提の文章にある認識が欠けているか、とても薄いために、分裂が生じているという面もあるのではないか。人によっては、当然すぎて省略している場合もあり、そのことが誤解を生んでいるのではないかと思う。そして、その前提を明確にしたうえで、塩川さんは以下のように言う。
そのことを確認した上で、かねての緊張激化の背景について考えるなら、この点では NATO とロシア双方の側にそれぞれの言い分があり、またそれぞれに一定の責任があります。現在の戦争については、ロシアが一方的に始めたものである以上、もっぱらロシアに責任がありますが、そこに至る背景はもっと広く考える必要があるわけです。(36-37頁)
この注意深い言い回しと背景への理解は必要だと感じた。そこに続けて、塩川さんは1989年に遡って歴史の経過をして説明しているが、今回はそこは略。この記事、その背景の理解のために、いまも読むに値するインタビューだと思う。
また、考えなければならないのは、ロシアによる侵略を許してしまった後の抵抗運動の困難と、戦争が本格的に始まった後でもウクライナでの反戦運動は可能なのか、ということ。ロシアとウクライナ、それぞれの国家に、どれだけ反戦運動のスペースが許されるのか、また、形成しうるのかという視点も欠かせないように思う。民衆の声がちゃんと届く政治体制を形成するために、いま、出来ることは何かという視点だと言い換えることもできるかもしれない。
■難民の受け入れについて
現状でウクライナからの難民が積極的に受け入れられて、受け入れ態勢が作られようとしていることは肯定的な話だと思う。同時に、戦争を忌避してロシアを逃れる人も積極的に受け入れたらどうかと思うし、出国が制限されているらしいウクライナの男性が出国できるルートも準備できたらいいと思う。しかし、そのような話を聞いたことはない。ぼくが得ている情報は限定されているので、誰かが他で書いているのかもしれないが。
■最後に
杉原さんの文章で好感が持てたのは、自己矛盾を正直に告白しているところ。杉原さんは以下のように書く。
(ウクライナへの)武器の供与が止まったら、どうなるのか。私は普段は武器取り引きに反対する運動をしているが、今回ばかりは西側による武器供与を丸ごと否定しきれない。みっともないことは自覚している。もちろん、欧米の軍産複合体がぼろ儲けしていることも腹立たしい。しかし、歴史にはジレンマに耐えるしかない局面もあるのだ。
この正直なところは、とても好感が持てるし、ジレンマに耐えるしかない局面があるのも確かだと思うのだが、これが日本の軍拡の理由に使われている側面は無視していいのだろうか? 「やはり、非武装中立は無理だ」「憲法9条は絵空事だ」という声が聞こえてくる。そのような声に対して、どう立ち向かうことができるだろう。
「歴史にはジレンマに耐えるしかない局面もある」という表現を借りるとすれば、日本国憲法の前文や9条の精神で起きてしまった侵略に軍事的に対抗することはできないというジレンマに耐えるべきだ、という風にもいうことができないだろうか? そのために戦争を起こさない努力こそが求められているのだと。
このロジックを、いまの世界に適用するというのは、確かに絵空事ではある。そこで結論を確定できないのだが、とりあえず、現状では、あらゆる戦争を肯定しないという道の可能性を探りたいと思う。