「日本の『植民地戦争』責任と戦後民主主義の枯死について」
長澤淑夫(PP研)
発題者 愼蒼宇(法政大学:朝鮮近代史) 討論者 内海愛子(市民文化フォーラム)
愼さんのテーマは「日本の近代社会認識と植民地支配責任―関東大震災朝鮮人虐殺と日本官民の植民地戦争経験の視点から」だった。今年は関東大震災から100年という区切りにあたり、震災自体は、当然防災や復興の観点からも取り上げられている。しかし自然災害として震災の犠牲者ではなく、人災として明白なドス黒い意図により殺された朝鮮人を取りあげることは人権や民主主義を考える際には重要なテーマとなるだろう。この日、愼さんは、虐殺を考える時間の幅を広くとり、近代日本が朝鮮を植民地化する過程(それは日本が軍事に重点を置き近代化を遂げ、その結果、社会も軍事化しつつ、官民ともに帝国主義、植民地支配を当然視していく過程でもあった。)からこの事件を考察するという興味深いものだった。
多角的な論点を掲げて、愼さんの話は展開されたが、1923年9月に起きた虐殺はデマを信じた官民が「不逞鮮人」なるカテゴリーに在日朝鮮人を押し込め震災直後の混乱のなかでたまたま殺してしまったのではなく、征韓論以来連続する朝鮮蔑視観、日清・日露戦争から韓国併合に至る軍による朝鮮人攻撃、虐殺、抵抗運動の暴力的弾圧、非暴力的な三・一独立運動への無慈悲な弾圧、こうした軍官民の経験に加え、この支配を当然視するジャーナリズムの加担もあって起きた事件であるというのが話の骨子である。研究者として本領が発揮されていると感じた点は、震災時、三宅坂陸軍大臣官邸で開かれた軍事参議会議メンバー(陸軍大臣山梨半造、次期陸軍大臣田中義一、参謀総統河合操、教育総監大庭次郎、軍事参議官[のち戒厳司令部司令官]福田雅太朗、軍事参議官町田経宇)をあげ、かれらが日清・日露戦争から韓国併合後にも朝鮮に赴任し枢要な地位をしめつつ朝鮮の暴力的支配と弾圧の経験を持っていたことを究明している。こうした経験から「不逞鮮人」は殺して当然というゆがんだ朝鮮人観を彼らは持ち、これが震災時にデマを流し、戒厳令を公布し、朝鮮人を殺し、官民による虐殺を止めるどころかこれを煽るという行為に至る要因の一つであるという。さらに自警団の中核をなした在郷軍人の中に、朝鮮における戦争、弾圧経験を持つものが多くいたという。ある国や地域を軍事的に奪い取り、その抵抗を暴力的に弾圧するという経験の持つ意味はどういうことであるのかが、1923年9月に明らかになったのである。こうした植民地戦争経験から、いつか仕返しされるという「潜在的恐怖感」を伴う、殺してもかまわなという含意を持つ「不逞鮮人」像が形成されたという。
内海さんのコメント 報告内容には賛意を表し、梶原一騎が戦後直後の闇市を描いた漫画の中に「不逞鮮人に殺られる前に殺れ」という表現があり、最初は問題だと思っただけで行動はしなかったが、「在日」の友人の発言から、一緒に抗議にいったことが語られた。
その後、多くの質問や応答があり、最後に田中宏さんが、様々な機会に日本人・社会がアジア人を理解せずに傷つけていることを思い知った経験をかたった。
現在、難民認定の少なさ、それにかかわる入管行政の問題点など日本の官憲(議員も)の人権感覚のなさは、今ひどい状況にあるが、そうした官僚制度は明治以降の近代化の中で形成され、植民地戦争で鍛えられ、アジア太平洋戦争を遂行し、軍に罪をかぶせつつ占領改革を生きのびたことを今更ながら思いしらされた今日の集会であった。