特集:『日本共産党の百年』――どこが変わったか [上]

特集:『日本共産党の百年』――どこが変わったか [上]

加藤寛崇(弁護士)


特集を始めるに当たって/日本共産党はどこへ向かうのか
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はじめに――出版された時期の共産党を取り巻く状況

 2023年、20年ぶりに『日本共産党の百年』という本が出版された。先行してタブロイド判が7月に出版され、書籍は10月に刊行された。

 出版されたのは、共産党界隈がにわかにさわがしくなっていた時期と重なった。

 共産党は、2000年以降は停滞を続けていたが2013年参議院選・2014年衆議院選で久々の議席増となり、「第三の躍進」と主張するようになった。もっとも、それも束の間のことで、早くも2016年参議院選では2013年参議院選挙より議席を減らし、以降は低調となっていった。

 そのような中で、2023年1月に、2人の共産党員が異論めいた書籍を出版した。松竹伸幸『シン・日本共産党宣言 ヒラ党員が党首公選を求め立候補する理由 』(文春新書) と鈴木元『志位和夫委員長への手紙: 日本共産党の新生を願って』(かもがわ出版)である。両著書を一読した印象としては、さほど大した異論とも思えず、党指導部からは黙殺して済まされるか、あるいは、「党の立場に反した」ということで除籍にされるか、といったところになるのではないかと思っていた(*1)。

*1 「除籍」というのは、規律違反として「処分」するのとは異なり、「党員の資格を明白に失った党員、あるいはいちじるしく反社会的な行為によって、党への信頼をそこなった党員」であることによって党籍を剥奪するという措置であり、「処分」ではないという位置づけになっている。

 本来的には、共産党の世界では、この種の異論であっても勝手に発表すれば規約違反に当たる行為と見なされる。ただ、不破哲三が実権を握って以降の共産党は宮本時代のイメージを払拭しようとしており、なるべく強硬な措置を取らずに済ませてきた傾向にあり、元赤旗記者が党外で共産党指導部を批判したときにも「除籍」で済ませたという過去もあったからである(赤旗2005年6月23日「萩原遼氏を除籍」)。

 そうしたら、意外にも共産党は即座に2人を除名した。そればかりか、共産党指導部は、除名処分を批判するマスコミは「結社の自由」を「乱暴に攻撃」するものだとか(「赤旗」2023年2月9日)、松竹は「党の破壊者・かく乱者であることをみずからの言動で明らかにしています」とか(「赤旗」2023年2月19日)、一時期、連日のように「反松竹・鈴木」キャンペーンが赤旗紙上をにぎわしていた。近年の共産党は、この種の罵倒は相当に慎んでいたが、ここにきて、一気に昔に戻ったかのようだった。

 そして、6月に開かれた第8回中央委員会総会で志位委員長は何度も「革命政党」という言葉を使い、革命政党としての自覚をもって「反共攻撃」に立ち向かおうと呼びかけた。中央委員会総会を報じた「赤旗」の見出しは、「革命政党として統一と団結固める」というものとなった。

 このように、共産党指導部が錯乱でもしたのだろうかと思える状況の中で、『日本共産党の百年』が出版された。2023年に入ってからの短期間の出来事ではあるが、案外とこれらの動向が『日本共産党の百年』にも反映されている。

『日本共産党の〇年』シリーズの歴史

 かつての共産党の最高指導者だった宮本顕治は党史を語るのが好きで、『日本共産党の四十年』を最初に、『四十五年』『五十年(増補版)』『六十年』『六十五年』『七十年』と、5年ごとに出版していた。5年ごとに改定していたといっても、従来の記述をもとに、その時々の党の方針に沿って随時加筆・訂正されていき、『七十年』に至ってはA5判2段組で上下2冊で約900頁もある長大なものとなり、随所に宮本顕治の正しさを強調する宮本史観の集大成となった。

 しかし、宮本が党内権力を失い、不破哲三が実権を握ってから出版された『日本共産党の八十年』はB6判で小さくなった上に、ページ数も325頁と大幅に縮小され、記述も大きく修正され、過去の歴史で都合の悪い部分はバッサリ削除されていた。

 その後、『九十年』は出版されなかったが、今回、『百年』は無事に出版に至った。

 共産党の歴史を知る上では役に立たない文献だが、今の共産党指導部の立場を過去の歴史解釈に及ぼしている文献なので、今の指導部がどう考えているのかを知る上では参考になる。

 そこで、『百年』から示される党指導部の考えをうかがうには、単に『百年』を読むだけではなく、過去の党史と対比して読まなければならない。

 といっても、『日本共産党の〇年』シリーズは、『四十年』から『七十年』までは宮本史観の集大成化の歴史であり、『八十年』で一旦断絶したに等しい。そのため、基本的には『八十年』との対比を中心として、どのように「党史」が異なったか記す。

 以下、『日本共産党の〇年』は、『〇年史』と略し、歴史的記述で人に役職を付すときは基本的に当時の役職を用いる。『100年史』については、書籍のページ数を示しつつ[]でタブロイド判のページ数も付記する。

全体的な特徴と印象

 『100年史』の全体的特徴と印象を概略的に述べると、以下の通りである。

 第1に、現在の党の路線と整合的に過去の歴史を取り上げる、というものである。時には過去の党の主張・方針で現在の主張・方針と異なるものなのに、強引に現在の路線に沿ったものとして描写することもある。これは、これまでの党史でも見られた傾向である。

 その中でも『100年史』で特徴的な傾向として、

 ① 民主集中制、特に党規律の重要性を説く記述が増えたこと、

 ② 党建設で特に党員拡大を強調していること、

 ③ 党と党を取り巻く情勢について、ひたすら「党の努力による前進→押しとどめようとする攻撃で後退→これを押し返そうとする党の努力で党が鍛えられ、再び前進する」といった図式で物事を捉えようとする傾向があること

が挙げられる。

 ①は、先に述べた松竹・鈴木の除名に端を発する現在の党指導部の主張の反映である。

 ②も、近年の後退傾向に危機感を抱いた党指導部が、しきりと党員拡大を党内で呼びかけていることの反映である。

 ③についても、松竹・鈴木の除名をめぐるマスコミの取り上げとかを「党に対する攻撃」と捉え、これに立ち向かうことの意義を強調している現在の党指導部の主張の反映といえる。

 第2に、若干の歴史的記述では、過去の方針について「反省」の弁が述べられているのが目新しい。

 ただ、これらはいずれも現在の党の路線・方針に影響しないような部分での反省の表明だし、なぜそういう誤りに至ったのかという掘り下げはない。

 第3に、不破哲三の研究成果の反映というべき記述がいくつか見受けられる。

 もちろん、共産党の主張・方針に不破の独自な理論が反映してきたことはこれまでもあった。ただ、ここであえて別個に取り上げるのは、現在の党の路線・方針に影響しそうもない歴史叙述(コミンテルンの方針とか、50年問題へのスターリンの介入とか)について、不破の独自の研究成果が反映されている箇所があるからである。ハッキリ言って、現在の共産党の路線にも活動にも影響するとは思えないし、これらの研究成果が党員の思想的確信を深める上で意味があるとも思えず、ほとんど「趣味」の領域と見た方がよさそうに思える。

 第4に、宮本顕治の活躍を描く記述が、一部復活・追加されたことである。『80年史』は宮本史観の清算に力を注いだためか、宮本顕治の活躍といえる記述を大幅に削除していた。これが、『100年史』ではいくらか復活し、新たに追加された記述もある。また、志位和夫の活躍というべき記述が追加された箇所も若干ある。しかし、志位が不破に取って代わったといえる水準ではなく、不破への対抗として宮本の記述を復活させたと言えるのかは微妙である。単純に『80年史』が極端に宮本を削除したことの修正とも見える。

 そのほか、これまでの党史では、党の声明・決議や党幹部(主に宮本)の発言を引用するような場合を除けば歴史的記述について出典を記載することはなかった。これが、『100年史』では、若干ながら、以下のように所々で党幹部の文献ではない文献を出典として表記している箇所がある。

『現代史資料45 治安維持法』(みすず書房)

『女工哀史』

鹿野政直『歴史のなかの個性たち』(有斐閣)

久野収・鶴見俊輔『現代日本の思想』(岩波新書)

五十嵐仁編『「戦後革新勢力』の源流』(大月書店)

 これは、きちんと歴史研究をしたのだと示したいのかもしれないが、大半の記述は出典の記載がないので、ちぐはぐな印象も受ける。また、こうした出典の表記が見られるのは戦前と戦後初期にまでに限られる。そこで力尽きたのだろうか。

<第1章 戦前>

〇「主権在民」ではなく、「国民主権」を掲げる党に

 冒頭の記述や、党綱領草案(1923年3月)の説明において、『80年史』では、「主権在民の民主政治の実現」をかかげて党が誕生したとか(14頁)、綱領草案は「主権在民の民主政治をつくる民主主義革命の旗を掲げました」(21頁)とか記述されていた部分で、「主権在民」が、『100年史』14、16頁[1頁]では「国民主権」に置き換えられた。『80年史』の記述を引き継ぎながら語句だけ変えているので、意図的なものだろう。

 現行憲法の理解として「国民(ナシオン)主権」と「人民(プープル)主権」などの学説対立があるが、マルクス主義の立場は明らかに後者と親和的である。

 そのためか、共産党は概して「主権在民」というどちらとも取れる表現を用いることが多く、現在の党綱領においても「党は、日本国民を無権利状態においてきた天皇制の専制支配を倒し、主権在民、国民の自由と人権をかちとるためにたたかった。」などと定めている。ここで、あえて「国民主権」という表現を採用したのは、また1つマルクス主義から離れていったようだ。ただし、修正漏れのためか、「主権在民」の表現が残っている箇所もいくらかある。

〇 『70年史』から復活した記述や追加された「革命的」表現も

 綱領草案が朝鮮、中国、台湾からの日本軍の即時撤退、ロシア革命への干渉反対、侵略戦争反対と植民地解放を掲げたことについて、以前は「反戦平和」という意義づけだけでなく「日本共産党の真の国際連帯の立場を、創立の当初から明確にしたもの」(『70年史』上38頁)などと記述されていた。これが、『80年史』22頁では「侵略と戦争に反対し、平和の政治をもとめる日本共産党の確固とした立場を表明したもの」という記述にされ、国際連帯の側面は削除されていた。

 ところが、『100年史』16頁[1頁]では、「侵略と戦争に反対し、アジアと世界の平和を願う国際連帯と友好の立場を表明したもの」という記述になり、『70年史』の記述が部分的に復活した。

 ここに限らず、“共産党の不屈のたたかい”を強調するような表現が追加して盛り込まれている箇所は所々に見受けられるし、『80年史』で大幅に削除された革命的・戦闘的表現が復活している箇所も所々にある。

 一例として、『80年史』42頁の以下の記述に、『100年史』40頁[5頁]で下線部の記述が追記された。

「日本帝国主義の中国にたいする侵略戦争が開始されたもとで、日本の情勢の特徴と革命の展望をより明確に分析することが、国内的にも国際的にも、革命運動上の切実な課題となりました。」

 このようなこまごました字句の追加・復活は結構あるが、元の記述を残しつつ追加していることからいって、意図的なものだろう。

 最近になってしきりと強調されるようになった「革命政党」という文言も、随所に追加されている(具体性のない空文句の感があるが)。

〇 「綱領草案」における「当面の要求」の「ほとんど」が実現?

 共産党創立後に審議された「綱領草案」について、『70年史』上37頁では、「とくに重要なことは、綱領草案が『民主制の廃止』を政治的民主主義の要求の第一におき、天皇制をたおしてはじめて国民の民主的自由が真に保障されることをあきらかにしたことである」などと天皇制打倒を掲げた意義を強調していた。こうした記述はすでに『80年史』でバッサリ削除され、『100年史』も概ね『80年史』の記述を引き継いでいる。

 ただ、『80年史』22頁では、「綱領草案」で掲げた要求が実現したかどうかについて、以下の記述となっていた。対応するような記述は、『70年史』までの党史にはない。

「『綱領草案』でかかげた民主主義の課題は、戦後の憲法制定と民主化のなかで大問題となり、その多くが実現しました。」

 これが、『100年史』17頁[1頁]では、以下の記述となった。

「党がもっとも初期の時期に『綱領草案』でかかげた22項目の『当面の要求』のほとんどは、戦後、日本国憲法のもとで実現することになりました。」

 これは、『80年史』の記述を引き継ぎつつ党の先駆性を強調したと思われるが、無理がある。

 「綱領草案」で「当面の要求」とされた22項目は以下の内容である(日本共産党中央委員会『日本共産党綱領文献集』67-69頁(日本共産党中央委員会出版局、1996年))。なお、テキストによっては欠けている項目もあるが(*2)、共産党が「22項目」と述べているので、以下の22項目を指しているのだろう。

*2 綱領草案はコミンテルンの綱領問題委員会日本小委員会で作成されたものであり、日本共産党は非合法組織だったので現実に審議された日本語での資料が残っていない。そのため、外国語の『綱領問題資料集』などから訳出されたものであり、複数のテキストがある。

「 政治的分野における要求

一、君主制の廃止。

二、貴族院の廃止。

三、18歳以上のすべての男女にたいする普通選挙権。

四、すべての労働組合、労働者政党、労働者クラブ、その他の労働者組織にたいする完全な団結の自由。

五、労働者の出版物の完全な自由。

六、労働者の屋内・屋外の集会の完全な自由。

七、デモンストレーションの自由。

八、自由なストライキ権。

九、現在の軍隊、警察、憲兵、秘密警察、等々の廃止。

十、労働者の武装。*

 *英文およびフランス文テキストによる。ドイツ文テキストではこの要求は欠けている。

  経済的分野における要求

一、労働者のための8時間労働制。

二、失業保険をふくむ労働者保険。

三、市場物価におうじた賃金額の決定。最低生活費の保障。

四、工場委員会による生産統制。

五、雇主および国家は労働組合を労働者階級の公的機関として承認すること。

  農業の分野における要求

一、天皇、地主*、寺社の土地の没収、すなわち無償収奪と、国家へのその引き渡し。

 *英文テキストによる。ドイツ文テキストでは『大土地所有者』。フランス文テキストではこの語は欠けている。

二、土地のすくない農民を援助するための国家土地フォンドの形成。とくに農民が従来小作人として自分の農具で耕作してきた土地はすべて、私有財産としてではなく用益のために*、農民に引きわたすこと。

 *「用益のために」の語はドイツ文テキストにはなく、英文テキストおよびフランス文テキストによって補足。

三、累進所得税、すなわち、所得階段が高まるごとに課税率を大きく引き上げるようなやりかたで、所得におうじた税額をきめること。

四、奢侈特別税。

  対外関係の分野における要求

一、あらゆる干渉企図の中止。

二、朝鮮、中国、台湾、樺太からの軍隊の完全撤退。

三、ソビエト・ロシアの承認。」

 これらが戦後に実現したかどうかは多分に評価も含まれるものもあるが、大幅に甘く評価して、戦後に実現したと言えるのは、

・政治的分野における要求の一から八

・経済的分野における要求の一から三、五

・農業の分野における要求の三

・対外関係の分野における要求の一及び二(*3)

 であり、15項目であるから15/22の約68%である。もっとも、「綱領草案」でいう「労働者の出版物の完全な自由」は、現行憲法のような表現の自由を指すだけではなく、物質的な援助まで意味する要求とも思われるし、「市場物価におうじた賃金額の決定。最低生活費の保障。」も最低賃金制・生活保護制度があるので一応は実現したとカウントしたが、掲げた要求そのものが実現したとは言い難いなど、具体的に検討すれば「実現した」といえる度合いはもっと低くなる。

*3 三については、日本は1925年にソ連と国交樹立しているので、「戦後、日本国憲法のもとで実現」したものとしてはカウントできない。

 「ほとんど」のニュアンスは人にもよるだろうが、一般には、80~90%くらいはないと「ほとんど」とは考えないのではないか。『80年史』においては「『綱領草案』でかかげた民主主義の課題」の「多く」が実現したという記述なので誤りとは言えないが、『100年史』では妙な修正をしたために、無理がある記述となった。

 そもそも、これらの「当面の要求」のうちで実現しなかったものについては、現在の共産党も主張していないものが大半であろうから、「22項目で掲げた要求で、社会の進歩的変革に必要な要求はほとんど実現した」とか、あるいは「ほとんど」ではなく「多く」とでも記述すればよかったであろうに。

 この記述が、『80年史』からの多数の字句修正に伴う不手際なのか、意図的なものかは不明である。

 ただ、共産党101周年の志位の記念講演で、志位は以下のとおりに述べて強調しているくらいなので、22項目の内容もみずから確認しているはずである。

「『当面の要求』として、君主制の廃止、18歳以上の男女普通選挙権、八時間労働制、外国に対する干渉企図の中止、朝鮮・中国・台湾・樺太からの軍隊完全撤退など22項目を掲げました。『綱領草案』は審議未了となりましたが、そこで掲げた項目のほとんどは戦後、日本国憲法のもとで実現することになりました。それは創立当初のわが党のたたかいが、どんなに先駆的なものであったかを雄弁に示すものではないでしょうか。」

 にもかかわらず、「ほとんど」が実現したと語っているのは、意図的な虚偽ないし誇張か、あるいは、「ほとんど」の語感が一般から離れているのだろう。

〇 福本主義の誤りがマルクス・レーニンに由来するかのような記述

 『80年史』31頁で、第3回党大会での方針に「労農党や評議会などに党の任務をになわせ、党建設をよわめる福本和夫の誤った主張の影響」があったという記述があり、『100年史』24頁[3頁]でも概ねその記述が受け継がれている。

 しかし、『100年史』では以下の記述となっている。

「海外留学から帰国した福本は、マルクスやレーニンの著作を原典で読み、最新の知識を身につけた人物と思われ、その主張は、23年の党弾圧で打撃をうけた時期に、山川均らの解党主義を克服するたたかいとも関連して、党内に浸透したものです。真剣に党建設と国民運動にとりくむ党員にとって、福本主義の誤りは深刻で、批判や克服の努力も、党活動のさまざまな分野で生まれていました。」

 下線部の記述は『80年史』にはなかったものである。『70年史』上53頁でも多少似た記述があるが、そこでは「福本は、レーニンの『なにをなすべきか』などを典拠としながら、その党建設の理論を観念的にわい曲し、……」などと、レーニンからの歪曲だったと位置づけ、どこがどう誤っているか長々と記述しており、記述ぶりが異なる。

 『100年史』の記述では、まるで福本はマルクス・レーニンの著作を読んで知識を身につけたから誤った主張になったかのようである。

 この奇妙な記述の追加は、もはやマルクス・レーニンに学ぶ必要はないと示唆したいのか、それともマルクス・レーニンを丹念に読み込みながらろくなことをしなかった老人幹部へのひそかな当てこすりなのか。

〇 32年テーゼに関して、野呂は党外に異論を持ち出さなかったという記述の追加

 32年テーゼの誤りを述べる箇所はおおむね変化がないが、『100年史』41頁[6頁]では次の一文が加わっている。

「その内容を知った野呂栄太郎は、賛成できない旨を党の会議で表明しましたが、野呂は意見をふりまいたり、党外にもちだすようなことは、いっさいしませんでした。」

 これも党規律の重要性を説く姿勢の表れだろうが、こんな記述の追加に何の意味があるのか。

〇 戦前の女性の闘い――はじめて「ハウス・キーパー」が登場

 『80年史』でも若干の記述はあったが、『100年史』46-50頁[6-7頁]では、「日本共産党に参加した女性たちの不屈の青春」とした項を設けて、共産党が「創立当初から、女性差別に反対して、女性選挙権の獲得をかかげ、女性が入党し、活動したただ一つの政党でした」などといろいろなエピソードも追加して論述している。

 それとともに、これまでの党史では言及のなかったハウス・キーパーの問題についても若干言及し、「一部にはモラルに反する問題もありました」などとも記述している。

 不屈の闘いを記述しつつ、誤りも直視したという姿勢なのだろう。ただ、あくまで一部に生じた誤りであり、党の方針ではないという論調である。

〇 コミンテルンの人民戦線政策・コミンテルン解散――不破の独自研究の反映

 近年の不破の研究としては、ディミトロフの日記を元にした『スターリン秘史――巨悪の成立と展開』などの著書を出している。読む気にならないので著書の内容はよく知らないが、赤旗の記事などで言及・紹介されるのを見た範囲からすれば、スターリンが実権を掌握した後のソ連は徹底的な「悪」であり、あらゆる悪事はスターリンの(悪としての)合理的な計画のもとに遂行されたというような捉え方のようだ。この研究成果に基づく認識を反映したと思われる記述の変更がコミンテルンに関する部分で複数ある。

 コミンテルン第7回大会での人民戦線政策について、『80年史』54頁では「こうして『社会ファシズム』論の誤りは基本的には克服され、36年には、スペイン、フランスであいついで、人民戦線派が選挙に勝利し、人民戦線内閣が成立しました。」と比較的肯定的に記述されていた。

 これが『100年史』57頁[9頁]では、「『社会ファシズム』論の誤りは基本的には克服され」といった記述は削除され、代わって「この路線転換では、これまでの『社会ファシズム』論など、スターリンに由来する旧来の路線への反省や総括はいっさいありませんでした。」という記述となった。反省や総括が一切なかったことなどはとっくに知られていたことだが。

 コミンテルン解散について、『80年史』57頁では「表むきは、その組織形態などが各国の党と革命運動の前進の障害になっていることを理由にあげましたが、スターリンらは、アメリカ、イギリスとの協調関係を有利にしようとして、コミンテルン解散をにわかに計画したのでした。」という記述だった。

 これが『100年史』タブロイド版10頁だと、コミンテルン解散は「ナチス・ドイツに反対するアメリカ・イギリスなどとの共同をすすめることを理由にあげていましたが、解散の実体は各国の共産主義運動を直接、自らの支配下に置くものでした。」と説明が異なっている。なお、なぜか、書籍版65頁では、「表向きの理由はどうあれ、解散の実体は各国の共産主義運動を直接、自らの支配下に置くものでした。」と記述が変化している。いずれにせよ、スターリンが計画的に陰謀を進めてきたという史観で記述が改められており、その陰謀の中でも外国の共産党を支配に置くというのはとりわけ許されないことだという捉え方のようだ。

〇 宮本賛美の追加

 『100年史』67-69頁[10-11頁]では、「次の時代の活動を準備する営みー宮本顕治・百合子の十二年」というこれまでの党史にもなかった項を立てて記述が追加された。

 志位は共産党100周年記念講演でも『十二年の手紙』を取り上げていたほどなので、この記述は明らかに志位の主導だろう。

 記述は、簡単に言えば、拘禁・投獄された宮本顕治が、非転向に不屈の法廷闘争・獄中生活を続け、宮本百合子と手紙で交流を続け、宮本百合子もまた党員作家として戦争に協力せずに苦闘しており、これは「次の時代の活動を準備するたしかな営み」の1つだったというものである。

 しかし、これは非転向を貫いて立派だった、とは言えてもあくまで個人としての思想的営為である。党活動として位置づけられるようなものではなく、これをわざわざ党史に加えるのは疑問である。

〇 小畑の死因

 すでに『80年史』で、「査問」という表現は「調査」に改められたが、『100年史』もその表現は踏襲している。

 気になったのは、小畑の死亡について、『80年史』52頁では、「急性の心臓死をおこすという不幸なできごと」とされていたのが、『100年史』54頁[8頁]では「心臓発作で急死するという偶発事」と変わっている。

 なお、『70年史』上108頁では「内因性の急性心臓死とみられる不幸な急死という予期せぬ突発事」とされており、もっとさかのぼると「特異体質によるショック死」とされていた(『50年史』82頁)。

ここにきて「心臓発作」という死因になったのは、何か理由があるのだろうか。

 「不幸なできごと」が「偶発事」になったのは、スパイの死亡だから「不幸」ではないということだろうか。

<第2章19451961年>

〇 戦後の憲法制定をめぐる問題

 このあたりは、すでに『80年史』でそれまでの記述を大幅に改定し、現在の天皇条項で日本は十分民主的になったという論述になり、党が天皇制廃止を主張したという歴史的事実を相当大幅に削除していた。

 そのため、『100年史』では大幅な変更はないが、それでも若干の変化は見受けられる。

 『80年史』74頁では以下の記述だった。

「党は……国民の飢餓と窮乏の打開、天皇制をなくして民主政治への徹底した改革をなしとげようと提起しました。」

 『100年史』79頁[12頁]では以下のとおりに改定された。

「党は、国民の飢餓と窮乏を打開し、天皇が絶対的権限をもつ制度をなくして民主政治に変革しようと提起し」

 党がなくそうと提起したものが「天皇制」から「天皇が絶対的権限をもつ制度」に置き換えられた。わざわざ字句を挿入していることから意図的なものだろう。あくまで「絶対的な権限」を持つから問題なのであり、天皇制そのものが問題なのではない、ということだろう。

 『80年史』74頁では残されていた、「党は、太平洋戦争開始の日である12月8日、戦争犯罪人追及人民大会をひらき、昭和天皇をはじめとする戦争犯罪人名簿を発表しました。」という記述はまるごと削除された。

 現行憲法と綱領路線との関係について、『80年史』83-84頁では以下の記述になっていた。

「党は、現在の綱領路線を採択するなかで、憲法の改悪に反対して9条を積極的に擁護し、天皇の問題でも、徹底した国民主権の立場から、将来の天皇制廃止を展望しながら、現在の政治行動の基準として、憲法の関係条項を厳格にまもらせる立場を明確にしてゆきました。」

 これが、『100年史』85-86頁[13頁]では、以下の記述になった。

「党は、現在の綱領路線を確立するなかで、憲法の改悪に反対して9条を積極的に擁護し、天皇条項の問題でも、現在の政治行動の原則として、憲法の関係条項を厳格にまもらせる立場を明確にしました。」

 細かい字句修正はともかく、一番のカナメは「将来の天皇制廃止を展望」という部分の削除だろう。ついに、展望すらしなくなったわけだ。

 補足すると、『80年史』は2004年綱領改定の前に出版されており、すでに2004年綱領改定の内容を先取り的に盛り込まれてはいたものの、それでもなお、2004年綱領からすれば不徹底な部分があったということである。

 2004年綱領は以下の内容であり、党としてはあくまで「民主共和制の政治体制の実現をはかるべきとの立場に立つ」だけで、天皇制の「存廃」がどうなるかは「国民の総意によって解決されるべきもの」としか述べていない。

「党は、一人の個人が世襲で『国民統合』の象徴となるという現制度は、民主主義および人間の平等の原則と両立するものではなく、国民主権の原則の首尾一貫した展開のためには、民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだとの立場に立つ。天皇の制度は憲法上の制度であり、その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものである。」

 あくまで「存廃」なのだから、「存続」もあり得るということである。したがって、「廃止を展望」というのは、「現在の綱領路線」としては間違いなのだから、削除したのは正しいことになる。

〇 すでに1948年から「オール与党」政治

 『100年史』88-89頁[14頁]においては、戦後の片山・芦田内閣の時期について以下の記述がある。

「片山・芦田内閣の時期には、野党の自由党も、占領政策の執行面では与党とともに主流の立場でした。こうして、アメリカの占領政策が反動化の方向に転換した時期に、日本共産党をのぞくすべての政党が占領政策の『与党』になるという、『オール与党』の政治が生まれたのでした。」

 このような「オール与党」という位置づけは、『80年史』にも『70年史』にもなかったものである。

 1949年選挙で躍進したことについての評価でも、『100年史』94頁[15頁]で「この躍進は、占領政策を執行する『オール与党』政治を経験した国民が、この状態を打開するカギを日本共産党の前進に求めた結果でした。」という記述があり、これも『80年史』にも『70年史』にもなかったものである。

 共産党はよく「オール与党」という評価をしていたが、戦後のこの時点にまでさかのぼらされたのは初めてではないだろうか。

〇 コミンフォルム論評・50年問題に関する不破史観の全面展開

 コミンフォルム論評などに関する記述は『80年史』から大きく改定されており、要するに、“スターリンが、アメリカをアジアの戦争に引き込むことでヨーロッパでの軍事対決を回避しようとして朝鮮戦争を起こさせ、朝鮮戦争にむかう米軍の後方基地となる日本国内での攪乱・妨害のために共産党に武装闘争をさせた”という論調である(『100年史』97-108頁[15-17頁])。

 その結果、朝鮮戦争に国連軍の派遣を決定した国連安全保障理事会にソ連が欠席したのも、「アメリカを戦争に参加させるために、この会議を欠席していました。」と説明される(『100年史』107頁[17頁])。

 そんな説は初めて聞いたが、どうやらスターリンからチェコスロバキア大統領ゴットワルトに出した手紙(1950年8月27日)で、欠席の理由としてそのような説明をしていたのが根拠らしい(「赤旗」2016年4月5日「『スターリン秘史 巨悪の成立と展開』第6巻を語る(下)」)。

 一応は根拠があるわけだが、まさかスターリンが「ボイコットは失敗だった」と述べるわけもなく、スターリンによる合理的な説明らしきものを発見して無邪気に飛びついているようにも思える。

 この説によれば、スターリンはかなり早い段階から、安保理で国連軍派遣の決議がなされることまで見越してボイコット戦術をして、計画どおりに事が進んだということになり、見事に先を見通した指導者だったということになる。評価が「善」から「悪」に反転しただけで、かつての全能の指導者スターリンというイメージをそのまま残しているのではなかろうか。

〇「50年問題」の教訓は、党の統一と団結を守ること

 「50年問題」の経験を経た「教訓」として、『80年史』127-128頁では、次の3点を挙げていた。

(1) ソ連や中国に誤りがないという偏見が取り除かれた。

(2) 武装闘争論の誤りが徹底的に証明された。

(3) 党内に民主的な気風を確立しないと党は発展しないし、大きな間違いに落ち込む危険がある。

 『100年史』118頁[19頁]でも、1点目と2点目についてはおおむね同じ内容だが、3点目は大きく異なり、以下の記述になった。

「第三は、党の統一と団結をまもることの、党の生死にかかわる重要性をつかんだことです。それは、中央委員会の統一と団結を守り、個人中心主義のやり方を排して集団的な指導を重視する、党内民主主義を大切にし、党規約をやぶる分派主義を許さない――こうした民主集中制の原則を大事にして、党を発展させるという大きな教訓でした。」

 これまた、党規律の重要性を説く姿勢の表れであり、過去からの教訓もこうして書き換えられてしまう。

〇 「敵の出方」論に関する記述

 第7回党大会での「綱領問題についての報告」において、いわゆる「敵の出方」論が述べられたことについて、『100年史』125-126頁[21頁]ではそれまでの党史になかった説明をあれこれ付け加えており、「この用語は、社会変革の事業を平和的・合法的にすすめる党の立場を説明するなかで使われた」ものだが、悪用されるようになったので用いなくなった、という今の公式説明をくり返している。

 現在の党が暴力革命などできるわけもないのはいうまでもないが、少なくとも当時の「敵の出方」論は暴力革命も否定しないという趣旨だったのだが。ついでに言えば、これも今に始まったことではない共産党の姿勢だが「平和的」と「合法的」とが完全に同列に位置づけられているのも、マルクス主義者としてはいかにも無邪気である。

〇 五全協

 第7回党大会の中央委員会報告で五全協を「ともかくも一本化された党の会議であった」と評価したのは正しくなかったという『100年史』126頁[21頁]の記述は、『80年史』にはなく、『70年史』上269-270頁の記述が復活した。

 もっとも、『100年史』では「文書点検の不備による誤り」という説明も付け加わっている。なんの意味がある追記か不明である。

〇 「支部への手紙」という60年以上前の成功例を新たに記述

 1959年7~8月の第6回中央委員会総会が党勢倍加運動を提唱し、「党を拡大強化するために全党の同志におくる手紙」を党支部(当時は細胞)に送った、という記述は『70年史』上275頁にも『80年史』141頁にもあった内容で、『100年史』127頁[21頁]も受け継いでいる。

 『100年史』127-128頁[21頁]では、この記述に続けて、手紙に対する当初の返事は1割にとどまっていたので、更に次の中央委員会総会で「すべての党組織が返事を書くこと」を決定するなどして返事を呼びかけ、翌年6月末までには9割の返事があった、といった記述が追加された。

 この記述はこれまでの党史になかったものであり、わざわざ過去の記録を確認して追加したのだろう。

 最近になって、共産党指導部は「『130%の党』をつくるための全党の支部・グループへの手紙」を支部に送り返事を呼びかけ(2023年1月第7回中央委員会総会)、次の第8回中央委員会総会(6月)でも改めて改訂した手紙を送って返事を呼びかけ、更に10月の第9回中央委員会総会では「第二の手紙」を送っている。上記の過去の前例を『100年史』に盛り込んだのは、現在の共産党指導部がしていることは前例がある正しい取り組みだと示したいからだろうか。

 しかし、およそ状況も何もかも違う中での60年以上前の成功例を持ち出すのは無理がある。

〇 「ニセ「左翼」暴力集団」が「ニセ「左翼」集団」に

 共産党においては、いわゆる新左翼党派のことをかつては「トロツキスト」と呼び、その後は「ニセ「左翼」暴力集団」と呼ぶようになり、『80年史』では「ニセ「左翼」暴力集団」という表記となっていた。

 これが『100年史』では「ニセ「左翼」集団」となり、「暴力」が取り除かれた。割と以前から、「赤旗」でも「ニセ『左翼』集団」という表現も現れていたと思う。新左翼系譜の組織とて、近年は穏当な活動しかしないことが多く、「暴力集団」という表現がそぐわないことも多いからだろう。

〇 第8回党大会

 第8回党大会で採択した綱領について、『100年史』139-140頁[23頁]では、当時の「独占資本」という用語を後の綱領改定(2004年)で改めたとか、綱領が天皇制を「『ブルジョア君主制の一種』とした点は正確ではありませんでした」などという記述が追加された。

 2004年に改定された現綱領の路線に沿った追記であり、綱領改定前の『80年史』には当然ながらこのような記述はない。

 もっとも、気になる点として、『100年史』140頁[23頁]で以下のような記述もなされている。

「綱領が『ブルジョア君主制の一種』とした点は正確ではありませんでした。のちにこの規定は削除されました(第23回大会、2004年)。61年当時、天皇の地位にあった昭和天皇(裕仁)は、戦前いらいの『元首』としての自己意識をもち、アメリカに沖縄占領の継続を求め(47年9月)、外交・内政政策にも注文をつけるなど、憲法の規定に反する国政への関与をおこなっていました。当時の綱領の規定には、こうした歴史的な背景もありました。」

 このような説明は、2004年党大会で綱領から「ブルジョア君主制の一種」規定を削除する過程でなされたことはなかった。共産党の世界では路線転換するときも「新たな事実が明らかになった」とか「当時としては意義があったが、現在の情勢に合わなくなった」といった説明で辻褄合わせをすることも多いが、綱領改定を主導した不破は、「ブルジョア君主制の一種」規定についてはそのような説明はせず、「戦前の絶対主義的天皇制が否定され、それとは違う性格のものに変わったという事実の指摘としては、一定の意味をもつもの」という程度の言及しかしなかった(第22回党大会第7回中央委員会総会)。そればかりか、党大会での報告においては「国民主権の原則が明確にされている国で、『国政に関する権能』をもたないものが『君主』ではありえないことは、憲法論のうえで明白」とか「党の綱領に「君主制」という規定を残すべきだという議論は、実践的には、こういう復古主義者たちを喜ばせる性質のもの」とか悪罵を述べて酷評していた。

 これに比べると、『100年史』の記述は、“当時としてはそれなりに根拠があった”というニュアンスに近い。不破が宮本時代の路線を根こそぎ清算しようとしたのに対し、現在の路線と矛盾しない範囲で、あくまで過去の方針としてであれば、救える範囲で救おうということだろうか。もっとも、国政への関与を行ったのは何もヒロヒトの代で終わったわけではなくアキヒトとて同様であり、説得的とは言い難いが。

以下続く

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