加藤寛崇(弁護士)
特集を始めるに当たって/日本共産党はどこへ向かうのか
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<第3章 1960~70年代>
〇 ソ中の核実験を防衛的なものと評価したのが間違っていたと表明
『100年史』146-147頁[24頁]では、ソ連の核実験(61年8月)や中国の核実験(64、65年)に対して、当時の共産党はこれらの核実験を防衛的なものとみなす態度表明を行っていたことに触れ、「党として、核兵器使用の脅迫によって国の安全を確保するという『抑止力』論にたいする批判的認識が明瞭でなく、ソ連覇権主義にたいする全面的な批判的認識を確立していないもとでの誤った見方」だったというこれまでにない記述が加わった。
また、73年にそれまでの態度を改めて「ソ連や中国の核実験も際限のない核兵器開発競争の悪循環の一部とならざるをえないものとなっている評価を明確にしました」と述べつつ、「73年の態度表明には、60年代に党がとったソ連や中国の核実験にたいする態度は『誤っていなかった』とする限界がありました。」という記述もある。
これ自体は、現在の共産党の路線の反映だろう。
「73年の態度表明」というだけでは何のことか不明瞭だが、これは、73年7月5日の宮本委員長の記者会見での表明のことである(『70年史』上444頁)。なお、『80年史』では、ソ連・中国の核実験も、73年の態度表明も一切記述がない。
少なくとも、当時のソ連・中国の核実験が防衛的なものだという評価は間違っていないと思うが。
〇 4・17ストに反対したのは宮本不在のため
1964年に共産党が労働組合が予定した4・17ストに反対したことについて、『70年史』上319-324頁では、反米に傾斜した誤りであり、宮本顕治が中国で療養中で不在のために「集団指導がよわめられている時期」に起きたと長々と説明していた。
これが『80年史』168頁では大幅に圧縮して簡潔に論述された。
『100年史』147頁[24頁]でもごく簡潔な記述なのは異ならないが、「宮本書記長が病気で不在の時期に」という文言がわざわざ追加された。
〇 テレビ討論会
67年1月総選挙にかかわり、『100年史』149頁[24頁]では、それまでの党史になかった以下の記述が追加された。
「この選挙中に、共産党を除外したテレビ討論会が計画され、党は、政治的中立に反するとして法的手段にもうったえ、討論会への出席をみとめさせました。全政党が出席しての選挙中の討論会は、こうした経過もへて、その後、当たり前のものとなったのでした。」
このような歴史的事実があったのは初耳であり、どういう法的手段だったのか気になるところではある。
〇 党建設の強調――ここでも「支部への手紙」
『70年史』上349-350頁にあったが『80年史』では削られていた記述が、『100年史』155頁[26頁]では圧縮されながら、以下のとおりに復活した。
「全党は、要求活動と党勢拡大を『二本足の党活動』、今日では『車の両輪』と呼ばれる活動として相乗的に発展させることに執念をもってとりくみ、60年代半ばには、すべての党支部が『政策と計画』をもって党活動を自主的、自発的に発展させる方針をうちだしました(65年9~10月の第9回大会3中総、66年6月の幹部会の支部への手紙)。」
このうち、「66年6月の幹部会の支部への手紙」というのは、『70年史』にも見当たらないものである。指導部から支部への手紙という今のやり方の前例を、ここにも見出したようだ。
〇 ケネディの二面政策――抽象的で意味不明なものに
『80年史』180-181頁においては、ケネディ政権は、世界で植民地体制が崩壊し非同盟運動が発足したことと、キューバ革命で「革命政権がしだいに社会主義をめざす道にふみだしはじめて」いたという世界情勢の変化に対応して、「ソ連に対しては『緊張緩和』をとりつつ、社会主義をめざすより小さな国や民族解放運動を個別にうちやぶろうとする政策をとっている」ものだったと記述しており、これはそれまでの党史とおおむね同一の論調である。
これが、『100年史』157-158頁[26頁]では、世界の変化として「植民地体制の崩壊」と「非同盟運動が発足」したことしか挙げず、キューバという単語も出てこず、ケネディ政権の二面政策としても「『平和』や『進歩』の言葉をかかげながら、戦争と侵略の政策を追求する二面政策」「対ソ接近政策をとりながら、攻撃の矛先を他の地域に向けようとしている」という抽象的な表現に大きく変わっている。
これは、後に述べるとおり、2020年綱領改定によって、共産党から「陣営対決」の捉え方がなくなったので、ケネディ政権の「攻撃の矛先」も、何かしらの対立する陣営に向けたものとしては語れなくなり、意味不明なものになってしまったわけである。
〇 宮本の役割復活
「ソ連共産党の干渉とたたかって」という項の記述の中で、『70年』上304頁にあり、『80年史』では削除されていた以下の記述が『100年史』158-159頁[26頁]で復活した(表現等は異なる)。
「1961年9月、党は、ソ連に党代表団(団長・宮本書記長)をおくり、ソ連の党綱領草案が対米従属に触れない日本の現状規定をおこなっている点の修正を求め、ソ連側もしぶしぶ応じました。」
これも、一定程度宮本を復活させているという『100年史』の特徴の反映だろう。
しかし、今の共産党からすればソ連共産党は「歴史的巨悪」なのであり、そんな「巨悪」の綱領における現状認識が間違っていようがいまいが、どうでもいいことではないのだろうか。そもそも、ソ連共産党の認識の誤りを正すことは、どう考えても「干渉とのたたかい」ではない。過去の党史から拾いだしたものの、表題とかみ合わず、チグハグである。
〇 ソ連とのたたかいが「20世紀の歴史的偉業」という自画自賛の削除
『80年史』186頁では、ソ連からの「干渉とのたたかい」を論述したまとめの部分で、それまでの党史になかった以下の記述が追加されていた。
「“社会主義の本家”を自認し、マスコミもふくめて世界の大勢がそうみなしていたソ連共産党が、国際的に日本共産党に『異端』の烙印をおし、国家機関まで動員して襲いかかってきたのにたいし、当時まだ小さな党であった日本共産党が、一歩もひかずにたたかい、干渉攻撃をうちやぶったことは、まさに20世紀の歴史的偉業というべきものでした。」
この一文は、『100年史』ではまるごと削除された。『100年史』は『80年史』を圧縮しているので、こまごました削除は随所にあるが、ソ連からの「干渉とのたたかい」を記述している部分では、前記のように加筆した記述も複数あるくらいだし、上記の一文も簡潔に圧縮しようと思えばできるのにまるごと削除したのは、あまりにうぬぼれと自画自賛がすぎたからではないだろうか。
〇 中国とのたたかい
中国の「干渉とのたたかい」に関して、『80年史』192頁では、それまでの党史になかった以下の記述が加わっていた。
「党は、67年10月10日の論文『今日の毛沢東路線と国際共産主義運動』で、毛沢東がおこした『文化大革命』を全面的に批判しながら、同時に、その前途については、誤りが克服されて中国に社会主義の大義がとりもどされる日がくることはまちがいないと強調し、党関係回復がありうることをあきらかにしていました。」
これは1998年に中日共産党が関係を回復し、不破は中国が市場経済を通じて社会主義に向かっているなどと持ち上げるようになっていたことの反映である。
現在では両共産党は関係断絶ではないにせよ相当に関係が悪化しており、当然ながらこの記述は『100年史』168-169頁[28頁]では削除され、同論文については以下の記述に置き換えられた。
「論文『今日の毛沢東路線と国際共産主義運動』(10月)は、攻撃に反論するなかで、中国で展開されている『プロレタリア文化大革命』と『今日の毛沢東路線』の問題も検討し、その本質が、『党と国家に対するその無制限な専制支配をうちたて、強化しようとし、そのために計画的にひきおこした政治闘争である』と解明しました。……14年後、中国は、『文革』を“指導者が誤って発動し、大きな災難をもたらした内乱”と総括しましたが(81年6月)、これは、67年段階の党の分析の的確さを、中国側から実証したものでした。」
〇 第11回党大会(1970年)
1 現綱領との辻褄合わせ
『80年史』202頁では、それまでの記述を大幅に圧縮し、「大会は、また、あたらしい日本における政治制度のあり方はロシア革命のくりかえしではないとのべ、……『発達した資本主義国の条件に応じた新しい探求の可能性』が、不可欠の任務であると強調しました。」などという記述になっていた。
この部分が、『100年史』175頁[29頁]では、「発達した資本主義国での変革の事業は、『新しい、人類の偉大な模索と実践の分野』だとのべ、新しい可能性を大胆に探究することをうちだしました。」という記述になった。
2004年綱領改定で「発達した資本主義の国での社会主義・共産主義への前進をめざす取り組みは、21世紀の新しい世界史的な課題である。」などと規定したことの反映だろう。
2 人事体制の記述で新たな説明
また、この大会の規約改定で人事体制の変更があり、それまで中央委員会議長、書記長という体制だったのが、中央委員会議長、幹部会委員長、書記局長という体制となった。
この改定について、『100年史』175頁[29頁]では、「こうして、党の代表者は幹部会委員長(宮本顕治)となり」という、これまでの党史になかった記述が加わった。
共産党規約ではどの役職が「党の代表者」なのか明記されておらず、実際には、宮本顕治が書記長のときは書記長が、委員長になったときは委員長が、中央委員会議長になったときは議長が最高権力者というのが実情だった(引退前の一時期を除く)。
ここであえて規約にもない「代表者が幹部会委員長」という記述が加えられたのは、なにかしらの意図があるのだろうか。
〇 宮本『50年史』復活
『100年史』177頁[30頁]では、『70年史』上425-426頁では取り上げられていたが『80年史』ではバッサリ削除された党創立50周年記念式典で宮本が記念講演を行い、『50年史』が発行された事実を記述している。
〇 沖縄人民党合流の記述大幅追加
73年10月に沖縄人民党が共産党に合流したことについて、『80年史』206-207頁ではわずか4行でそっけなく記述を済ませていた。
これに対し、『100年史』178-179頁[30頁]ではまとまった分量の記述が追加された。
沖縄人民党委員長で共産党副委員長になった瀬長亀次郎の回想から以下の記述を引用しており、これは『70年史』にもない記述であり、ここでも“宮本の活躍”が追加された。
「第8回大会での宮本書記長(当時)の『綱領報告』は、本土におけるアメリカ帝国主義の支配を正しく位置づけることのできない日和見主義者たちへの痛烈な批判を行っているが、その中で沖縄県民のたたかいの経験が大きな比重を占めている。当時、この報告をよみ、沖縄人民党をはじめとする沖縄県民のたたかいへの評価を感動的に受けとめるとともに、われわれのたたかいが綱領路線確定に寄与できたことに大きなよろこびを感じた」
〇 70前代前半からの「反共戦略」
「反共戦略とのたたかい」という表題は『80年史』208-209頁を受け継ぎつつ、『100年史』183頁[31頁]では、この攻撃が共産党の前進に対する「日本共産党封じ込め」の戦略だとか、「党の前進が“結束した強力な反革命”をつくりだし、それに正面から立ち向かうことによって、党が鍛えられて、『ほんとうの革命党に成長する』という“階級闘争の弁証法”」だとかいった記述が追加され、現在の共産党がよく述べていることを、そのまま過去に投影している。
『80年史』210頁では「75年12月はじめに出た雑誌論文」としか記述されなかったものが、「『文藝春秋』誌で「日本共産党の研究」(立花隆)」と固有名詞を明記され、これが「支配勢力は、さらなる反共戦略をめぐらし」た攻撃の出発点だったという記述が加わった(『100年史』185頁[31頁])、
その上で、「これ以降、マスメディアでも、なにかことあるごとに、日本共産党に攻撃を集中する異常なキャンペーンが展開されるようになってゆきました。」という、これまでの党史でもなかった記述が追加された。
こうした「反共戦略」との闘いの記述に加えて、「この攻撃のさなか、宮本委員長は、ロッキード事件の追及と国会審議の正常化にむけた五党党首会談、衆院議長裁定への筋道をつける役割を果たしており(76年4月)」という記述が追加された(『100年史』185頁[31頁])。この記述は、『70年』上45-46頁の記述が『80年史』で削除されたのを要約的に復活させたものである。
もっとも、このことについての評価は、『70年史』では「日本共産党の道理ある提案が重要な役割をはたしたことは、野党第二党に躍進した党の現実政治を動かす力量をしめした」ものとされていたのが、『100年史』では「前進してきた党の活動は、反共攻撃でもおしこめることはできませんでした」という位置づけに変更された。
ここでも、“宮本の活躍”の復活と、“党の前進→押し込め→押し返し”という図式ですべてを説明しようとする姿勢が表れている。
〇 「社会主義と自由」に関わる問題
「第13回臨時大会、『自由と民主主義の宣言』(1976年)」という『80年史』227頁以下と同じ項の記述では、『80年史』にいくつか追加した記述が見受けられる。
あまり意味もなさそうな追記もあるが、「社会主義日本においても三権分立の原則を発展的に継承する立場を明らかにしました」といった記述の追加(『100年史』187頁[31頁])は、大きく体制を変えませんということを強調するためかもしれない。
綱領・規約の「マルクス・レーニン主義」という呼称をやめた点ついて、『80年史』229頁では「科学的社会主義の学説と運動に対する『マルクス・レーニン主義』という呼称をやめることにきめました。」という記述だったのが、『100年史』188頁[32頁]では「党の理論については、『マルクス・レーニン主義』の呼称をやめ、『科学的社会主義』という本来の呼称を用いると決めました。」という記述になった。
果たして、「本来の呼称」といえるのか、どういう意味で「本来」なのか疑問である。
なお、細かい点だが、13回党大会で改定された規約では、「党は……科学的社会主義を理論的基礎とする」とされていたのであり、「党の理論」そのものとは位置づけられていない。
綱領・規約改定について、『100年史』188頁[32頁]ではこれまでにはない以下の評価が追加された。
「この決定は、ソ連でつくりあげられ、『マルクス・レーニン主義』の名で“定説”扱いされてきた体系そのものに問題があることを確認し、これと手をきって、マルクスの理論の全面的な研究をすすめる大きな転換となりました。」
現在の共産党がマルクス・レーニン主義の体系そのものから離れていることは否定しないが、この時期からその方面に進んでいたことにしたいらしい。
このほか、それまでの党史にはなく、『80年史』228頁に盛り込まれた以下のウソの記述は、些細な字句修正を別として、そのまま『100年史』187-188頁[31-32頁]にも引き継がれた。
「社会主義と市場経済の結合が、世界でどこでもまだ問題になっていない時期に、『宣言』は社会主義日本でも市場経済を活用することを明確にしました」
第13回臨時大会で採択された「自由と民主主義の宣言」には「市場経済」という言葉自体が存在せず、「社会主義と市場経済の結合」や「市場経済を活用」することを明確にする余地などはない。あくまで1989年の第19回大会で改定された「自由と民主主義の宣言」に「社会主義日本では、農漁業・中小商工業など私的な発意を尊重するとともに、計画経済と市場経済とを結合して、弾力的で効率的な経済の運営がはかられる」という一文が追加されたのであり、1976年までさかのぼらせるのは全くの虚偽である。
〇 第14回大会
77年10月の第14回党大会については、『80年史』216頁ではわずか3行の記述で済まされた。これが、『100年史』193頁[32-33頁]では以下の記述が追加された(『70年史』下65頁の記述を要約しつつ復活させたもの)。
「また、反共攻撃や論壇の一部に党の民主集中制の規律を否認し、その弱化を求める議論があることを重視して、これが発達した資本主義国における政治闘争の独自のきびしさや複雑さをみずに、革命政党を弱体化させる解党主義の議論に帰着することを解明しました。」
これまた、党規律の重要性を説く姿勢の反映である。
『100年史』の上記記述は、第14回党大会への中央委員会報告を持ち出したものだが、本来の中央委員会報告は以下の内容である。
「発達した資本主義国における階級闘争や民族闘争が独自のきびしさや複雑さをもつことをみずに、前衛党を弱体化させる解党主義的傾向を合理化する議論に帰着するものである」
細かな字句修正は要約のためと理解できるが、本来の報告にあった「前衛党」が『100年史』では「革命政党」に置き換えられた。共産党は2000年の規約改正で「前衛党」と名乗らなくなったからだが、これを「革命政党」に置き換えているというのは、最近になって共産党がさかんに強調する「革命政党」というのは、どうやら「前衛党」の意味だったようだ。
なお、ここでいう「論壇の一部に党の民主集中制の規律を否認し、その弱化を求める議論」というのは、一部の党内知識人(田口富久治、藤井一行)からの議論を指す。『100年史』だけ読んでも、なんのことかサッパリ分からないが。
〇 78年京都府知事選挙
78年京都府知事選挙に関して、『100年史』194頁[33頁]では、それまでの党史になかった以下の記述が追加された。
「この選挙では、統一協会=国際勝共連合が反共反革新の攻撃を展開し、選挙活動を妨害しました。」
統一協会が有名になったので、統一協会と闘ってきたということは強調しておこうということだろう。
〇 社会主義「生成期」論の自画自賛も削除
ソ日共産党党首会談(1979年)で、ソ連共産党が、ソ連が「発達した社会主義」の建設を進めていることを共同声明に記述してほしいと求め、日本共産党がこれを拒否したことについて、『80年史』224頁では、当時の共産党は現存する社会主義国は「生成期」にあるという見解であり、党はその後、ソ連は社会主義への過渡期ですらないという見解になったと述べつつ、「『生成期』論は、その当時においては、ソ連の現状にたいするもっともきびしい批判的立場でした。」と記述されていた。
この記述は、『100年史』200頁[34頁]では以下のとおりになった。『80年史』の記述が、あまりに無理な自画自賛だからであろうか。
「ソ連などの現状を、『生成期』とはいえ、社会主義に向かうレールの上に位置づけている点で、これは、認識の制約と理論的限界をまぬがれないものでした。」
なお、余談だが、当時の共産党の「生成期」論においては、「生成期」とは、あくまでソ連で言われている「発達した社会主義」の段階ではないということを意味しており、いわゆる「過渡期」(社会主義革命後に社会主義社会に到達する前の段階)という意味では用いられていなかった。(もっとも、社会主義革命後の過渡期→社会主義社会→共産主義社会というマルクス・レーニン主義の定式との関係で「生成期」がどういう位置づけなのか、共産党としてあまり明確にしてもいなかった。)
これが、ソ連崩壊後の第20回党大会では、党がソ連などを「生成期」と位置づけていたのは、社会主義社会への「過渡期」という意味だったと説明された。『100年史』の記述もその誤った説明は引き継がれている。
以上の点は、森下敏男「歴史に裁かれたわが国の社会主義法研究(上)」神戸法学雜誌59巻9号209-213頁(2009年)に詳しい(神戸大学附属図書館デジタルアーカイブでネットから読める)。
<第4章 1980~90年代>
〇 臨調「行革」――はじめて「新自由主義」という評価に
『100年史』205頁[35頁]では、臨調「行革」路線への批判を『80年史』より具体的に記述し、これが「イギリスのサッチャー政権、アメリカのレーガン政権などがすすめた新自由主義――多国籍大企業の利益を最大化するために、国民生活を守るための規制を取り払い、公共サービスを切り捨てる経済路線を、日本に持ち込み、具体化していくはじまり」だったなど、これまでにない記述がいろいろ追加された。
『80年史』出版当時の共産党は、「新自由主義」という枠組みで情勢を捉えておらず、小泉政権の改革に対しても「真の改革ではない」などと主張し、従来の自民党政治の延長だと捉えていた。そのため、『80年史』には、「新自由主義」という用語自体が見当たらない。
その後、いつ頃からか、共産党も新自由主義という用語も使うようになった。この変化の反映だろう。
〇 党建設において「綱領と規約」を守ることの強調
『100年史』215頁[36頁]では、80年代の党勢が「一進一退」だったことの締めくくりとして、以下の記述がある。
「同時に、逆風のもとでも、党綱領と党規約にもとづく団結を強め、党の陣地をもちこたえたことは、きわめて大きな意義をもつものでした。」
これは、『80年史』251頁では以下の記述だった。
「同時に、世界的な逆風のもとでも、党が基本的に陣地をもちこたえたことは、きわめて大きな意義をもちました。」
単に陣地を守るだけではなく、「党綱領と党規約にもとづく団結」による陣地だから意義があるということであろう。
〇 「全般的危機」論の削除
1 記述の相違
1985年の第17回大会の綱領改定で「資本主義の全般的危機」という規定を削除したことについて、『80年史』240頁では「『資本主義の全般的危機』という誤った規定を削除しました。」としか記述されていなかった。
これに対し、『100年史』221頁[38頁]ではこれまでにない以下の記述が追加された。
「この規定の由来には、ソ連が生まれたことが資本主義の危機の根源であり、ソ連の発展が資本主義を崩壊に導くという誤りがありました。これはのちに、『アメリカを中心とする帝国主義陣営』と『反帝国主義の陣営』の『2つの陣営』の対決が世界情勢を決めるという見方を克服してゆくことにつながる、重要な改定でした。」
2 「陣営」対決の消失
かつての共産党綱領では、「社会主義陣営は、民族独立を達成した諸国、中立諸国とともに世界人口の半分以上をしめる平和地域を形成し、平和と民族解放と社会進歩の全勢力と提携して、侵略戦争の防止と異なる社会体制をもつ諸国家の平和共存のために断固としてたたかっている。」(61年綱領)とか、第17回大会で改定された綱領でも「第2次世界大戦後、国際情勢は根本的にかわった。社会主義が一国のわくをこえて地球人口の3分の1をしめる地域にひろがった。」とかいった規定があり、「社会主義陣営」ないしは「反帝国主義の陣営」が帝国主義国家を追い詰めていくという発想は一貫していた。
こうした規定はソ連崩壊後の1994年綱領改定で一旦は削除されたが、2004年に改定された綱領において以下の規定があり(2020年綱領改定で削除)、「陣営」対決という発想は、ずっと続いていたのかもしれない。
「今日、重要なことは、資本主義から離脱したいくつかの国ぐにで、政治上・経済上の未解決の問題を残しながらも、『市場経済を通じて社会主義へ』という取り組みなど、社会主義をめざす新しい探究が開始され、人口が13億を超える大きな地域での発展として、21世紀の世界史の重要な流れの一つとなろうとしていることである。」
「21世紀の世界は、発達した資本主義諸国での経済的・政治的矛盾と人民の運動のなかからも、資本主義から離脱した国ぐにでの社会主義への独自の道を探究する努力のなかからも、政治的独立をかちとりながら資本主義の枠内では経済的発展の前途を開きえないでいるアジア・中東・アフリカ・ラテンアメリカの広範な国ぐにの人民の運動のなかからも、資本主義を乗り越えて新しい社会をめざす流れが成長し発展することを、大きな時代的特徴としている。」
2004年綱領の上記規定のうち後者は、「全般的危機」論に由来する「三大革命勢力」論-①社会主義陣営、②資本主義国での労働階級運動、③植民地・従属国の民族解放運動が革命=社会進歩の担い手であるという発想が、変容しつつも受け継がれている。
また、2004年綱領の「人口が13億を超える大きな地域」という表現も、1994年改定前の綱領でも進歩の陣営が世界人口に占める割合を誇っていたのとよく似ている。エリック・ホブズボーム『20世紀の歴史』下188-190頁(ちくま学芸文庫、2018年)では、「戦間期、共産党は好んでこう自慢した。『地表の6分の1を覆っている』と。」とか「社会主義圏の人口はいまや世界人口の約3分の1を占めるまでになった。」という記述があり、地表面積や人口の割合で語るのは、おそらく世界の共産主義者に共通していたのだろう。
当時、2004年綱領の上記規定を見て、内実がまるで変わっても昔の思考様式というのは残るものだと感じたものである。
2004年綱領のこうした規定は、中国と関係が悪化したもとで、2020年綱領改定で削除され、「陣営対決」的な規定は一掃された。
そうした経過を経た現時点だから、『100年史』に追記されたような意義づけになったのだろう。
本来は、「全般的危機論」削除は不破が1冊の本(『「資本主義の全般的危機」論の系譜と決算』)まで出した理論的成果なのに、『80年史』では小さな位置づけで、『100年史』で高い位置づけになるというのは、少々奇妙にも思えるが、こうした背景事情を踏まえれば理解できる。2004年綱領の上記規定が不破の主導で持ち込まれたことからすれば、「全般的危機論」を削除しても、頭の中はあまり変わっていなかったのかもしれない。逆に言えば、「全般的危機論」削除が「陣営」対決の発想を「克服」したことにつながったという『100年史』の評価も、かなり怪しいと言わなければならない。
〇 朝鮮総連との関係回復の追記
83年以降に共産党と朝鮮労働党との関係が断絶したという経過の記述は『80年史』のままだが、『100年史』224頁[38頁]では「朝鮮総連とは、2000年に、たとえ意見が違う問題があっても敵対的な論争はくりかえさないことを確認し、正常な関係を回復しています。」という記述が追加された。
たしかに、この時期に関係が回復して、2000年の第22回党大会には朝鮮総連副議長が来賓になっていた。
『80年史』が出版されたのは2003年1月なのだから、本来は『80年史』で記述されてもよいはずである。ただ、当時は、金正日国防委員長が拉致を認めてから間がなく、反朝鮮の雰囲気が強まっていたので、記述したくなかったということかもしれない。
〇 第19回党大会―宮本議長の退陣を求める「攻撃」とのたたかい
1990年7月の党大会について、『100年史』227頁[39頁]では、党大会の内容の記述よりも多い分量で、宮本議長の退陣を求める「攻撃」と闘ったことを以下のように記述している。
「第19回大会のさいに、重要な課題となったのが、日本共産党へのマスメディアを利用した反共攻撃、とりわけ宮本議長に矛先をむけ、退陣をせまる集中攻撃を打ち破ることでした。党は、日本共産党の指導体制がどのような試練を経て形成されたかを解明し、第19回大会での『中央委員会の選出基準と構成』がしめした幹部政策の基本――『智恵と経験に富んだ試練ずみの幹部と有能な活力ある新しい幹部の適切な結合をはかりつつ、若い将来性ある幹部を大胆に抜擢登用する』という立場が、単なる世代の結合ではなく、『複雑な内外情勢に対応して、中央委員会の正確、機敏な指導性を保障する』こと、そして『革命的伝統にそって党のひきつづく確固たる発展を継続する』ことに、その核心があることを明らかにし、党の団結を強め、党指導部への攻撃をはねかえす力にしてゆきました。」
このような記述は『80年史』にも『70年史』にも一切ない。これまた、現在の志位委員長が長すぎるといった批判に対して志位が主張していることを過去に投影したものだろう。
〇 ソ連共産党の崩壊を「もろ手をあげて歓迎」
『100年史』228頁[39頁]でのソ連共産党の崩壊を「もろ手をあげて歓迎」したことの記述はおおむね『80年史』263-266頁の記述と同様だが、そのとき表明した内容を長々引用しており、取り上げを大きくした。よほど強調したいようだ。
そして、ソ連解体に至る経過の記述の最後に、以下の記述も追加された(『100年史』230頁[39頁])。
「ソ連覇権主義という歴史的な巨悪の崩壊は、大局的な視野でみれば、世界の平和と社会進歩の流れを発展させる契機となり、世界の革命運動の健全な発展への新しい可能性を開く意義をもつものでした。」
〇 湾岸戦争
湾岸戦争終結後の1991年3月に共産党が「国際政治は湾岸戦争から何を教訓にすべきか」という論文を発表したことについて、『100年史』232頁[40頁]ではその内容には全く言及がない。『80年史』286頁では、「形式上国連決議により、国連の支持のもとにおこなわれた戦争であったことを指摘し、世界史上『類例をみない、きわめて特殊な性格の戦争』と特徴づけました」ということは記述されている。
もっとも、いずれにおいても、帝国主義戦争ではないと評価したことは明確に言及されておらず、単に記述の圧縮とも考えられる。
〇 1993年の総選挙
1993年7月総選挙及びこれに続く小選挙区制度導入の経過について、『80年史』の記述に少なからず記述が追加された。
『80年史』274頁で、総選挙で「『自民か非自民か』の政権交代が最大の争点であるような、いつわりの対決構図がマスコミなどによってふりまかれた」という記述はある程度受け継がれている。
ただ、『100年史』235頁[40頁]では「日本共産党の躍進をおさえこもうと、『自民か非自民か』の政権交代が最大の争点であるかのような、偽りの対決構図をふりまくあらたな作戦が展開されました。」という記述となり共産党を標的とした意図的な作戦だという捉え方が強調されている。
これは、最近の共産党の姿勢の反映だろう。当時のマスコミによる「非自民」持ち上げがあったのは事実だが、それは新自由主義改革の担い手として「非自民」勢力を持ち上げるためであり、退潮傾向だった共産党をあえて「標的」にするのが主目的ではなかっただろうが。
なお、93年(総選挙前)に自民党政府によって小選挙区制導入が図られた事実の記述としても、『100年史』234-235頁[40頁]では「これは選挙制度によって、保守二大政党による政権争いを無理やりつくりだし、日本共産党を政界から締め出そうとするものでした。」という記述が加わっている。
とにかく共産党しめ出しの企てが一貫して図られてきた、という認識なのだろう。
〇 小選挙区制・政党助成金導入
小選挙区制導入に関する記述でも、以下のように結構な分量の加筆がなされた(『100年史』236頁[40頁])。
「このとき、小選挙区制とセットで導入されたのが、政党の堕落と腐敗を進行させることとなる政党助成金制度でした。民主主義の根幹をゆるがすこれらの悪法に、衆参両院で反対したのは、日本共産党だけでした。
小選挙区制と政党助成金制度の導入と強行は、日本の政治史上の重大な汚点となりました。…小選挙区制を廃止し、民意を正確に反映する比例代表中心の選挙制度への改革は、今日に至るまで大きな課題となっています。」
現在の共産党の姿勢の反映であるが、『80年史』で対応するのは、275-276頁の以下の記述しかなく、上記記述の後半の記述はない。
「このとき、小選挙区制とセットで導入されたのが、政党助成金制度でした。衆参両院でこれらの悪法に反対したのは、日本共産党だけでした。」
『100年史』の記述は、『80年史』出版当時の党の主張と異なるわけでもなく、『80年史』でここまで簡潔だった方が奇妙な気もする。
〇 「グローバル化」反対?
村山内閣・橋本内閣(94~98年)の時期について、社会保障の改悪が進められ、アメリカ追従をあらわにしていたといった記述(これ自体が、『100年史』238頁[41頁]で追加されたもの)に加えて、以下の長めの記述が追加された。
「この時期に、『グローバル化』の名によるアメリカ式の経営モデル、経済モデルが日本に持ち込まれ、日本を新自由主義で染め上げていったことは、日本経済の危機と矛盾をいっそう激化させました。……『人材派遣の自由化』『大型店舗法の廃止』『郵政民営化』などのアメリカの要求に、日本政府が唯々諾々と従い、実行してゆくことになります。」
2004年綱領改定で追加された「『グローバル化(地球規模化)』の名のもとに、アメリカ式の経営モデルや経済モデルを外から強引に持ち込もうとする企て」という規定に合わせたものだろう。ただし、共産党においては、不破の独自の理論により、「グローバル化反対の立場ではない」ので、あくまで「『グローバル化』の名による」企てに反対するのであって、グローバル化には反対しないのだが。
別の個所では労働者派遣法の改悪に触れ、「派遣の原則自由化に反対したのは日本共産党だけでした」といった記述の追加もある(『100年史』241頁[41頁])。現在からみて重要なテーマだから追加したということだろう。当時においても記述されてもよかったことなのだが。
〇 志位の活躍の追加、不破の活躍の減少
1 志位の活躍
住専への税金投入問題に反対したことの記述は、『80年』282頁では以下の3行の記述だった。
「住専への税金投入をくわだてる橋本内閣にたいして、党は、母体行の負担と責任で住専問題の処理にあたるようもとめ、大銀行の不始末の穴埋めに国民の税金を投入することに反対し、これが、はてしない税金投入につながることをあきらかにしました。」
これに対し、『100年史』240頁[41頁]では、以下の記述となった。
「党は、志位書記局長の国会質問(1月31日、2月6日)などで、住専の破たんの責任は母体行にこそあること、子会社の破たん処理は親会社の責任でおこなう『母体行主義』が日本の金融界の不良債権処理のルールであること、母体行にはその責任をとるだけの体力が十分あることを明らかにし、住専への税金投入の核心が、バブル経済で巨額の利益をあげた大銀行の乱脈経営の後始末を国民に負わせる大銀行救済にあることをえぐりだしました。」
このように、分量が多くなっただけでなく、『80年史』で存在しなかった志位の国会質問が明記され、これが闘いの代表であるかに描かれている。
2 不破の記述の削除
他方で、以下の記述はまるごと削除された。
(1) 1997年1月の党旗びらきでの不破委員長のあいさつが、『80年史』292頁で5行あったが、まるごと削除された。
(2) 1997年11月の赤旗まつりの不破の記念講演が、『80年史』294-295頁で9行あり「国民が主役の民主的な国づくりへ転換させようという提唱」をして「大きな反響」をよんだとされているにもかかわらず、まるごと削除された。
ただ、これは『80年史』出版当時としては比較的近い時期の出来事なので取り上げたが、20年経った時点では残すほどの記述ではないという判断とも考えられる。他では不破の名が出てくる箇所は結構あり、ことさら削除したかどうかは微妙である。
〇 不破委員長「政権論」の大幅な記述追加と当時の「政権論」の不正確な記述
1998年8月の不破委員長インタビュー「日本共産党の政権論について」に関し、『80年史』299-300頁では、以下の通りごく簡潔で具体的内容が不明な記述だった。
「日本共産党は民主連合政府という目標を一貫して追求しているが、この政権ができる条件が成熟するまで政権問題にふれないという消極的な立場にたたず、党が、政局を民主的に打開する政権問題に積極的に対応する立場にたっていることをしめしました。」
発表当時は鳴り物入りで宣伝され、党内でも相当程度に物議をかもした出来事の記述としては甚だそっけない。これは、『80年史』出版当時においては共産党の政権入りの可能性はまるでなくなったことが党指導部から見ても明らかになっており(インタビュー当時でも現実的可能性は乏しかったが)、党指導部も言及しなくなっていたからだろう。
これに対し、『100年史』248頁[42頁]では、「野党共闘」による政権を打ち出すようになった現在の姿勢を反映して(近年は微妙な姿勢ではあるが。)、『80年史』の上記記述と同趣旨の記述の後に、以下の記述が追加された。
「そして政党間の共闘について、それぞれの政党の理念やめざす日本社会の将来像が違っていても、社会発展の現在の段階で、国民の利益にかなう当面の一致点で力をあわせることができるという基本的な共闘の論理を強調し、日米安保条約にたいする立場の違いや社会主義にすすむという将来の社会像が、連合政権の障害とはならないことを明らかにしました。安保条約については、党としては安保廃棄の立場で主張し運動にもとりくむが、連合政権としては、①現在成立している条約と法律の範囲内で対応する、②現状からの改悪はやらない、③政権として廃棄をめざす措置をとらないという対応をとることになると表明しました。」
以上の追加は現在の党指導部の姿勢の反映だが、不破インタビューの要約としては、少々不正確である。というのも、上記の要約だと、共産党が連合政権に入った場合には、党としては安保廃棄の立場で主張し運動にも取り組みつつ、政権としては①から③の方針で対応する、ということになる。
しかし、不破インタビューでは、政権に入っても安保廃棄の主張や運動に取り組むという積極的な説明はなかった。それらしい発言としては、以下のものしかない。
「安保廃棄の立場に立つ政党が、政党として安保条約の廃棄をめざす主張や運動をやる、あるいは安保賛成の立場の党がその立場での主張、運動をやる、これらのことは、政党としてのそれぞれの権利に属する問題です。」
これはあくまで主張や運動をする権利がある、と一般的に述べているだけで、現実に取り組むことの表明ではない。また、安保賛成の立場の党がその立場での主張・運動をすることとわざわざ等価的なものとして説明しているように、非常に遠慮がちな言いぶりであった(安保賛成の党が、わざわざ賛成の立場で運動をすることはないと思うが。)。現実的に考えれば、政権で安保維持しながら党としては廃棄をめざす主張や運動をするというのは無理があるので、こういう言い方にしかならないわけだが。
『100年史』で述べられている、“政権に入っても、党としては安保廃棄を主張し運動にもとりくむ”という説明は、不破インタビューでなされたものではなく、不破インタビューに対する党内の反発や困惑を鎮めるために、後から説明されるようになったことである。
この点で、『100年史』は、野党共闘による連合政権をめざす上での共産党の現在の方針を説明しつつも、ごまかしがある。
〇 憲法9条・自衛隊に関する第20回党大会・第22回党大会についての記述の削除・追加
1 前提となる事実経過―第20回大会での将来にわたる憲法9条擁護方針から第22回大会での自衛隊活用論
共産党は、元来は、自衛隊が憲法9条に反するとしつつ、日本が安保条約を破棄し社会主義に至る過程では憲法を改正して必要な自衛措置を取るという立場だった。
これが、1994年の第20回党大会では、それまでの自衛中立論を放棄して、憲法9条を将来にわたって守るという立場に転換しつつ、「急迫不正の主権侵害にたいしては、警察力や自主的自衛組織など憲法9条と矛盾しない自衛措置をとる」と表明した。
これは従来からの路線転換だが、当時、党員からの質問も反発もなく、転換だとあまり理解されていなかったようである(筆坂秀世『日本共産党』173頁(新潮社新書、2006年)、松竹伸幸『改憲的護憲論』122頁(集英社新書、2017年))。実のところ、共産党の政権入りの目途すら全くないもとで、現実的には憲法9条改悪反対という主張を続けていたのだから、さして違和感もなくなっていたのだろう。
これが、2000年の第22回大会では、ふたたび路線転換して、「急迫不正の主権侵害、大規模災害など、必要にせまられた場合には、存在している自衛隊を国民の安全のために活用する」という自衛隊活用論が打ち出された。
2 第20回大会に関する記述
その後に出版された『80年史』においては、第20回党大会に関して、憲法9条や自衛隊についての記述は一切ない。
これに対し、『100年史』239頁[41頁]では、辻褄合わせの記述が追加された。
すなわち、党が「将来にわたってこの条項〔憲法9条〕を守り、生かす立場をあらたに明確にしました。」とし、「急迫不正の主権侵害にたいしては、『警察力や自主的自警組織など憲法9条と矛盾しない』措置をとることを明らかにしました。」と述べた上で、「憲法9条と自衛隊の矛盾をどう解決していくか、その道筋についてはまだしめされておらず、この点は、6年後の第22回大会(2000年)で解明されることとなります。」と述べて、第20回大会の路線の延長上に第22回大会の路線があると説明している。
「あらたに明確に」するというのは、言葉のニュアンスとしては「それまで明確には示していなかった(曖昧ながらも示されていた)方針を明確に示した」かのようであり、路線転換であることをごまかしているが、新たな表明であるとは認めているので、半分くらいは正直といえるだろうか。
そして、『100年史』の上記記述は、全体としては、現在の共産党として、憲法9条を将来においても守るという姿勢は維持しつつ、有事には「活用」するという姿勢も明確に示されている。『80年史』においては、「自衛隊活用論」が党内でも不評であったことも影響してかほとんど言及すらされなかったのに比べて、ごまかしを含みつつも党の方針をそれなりにきちんと述べているとはいえる。
これは、この間、さまざまに議論されてきただけに、それなりに言及しないわけにはいかないということでもあるのだろう。もっとも、第22回大会はあきらかに第20回大会の方針を変更しており、延長上に位置づけるのはごまかしでしかないが。
3 第22回大会に関する記述
第22回大会での憲法9条・自衛隊に関する記述として、『80年史』306頁では、「また、21世紀の早い時期に憲法9条の完全実施と自衛隊解消に向かうための段階的な展望をしめしました。」の1文しかない。
これが、『100年史』261-262頁[45頁]では、ある程度具体的に、「日米安保条約廃棄前の段階」「日米安保条約が廃棄され日本が日米軍事同盟から抜け出した段階」「国民の合意で、自衛隊の段階的解消にとりくむ段階」という「3つの段階」で「自衛隊の段階的解消をめざす」立場だとした上で、自衛隊が存在する期間は「急迫不正の主権侵害」などの場合には「自衛隊を国民の安全のために活用することを明らかにしました。」と述べて、「大会決議の内容は、2004年の綱領改定によって党綱領に明記されました。」と述べている。
といっても、第22回大会においては、3つ目の「国民の合意で、自衛隊の段階的解消にとりくむ段階」とは、「国民の圧倒的多数が『万が一の心配もない。もう自衛隊は必要ない』という合意が成熟」した段階のことだと説明されていたのであり(党大会への志位書記局長報告)、ほとんど永久に到達しそうもない段階であることは『100年史』では説明されていない。
〇 第20回大会の記述の追加・削除・修正
1 追加
自衛隊問題以外について、第20回大会に関しては、『100年史』250頁[43頁]では、資本主義諸国の貧富の格差や南北問題など資本主義の現実を指摘した、といった記述が追加された。
2 削除
他方で、綱領一部改定で、「当面の改革における『国有化』の条項をいっさいなくし、財政経済政策の基本が『独占資本に対する民主的規制』であることを、文章上も明確にしました。」という『80年史』287頁の記述は削除された。
第20回大会で改定される前の党綱領では、「当面する行動綱領」として以下のように述べられていたのだから、「独占資本に対する民主的規制」を超えることを掲げていたのであり、間違った記述として削除したこと自体は正しい。もっとも、この削除によって、『100年史』だけ読めば、共産党が行動綱領として「国有化」を掲げていたこと自体を知りえないわけだが。
「日本経済にたいするアメリカ資本の支配を排除するためにたたかい、アメリカ資本がにぎっている企業にたいする人民的統制と国有化を要求する。……独占資本にたいする人民的統制をつうじて、独占資本の金融機関と重要産業の独占企業の国有化への移行をめざし、必要と条件におうじて一定の独占企業の国有化とその民主的管理を提起してたたかう。」
3 修正
そのほか、大会における綱領改定で、旧ソ連が社会主義社会でもそれへの過渡期でもなかったという認識を示したとの記述は概ね共通する(『80年史』287頁、『100年史』250-251頁[43頁])。
もっとも、『100年史』250-251頁[43頁]においては、「大会では、ソ連社会では……社会主義とは無縁な人間抑圧型の社会に変質したという、党の結論的な認識を明らかにしました。」という『80年史』にもない強い表現となっている。
しかし、「人間抑圧型の社会」という表現は、第20回大会決議にも、この大会で改定された綱領にもなく、2004年の第22回大会の綱領改定で用いられるようになったものである。
これまた、現在の路線・主張を、過去から一貫していたと見せようとする姿勢が表れている。
〇 中国共産党との関係正常化についての記述の相違
1 前提となる事実経過
共産党は、1998年に中国共産党と関係を正常化し、不破委員長が中国を度々訪問もし、2004年の綱領改定では、「今日、重要なことは、資本主義から離脱したいくつかの国ぐにで、政治上・経済上の未解決の問題を残しながらも、『市場経済を通じて社会主義へ』という取り組みなど、社会主義をめざす新しい探究が開始され、人口が13億を超える大きな地域での発展として、21世紀の世界史の重要な流れの一つとなろうとしている」と美化する規定もなされるようになった。
これが、中国の対外政策をめぐる対立から、2020年には再び綱領が改定されて上記の規定は削除された。
『80年史』『100年史』ではこの変化が当然に反映されている。
2 変化
『80年史』310-311頁では、中日両党が断絶したことについて今の中国指導部には責任がなく、立派に調査して是正したといった以下の記述があった。
「今日の中国の指導部や対外部門の関係者のなかには、32年まえの干渉に直接責任をおった人はおらず、多くは『文化大革命』当時に、中央から追放されたり、抑圧される側に属していました。日本共産党にたいする干渉の事実すら、よく知られていないという実態がありました。そうしたもとで、中国側は、日中両党間の過去の歴史をしらべて、関係断絶のいちばんの原因が、中国側からの日本共産党にたいする干渉にあったことをみとめました。さらに、たんに干渉の事実の認識にとどまらず、干渉当時につくられた反日本共産党のグループとの関係をもたないことをふくむ、『真剣な総括と是正』を表明しました。不破委員長は、両党の正常化合意を発表した記者会見で、こうした中国側の『政治的誠実さと政治的な決断を、高く評価する』とのべました。」
『100年史』では、この記述はまるごと削除された。代わって、『100年史』253頁[43頁]では以下の内容となり、中国側の誠実さではなく、共産党側のたたかいの成果になった。
「中国が対外的な干渉問題での反省を明らかにした例は、ほかにありません。これは覇権主義的な干渉を許さない、日本共産党の自主独立のたたかいの成果でした。」
そして、『100年史』253-254頁[44頁]では、不破と胡錦涛政治局常務委員の会談で、不破が「どのような体制であれ、社会にほんとうに根をおろしたといえるためには、言論による体制批判にたいしては、これを禁止することなく、言論で対応するという政治制度への発展を展望することが、重要だと考えます」という発言をし「その後の中国での人権問題の深刻化に照らしても、重要な意義をもつものとなりました。」という記述がある。
もちろん、このような記述は『80年史』には一切なく、不破と胡錦涛政治局常務委員の会談そのものが記されていない。
そのほか、『80年史』311頁にあった「あたらしい日中両共産党関係と交流の前進は、日中両国民の友好のきずなをつよめ、アジアの平和と安全にも貢献し、21世紀の日本の民主的発展にもかかわる、重要な意義をもつものになりました。」とかの肯定的記述は、『100年史』では一切削除された。
〇 90年代末頃からの「アジア外交」
1990年代末頃から、共産党は、政権入りを展望しての動きか、それまで交流のなかった東南アジアの国々を訪問し、国内で共産党を非合法化している政府と交流するようになった。
この「アジア外交」について、『100年史』254-255頁[44頁]では、99年6月中央委員会総会で交流の方針として決めた事柄として、「外国の諸政党との関係の発展のために、相手が保守的な党か革新的な党か、与党か野党かにかかわらず、双方に交流開始の関心がある場合、自主独立、対等平等、内部問題相互不干渉の原則にもとづいて関係を確立し」といった記述があり、下線部は『80年史』309頁の記述に追加されたものである。
「革新的な党」との交流はいわれるまでもなくそれまでも実施していたので、主眼は「保守的な党」でも資本主義国の「与党」でも交流することにあるのだろう。
他方で、『80年史』312-313頁にあった以下の記述はまるごと削除された。
「98年から99年のアジア外交の相手になった国のうち、ベトナムは、86年から『ドイモイ』(刷新)をかかげ、中国は、92年から『社会主義市場経済』という、市場経済をつうじて社会主義への国づくりをすすめるとりくみをはじめていました。党は、交流のなかでも、『社会主義をめざす国』のあらたな探究に注目し、党自身の調査と研究を重視する立場で、両党の指導部との対話をおこなってきました。」
共産党は今でもベトナム共産党とは比較的友好な関係を続けているのである程度記述が残ってもよさそうなものだが、中国、ベトナム、キューバについて、「社会主義をめざす新しい探究が開始」され、「人口が13億を超える大きな地域での発展として、21世紀の世界史の重要な流れの一つとなろうとしている」という規定をまるごと削除した2020年綱領改定の反映だろう。
以下続く
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