本稿は、フィリピンの人権問題に取り組むStop the Attack Campaignのメールマガジン(2023年12月)から転載したものです。
大橋成子(ピープルズ・プラン研究所、APLA理事)
2023年11月23日、フィリピン政府とフィリピン民族民主戦線(NDFP)は、同時に記者会見を行い、両者が和平交渉のテーブルに戻る予定であることを発表した。ノルウェー王国政府の仲介の下、数ヶ月に及ぶ非公式協議の末、ノルウェーで行われた非公式式典で、政府とNDFP代表団は共同声明に署名した。
― 6年ぶりの和平交渉
今回の発表は、2017年、ドゥテルテ前政権が打ち切った和平交渉からちょうど6年目にあたる。当時の交渉では、社会・経済改革の重要な項目である、農地改革と農村開発、産業の国有化と経済発展、政治と憲法の改革に関する議論が、前例のないペースで進んだといわれているが、ドゥテルテが一方的に協議を打ち切ったため、その場で頓挫した。
新しい共同声明では、「深刻な社会経済、環境問題、外国の安全保障上の脅威」を挙げ、これらの課題に対処し、武力紛争の原因を解決するために双方が「団結」する必要性を説いた。
この報道を、多くの人権・平和運動団体は歓迎し、フィリピン・エキュメニカル・ピース・プラットフォーム(PEPP)は、2023年12月10日の世界人権宣言75周年を前に「輝かしい明るい兆し」だと述べたが、正式な交渉は声明に署名した時点ではまだ開始されていない。今後、双方の正式代表団の選出や合意内容についての議論を経る必要がある。
― 政府の反乱鎮圧政策の解除が前提
NDFPの記者会見で、代表団のジュリエッタ・シソン(共産党の創設者だった故ホセ・マリア・シソンの妻)は「和平交渉を前進させる」ために正式協議で議論すべき4つの重要な事項に言及した。
– 拘束されたNDFP和平コンサルタントの釈放と和平交渉への参加。
– 交渉関係者の安全と免責の保証。
– すべての政治囚の無条件釈放。
– パネルメンバー、コンサルタント、和平交渉に携わるすべての人々を含むNDFPへのテロリスト指定を解除。
これらの事項を正式な交渉のテーブルに乗せることをNDFPが強く打ち出した背景には、前述したドゥテルテ前大統領による、2017年の和平協議一方的打ち切りの直後に結成した、地方共産党の武装闘争を終わらせるための国家タスクフォース(以下、国家タスクフォース)の存在がある。
― レッド・タグ(赤タグ付け)
国家タスクフォースは結成以来、共産党・新人民軍に対抗する政府の主要な手段となっただけでなく、進歩的な人々や民衆に不利になる政策に反対する個人にレッド・タグ(赤タグ付け)することで、執拗な「赤狩り」に走り、でっち上げ事件の提訴、強制失踪、さらには殺害といった、より深刻な人権侵害を正当化する制度となった。さらにドゥテルテは和平交渉を決裂させた直後、フィリピン共産党(CPP)と共産党軍事部門新人民軍(NPA)、後に和平交渉の相手であったフィリピン民族民主戦線(NDFP)とその和平コンサルタントをテロリストと認定したのだ。
それ以来、安全と免責の保証に関する共同協定によって保護されているにもかかわらず、NDFPの代表団メンバーとそのコンサルタントに対する執拗な攻撃が行われた。
和平交渉は正式パネルとコンサルタントで構成される。政府側と合意した社会・経済・政治分野の多岐にわたる議題(例えば貧困撲滅・独占企業や多国籍企業・農村開発・憲法など)について、それぞれ作業部会が作られる。和平コンサルタントは、根本的問題の解決方法を提案する専門家集団で、現場経験が豊富な人権活動家・弁護士・社会・経済問題に詳しい知識人などがNDFPより推薦される。
― 相次いだ殺害・強制失踪事件
2019年、人権活動家のランディ・マラヤオが、ヌエバ・ビスカヤ州アリタオのバス内で眠っているところを射殺された。彼はドゥテルテ前政権下で殺害された最初の和平コンサルタントだった。
翌2020年には、さらに4人の和平コンサルタント(人権活動家や弁護士)が別々の事件で殺害された。ジュリアス・ギロン(70)はバギオ市で仲間とともに殺され、ランダル・エチャニスはケソン市の賃貸アパートで刺殺された。そして2020年11月25日、リサール州アンゴノで、ユージニア・マグパンタイとアガトン・トパシオ夫妻が警官隊の襲撃で銃殺された。
2021年には、同じく和平コンサルタントのルスティコ・タン(80歳)と、パナイ島の新人民軍(NPA)の指導者として知られるレイナルド・ボカラが、それぞれセブとイロイロで殺害された。
さらに世間を騒がせる事件が起きた。NDFPの重要な和平コンサルタントとして、国軍、NPA双方の敵対行為の終了と軍隊の処分に関する互恵作業部会の責任者だったウィルマ・オーストリアと、政治・憲法改革に関する互恵作業部会の責任者ベニート・ティアムソンが、8人のNPA兵士とともに殺害されたのである。
彼らは2022年に国軍によって生け捕りにされ、激しい拷問を受けた後、モーターボートに乗せられた。そして、そのボートはサマール島海域で爆破された。この壮絶なニュースは連日メディアで報道された。オーストリアは共産党(CPP)の事務局長で、ティアムソンは執行委員会のトップだった。
殺害のケースはこれだけでは収まらず、さらに強制失踪者も続出した。さらにでっち上げの容疑で逮捕されている人々は確認されているだけで16人に及ぶ。
― 「悪魔との合意」
6年前に打ち切られた和平交渉後に、次々と起こった殺害・失踪・逮捕を食い止めるためには、国家タスクフォースの解体と反テロ法の廃案を、なんとしても正式交渉の場で政府に求めなくてはならない。そのために、NDFPは、積極的に今回の交渉再開を望んだのだと推測される。
しかし、調印から2週間後、ドゥテルテ前大統領の娘であるサラ副大統領が、和平交渉のための共同声明を「悪魔との合意」と批判し、政府は和平交渉再開の決定を再考すべきだと主張した。サラは、国家タスクフォースの副議長であり、彼女の発言は政府内でも物議をかもした。共同声明は下院でも承認されており、議員からは「副大統領の発言は、和平プロセスの複雑性に対する無理解と、公正で永続的な和平を求めるフィリピン国民の願望を無視したものだ」との批判がでた。
― 真の平和とは社会正義である
この間、国家タスクフォースを解散し、反テロ法を廃止せよ!という声は、学生・市民・労働者を中心に各地で広がっている。
「気候変動における人権の促進と保護」に関する国連特別報告者イアン・フライも、国家タスクフォースの解散と反テロ法の廃止を勧告した。
人権擁護団体カラパタンの事務局長、クリスティーナ・パラバイは声明でこう述べている。
「おそらく、サラ副大統領が熱望する平和とは、墓場の平和であり、異論や活発な民主的言論・討論、そして国民のためのより良い選択肢の探求を終わらせることであろう。政府とNDFPの和平交渉を蔑ろにし、反共政策を熱狂的に支持する彼女の姿勢は、平和と正義を求める人々にとって忌まわしいものだ。」
フィリピン学生キリスト教運動のケージ・アンドレス全国議長は声明で、「飢餓、抑圧、搾取が続くと平和は遠ざかる。平和とは争いがないことではない。それは真の平和とは社会正義であることを再確認しなければならない。ここでサラの言葉を引用しよう。“平和に反対する者は、国家の敵である”」と皮肉った。
民族主義同盟(バヤン)は、真の平和への第一歩は、国家タスクフォースの廃止と反テロ法の廃止であると訴え、各地で集会・デモを呼びかけている。
― マルコス大統領はどこまで真剣なのか?
今回の和平交渉再開に対して、マルコスJr大統領の立場は曖昧だ。サラ副大統領とは不仲といわれているが、マルコスJrが大統領に当選した際、和平交渉は自分の政権時には終結しない、と発言しており、国家タスクフォースの継続とさらなる強化を指示している。
一方、マルコスJrは昨今の「台湾有事」を巡り、中国を睨みながら米国との軍事協力を着々と進めており、そのために国内の反乱分子の一掃、または「和平交渉」による決着を、米国から強く迫られている可能性もある。
大統領は昨年、NPAの投降者に恩赦を与えたが、それについてNDFPは新しい和平交渉の前提条件ではない、と断言している。フィリピンはアジアの中でも50年という最も長い間、政府軍とNPAの戦いが続いてきた国だ。歴代大統領が選挙公約に「和平」を掲げてきたが、成功した大統領はまだいない。
― 和平の行方は?
共同声明は発表されたものの、このような状況の下で新しい和平交渉のプロセスは果たして順調に進むのだろうか。
それでもNDFPは23年6月、和平交渉の可能性に依然として前向きであると述べた。ジュリエッタ・シソンによれば、「和平交渉は、集団の要求を話し合い、貧困や不公正といった重要な問題に対処するための手段を提供するもので、最終目標は恒久的な和平を達成することである」。さらに、「和平交渉を通じて、各作業部会は紛争の根本的な原因や、なぜその問題に取り組むことが重要なのかを説明する場を与えられる。だからこそ、交渉の席での和平コンサルタントの重要性を強調しすぎることはない。それゆえ、私たちは、彼らが和平交渉にその知識と専門性を貢献できるよう、彼らの釈放のために働き続ける」と述べた。
NDFP交渉パネルの前代表で、現在はNDFP全国執行委員会のメンバーであるルイス・ハランドーニは、過去の成果や教訓を基に、「公正で永続的な平和への道のりは長く、曲がりくねったものでさえある。旅は困難である。最終目的地に到達するのは容易ではない。しかし、国民がそれを望み、国民の利益となるのであれば、フィリピン政府との対話は常にオープンであり、喜んで応じる」と述べている。
私たちはこの動きを今後も見守るしかない。「政治的ショー」に終わらず、政府側がどこまで真剣に誠意をもって対処するかが鍵になるが、その前提となる国家タスクフォースの解体は果たして可能なのだろうか? 私たちが状況を見守るあいだにも、また誰かの人権が蹂躙され続けるのはいたたまれない。人権侵害に対する監視の目をさらに研ぎ澄ませていかなければならない。
【Source】
Groups laud possible resumption of peace talks, Bullatlat, December 7, 2023.
What happened since the collapse of peace talks under Duterte, Bulatlat, November 28, 2023.
GRP, NDFP announce possible resumption of peace talks, Bulatlat, November 28, 2023.
Explainer: The new peace negotiations between PH gov’t and NDFP, Rappler, November 29, 2023.
【写真】オスロ市庁舎でノルウェーのファシリテーション・チームとともに写真に収まるフィリピン政府とNDFPの代表団/via Norway congratulates Philippines on start of peace negotiations, Government.no, November 28, 2023.