加藤寛崇(弁護士)
特集を始めるに当たって/日本共産党はどこへ向かうのか
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<第5章 2000年代~>
〇 第22回大会(2000年11月)
1 『80年史』より高い位置づけに
第22回大会について、『100年史』260-261頁[45頁]においては、「党の新しい発展段階にそくして、政策や方針の面でも、組織と活動の面でも、改革・発展をはかる重要な大会となりました。」「大会決議では……はじめてまとまったかたちで20世紀論をあきらかにし、世界史における進歩の流れを太くしめすとともに、歴史の本流の促進者としての党の真価を解明しました。」と、高い意義を与えられている。『80年史』ではこのような記述は全くなく、他にも追加された記述は割合とある。(自衛隊問題については前記のとおり)
なぜ第22回大会にそこまで高い意義を与えるようになったのかは、不明である。この大会の大きなテーマといえば、「自衛隊活用論」と規約改定くらいで、そこまで画期となった大会といえるのか疑問だ。
強いて言えば、この大会で初めて志位が中央委員会報告と討論についての結語を行い、委員長に選任されたということくらいしか思いつかない。
2 党建設について
党建設については取り上げている部分が相当異なる。
『80年史』307頁では、それまで「支部が主役」で「党躍進の大運動」を進めてきたことに触れ、「50万人の党員づくりを内容とする5カ年計画」を定めたことなどが述べられている。これらは『100年史』では全く記述がない。
これに対し、『100年史』262頁[45頁]では、「“党員拡大と機関紙拡大が党勢拡大の2つの根幹”とされていた一時期の方針をあらため、党建設・党勢拡大の『根幹』は党員拡大であることを明記しました。」という記述であり、『80年史』にはこのような記述はない。
『80年史』の記述の削除は、出版に近い時期に掲げられた内容であり今となっては無意味だからということで理解できる。他方で、『100年史』で追加された記述は、現在の党がとにかく党員拡大を呼び掛けている危機感の反映だろうか。
3 党規約改定について
党規約改定についても記述ぶりがだいぶ異なる。
『80年史』307頁では以下の記述だった。
「大会は、日本共産党と日本社会の関係が大きく変わったことに対応して、党の組織をあり方にあたらしい光をあて、国民にひらかれた党をめざして、党規約の抜本的な改定をおこないました。規約改定は、『前衛政党』という自己規定についても、深い検討を加え、不屈性、先進性という中身でしめすことにして、『前衛』という誤解されやすい用語を削除しました。改定された日本共産党規約は、21世紀の早い時期の民主的政権樹立という事業をやりとげる党づくりの大方向に、党の組織と運営の基本の面でしっかりと土台をすえたものでした。」
『100年史』262頁[45頁]では以下の記述である。
「大会では、党の組織と運営の民主主義的な性格をいっそう明瞭にする党規約の抜本的改定をおこないました(報告者・不破哲三)。『前衛政党』という規定については、『前衛』という言葉に込めた『不屈の先進的な役割を果たす』という党の特質を引き継ぎながら、『前衛』という言葉そのものは誤解されやすい要素があるため、規定から削除しました。党組織の相互関係では、中央委員会から支部にいたるまで、党に『上下関係』は存在しないことをふまえ、『上級・下級』という表現はできるかぎり取り除きました。それまでは民主集中制を、『民主主義的中央集権制』とも表現していましたが、『中央集権制』という表現を削除し、「『民主』というのは党内民主主義をあらわします。『集中』というのは統一した党の力を集めることをさします。これはどちらも近代的な統一政党として必要なことであります」と、民主集中制の内容をわかりやすくしめしました。」
まず、『80年史』にあった、「国民にひらかれた党をめざして」の規約改定だったとかいった前向きな表現の削除が目につく。実際の規約改定がそのようなものだったとはとても言えないが、『100年史』の記述の方が内向きな印象はある。
次に、「前衛政党」削除に関する記述は、似ているような微妙に違う記述であるが、『100年史』の方が「前衛党」の中身が引き継がれているのだというニュアンスが強い。
そのほか、「上下関係」はないとかいった記述を追加したのは、共産党が民主的ではないという昨今の「反共攻撃」に対する共産党の返事なのだろう。
4 削除された記述
このほか、『80年史』307頁にあった、「21世紀の早い時期に民主連合政府を実現するために全力をつくすことを、内外にあきらかにしました。」という記述はまるごと削除された。もはやその展望もないからだろう。
そのほか、大会が提起した「党のあらたな前進のための3つの課題」の内容とか、明らかにした「社会主義に対する日本共産党の基本的立場」の記述も削除された。これは、『100年史』からすれば直近の大会ではないので、取り上げる必要はないというだけのように思われる。
〇 小泉政権――はじめて「新自由主義」という評価に
先に述べたとおり、『80年史』出版当時の共産党は「新自由主義」という枠組みで情勢を捉えておらず、小泉政権に対しても従来の自民党の延長上のものとしかとらえず、「真の改革ではない」といった姿勢で批判していた。
その当時と現在との差異が『80年史』と『100年史』に表れているが、『100年史』では従来の捉え方を引き継いだ記述もあり、記述が混乱している。
『80年史』317頁では「小泉政権の実態は、腐りきった、危険な自民党政治を、いっそう乱暴にすすめるものでした。」といった記述がある。
『100年史』263頁[45頁]では上記の記述はないものの単なる省略とも思われるし、小泉政権が「偽りの改革への幻想をつくりだし」選挙で議席を増やしたとか、「自民党政治の枠内での改革を叫ぶことで自民党支配の危機を延命する作戦」といった、当時と同様の認識をそのまま記述している箇所もある。実際、2001年参議院選挙後に開かれた2001年10月中央委員会総会への志位報告では、「小泉旋風」は「いつわりの『改革』の幻想をつくりだす、大がかりな自民党政治の延命作戦によって、つくられたものでした。」と述べられており、これらの表現がそのまま『100年史』に取り入れられたようだ。
もっとも、その一方で、明確な差異もある。
2001年の参議院選挙の結果を述べた後の記述で、『80年史』317頁では「選挙戦のなかで、党は、自民党のいう『構造改革』が国民にたえがたい痛みをおしつけ、日本の経済と社会を破局においやるものであることを正面から批判し、経済、外交など、あらゆる分野で、自民党政治からぬけだす真の改革の道すじ、日本改革の提案をあきらかにしました。」という記述があった。
『100年史』263頁[45頁]ではこの記述はまるごと削除され、代わって、「小泉内閣は、『構造改革』の名で弱肉強食の新自由主義の経済路線を推進し、倒産・失業を増大させる不良債権の最終処理、大企業のリストラ推進、医療・社会保障の連続改悪、社会保障費自然増分の削減(02年から)、製造業での派遣労働解禁(03年3月)などをすすめました。」という記述が表れた。
ここでは、小泉政権を新自由主義と位置づけ、また「真の改革」を対置するといった記述はない。
以上で従前の党史と『100年史』の対比は終わるが、それ以降の記述としても気になる箇所がいくつかある。
〇 第23回大会(2004年)
1 2004年綱領改定で「陣営対決」論を脱却したという説明
『100年史』269-270頁[46頁]においては、2004年綱領改定の内容として、以下の記述がある。
「第二は、20世紀に人類が経験した世界史的な変化を分析し、世界情勢の新しい特徴と発展的展望を明らかにしたことです。……それは、ソ連が社会主義とは無縁な人間抑圧型の社会だったという結論的認識にたって“アメリカを中心とした侵略と戦争の政策を展開する『帝国主義の陣営』と、平和、独立、社会進歩のためにたたかう『反帝国主義の陣営』の対決が世界情勢を決めていく”という、ソ連からもちこまれていた世界情勢論の国際的定説を基本的に克服したものでした。」
しかし、これはいささか無理がある。
すでに述べたこととも重複するが、2004年綱領では、世界情勢論として、ロシア革命を契機に、世界は資本主義とそこから離脱した国々に別れ、その後、ソ連・東欧は「社会主義とは無縁な人間抑圧型の社会として、その解体を迎えた。」ものの、これ代わって、「人口が13億を超える大きな地域」(中国、ベトナム)において「『市場経済を通じて社会主義へ』という取り組みなど、社会主義をめざす新しい探究が開始され、……21世紀の世界史の重要な流れの一つとなろうとしている」と位置づけられ、かつてのソ連・東欧に代わり帝国主義陣営に対抗する陣営とされている。
第23回大会での不破議長報告においても、以下の通り、変容した形での「2つの体制」が続いているのだと明確に述べている。
「資本主義が世界を支配する唯一の体制だった時代から、二つの体制が共存する時代への移行・変化が起こったのは20世紀であり、そのことは、20世紀の最も重要な特質をなしました。しかしこの時代的な特徴は、ソ連・東欧での体制崩壊で終わったわけではけっしてありません。むしろ二つの体制の共存という点でも、新しい展開が見られるところに、21世紀をむかえた世界情勢の重要な特徴があります。
改定案がのべているように、ロシアの十月革命に始まった社会主義をめざす流れは、今日の世界で、いくつかの国ぐにに独自の形で引き継がれています。とくにアジアでは、中国・ベトナムなどで、『市場経済を通じて社会主義へ』という取り組みなど、社会主義をめざす新しい探究が開始されています。これは、中国は人口13億、ベトナムは人口8千万、合わせて人口が13億を大きく超える巨大な地域での発展として、世界の構造と様相の変化を引き起こす大きな要因となっています。それが、政治的にも、経済的にも、外交的にも、21世紀の世界史の大きな意味を持つ流れとなってゆくことは、間違いないでしょう。」
したがって、2004綱領で従来の認識枠組みを清算したとは言い難く、むしろ復活させたといった方がいい。
実際、『100年史』309-310頁[54頁]で2020年綱領改定に触れる記述では、2004年綱領には「2つの体制の共存」という世界論が残っており、「綱領一部改定はこの見方を完全に清算」したと述べられている。この記述とチグハグである。
あるいは、2004年綱領改定で「陣営対決で世界情勢が決まる」という認識を清算したという趣旨かもしれないが、それなら、むしろ、1994年綱領改定によって「社会主義陣営」は綺麗さっぱり消去されたのだから、その時点で清算したともいえそうである。あえて2004年綱領改定まで遅らせる必要もない。どうにもスッキリしない説明である。
2004年綱領改定当時の印象としては、中国がかつての社会主義陣営に代わるだけの勢力とは到底言い難く、かつての枠組みをきわめて奇妙な形で引き継いだものだと感じたものだ。しかし、その後に中国は大きく経済成長を遂げて、今では米国の対抗勢力として一般に意識されるだけの存在になっている。その意味で、2004年綱領改定にも、真理の一面はあったのかもしれない。もちろん、共産党指導部の期待した形では全くないが。
2 党建設――掲げた目標は言及せず
『100年史』271頁[47頁]では、綱領改定以外については、以下の通りごく概括的にしか述べられていない。
「第23回大会では、新しい党綱領を、直面する国内外のたたかいにどう生かすかという見地から、世界の平和秩序を築くたたかいや野党外交の到達点と展望、当面する情勢と党のとりくみの課題、選挙闘争と党建設の目標と方針について、重点的に明らかにした大会決議を採択しました。」
これではまるで中身が分からない。
23回大会決議の党建設の目標としては、50万の党員を目標とし、また、「総選挙時比130%の読者拡大」を目標としていた。現在の共産党が「130%の党」づくりを党内で呼びかけているのによく似ている。130%という数字が好きなのかもしれない。この前例にならったなら、その前例に触れてもよさそうなものだが、目標達成できなかった前例なので言及しない方がよいということか。
〇 立憲民主党との政権協力合意――「閣外からの協力」が「閣外協力」に
2021年9月30日に共産党と立憲民主党が政権について合意したことについて、『100年史』316頁[55頁]では「立憲民主党との党首会談(志位和夫委員長・枝野幸男代表)をおこない、『新政権』において『合意した政策を実現する範囲での限定的な閣外協力』をおこなうことを合意しました。」と記述されている。
しかし、当時の両党の合意内容は、以下の通りであった。
「両党は以下の点を協力することで合意した。
1、次の総選挙において自公政権を倒し、新しい政治を実現する。
2、立憲民主党と日本共産党は、「新政権」において、市民連合と合意した政策を着実に推進するために協力する。その際、日本共産党は、合意した政策を実現する範囲での限定的な閣外からの協力とする。
3、次の総選挙において、両党で候補者を一本化した選挙区については、双方の立場や事情の違いを互いに理解・尊重しながら、小選挙区での勝利を目指す。」
まず、ここで「合意した政策」というのは、これに先立って野党4党が市民連合と合意した政策である。しかし、『100年史』の記述だと、共産党と立憲民主党とが直接合意した政策のように読める。私自身はその違いに意味があるとは思わないが、おそらく立憲民主党などは共産党と直接政策協定をすることを嫌っているからこのような「市民連合を介した」方式となっているのであり、その点を誤解させかねない。
そして、合意内容は「閣外からの協力」だったのが、『100年史』では「閣外協力」とされた。「」で引用する以上は正確に引用しなければならず、不正確である。
立憲民主党側はあえて「閣外からの」という奇妙な表現をすることで閣外協力ではないということにしたかったようであり、後に枝野は「閣外協力とはまったく違うということを言葉の上でも明確にした」と述べていた(2021年11月12日記者会見)。他方で、共産党は、合意直後から「閣外協力」だと述べている場面も少なからずあった。
これは、「限定的な閣外からの協力」という表現の意味するところを双方が都合よく解釈する妥協的な表現だったのだろう。この点について言えば、内閣には入らないものの政権樹立に協力するのだから、いかに「限定的」であれ「閣外協力」と共産党が表現したこと自体は間違っておらず、枝野の説明の方が無理はある。そうではあるが、このような思惑違いを生じさせる程度にしか野党協力が進展していなかったのが実情ともいえる。『100年史』としては野党協力が進んでいったと描きたいのだろうが、記述としては一面的・不正確というほかない。
<まとめ>
以上、基本的に過去の党史との対比を中心に『100年史』を見てきた。これまでの党史と同様に、出版時点での党指導部の立場を反映し、過去の出来事も現在に合わせて意味を変容させ、時には史実の歪曲にすらなっている党史である。
『80年史』が出版された20年前も、過去の党史と対比して読み、あまりに過去の歴史をねじ曲げたり、都合の悪い出来事の削除が多々あり、呆れたものである。
それから20年経ち、改めて同じ作業をすることになった。まことに残念ながら、感想もあまり変わらないものとなった。
ここから何かしらの予測や展望を立てることもできないが、『100年史』の論調からは、当面、今の内向きな路線が続きそうに思える。
以上