人間の死、歴史の中の人間の死、現在進行形の死

人間の死、歴史の中の人間の死、現在進行形の死

小泉雅英

 既にふた月が過ぎたが、今年は多難な幕開けであった。それでも生きて行くために、何かしらの希望を持ちたいが、まずは昨年を振り返っておきたい。2023年とは、どんな年だったのか。少なくとも私には、<人の死>に思いを致さざるを得ない年だった。あらためて、人間の死、歴史の中の人間の死、現在進行形の死について、考えたい。

<縁ある人の死>
 知る人は限られているが、昨年3月に葉山岳夫氏(弁護士)が亡くなった(享年86歳)。1971年夏の三里塚闘争の被告として、十数年に及んだ裁判闘争(*1)の全過程でお世話になった。葉山氏は、1960年安保闘争では、前年の国会前突入闘争(1959/11/27)など、重要局面の最前線で闘った。幸い当時のことについては、数年前、お話しをお伺いする機会があった。その後、京浜地区で、労働運動の活動家として過ごし、弁護士登録後の1967年からは、「10・8羽田闘争」裁判、69年1月「東大闘争」裁判の弁護団として闘い、三里塚闘争では、反対同盟の顧問弁護団結成に参加、事務局長として、初期の段階から闘争を支えた。また、1969年「4・28沖縄闘争」(破防法適用)弾圧裁判では、井上正治弁護団長と共に、国家と真正面から闘い、後に革マル派による弁護団会議への襲撃(1974/1/14)に遭遇、他の出席者と共に鉄パイプで殴打された。頭蓋骨亀裂の重傷を負ったが、その後も、頭に包帯を巻いた姿で、活動を続けられていた。運動上の大先輩として、法律の専門家として、いろんな場で助けられ、励まされて来た。その死は、ほんとうに残念であり、埋めることができない。
 8月には、1970年代初めに出会い、三里塚闘争、沖縄闘争、狭山闘争などを共にした元同志であり友人が病死した。新潟の高校を卒業し、東京の大学に入った後、活動家として邁進していた彼の死は、秋の終わりに知らされた。私が離脱した後も、長く活動していたが、彼自身の離脱の経緯を含め、いくつもの運動上の問題について、現場にいた者の経験と総括を訊きたかったが、その機会は失われた。この20年程は、清掃会社の非正規労働者として、ごみ収集の仕事を続けながら、後に出会った年下の伴侶と二人で、ひっそりと暮らしていた。たまに電話すると、いつも、「どうした?」という決まり文句で、会話が始まるのだったが、そんな気軽に電話できる数少ない友人の死は、ほんとうに寂しい。

 さらに11月になって、運動上の先輩のお連れ合いが亡くなった。夏の盛りに電話でお話した時が最後となった。この数年、いくつも集会やデモの後、数人で食事し、歓談していた。いつも他者への気遣いに満ちていて、長年の仕事で培われた円満さと、正義感の強い、白黒はっきりした性格で、それでも決して窮屈ではなく、柔軟で、お酒を呑んでは闊達に語り合い、愉しい時間を共にさせて頂いた。そんな貴重な時間は、もう二度とないことを知るのは、寂しい限りだ。長く地域ユニオンの活動家として、外国人労働者の支援を続けられていたが、残念ながら、具体的な活動については、お聞きする機会はなかった。そんなお連れ合いとは、60年代末の学園闘争の時代に、バリケードの中で知り合った、と聞いた。半世紀以上の歳月を共にした伴侶を失った先輩にとって、彼女の死は、どれほど大きな衝撃だったろうか。埋めようのない喪失感を抱えながら、どのように歳を越したのか、今、どんな時間を過ごしているのか、それを想うだけで胸が痛む。
 以上、長年お世話になった弁護士と、友人(元同志)と、先輩のお連れ合いの死について、記した。その寂しさは、しかし、長年、人生を共に過ごした家族、配偶者など、人生のパートナーの死に直面したご本人たちの喪失感とは、比べようもない。彼らの喪失感は、簡単に癒えるものではなく、これからも長く続くに違いない。それは、十年程前に母を喪った経験からも、想像できる。人の死は、残された者にとって、とりわけ家族や配偶者にとって、どれほど重く、切実な経験であることか。かつて私も、母の死後、ふと夢から覚めた時など、母の不在を思い知らされ、その喪失感に耐えきれず、小さな声で「お母さん!」と呼んでいたことが何度もあった。その感覚は、そう簡単に消え去るものではないのだ。

<歴史の中の人間の死>
 100年前の日本でも、短い時間の中で、多くの死があった。それはコレラなど感染症による病死や、自然災害による死ではなく、まぎれもない人間の手による死、殺人であった。しかも、ほぼ無抵抗の人々が大量に惨殺された。当然だが、その一人一人にも、家族があったはずだ。親はもとより、兄弟・姉妹、配偶者や、子供もいたかも知れない。そんな普通の人々が、突然、理不尽な暴力により命を奪われた。彼らを殺めたのは、当時の大日本帝国の軍隊であり、警察、在郷軍人、自警団であり、市井の大衆であった。殺されたのは、朝鮮人と中国人、それに自分たちと異なると目された日本人だった。彼らは、自分たちを殺した者たちに、何らかの危害を加えようとして、その結果、仕返しを受けた、ということでは全くない。その多くは、異郷で、家族を支えるために懸命に働き、細々と暮らす民衆だった。朝鮮人、中国人、あるいは自分たちと異なる人間、というだけで敵視され、生命を奪われた。人知れぬ夢もあったはずの彼らの人生は、他者(日本人)の手で、突然、中断された。そのような異民族への暴力の極致、ジェノサイド(genos=種族、cide=殺害)と言うべき一連の出来事があったことは、長く歴史の闇に葬られて来たが、遺族や研究者たちの努力により、多くの事実が明らかになりつつある。しかし、当時の国家権力などの隠蔽の結果、その全貌が解明されることは最早ないのだろう。
 昨年は関東大震災から100年で、その際に発生した一連の朝鮮人・中国人虐殺事件をふり返り、追悼する集会が各地で開かれた。それらに参加する中で、考えたことを少し記しておきたい。これは、既に終わった歴史の出来事ではなく、未だ清算されず、私たちの現在の課題として、長く置かれつづけている。
 1923年(大正12)9月1日、土曜日、午前11時58分、神奈川県相模湾沖から千葉県房総沖を震源とする大地震が発生(最大震度7、マグニチュード7.9)、家屋倒壊、火災などにより、死者・行方不明者10万5千人に達する甚大な被害をもたらした。この過程で、震災による自然災害だけではなく、軍隊・警察・自警団など民衆により、多数の朝鮮人、中国人が殺された。それらの事件の詳細は、当時の国家権力・警察等により隠蔽されたが、それでも、後の公式記録、内閣府中央防災会議専門調査会報告(2008年)では、「殺傷による犠牲者の正確な数は掴めないが、震災による死者数の1~数パーセント」とされている。つまり、1千人~数千人の人々が、理不尽に惨殺されたのだ。現在では、様々な調査記録を基に、朝鮮人6,000人以上、中国人700人以上が犠牲になったことが明らかとなっている。この他、亀戸事件や大杉事件など、労働運動活動家や、社会主義者、アナーキストなど日本人や沖縄人も殺されているが、これは、朝鮮人・中国人虐殺と同列には論じられない。なぜなら、後者は、異民族を標的とした集団的殺害であり、ジェノサイドと言うべきものだからである。
 こうした状況は、子どもたちにも、大きな影響を与えている。当時書かれた子どもの作文を収録した証言集(*2)から、いくつか引いておきたい(全て原文のママ)。

  • 「方々の電信柱に、今朝出かける時にはなかった新しいはり紙がしてあった。それは「各自宅に放火するものあり注意せよ」と書いてあった。不思議に思いながら歩いて行くと、向こうの方から二人の巡査に、両方からつかまえられながら、一人の朝鮮人が、血だらけになって、つれられて行くのにあった。[略]今度は又火事より、鮮人の事でこわくなり、もし火をつけられたらという用心に、にげじたくをすっかりした。[略]そのうちに家の巡査の塩原さんが警視庁から帰って来た。話によると、「不逞鮮人はどしどし検束していますから御安心下さい。」[略。3日]僕はもう火事の事はすっかり安心した。後気にのこるのは不逞鮮人のつかまえそこなったやつである。[略。4日]今日はもう火事もすっかりやみ地震ももう大したのはこなくなった。しかし不逞鮮人のうわさは益々ひどくなり、白山神社の井戸に女の鮮人が毒を入れたから各自宅の井戸を注意せよなぞと方々はり紙がしてある。昨日の鮮人襲来や、巣鴨監獄をやぶってあふれまわるという一団もどこへも来た様子がない。」(増田清三[尋常小学校6年])
  •  「鮮人のころされたのを見て来た人の話によると鮮人を目かくしにして置いて一二三で二間ばかりはなれた所より、射さつするのだそうで、まだ死にきれないでうめいていると方々からぞろぞろと大勢の人が来て「私にも打たしてください」「私にも少しなぐらせて下さい」とよって来るのだそうだ。そして皆でぶつなり、たたいたりするので遂に死ぬそうである。」(安藤多加[高等小学校2年])
  • 「気の荒い若い人達は、手に手に鳶口やふとい棒を持って山へおいかけて来た。とうとう二人だけはつかまえられてしまって、松の木へしばりつけられて、頭といわず顔とい  わず皆にぶたれた。気の立っている人々はそれでもまえだあきたらず、血だらけになった鮮人を山中ひきずりまわした。そして、夜になったら殺そうと話していた。」(嶋田初枝[本科5年])
  • 「夕がたになったら、近所の人が、「朝鮮人が、火をつけにくるから皆んな、気をつけておいでなさい」といってくれた。私はこっちのほうへくるのかと思うと、こわくてたまりませんでした。小叔(おじ)は又「子供たちは早く寝てしまいなさい」といったけれども私はその時ばかりはこわくて寝られませんでした。(略)その夜にかぎって、山に逃げたとか、いろんなことを言っていました。私は今にこっちへ来るかと思うと胸をどきどきしてきました。私はどうしてこんなところへ、朝鮮人がきてあばれるのだろうと思うと、にくらしくてたまりませんでした。(小林フミ[高等小学校1年])
  • 「あくる日夜の明けない内に起きて見ると、わいわいと男の人が、さわいでいるので、母さんにどうしたのと聞くと、きのうの夜、朝鮮人がくるから、ねないで下さいと、いいに来たから、きっと朝鮮人かもしれないといった。すると又もわいわいとちかくに聞えました。私は聞(ママ)のする方へ行って見ると、男の人が大ぜいで、棒を持って朝鮮人をぶち殺していました。夜が明けておなかがへったので、おばさんと一所に山を下りて、食物をさがしに行きましたが、売っていませんでした。」(大田とき[高等小学校1年])
  • 「そのあした朝鮮人が殺されているというので、私は行ちゃんと二人で見にいった。すると道のわきに二人ころされていた。こわいものみたさにそばによって見た。すると頭ははれて血みどろになってシャツは血でそまっていた。皆んなは竹の棒で頭をつついて「にくらしいやつだ、こいつがゆうべあばれたやつだ。」とさまにくにくしげにつばきをかけていってしまった。」(青柳近代[高等小学校1年])

大人の証言も、同書から引いておく。

  •  「二日(夜) 夕方、警告が廻ってきた。横浜を焼け出された数万の朝鮮人が暴徒化し、こちらへも約二百名のものが襲来しつつあると(もちろんデマ)。[略]村の若い衆や亭主たちは朝鮮人のことで神経を極度に尖らせている。これはちょうどわが軍閥の盲動に似ている。もどかしい、いまわしいことどもだ。三軒茶屋では三人の朝鮮人が斬られたというはなし。私はもうつくづく日本人がいやになる。(略)それにしてもこの朝鮮人一件はじつにひどいことだ。たとえ二百名の者がかたまってこようとも、これに同情するという態度は日本人にはないものか。第一、村のとりしまりたちの狭小な排他主義者であることにはおどろく。(略)頭から「戦争」腰になっているのだからあいそがつきる。(略)自動車隊には用賀あたりの女や子どもたちが詰め寄せているらしい。〇〇〇たちは手ぐすね引いているらしい。✕✕人が来たら一なぐりとでも思っているのか知ら。じつに非国民だ。いわゆる「朝鮮人」をこうまで差別視しているようでは、「独立運動」じゃむしろ大いにすすめてもいい。その煽動者にわたしがなってもいい。「軍国的」狭量。軍国的非行、不正。」(高群逸枝、詩人、女性史家、29歳、『震災日記』)
  •  「井戸に毒を入れるとか、爆弾を投げるとかさまざまな浮説が聞えて来る。こんな場末の町へまでも荒して歩く為には一体何千キロの毒薬、何万キロの爆弾が入るであろうか、そういう目の子勘定だけからでも自分にはその話は信ぜられなかった。」(寺田寅彦、物理学者、随筆家、44歳、「震災日記」)
  •  「日本刀、鳶口、竹槍、銃、ピストル、鉄棒、」村の青年達は手に手に得物を持って細道を右往左往しています。(略)その物々しさと云ったら、千軍を前に控えた勇士のいでたちのように――だが底知れぬ恐ろしさに胴顫いをしています。(略)気の毒なのは朝鮮人です。多数の中にはこの機に憤懣の情を多少満足させた者があるかも知れないが、徒党を組んで運動をするなどとは到底常識では是認出来ない事であります。(略)大正12年。而も文化の進んでいるべきはずの帝都に近い所に於てすらこうであります。往昔の天変地異に対して様々の迷信や流言非語が真実とされたのも当然であります。こうなりますと文明、知識と云う者も案外たよりにならないものであります。私は丁度はじめて衆愚と云う者の存在を明らかに見ました、そして、その力の恐ろしさをも知りました。そして人間が馬鹿らしくなりました。(人見東明、詩人、40歳、「一瞬間の前後」)
  •  「札の辻まで帰ってくると前方にわぁッという鬨の声が聞える。在郷軍人の服をつけた人、青年団員の銘々、おのおの手に竹槍様のものを持ち、後鉢巻でかけめぐっているではないか。道路一ぱい群をなしているではないか。此の大地震を機として〇〇〇人の一群が東京を一尽すべくおし寄せたのだという。(略)道路の中央に地震を避けていた町人は総立ちである。喧々囂々。その裡に叫ぶ在郷軍人等が声は全身に力の満ちた律調をもっている。私の胸は鳴った。(略)品川方面から来る人々の一人一人を探照燈に照らし、道路の中央警官等の所に引っ張って来て姓名を名乗らせるのだ。少しあやしいと見ると忽ち拳骨の雨である。彼等の血は躍っている、腕は鳴っている。(略)道は戦場さながらである。道の両側は後鉢巻でうずまっている。竹槍でうずまっている。(略)焼けて鉄骨ばかりの橋の上を私はようやく這って渡った。深川の地に渡ったのだ。そしてまたこれはどうだ。/「〇〇だな」と思った。両手を針金で後にくくりあげられたまま仰向に、或は横に、うつぶしに倒れて死んでいる。着物は彼等の労働服だ。顔はめちゃめちゃである。頭、肩にはいずれも大きな穴があいて居り、血がひからびてくっついている。そこにはまた首のない死体がある。首が肩の際から立派に切り取られている。見事に切ったものだ。」(黒木伝松、歌人、22歳、「震災見聞記」)
  • 「亀戸に到着したのが〔二日の〕午後の二時頃、おお、満目凄惨!亀戸駅付近は罹災民でハンランする洪水のようであった。と、直ちに活動の手始めとして先ず列車改め、と云うのが行われた。(略)果たして一名の朝鮮人が引き摺り下ろされた。憐れむべし、数千の避難民環視の中で、安寧秩序の名の下に、逃れようとするのを背後から白刃と銃剣下に次々と仆れたのである。と、避難民の中から、思わず沸き起こる嵐のような万歳歓喜の声。(国賊!朝鮮人はみな殺しにしろ!)」(越中谷利一、小説家、習志野騎兵連隊員、22歳、「戒厳令と兵卒」)

 何の個人的恨みもない、見ず知らずの人間を、このように惨殺できたのは、なぜなのか。この狂暴さは何なのか。このような行為の背景には、朝鮮人=「不逞鮮人」という偏見が作られ、拡がり、人々に身体化されていた。その根底には「日本はアジアの文明開化の先進国という優越意識から生まれた民族差別意識と、独立の陰謀を謀る恐るべき不逞鮮人という朝鮮人像が多くの民衆に定着していた」のだった(*3)。すでに当時からこの点を見抜き、日本人の朝鮮観を批判していた少数者の一人、中西伊之助は、『婦人公論』1923年11・12月合併号で、日清・日露の勝利を経て、「日本人の頭脳から全く古来の光輝ある朝鮮の歴史を抹殺し(略)朝鮮民族は飽くまで弱小な、しかも無知蒙昧な劣等民族と見做すようになった」と記している(*4)。
 そもそも「韓国強制併合」(1910/8/22)は圧倒的な軍事力によるが、「併合に関する条約」の調印には「ソウルの街を日本の憲兵が巡回し、朝鮮人は二人で話をしていても尋問される厳しい警戒」の中で挙行された(*5)。この時、多数の騎馬部隊が集められたのは「併合のため威力を必要とすることを予期したためで(略)この目的のため騎兵は適当な兵種だったからである。なぜならば未開の人民をしずめるためには、実力をもっている歩兵よりも、かえって見た目に威厳のある騎兵を必要とするからである」と、第二師団参謀の騎兵大尉が証言を残している(前同、傍線小泉)。当時の軍人が、朝鮮人をどのように見ていたか、これでも明らかだが、これは軍人に限ったことではないだろう。  
 その「併合条約」第一条には、「韓国皇帝陛下は韓国全部に関する一切の統治権を完全かつ永久に日本国皇帝陛下に譲与す」とされ、第二条では、日本の天皇が、その「譲与を受諾し(略)韓国を日本帝国に併合することを承諾す」と記されている。このような屈辱的な条約により国を滅ぼされ、大日本帝国による植民地支配下に置かれたことに対し、当然にも朝鮮人の全民族を挙げての抵抗が連綿と続くことになった。とりわけ「三・一独立運動」(1919年)など、朝鮮民族の持続的抵抗に直面した日本の国家権力者は、植民地支配を脅かす敵として、激しい弾圧を加えたが、その過程で、「朝鮮人=「不逞鮮人」という見方がひろがり」、それが大震災の下での民衆による朝鮮人虐殺へとつながって行った(*6)。このように、「関東大震災下の官民一体の朝鮮人虐殺は、朝鮮侵略の帰結であり、植民地支配がうみだしたもの」(同前)と言えるのである。
 問題は、こうした数々の虐殺事件について、100年経った今も、日本政府が事実を認めず、国家としての責任を果たそうとしていない、ということである。東京都をはじめ、地方自治体においても、同様の無責任な姿勢を続けている。そのことは、日本人の多くが、この問題を現在の課題として向き合うことを妨げる一大要因となっている。その結果、現在においても、在日朝鮮人への偏見に基づく、民族排外主義的な、様々な差別行為が頻発している。
 例えば、まだ耳目に新しい事例では、2020年3月、埼玉県さいたま市が、新型コロナウイルス感染防止のマスクを、市内の幼稚園など子ども関連施設に配布する際、埼玉朝鮮初中級学校(同市大宮区)付属の幼稚園を配布対象から除外した、という事件がある。生命に関わる緊急施策においても、こうした民族差別をおこなったことにも憤りを覚えるが、それだけではなく、この時、同幼稚園からの抗議に対し、市の担当者は、「不適切に使用された場合、指導監督できない」、「(転売を含む)不適切使用の怖れがある」と説明したというのだ。これには驚く他ないが、100年前のレイシズム、「不逞鮮人」観は、未だ克服されていない、と言うべきだろう。しかも、この差別的措置が抗議により撤回された後も、同幼稚園には「朝鮮に帰れ」、(マスクをもらったら)「ただでは済まない」などというヘイトの嵐が、メールや電話で相次いだ、という。
 同年には、川崎ふれあい館宛に、「在日朝鮮人をこの世から抹殺しよう。生き残りがいたら残酷に殺していこう」などと書かれた「年賀状」が届けられた。翌、2021年には、韓国居留民団愛知県本部、名古屋韓国学校が放火され、京都府宇治市ウトロ地区では、在日コリアンの暮らす民家や倉庫などに放火され、開館前のウトロ平和祈念館の資料50点が消失した。逮捕された青年(22歳、無職)は、ウトロ地区に住むコリアンは土地を不法占拠している、というネット情報から、「韓国人に対し敵対感情があった」と証言している。
 また、2022年4月には、「コリア国際学園中等部・高等部」(大阪府茨木市)に侵入・放火され、床を損傷させた。逮捕された青年(30歳、無職)は、裁判で「在日韓国人、在日朝鮮人を野放しにすると日本人が危険にさらされてしまうと思った」と、動機を証言している。(*7)
 さらに、同年9月には、JR赤羽駅ホーム上のJRの横断幕に、「朝鮮人コロス会」という名前で、差別的文言の落書きがなされた。同駅の隣の十条駅は、東京中高の最寄り駅で、朝鮮学校の児童・生徒が多く利用しているが、その生徒の一人が通学途中で落書きを見つけた(*8)、という。
 こうして、「在日朝鮮人は制度的な差別に加え、今なお直接的な暴力にさらされている」こと、「関東大震災朝鮮人虐殺が決して過去の歴史ではなく「生きた歴史」であるということ」(*9)が分かるだろう。昨年、9月1日を前にした集会で、崔江以子(チェ・カンイジャ)さん(ヘイトスピーチを許さない かわさき市民ネットワーク)が述べた次の言葉は、今も私に突き刺さったままである。

 「国へ帰れ、日本から出て行けの脅迫に、幸せに生きることをあきらめさせられる今は、あのジェノサイドから地続きです。差別投稿に煽動された人が実際に行動を起こすかもしれません。コロナ禍で社会が不安に襲われたとき、その攻撃の矛先は私たちに向きました。死ねと書かれた脅迫状とコロナ菌入りの菓子袋が送り付けられました。(略)次は何が起こるのでしょうか。(略)〝まだ″殺されていないだけです。あなたの101年に102年に私はともに生きられますか。殺し殺されない明日を未来を「あなた」は「わたし」とともに実現してくれますか。今、〝まだ″殺されていないだけです。」(「関東大震災朝鮮人・中国人虐殺100年犠牲者追悼大会」2023/08/31)

 <現在進行形の死>
 昨年10月、パレスチナにおける民族解放闘争が、満を持して再開された。「イスラーム抵抗運動(略称ハマース)」を中心とするパレスチナ解放統一戦線が、イスラエルによる長期に及ぶ暴力支配の壁を突破し、占領者イスラエル国家に、文字通り決死の攻撃を加えた。しかし、それに数千倍する反撃を蒙り、パレスチナ、とりわけガザに住む人々の血が流され続けている。これは、長年にわたるイスラエルの暴力支配に対する、パレスチナ民衆の生存を賭けた極限的抵抗であり、それに対するイスラエルのこれまで以上の圧倒的軍事攻撃なのだ。欧米の帝国主義者だけではなく、シオニスト国家イスラエルの行動を支持する全ての政府は、パレスチナ人虐殺に加担している、と言うべきだ。日本政府も例外ではない。政府のみならず、民間企業も、イスラエルとの取引を維持し、経済関係を続ける限り、同罪である。私は、そうした政府や企業を批判し、加担を拒否したい。
  このように今、私は書いているが、パレスチナのことを、ガザのことを、これまで、どれほど考えていたのか。確かに、かつては、よく知りもしないのに、PFLPの闘いに共感していたこともあった。1970年代初めに読んだ『世界革命戦争への飛翔』(共産主義者同盟赤軍派編、討議参加:高橋和己)では、アラブに向かう同世代の人々の動きに、心動かされた時もあった。後にPLO駐日代表部の方の講演で「パレスチナ国家」(と思っていたが、「自治政府」)の成立を知り、単純に喜んだこともあった。当時、「オスロ合意」の問題性など全く知らなかった。また、「パレスチナ子どものキャンペーン」に参加している友人から、その活動も少しは聞いていた。けれど、それらは全て、結局、自らの日常から遠いものでしかなく、やがてパレスチナは私の視野から外れ、フェイドアウトして行った。このような中で、今回のハマースを中心とする決死の作戦と、その後の展開は衝撃だった。「複雑なパレスチナ問題」という枠で、長く思考停止していた私を撃ち、ぼんやりした私の眼を開かせたのだった。これを機にいくつもの講演を聴き、多くの文章に接した。恥ずかしながら、今、ようやく、パレスチナのことを自らに引き寄せて考えられるようになった、と感じている。遅まきながら、パレスチナ解放の諸運動に連帯し、身近なことから、少しでもできればと願う。それは、パレスチナの問題が、日本人である私と無関係ではない、と考えられるようになったからでもある。その点を記し確認しておきたい。

 今に到るイスラエルによるパレスチナの占領について、ユダヤ系米国人サラ・ロイさん(ハーバード大学上級研究員)は、次のように述べている。

  • 「占領とはひとつの民族が他の民族によって支配され、剥奪されるということです。彼らの財産が破壊され、彼らの魂が破壊されるということなのです。占領がその核心において目指すのは、パレスチナ人が自分たちの存在を決定する権利、自分自身の家で日常生活を送る権利を否定することで、彼らの人間性をも否定し去ることです。占領とは辱めです。絶望です。」(*10)

この「占領」は、他人事だろうか。かつて日本は、アイヌモシリを侵略し、琉球を侵略し、台湾を侵略し、朝鮮を侵略し、中国を侵略し、その他アジア・太平洋諸地域を侵略し、その多くの地を占領、植民地化していった。それは現地に生きる人々の「財産を破壊し、魂を破壊」したことではなかったのか。日本の「占領がその核心において」、現地の人々の「存在を決定する権利、自分自身の家で日常生活を送る権利を否定することで、彼らの人間性をも否定」し去ったのではなかったのか。「辱め」を与えて来たのではなかったのだろうか。
 例えば、アイヌモシリについては、1869年9月に「その一部を「十一ヶ国に分割」し、北海道と名づけた」(*11)。その上で、1871年、「日本政府は「穢多非人等ノ称」を廃止し、被差別部落民を「平民」とする」(同上)とともに、翌1872年から戸籍制編成を開始、「1873年ころから「開拓使」は、「壬申戸籍」にアイヌを「平民」として登録しはじめ、さらに1876年に「創氏改名」を強制した」(同上)のだった。日本政府は、戸籍編成の開始と同じ1872年、「北海道土地売貸規則」と「地所規則」を制定したが、これにより、「アイヌモシリのうち北海道と名づけた地域を日本の領土としたことを前提として、その地域の私有権などを日本政府が確定するというものであった。アイヌの「平民化」は、アイヌの大地の天皇一族や「華族」や「士族」や和人「平民」への分配と同時にすすめられた」(同上)のだった。さらに、1875年5月、日本政府はロシア政府との間に「千島樺太交換条約」を締結したが、これは、「日本がハボマイ諸島からカムチャッカ半島南部のシュムシュ島にいたる北方原住民族の大地(「千島列島」)を植民地とし、ロシアがカラフトを植民地とすることを、相互に承認しあったもの」(同上)であった。この「千島樺太交換条約」締結の数ヵ月後、9月には、「カラフトに住んでいたアイヌが強制的に北海道の宗谷に移住させられ、翌年、石狩川下流域の対雁(ツイシカリ、現、江別市内)に移住させられた。そのカラフトのアイヌ856人のうち385人が、1886年から流行したコレラ、天然痘などによっていのちを失った」という(同上)。この同じ「1875年に、日本政府は、小笠原諸島の領有を宣言し、1879年に、ウチナーを「併合」した」(同上)のだった。そして、1886年3月には、北海道庁が設置された。その13年後の1899年3月、「北海道旧土人保護法」が公布された。その後、「日ロ帝国主義戦争のあと、1905年に、日本は、カラフト南半部を領土とした」(同上)が、そこには、その後、「大量の日本人が侵入し、北海道、「千島列島」、ミクロネシアと同じように、日本人「移民」が多数を占める植民地となった」(同上)のだった。
 日本が台湾を「領有」し、植民地としていく過程でも、どれ程の多くの現地住民の生活を破壊し、生命を奪ったか。1895年5月29日、日本軍近衛師団は台湾北東部に上陸したが、その数日前、5月23日には、「台湾民主国」の独立宣言がなされていた。しかし、「日本軍は20日あまりで台北を占領、「台湾民主国」はあっけなく瓦解した。だが、日本軍は南下の過程で民衆の組織した義勇軍による抵抗に直面、台南を占領するまでに実に5カ月近くを要した」(*12)。
 同年11月18日、「初代台湾総監樺山資紀は台湾の「平定」を宣言した。だが、その後も武装蜂起は断続的に続いた」が、その中で、「雲林虐殺事件」では、「ゲリラをかくまったと目される村を焼き払い、住民を無差別に殺害する事件が起きた」のであった。「たとえ殺害にいたらずとも、侮辱的な行為が日常的に繰り広げられていた」という。さらに1898年には、台湾総督の律令として、「「匪徒刑罰令」を制定、「暴行又は脅迫」という手段で目的を達するために、「多衆結合」する者を死刑に処すと定めた。(略)1889年からの5年間で、同令による死刑は実に3200名を超えた」という(前同)。
 「1930年10月27日、台湾の中央山間部に位置する霧社で、セデックと自称する台湾先住民族が叛乱を起こした」が、「「台湾霧社蜂起事件」として知られるこの出来事は、当時の新聞では「台湾蛮人の暴動」として報じられた。」そして、「蜂起した6社の住民は、事件の翌年に川中島(現在の清流部落)に強制移住させられた。この時点で人口は1300名あまりから300名近くまで減少、実に8割近くが殺されるか、自死に追い込まれていた。まさにジェノサイドであり、民族浄化であった」(前同)。
  政治的シオニズムにより建国されたイスラエルは、1948年以来、パレスチナの地に侵略し、パレスチナ人を「民族浄化」(なんと恐ろしい言葉か!)し、入植地(者)を拡大し続け、強大な軍事力を背景に国際的地位も確保して来た。その植民地主義・シオニスト国家イスラエルを、G7など、かつての帝国主義諸国が支え続けている。この中には、日本国政府も含まれていることを忘れてはならない。ある講演で岡真理氏が、G7とはGenocide7の略ではないかと発言していたが、言い得て妙である。それだけではなく、105年前、1899年に「替天行道、護国滅洋」の旗を掲げ、蜂起した義和団に対し、翌1900年7月、「八カ国連合軍2万人(その半数は日本軍)が天津を攻略し、8月14日には北京に入城」(*13)し、義和団を弾圧、その後も、1年以上にわたり華北を軍事占領したのだった。この「八カ国連合軍」とは、殆どそのまま現代のG7諸国と重なっていることを想起すべきだろう。つまり、G7とは、先進帝国主義国家(英・米・仏)に、遅れた帝国主義かつ全体主義国家(日・独・伊)を併せ、英連邦のカナダを加えたものであり、100年余り前から今に至るまで、軍事技術の決定的な進歩は別にして、その帝国主義的本質は何も変わっていないのではないか、ということである。G7帝国主義諸国家は、今、パレスチナ人の虐殺、民族浄化から、それぞれの利益を得ている訳だが、こんなことがいつまで許されるのか。
 また、現在なお進行中のガザへの空爆は、かつて日本が中国侵略の過程でおこなった、連続的な無差別空爆=重慶爆撃(1938年12月~1941年9月)と無縁だろうか。さらに、現在パレスチナの人々を閉じ込め続けている鉄壁や側溝は、かつて中国侵略の過程で、「満州」と呼ばれた地において、日本軍が設置した「安全農村」や「無人区」を包囲する高い壁や側溝と無関係だろうか。初めは試験的に、後には武装移民を先頭に、「満蒙開拓団」として、大量の移民を中国東北部に送り込み、入植地を拡大し続けて行ったことは、周知の事実である。その過程で、現地農民は、住居と長年培って来た農地を奪われ、故郷から引き離されて、強制移住を強いられた。これは、パレスチナの地で、イスラエルが行って来たことと、どう違うのだろうか。
 追記すれば、「満州」と呼ばれた地で日本軍が作った「集団部落」の「多くは、日本官憲が制圧している地帯の境界につくられ、「見張所、又は前哨の役割」をもたされていた」(*14)のだった。その「すべての部落は土塀でかこまれたが、その高さは3~2.1メートル、厚さは1.5~1.2m」(同前)あり、「その外側には幅三尺(約1メートル)、深さ三尺の壕が掘られた。各部落には、2基あるいは4基の砲塔が築かれ」(同前)、「部落の出入口には門扉が設置され、夜間は閉鎖され、歩哨が立つ。住民は、夜間は壁の内側に閉じ込められ、外部との連絡を切断された。しかも、多くの場所で、18歳以上の住民は、写真を貼付した「住民証」の携帯と、「左手の5本の指の指紋がとられ、「住民証」には左手のひとさし指の指紋」(同前)の押捺が強制されたのだった。
 こうした状況は、イスラエルがパレスチナで行なっているものと、本質的にどう違うのか。パレスチナの人々は、壁の外に出るために、限られた検問所で、IDカードを提示しなければならないというが、それは、上記「安全農村」の住民管理に強制された指紋押捺制度と、本質的に同じではないのだろうか。
 私たちは、イスラエル政府を批判すると同時に、それを支える日本国政府と企業に対しても、徹底的に批判しなければならない。それは、パレスチナ人の虐殺を許さず、その加担を拒否するということであるが、それにとどまらず、イスラエルの植民地主義、レイシズムを批判すると同時に、日本の植民地主義や民族排外主義、レイシズムを批判し、その克服を目指すということなのである。
 最後に、ガザ出身で、今は日本在住のパレスチナ人、アンハール・アッライースさんの発言を引いておきたい。

「パレスチナ人は、長年にわたり、イスラエルによる集団虐殺、強制移動、殺戮、封鎖、そして投獄といった経験に苦しめられてきました。けれども、この十日間に私たちが味わった苦しみは、これまでの積年にわたる苦しみに匹敵します。(略)
  私たちは、次の瞬間には死んでいるかもしれません。
  私たちは、絶えず恐怖と破壊と惨状の中に置かれています。
  死の音、助けを求める声、叫び、恐怖がいたる所にあふれています。
  道はどこも、死と爆発のにおいに満ちています。
  たった1分で、数百人の命が奪われるのです。
  ばらばらになった子供たちの遺体は身元すら特定できません。
  一歳にも満たない赤ん坊が、家族全員を亡くし、たった独りで、誰の助けもなく、食べ物も母乳もないまま、残されています。(略)
 いったい、この罪のない人々の何がいけなかったというのでしょうか?(後略)」       
(2023/10/20 京都大学にて)(*15)

************

本稿の最後に、昨年の「関東大震災100年 朝鮮人・中国人虐殺」に関連する集会の中で、私が参加したものを中心に、日付順に記録しておく。首都圏に限ったものでしかないが、昨年の日本で、このような集会やイベントが実施されたことを記録しておきたい。これらの集会は、100年前の出来事を忘れず、歴史的血債を清算、克服していくための第一歩である。私自身が企画から参加し、立川市で実施した「シビル連続講座」については、最後尾にチラシを添付した。(2024/02/29記)

<注>

*1. 坂口四郎(筆名)「三里塚闘争の裁判」(『新日本文学』1980年1月号)に、第1審判決批判を詳述した。なお、この「七月仮処分阻止闘争」については、山口武秀「三里塚・夏の陣 泥と炎と汗の攻防」(『新いばらき』1971年8月2日号)及び、戸村一作『野に起つ』(三一新書1974年2月刊)を参照。
*2. 西崎雅夫編『証言集 関東大震災の直後 朝鮮人と日本人』(ちくま文庫2018年)
*3. 山田昭次『関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後―虐殺の国家責任と民衆責任』(第1版第2刷、創史社2023年)p.140
*4. 琴秉洞[クムビョンドン]、山田同上書より再引用
*5. 中塚明『これだけは知っておきたい日本と韓国・朝鮮の歴史』(高文研2002年)p.115
*6. 朝鮮大学校朝鮮問題研究センター・在日朝鮮人関係資料室編『Q&A 関東大震災100年 朝鮮人虐殺問題を考える』(発行:フォーラム平和・人権・環境、 2023年)
*7. 中村一成「週刊金曜日オンライン」2022/10/25
*8. 「朝鮮新報」2022/10/07
*9. 前掲『Q&A 関東大震災100年 朝鮮人虐殺問題を考える』p.6
*10. サラ・ロイ「ホロコーストとともに生きる―ホロコースト・サヴァイヴァ―の子供の旅路」(「みすず」2005年3月号)、岡真理『ガザとは何か―パレスチナを知るための緊急講義』(大和書房2023年、pp.153-154 )
*11キㇺチョンミ(金靜美)『故郷の世界史 解放のインターナショナリズムへ』(現代企画室1996年)pp.21-31
*12. 駒込武「植民地主義者とはだれか」『世界』No.977(岩波書店2024年1月号 )
13. 原田敬一『日清・日露戦争 シリーズ日本近現代史③』(岩波新書2007年)
*14. キㇺ・チョンミ(金靜美)『中国東北部における抗日朝鮮・中国民衆史序説』(現代企画室1992 年)pp.335-356
*15. 岡真理、前掲『ガザとは何か』 pp.109-111

<参考文献>             
・ほうせんか編著『増補新版 風よ鳳仙花の歌をはこべ―関東大震災・朝鮮人虐殺・追悼のメモランダム』(ころから2021年)
・和田春樹『韓国併合 110年後の真実―条約による併合という欺瞞』(岩波ブックレットNo.1014  岩波書店2019年)
・森万佑子『韓国併合 大韓帝国の成立から崩壊まで』(中公新書 2712 中央公論新社2022年)
・平野克弥「市民社会の「隠れ屋」―人種主義的認識が作動・反復する時」(『現代思想』9月臨時増刊号〝総特集・関東大震災100年″青土社2023年)
・中村一成「パレスチナの歴史的鏡像としての在日朝鮮人」(在日本韓国YMCA編『交差するパレスチナ』新教出版社2023年)
・岡真理「この人倫の奈落において―ガザのジェノサイド」(『世界』2024年1月号、岩波書店)
・田浪亜央江「記憶と人間性の破壊に抗する<抵抗の文化>」(『現代思想』2024年2月号、青土社2024年)、「イスラエルによるジェノサイドの背景」(ピープルズプラン研究所2023年12月https://www.peoples-plan.org/index.php/2023/12/03/post-841/
・金城美幸・早尾貴教紀・林 裕哲「<討議>パレスチナと第三世界―歴史の交差点から連帯する」(『現代思想』2024年2月号)
・板垣雄三「植民国家の「出発点」を問い直すー暴力に抗い続ける歴史意識のために」(『現代思想』2024年2月号)
・鵜飼 哲「「新しい中東」以後―「裁き」から「革命的平和」へ」(『現代思想』2024年2月号)
・姫田光義・陳平(訳:丸太孝志)『もうひとつの三光作戦』(青木書店1989 年)
・小泉雅英「侵略者あるいは鬼の末裔として(2)日本人は中国・朝鮮で何をしたのか

<その1>キム チョンミ(金靜美)『中国東北部における抗日朝鮮・中国民衆史序説』」
(レイバーネット2021年9月)http://www.labornetjp.org/news/2021/0925koizumi、
「侵略者あるいは鬼の末裔として(6)日本人は中国・朝鮮で何をしたのか<その5>「「無人区」化」(レイバーネット2022年8月)http://www.labornetjp.org/news/2022/1650591573164staff01

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「関東大震災100周年・朝鮮人・中国人虐殺事件」関連集会・イベント(記録)
(★印は参加できなかったもの)

2023年2月25日(土)
3・1朝鮮独立運動104周年
―東アジアの民衆連帯で新たな戦争を起こさせない!
 植民地支配を清算し大軍拡を止めよう! 2・25東京集会
・講演:関東大震災時、朝鮮人はなぜ殺されたか?
   朝鮮植民地戦争と三・一独立運動、朝鮮人虐殺への道
・講師:慎 蒼宇(法政大学教授)
・韓国ゲスト報告:朝鮮戦争の停戦70年、新しい平和の道を切り拓こう!
         ~停戦70年に向けた平和行動の提案~
チェ・ウナ(韓国進歩連帯自主統一委員長・6・15共同宣言実験南側委員会事務局長)
キム・チヘ(韓国進歩連帯自主統一局長)
・特別報告:高良鉄美(参議院議員・沖縄の風)「南西諸島軍事化の危険な動き」
(主催:「3・1朝鮮独立運動」日本ネットワーク 於:文京区民センター)

5月27日(土)
関東大震災朝鮮人虐殺100周年
映画『隠された爪痕』&《In-Mates》同時上映会
共催:ほうせんか100周年追悼式実行委員会「百年(ペニョン)」、
(一社)ほうせんか、(公財)早稲田奉仕園) 会場:早稲田奉仕園スコットホール

荒川河川敷の今の様子(ここで多くの朝鮮人が虐殺された)

「ほうせんか」の庭に建つ慰霊碑

6月24日(土)
関東大震災 中国人虐殺現場を歩く(フィールドワーク 江東区 逆井橋付近)
講師:林 伯耀、川見一仁 (主催:「ヒロシマ講座」)

王希天が殺された逆井橋の下

7月1日(土)
虐殺100年~歩いて考える関東大震災~講座
講演:関東大震災時の朝鮮人虐殺と「否定論」の問題
講師:明治学院大学教授 鄭 栄桓(チョン ヨンファン)
主催:「ヒロシマ講座」 場所:東京ボランティア市民活動センター

7月13日(木)
関東大震災朝鮮人虐殺記録映画上映会
「払い下げられた朝鮮人」上映+呉 充功監督のお話
100年ぶりの国会質問ビデオ上映+議員挨拶 
 (杉尾秀哉議員5/23参議院内閣委員会、福島みずほ議員6/15参議院法務委員会)
主催:関東大震災 朝鮮人・中国人虐殺100年犠牲者追悼大会実行委員会 
会場:衆議院第一議員会館)

7月22日(土)
虐殺100年~歩いて考える関東大震災~講座
講演:「殺されない! 殺させない! 殺さない!って?」
    ~100年経っても忘れちゃいけないことがある~
講師:慎 民子(ほうせんか理事)
主催:ヒロシマ講座  会場:新宿区男女共同参画推進センター

8月25日(金)
関東大震災朝鮮人虐殺記録映画『隠された爪痕』(呉 充功監督、16㎜1983年制作)上映
会場:シネマハウス大塚

8月31日(木)
関東大震災朝鮮人・中国人虐殺100年  犠牲者追悼大会
―歴史に誠実の向き合い、国家の責任を問い、再発を許さない 共生社会への第一歩を!
会場:文京シビック大ホール
主催:関東大震災朝鮮人・中国人虐殺100年 犠牲者追悼大会 実行委員会 
オープニング:①東方文化芸術団(中国)、京畿民芸総(韓国)
黙 祷
開会挨拶:田中宏(一橋大学名誉教授)、慎 民子(ほうせんか理事)、
林 伯耀(関東大震災中国人受難者を追悼する会共同代表)、
遺族代表:権 在益(韓国:遺族会代表)、周江法(中国:温州遺族聯誼会 会長)
来賓挨拶:楊 宇(中国大使館主席公使)、徐忠彦(在日朝鮮総連 副議長)、
連帯挨拶:李 娜栄(韓国 追悼事業推進委員会 共同代表)、王 旗(中国 王希天研究会会長)、
ジュディス・マーキソン(米国 「慰安婦」正義連盟 会長)
特別報告:①田中正敬(専修大学教授)、②安田浩一(ノンフィクションライター)
     ③崔 江以子(ヘイトスピーチを許さないかわさき市民ネットワーク)
     ④宮川泰彦(9・1関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典実行委員会)
追悼ピアノ演奏:崔 善愛
追悼歌曲:紫金草合唱団 李 政美
草の根報告:①平形千恵子(千葉県)、②落合博男(ほうせんか代表理事)、
③山本すみ子(神奈川県)、④川見一仁(追悼する会)
朝鮮人虐殺の記録映像制作を続けて 呉 充功監督
集会宣言 
閉会挨拶:藤田高景(実行委員会事務局長)

犠牲者追悼集会で熱唱する中国からの合唱団

犠牲者追悼集会で熱唱する李政美さん

9月1日(金)
<午前>★
 追悼式典 
会場:横網町公園
主催:日朝協会など日本人中心の実行委員会
<午後①>★
同胞追悼会
会場:横網町公園
主催:朝鮮総連など
なお、私は午後4時頃、現場に到着。レイシスト団体「そよ風」が同じ追悼碑前での集会を予告していたが、追悼碑の前に座り込むなど、反対する人々の声と行動により、追悼碑前での集会は開けず、少し離れた場所で集会していたが、夕方、退場して行った。
<午後②>
朝鮮人虐殺犠牲者追悼と責任追及の集会
主催:「関東大震災100年―朝鮮人虐殺事件追悼と責任追及の行動」実行委員会(キリスト教協議会、在日朝鮮人人権協会など、賛同38団体)
場所:銀座ブロッサム(中央会館)ホール
(プログラム)
朗読劇:「百年の残響、乱舞-1923/2023証言と記録のコラージュ」
 開会宣言
 黙祷
 主催者挨拶:南 昇佑(朝鮮総聯中央本部 副議長)、
保坂正仁(日朝友好促進東京議員連絡会 共同代表)
 連帯挨拶:近藤昭一(衆議院議員 立件民主党)
      イ・ホンジョン(6・15共同宣言実践南側委員会 常任代表議長)
      朝鮮民主主義人民共和国 朝鮮人強制連行被害者、遺族協会(代読)
問題提起:藤本泰成(フォーラム平和・人権・環境 共同代表)
遺族からの証言:在日同胞(尹 峰雪)、韓国の遺族からのメッセージ(代読)
訴え:東京朝鮮中高級学校学生
独唱:童謡「半月歌」 金 雅凛(東京朝鮮中高級学校学生)
各界スピーチ:ユン・ミヒャン(大韓民国国会議員)、キム・スボク(6・15米国委員会)
追悼詩:イ・ドッキュ(京畿民芸総 理事長)
独唱:ソン・ビョンフイ
政府要請文採択:
「朝鮮人虐殺の歴史を記憶し朝鮮人差別に反対する朝日大学生一大行動」実行委員
(一橋大学修士)、在日本朝鮮留学生同盟 東京都本部国際統一部長(上智大生)
閉会宣言

横網町公園で「そよ風」に抗議する人々

<夜>
「関東大震災・朝鮮人虐殺を覚える9・1集会」★
 「それぞれの100年~家族史のなかの恐怖の記憶~語り継がれた祖父母の体験」
主催:「9・1集会」実行委員会
場所:早稲田奉仕園リバティホール
リレートーク:深沢 潮(作家)、鄭 瑛恵(社会学者)、朴 慶南(作家)
司会:崔 善愛(ピアニスト、実行委員)

9月2日(土)
・関東大震災 韓国・朝鮮人犠牲者追悼式★
主催:ほうせんか
場所:荒川河川敷 木根川橋付近
追悼の花束 *みんなで作りましょう
追悼 始まりの歌:朴 保(パク・ポ)、柴田エミ、河 栄守(ハ・ヨンス)、Swing MASA
100年(ペニョン)による証言朗読
遺族から
追悼の歌
プンヌル<風物> トッケビ・プンヌルペが集います。
・国際シンポジウム「関東大震災朝鮮人虐殺の責任と課題」
主催:関東大震災朝鮮人100年―朝鮮人虐殺犠牲者追悼と責任追及の行動実行委員会
場所:連合会館
報告:
i)「百年間の証言―韓日の作家と市民がみた関東大震災と朝鮮人虐殺」
   金應教(淑明女子大学教授)
ii)「関東大震災時における朝鮮人虐殺と「否定論」の諸問題」
   鄭 栄桓(明治学院大学教授)
iii) 「米国における関東虐殺否定論とジェノサイドへの対応」
   リ・ジンヒ(米国イースタン・イリノイ大学教授)
iv) 「在日朝鮮人運動による関東大震災朝鮮人虐殺の真相究明・責任追及」
   鄭永寿(朝鮮大学校講師)
v) 「国際法から見た関東大震災ジェノサイド」
   前田朗(東京造形大学名誉教授)
総合討論  「朝鮮人虐殺事件の解決と植民地主義の払拭」
・関東大震災朝鮮人・中国人虐殺100年犠牲者追悼 <国会前キャンドル集会>
主催:関東大震災朝鮮人・中国人虐殺100年 犠牲者追悼大会 実行委員会 
韓国京畿芸総、中国人遺族アピール、追悼プンヌル(トッケビ)、米国市民アピール
主催者挨拶:渡辺健樹(実行委員会)
在日朝鮮人からの訴え:金性済(日本キリスト教協議会総幹事)
在日中国人からの訴え:徐柱国(関東大震災虐殺された中国人受難者を追悼する会)
朝鮮半島遺族証言:曹光換(藤岡事件遺族)
中国人遺族証言:周鐘洙
韓国での取り組み:金鐘洙(「関東虐殺100周年忌追悼事業推進委員会)執行委員長)
米国市民からの訴え:ジュディス・マーキソン(サンフランシスコ「慰安婦」正義連盟代表)、キム・ミホ(エクリプス・ライジング)
各政党より議員挨拶:福島みずほ議員他
日弁連の勧告の意義と限界:森川文人(弁護士)
日本政府への抗議文:林伯耀(100年追悼大会実行委員会)
歌と演奏:李政美、竹田裕美子
集会総括:藤田高景
<シュプレヒコール>
歴史の隠蔽を許さないぞ! 歴史の抹殺を許さないぞ!
日本政府は国家としての責任を認めよ! 虐殺された犠牲者と遺族に謝罪と賠償をせよ!
犠牲者の尊厳と名誉を回復せよ! 政府は真相を究明せよ1
犠牲者の名簿を公表せよ! 犠牲者の遺骨を遺族に戻せ!
ヘイトスピーチを許さないぞ! ヘイトクライムを許さないぞ!
民族差別を許さないぞ! 全ての民族差別政策を**せよ!(*不明)
人種差別禁止法を制定せよ! 日本は即刻ジェノサイド条約に加入せよ!
・朝鮮人虐殺100年神奈川追悼会 ★
主催:関東大震災時朝鮮人虐殺の真実を知り追悼する神奈川実行委員会
共催:(公財)横浜YMCA(一社)神奈川人権センター神奈川県朝鮮人強制連行調査団
場所:久保山墓地(横浜市) 関東大震災殉難朝鮮人慰霊之碑前
(プログラム) 献花 合唱 追悼舞 メッセージ 呼びかけ(朗読劇) あいさつ

国会前キャンドル集会で発言する林伯耀さん

9月3日(日)
虐殺された中国人を追悼する集い★
・王希天さん追悼
主催:不明  会場:逆井橋(旧中川)
・中国人受難者追悼式
会場:全水道会館

国際交流シンポジウム ★
「関東大震災におけるレイシズムとジェノサイド
――国家の責任を問い、歴史を世界の人々と共有するためにー
会場:在日大韓基督教会 川崎教会
主催:関東大震災朝鮮人・中国人虐殺100年 犠牲者追悼大会 実行委員会 
報告者:朝鮮半島・中国・米国・日本の研究者、弁護士、市民活動家

9月4日(月)
第3回 姜大興さん追悼会
関東大震災100年「姜大興(カンデフン)さんの想いを刻み、未来に生かす集い★
共催:姜大興さんの想いを刻み未来に生かす集い実行委員会、日朝協会埼玉県連

9月23日(土/祝)
講演:関東大震災時の朝鮮人虐殺と「否定論」の諸問題★
講師:明治学院大学教授 鄭 栄桓
主催:緑フォーラム
会場:銀河実験劇場(東京都北区)

9月29日(金)
講演:孤独の百年あるいは百年の孤独 
―関東大震災と、<人びと>による《人びと》の虐殺をめぐって
講師:太田昌国        会場:東京琉球館(東京・駒込)

10月7日(土)
大杉栄・伊藤野枝・橘宗一 虐殺100年―国家犯罪の検証
主催:初期社会主義研究会  『大杉栄資料集成』(ぱる出版近刊)編集委員会
会場:明治大学リバティタワー11階
報告:①手塚登士雄 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一殺害の謎
   ②山泉 進 「甘粕裁判」の謎
   ③大和田茂  亀戸事件の謎―大杉ら虐殺事件との関連から
司会:田中ひかる(明治大学教授)・木村政樹(東海大学専任講師)

<映画・演劇>

9月1日(全国公開)
映画『福田村事件』
監督:森達也、脚本:佐伯俊道、井上淳一、荒井晴彦
出演:井浦新、田中麗奈、永山瑛太、東出昌夫、コムアイ、ピエール瀧、柄本明、趙博、
水道橋博士、他

9月2日~3日
劇団・老人決死隊・新作公演『1923年』
作・主演:大谷蛮天門 共演:川のツル
会場:キノ・キュッヘ(木乃久兵衛)国立市

10月12日~15日
新宿梁山泊 第75回公演 『失われた歴史を探して』
作:金 義卿  演出:金 守珍
会場:下北沢 ザ・スズナリ

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

以上

小泉雅英(2024/03/01)

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