ナガサワ先生の高校白書 40

ナガサワ先生の高校白書 40

 今年度、初めて歴史総合の授業を担当している。以前に書いたように18 世紀以降の日本史と世界史を融合した科目である。そこで授業実践の構想を書いてみる。手引きとするのは小川幸司さんの『世界史とは何かー「歴史実践」のために』(シリーズ 歴史総合を学ぶ③、岩波新書、2023年)である。小川さんが「根拠の問い直し作用の対話と仮説の構築・検証作業の対話」の例で取りあげているアヘン戦争をめぐる授業pp.62-83を参考にした。イギリス議会でアヘン戦争に反対したグラドストン演説の当否、またアヘン常習者とは誰だったか、さらに中国からの銀流出の原因はアヘン輸入だったかをめぐる議論の中で紹介されている日本のアヘン製造と対中国密輸問題をここでは取りあげる。つまり焦点をアヘン戦争から日本のアヘン政策に移した授業構想である。

 日清戦争後、日本は「アヘンを漸進的に減らしていくという方針のもとでアヘン専売制度を台湾にしきました。これは莫大な利益をうみ、日本国内にも和歌山県や大阪府などを中心に稲作の裏作としてケシの花を栽培する農家が増えていきます。1920年代になると日本は中国におけるアヘン密輸の担い手になっていく・・。ケシ栽培のさかんであった時代の和歌山の小学校には、阿片汁の採取の時期に家業を手伝うための「ケシ休み」がありました。」という事実を小川さんは紹介し、参考文献として倉橋正直『日本の阿片戦略 隠された国家犯罪』をあげている。著者の倉橋さんは愛知県立大学に務めていた時、大学の屋上に許可をとりケシの栽培をやってしまうほどこの問題を深く研究していた。

 小川さんの授業を離れ、倉橋本から得た知見を紹介し、授業の論点を挙げる。

 

 第2次アヘン戦争(1856-60)途中58年に結ばれた天津条約の税則により(一箱あたり30テール)、アヘン輸入は合法化され、イギリスはインド産アヘンを中国に輸出し続けた。これに対抗し中国国内でもケシが栽培され、アヘンは作られるようになり、清朝はそれへの課税によって収入を得ていた。しかしアヘン吸引の害毒は広まり大きな社会問題になって20世紀を迎えた。清末の光緒新政1901-11の一環として清朝は1906年に禁煙政策を打ち出した。国内のケシ栽培を一年で一割ずつ減らす計画を立てるとともに、イギリスと交渉し、インド産アヘンの輸入漸減を認めさせた(1911年英清阿片協定)。これにより1917年にはインド産アヘンの輸出が停止されることになった。中国内のケシ栽培は辛亥革命後の混乱と軍閥割拠時代には復活するが、熱河省や吉林省東部などに限られていた。 

 他方、近代日本がアヘン問題と接触するのは日清戦争の結果得た植民地台湾においてである。台湾のアヘン中毒患者に治療のため徐々に吸引量を減らす政策をとった政府は、トルコやインド、ペルシャ等からアヘンを輸入し、これを専売制のもとに販売し多額の利益を得ていた。しかし、これを外貨流出問題ととらえた大阪の篤農二反長音蔵はアヘン栽培を試みついに成功した。これがアヘンを統括する内務省に認められ、彼は国内栽培の普及に努め、台湾患者のためにアヘンを国産化した。この生産地は大阪、岡山、和歌山県であるが、1930年以降は和歌山がトップを占め続ける。このアヘンから抽出されるモルヒネは輸入に頼っていたが第一次世界大戦でそれが途絶したので国産化を図り、それに成功したのは星製薬であった。これにより莫大な利益をえることになる同社は政争がらみの事件を機に倒産してしまう。星新一『人民は弱し官吏は強し』(文芸春秋社、1967年 改版 新潮文庫、2006年)がこの顛末を記録している。その後も内務省が許可していた他の三社がモルヒネの生産を続けた。

 アヘンは吸引に手間と多少の労力を要するが、モルヒネは安価で手軽に注射できるので中国では次第に流行し、20世紀初頭にはその害毒が大きな社会問題となっていった。モルヒネは医療用品(鎮痛剤・麻酔剤)でもあり、第1次世界大戦時、各国が大量に生産したが、大戦の終了とともにダブついたため、消費地として辛亥革命後の混乱する中国が注目され密輸されていった。これが問題をさらに悪化させていた。

 これと別の文脈でアメリカ主導の下、国際的にアヘン、モルヒネを禁止しようという動きがおきている。禁酒法(1920年)に向かうような雰囲気のアメリカはアヘンなどの麻薬にはさらに嫌悪感が強かった。そこで1909年2月、上海アヘン会議が開催され、強制力のない勧告を決めた。アメリカは人道的な見地から徹底的禁止を打ち出すが、イギリスは勧告的なものを求めた。その後1912年ハーグ阿片条約、1913年、1914年6月に同様の会議をもったが、第1次大戦が始まってしまう。戦後のヴェルサイユ講和会議ではアメリカの主張により講和条約を調印・批准すればその国は前記のハーグ阿片条約を批准した効果を持つとされた。その後国際連盟はアヘン禁止問題を引き継ぎ、25年にジュネーブ第一、第二アヘン条約、31年には「麻薬の製造の制限および分配取締に関する条約」を成立させ、日本はこれらの条約を調印・批准した。

 他方、生産体制を整えた日本は20年代に入り、アヘン・モルヒネ密輸の主役となって中国に進出していく。倉橋本の紹介する『福音新報』(1919年1月1日)からの引用によれば、中国では日本からの郵便小包を検査することができないので、小包で輸入する方法と『軍需品』と銘打ってチンタオから入れる方法があった。中国税関は日本人の管理下に日本人により物品が取り扱われていて、日本政府の許可証があればそのまま税関を通過した。その結果、日本の売薬店でアヘンを売っていない所はないという状態になり、中国の巡査に取り押さえられても日本の憲兵がその商人を救い出したという。

 アヘン・モルヒネ類の生産・配布などの仕事は、国内では、内務省(1938年以降は厚生省)が担当し、外地では、台湾総督府や朝鮮総督府がアヘン政策にかかわった。後には、興亜院や大東亜省、軍部もこの問題に深く関わった。こうした状況は敗戦まで続くが、国際世論をはばかりアヘン関係の資料は意図的、組織的に隠蔽された。従来、国際連盟に提出するため内地だけでなく植民地まで含んだアヘン関係の包括的な統計が、内務省によって作成されていたが、1928年を最後に刊行されていない。

 1937年日本が中国に全面的な侵略戦争を開始すると、アヘン・モルヒネ類の需要はさらに増え、和歌山県に作付けを強制するなど増産に努めた。こうしてアヘン・モルヒネ類の莫大な密輸利益は日本の植民地支配と軍事侵攻を支えた財政的基礎となり、1945年の敗戦を迎えた。

 

 戦後、東京裁判で多少問題にされたが(二反長音蔵も占領軍の尋問を受けるも放免)、関係省庁の解体からアヘン政策の解明はなされないままであった。日本側が徹底した証拠隠滅を行ったこと、日本側のアヘン政策の被害者であった中国・朝鮮は東京裁判の中枢からは排除されていたことなどが裁判でこの問題が取りあげられなかった理由と推察される。こうして日本のアヘン政策は「免罪」された。戦後編纂された内務省史に2ページの記述はあるが、厚生省二十年史 厚生省五十年史もアヘン政策をまともに扱ってない。

 要するに戦前の日本政府は、アヘン取締の国際条約に調印しながら、秘密裏にアヘン栽培、生産、モルヒネ類を製造し(許可された製薬会社は星製薬、大日本製薬、三共製薬、武田薬品工業、ただし星製薬は倒産)、中国人や朝鮮人の中毒患者を大量に作りつつ、莫大な資金を得ていたが、戦後はそれをひた隠し続け現在に至っている。ただし町史レベルではケシ栽培の実態は記録されている。

 授業の論点。19世紀前半当時、清の禁制品アヘンを密輸したイギリスとアヘンを禁じた国際条約に調印しながら中国や植民地にアヘンを密輸し続けた日本を比較する。またこうした政策に協力してしまった和歌山の農民をどう考えるか。また都合の悪い公文書、私文書を隠滅、秘匿し続けることの意味。佐渡金山の世界遺産を図るも、韓国から朝鮮人労働者の強制労動の事実を明らかにせよとの抗議を受けている。当事者の三菱マテリアルは新潟県史に提供した徴用工の名簿の再公表を拒み続けている(田玉恵美「多事奏論 佐渡金山の朝鮮人名簿 41年前の「目撃者」の記憶」『朝日新聞』4月27日24年)。日本の黒歴史に向き合う勇気を欠くこうしたなんとも情けない状況を、モリカケ問題をもネタに授業を展開したいと考えている。
 

参考文献 
倉橋正直『日本の阿片戦略』共栄書房、1996年
同『日本の阿片王 二反長音蔵とその時代』共栄書房、2002年
ニ反長半『戦争と日本阿片史』すばる書房、1977年 これは子息による父の伝記。
『続・現代史資料12 阿片問題』みすず書房、1986年
佐藤弘編『大東亜の特殊資源』大東亜出版株式会社、1943年 このうちアヘンに関する部分が『続・現代史資料12』に収録。

国内とは別に日中戦争時、内蒙古の傀儡政権における日本のアヘン生産と販売を明らかにした研究が、江口圭一『日中アヘン戦争』(岩波新書、1988年)であり、この本を読み、当時の関係者が名乗りでて、証言をした記録が江口圭一編『証言 日中アヘン戦争』(岩波ブックレット、1991年)である。

お知らせカテゴリの最新記事