極右台頭とガザ虐殺が二分するもの : 西欧民主主義はどこにいくのか?

極右台頭とガザ虐殺が二分するもの : 西欧民主主義はどこにいくのか?

コリン・コバヤシ

選挙後のフランス社会の地殻変動的危機

 移民や外国人の姿を見かけることも少ないフランスの片田舎でも、排他主義的な極右を支持する人々の数が増えている。なぜなのだろうか? ヨーロッパは、地中海を挟んで、移民の流動的な流れが加速しているという背景はあるが、移民を見かけない地域まで、排他的な気分が熟成されてしまうのは何故なのか。またパレスチナ・ガザ戦争で、国論がこれほどまでに二分されるのは何故なのか。

 5年に一度の欧州議会選挙(比例代表制、定数720議席 EU加盟国27国)が6月6−9日に行われた。投票率は51.08%で、前回より僅かに上回った。親EUの保守系3会派が多数を占め、極右も票を伸ばした。フランスにおける結果は、フランス大統領のマクロン派にとって、大きな衝撃だった。しかし全く予期されていなかったわけではないだろう。というのも、極右の台頭は前から予測されていたし、マクロンの人気とマクロン派の政策に対する評価は年々低下しており、このままいけば政権がもたないのではないかと危ぶまれてもいたからだ。開票結果は、与党の倍の投票率を得た極右政党『国民連合』RNの大躍進である。

 気候変動の現象も拍車をかけているのか、南側からの移民の波が年々多くなり、とりわけアフリカから移民しようとする人々が老朽化した船に乗り込み、地中海で難破して多くの命が失われていることは周知の通りである。フランスでは、アフリカ、中東からの移民たちが欧州を覆い尽くしてしまい、白人に取って代わるという被害妄想に近い人種差別的な『偉大なる代替わり』*を主張するもう一つの極右政党『ルコンケット』(再征服)や、1972年以来の極右政党『国民戦線』FNがイメージ・チェンジを図り、庶民層にも浸透してきている。この極右政党は、反ユダヤ主義や排外主義を舞台裏に隠して、あたかも普通の政党のように活動しているからだ。

 それに加えて、マクロンは、あたかも専制政治を敷いているかのように振る舞い、選挙から二ヶ月過ぎようというのに、新政府の首班を任命しないカオス的状況を出現させている。

 こうした欧州選挙から今日に至るまでのフランス社会の混乱ぶりを複数の視点から報告しておきたい。

欧州選挙から解散・下院選挙まで

 欧州ではここ10年ほど前から極右台頭の機運が徐々に押し寄せていた。欧州選挙においては、すでに極右政権が誕生しているイタリアでは、ジョルジア・メローニ首相の『イタリアの同胞』が24議席を獲得して首位を保ち、オーストリアでも、ネオ・ナチとして創設された自由党が6議席、ハンガリーでも極右政権政党が10議席を獲得。ドイツで『ドイツのための選択肢』が15議席、オランダでは反イスラムを掲げ、レイシズムを臆面なく掲げるヘルト・ウィルダース率いる自由党が7議席、スペインでは9議席、ベルギー6議席、その他ルーマニア、ブルガリアなども議席を伸ばしている。しかし、保守・リベラル陣営などの連合が予想されるため、いますぐEUにおける政策が極度に右傾化する可能性は低いと言えるが、ウクライナ戦争、ガザ戦争の最中での欧州全体のこの現象は、大きな不安材料と言っていい。

 影響の大きかったのはフランスである。フランスにおける結果は明瞭な極右台頭であり、与党マクロン派の衰退だった。2019年の前回の選挙の結果23.34%に比べ、極右政党RN(国民連合)が31.37%に上昇し、マクロン政権の与党はその半分以下、14.60%だった。弱冠28歳のジョルダン・バルデラ党首が率いるRNが30議席を獲得し、与党13議席、社会党13議席で、大きな差をつけた。エリック・ゼムール党首のもう一つの極右政党『再征服』5議席を加えると、フランスに割り当てられた81議席中、35議席を獲得して大勝利を告げた。 

 この欧州議会選挙の結果を予期していたかどうか、マクロン大統領は、即、解散選挙という賭けに出た。マクロンは、「左右の両極端に走らず、中道で多様な層を最も包摂できるのが私たちだ」という主張によって、結局は勝利すると考えていたようだが、現実的には、彼の言うその両極端(極右と極左という分け方自体が妥当か検討を要する)が一番のし上がってきたのだ。この解散戦術は、政権の安定がこのままでは保てないという陣営内の認識から既に計算済みの、政権運営のための権謀術数だったかもしれないが、マクロンにとって、この賭けの代償は大きかった。

 左派は、早急に連合体『新人民戦線』NFPを呼びかけ、その結束を果たした。1936年当時、ドイツやイタリヤで台頭したファシズムに対抗するために、急進党を中心に左派の『人民戦線』が呼びかけられて選挙に勝利し、社会党のレオン・ブルム内閣が成立した歴史的前例がある。それを模範にして呼びかけられたものだ。

 今回の解散による国民議会選挙(下院に相当。小選挙区制、定数577議席、海外領土から27議席、在外フランス人から11議席)の結果は、与党にとって惨憺たるものだった。6月30日の第一回選挙の投票率は66.63%、RNの得票率が29%、NFPが28%で続き、与党連合が20%強であった。RNへの投票率は欧州選挙でもフランス下院の選挙においても差はほとんどない。政権奪取の入り口まで来ている極右政党に、政治を任せるわけにはいかないという危機感が、左派と伝統的保守系にはあった。決選投票に向けて共和戦線が呼びかけられ、RNの候補者を封じるために、候補者を一本化するという戦術が採られた。

 7月7日の決選投票(投票率66.71%)の結果は、この戦術が功を奏し、RNは143議席で第三位に落ち込んだ。どの党派も絶対多数は取れなかったが、一位は、NFPが最大勢力となり、182議席、二位が与党連合で168議席で一位に迫ったが、これは左派が候補を取り下げた効果が現れたためだ。従来の保守党、共和党LRは46議席だった。女性議員は全体の36%となっている。

下院解散選挙後のカオス的状況とマクロンの専制政治

 しかし、急きょ決定した解散選挙で、混乱している左派は動けない、極右に対する拒否反応をフランス国民は持っている、とすると中道派の我々が勝てる、と踏んでいたマクロン大統領は、これほどまでに素早く左派が結束し、<新人民戦線>を構築できるとは予測していなかったに違いない。だが、選挙結果を見る限り、与党の敗北は明らかで、国民の多数は、政治の転換を望んでいる結果だった。

 だが、極右の台頭は否定しようがなく、大都市圏は左派が健闘しているものの、地方では極右が伸びている。全国におけるばらつきはあるものの、多くの地方で、30%を超える得票を得たことは、今後の政治風景に暗雲をもたらしている。

 決選投票の後で、マクロン大統領は、敗北を認めない路線をとった。どの政党も絶対多数を取った政党はないのだから、勝ち組はない、という態度で、時間稼ぎを図り、案の定、パリ・オリンピックを大いに活用して、五輪の開催中は、<政治的休戦>を宣言した。

 NFPは首相候補の指名が手間取り、土壇場まで揉めたが、最終的に、パリ市の財政局長であり、上級公務員のリュシー・カステを首相候補にすることを全会一致で合意し、カステを中心とする組閣の準備を始めた。しかし、マクロンはすでに7月23日に、頭ごなしにカステの任命を否定していたのである。彼は、通常2週間以内に、新政府首班を指名し成立させるという慣例を無視して、五輪のセレモニーや競技の観戦などに時間を費やした。しかし、次第に左派の勝利を認めざるを得なくなり、リュシー・カステにも会う準備があると表明した。8月23日になってやっと、大統領は政党の代表者たちと面談し、最大勢力の左派NFPから面談を始めた。左派の代表団の中にはリュシー・カステも含まれた。その会談で、マクロンは与党の敗北を認めたものの、カステを首相に指名することはせず、NFP連合左派に対してあたかも誠実に振る舞って好印象を与える演出をした。その後、与党連合、保守党と会談が続き、27日には首相が指名されるはずだった。

 それにしても、ほぼ二ヶ月近く新政府を成立させない状態で、辞職済みの前政府が、新政府が成立するまでの日常業務をこなすという口実のもとに、実は来年度の予算準備をしたり、臨時教員500名以上のポストを廃止したりなどと、さまざまな政策を無言のうちに進めようとしている。また教育改革が置き去りにされていて、9月から新学期が始まるというのに、担当大臣が指名されていないという混乱ぶりである。

 だが、こうしてマクロンは時間稼ぎの名目作りの名人になっているが、『不服従のフランス』LFIは、もしNFPが推挙する首相候補が指名されない場合は、大統領の罷免手続きを始めると脅かした。それにもかかわらず、8月26日の夕、大統領府は、<制度的安定を保つために>、NFPの提案する首相候補ルシー・カステを指名しないと発表したのである。LFIは大統領罷免手続きにすぐ入ると表明した。この手続きが最後まで完成しなくとも、少なくとも、反対表示の圧力として有効であると言うのがLFIの立場だ。仏共産党は、全国の支部に動員をかけるように要請した。LFIは、9月7日土曜に、全国で抗議デモをするよう訴えた。また大臣職を持つ議員が、行政と議会の両方を掛け持っているはおかしいと、LFIの議員団は憲法評議会に訴えを起こした。

 マクロンは依然として8月26日から第二ラウンドの面談協議を再開し、保守系の政治家たちや少数派の社会党議員との相談を繰り返している。左派のマイノリティにコンタクトを取って、分断を図り、与党と新たなマジョリティーを形成させ、行政的手腕のある人物を首相に指名するのではないかという憶測が広がっている。それでマクロンの政治姿勢は、19世紀後半に大統領を務めたマック・マオン元帥**に例えられている。

 無政府状態を長引かせているマクロンに対する批判と怒りは、左派支援の市民層の中で大きく膨らんでいる。そのような中で、新政府成立を急ぐのではなく、セルビアを訪問して12機の戦闘機<ラファル>の売買契約にサインしているのだ。フランスは国家元首が武器商人の役割を積極的に果たしている。現状では、オランド前政権時に、内務大臣、大蔵大臣、首相などを歴任した社会党右派のベルナール・カズヌーヴ(現在、社会党を離党)が有力視されているが、NFPは否定的だ。いずれにせよ、左派の政府樹立を拒否しているマクロンは、秋から激しい反政府運動の矢先に直面せざるを得ないだろう。

極右台頭の原因は何か?

 かつての極右政党『国民戦線』(FN)は、1981年に党首であったジャン=マリ・ルペンが地方選挙で当選して以来、ゆっくりと台頭し始めてきた。ジャン=マリ・ルペンは、そもそもWAFFEN SSの旧メンバーであり、インドネシア、アルジェリア戦争を戦った植民地主義者であり、アルジェリア人に対する差別、また反ユダヤ主義も抱えていた過去を持つ政治家であった。その後、娘のマリーヌが後継者となり、父親を破門して、2018年から『国民連合』と名を改めてまたかも普通の保守政党のように喧伝し、管理職、中間層・庶民層にも浸透してきている。

 その背景には、不況と失業問題があり、移民たちが自分の職場を奪うという不安と危惧があった。過去を振り返ってみると、ミッテラン政権以降、左でも右でも満足のいく政治が行われず不満を抱えている庶民層では、まだ政権を担当させたことのないRNに一度はさせてみたら良い、と軽く考えている向きもある。また、あたかもルイ朝の国王やナポレオン気取りで、強引な強権を発し続けるマクロンに対する嫌悪と拒否反応が高まっていることも原因の一つだ。

 左派はと言えば、オランド政権時代に労働法改悪をやり、政府への異議申し立てデモは厳しい官憲の弾圧にさらされ、最低賃金が上がらず、不況が続いたこと、マクロンを導入し、社会党の崩壊の原因を作ったのはまさにオランドだ。それが左翼に対する強い反発の原因の一つとなっている。つまり民衆から見れば、右にやらせても左にやらせても結果は同じ、という印象を与えてしまったことが社会党の衰退につながったのは否定すべくもない。その結果、極右に投じる人々が増えたことも事実だろう。

 さらに、2015年のパリの『シャルリー・エブド』社やバタクラン劇場などへのイスラム原理主義者たちによるテロ事件は、その後のイスラム嫌悪症を拡散させる契機となった。それで、庶民がイスラム教徒への差別主義を蔓延させているRNなどを支持する動機にもなっている。

 他方、極右が台頭するたびに、レッテルを貼られるのが移民であり、移民が自分の仕事を奪う、社会秩序を乱す、などの汚名を着せられているのだ。犯罪を犯すのは移民であり、経済不況も移民のせいにしようとする。こうしたデマを煽り、民衆に不安と恐怖感を植え付け、票を得ようとするのが極右政党だ。そのような極右の傾向を政治的糧として活動してきたのがサルコジ政権であり、マクロン政権もそのラインを継承している。

 しかし、社会学者ヴァンサン・ティベリジの調査によると、フランス人の移民や外国人に対するフランス人の寛容度はむしろ増しているという報告は、一見矛盾する。困難なのは、それが政治的表明を伴う時、結果的にフランス市民が極右化してしまったという外観を見せることになる。

パレスチナ・ガザ戦争による激しいインパクト

 LFI(不服従のフランス)は、ガザにおける大量虐殺を即停戦に持ち込むためのスローガンを欧州選挙では前面に押し出し、国際法の法律家でシリア・パレスチナ難民キャンプ出身の若いリマ・ハッサンを候補者の一人にして、選挙戦を戦った。また総選挙でもガザ問題を重要なキー・ポイントとして取り上げ、新政府に委任された場合、パレスチナ国家の早急な承認をプロジェクトにしている。しかし、マクロン・与党連合は米国と同じ歩調をとり、『対テロ戦争』、イスラエルの『自己防衛』の権利を、虐殺が進行している今も主張しているが、世界市民、そしてフランス国内でも市民たちのパレスチナ支援の大きな波の圧力と、マクロン外交への批判によって、少しずつ修正を余儀なくされている。しかしフランス政界の保守や社会党には強いユダヤ・ロビーがあり、ユダヤ系出身の政治家は、ほとんど反省することもなく、あたかも10月7日のハマースや抵抗勢力による奇襲作戦によって現在の戦争が起こったかのような論調を張っている。それはまさに米国やイスラエルが主張する『対テロ戦争』に回収されていくものである。このような論理こそ、ガザのジェノサイドを許している。多くのデモで叫ばれているスローガンのように、ガザで殺しているのは、ガザ住民のみならず、普遍的な民主主義を抹殺し、人類そのものを抹殺することに他ならない。さらにユダヤ・ロビーは、ユダヤ人が17世紀以降、歴史的に体験してきたポグロム(ユダヤ人に対する破壊と襲撃)の系譜に、10・7の奇襲を位置付けようとし、反ユダヤ主義による攻撃と断定しているのだ。パレスチナの歴史的文脈から見れば、驚くような歴史認識の入れ替えが行われていることになる。そしてそのことを強く主張するメランションはじめ、LFIのメンバーは反ユダヤ主義者で危険、放置できないと与党・保守派は非難し、しつこく繰り返している。

こうして、パレスチナーイスラエル問題がフランスの政情を大きく二分しているのだ。

 そもそも、マクロン派は、中道の道を行く、と主張しながらむしろ極右の政策に近い方針を打ち出している。正統的な共和主義的社会主義を標榜する左派よりは極右の方が政権運営に便利だからだ。NFP、とりわけLFIのバッシングに精を出している。つまりネオ・リベラルな方向性で、銀行を経営するのと同じように国の運営をしようとしているのがマクロンである。そしてマクロンに同調する大企業は、左派の政治批判が我慢ならないのだ。NFPは大富裕者への課税を計画しているからだ。

億万長者によるメディアの支配

 その中でヴァンサン・ボロレのような億万長者の起業家は、まったく極右思想の持ち主で、自分が筆頭株主になっているTVカナル+・グループのメディア、とりわけCNewsを縦横に使って極右思想を垂れ流しているのが現状である。イーロン・マスクがトランプに肩入れしようとしているのと瓜二つだ。他にもBFMTVやLCIのように体制同調型のTVメディアにとっては、左派こそが敵であり、左派の分断を図り、マクロンや財界に有利な論調作りをするために、ジャーナリストたちもLFI批判に精を出しているのである。

 今日では、ルモンド紙もリベラシオン紙も、こうした億万長者の企業家が大株主となり、情報を牛耳っている。ルモンドは、ネットサイトやポルノで大儲けしているグザヴィエ・ニエル、ハッフィントン・ポストのオーナーであるマチュー・ピガスが筆頭株主である。リベはパトリック・ドライの所有するアルティス・メディアがオーナーでBFMTVの主要株主だ。いうまでもなく彼らは左派と対立する。

 ルモンド紙は8月30日付の新聞の第一面に、世論調査会社Ipsosの専務取締役ブリース・タンチュリエを登場させ、自社の世論調査の分析から、それがあたかも客観的事実であるかのように、LFIやメランションが世間の好感度を著しく失っていると主張して憚らない。しかし、世論調査というのは質問の仕方や主題を変えることによって変化し、社会学的には信頼度は低いということを、以前に社会学者ピエール・ブルデューが明言していることを思えば、これは極めて政治的な匂いがするのである。ここで明らかなのは、メデイアを中心に左派バッシングが鮮烈を極めているということだろう。

ガザ問題は西欧民主主義の根源を問う

 パレスチナ・ガザでのハマースはじめとする抵抗勢力の奇襲(それは眠っていた世界の目をパレスチナに向けさせた)、それに対するイスラエルの度を越した反撃とそれに続く大量虐殺は、世界の世論を大きく二つに分断した。今までほとんどパレスチナ人の人権が無視されてきた1948年のナクバから、67年の中東戦争以後、イスラエルの軍事占領と植民地化、民族浄化について、これまでの米国および同盟国が『イスラエルの自己防衛の権利』だとする主張は、もはや世界で通用しなくなっている。国連の国際法専門家によれば、軍事占領を行っている国が、国際法上、自己防衛を主張することはできないと明言している。

 イスラエルの残虐な攻撃とガザ全体の計り知れない破壊のフリー・ハンドを容認しているのは米国であり、G7に参加する欧州主要国(英国、フランス、ドイツ、イタリア。日本も加担)である。彼らはパレスチナに対する過去の自分達の植民地主義による歴史的責任***を隠蔽し、自らのネオリベラリズムと世界覇権を保証するためにイスラエルを全面的に擁護しているのであり、人類の未来の安定とそのための倫理的規範を示そうとするものではまったくない。米国やその同盟国は、彼ら自身が擁護してきた普遍的民主主義の根幹を自らの手で根本から破壊しているのである。そのことは、世界で数万から百万人規模のデモが各地で毎日のように行われているのを見れば分かることで、南側、グローバル・サウスの視点から見れば、あまりにも明らかだ。

 これらの欧米諸国によらない、未来の新しい普遍的な民主主義をどのようにこれから構築するのかが、今、問われているのだ。なぜならガザやヨルダン川西岸地区で現在進行形のジェノサイドという野蛮が世界の衆目の前で進行しているのを誰一人として止められないからであり、人間の尊厳は藻屑のように消え去っているからである。

 最後にドイツの哲学者ハンナ・アーレントが語った言葉、「人間の共感の死は、野蛮に瀕した文化の最初の、そして最も明白な兆候のひとつである」を引用して、この報告を閉じよう。

*Grand remplacement『偉大なる代替わり』

2018年にフランスの作家ルノー・カミュが極右の陰謀論に基づいた理論を導入したのが始まり。レイシズムと外国人嫌悪が梃子になり、実際の人口動勢調査よりも印象に基づいて、ヨーロッパやフランス人が、マグレブや中央アフリカの黒人に取って代わられる過程にあるというもの。この理論のルーツは、1870年ー1940年の第三共和政時代の反ユダヤ主義や戦前のナショナリズムにあると言われる。

**マック・マオン元帥 Patrice de Mac Mahon (1808-1893) :

クリミア戦争のマラコフでの戦いで功績を立て、アルジェリアを征服して植民地にしたアイルランド系軍人として有名。王党派と共和派に議会は分裂していたが、王党派によって大統領に選出され、王政復古を画策したが、結局、左派政権を認めざるを得ず、最後には7年の任期終了を待たず、自らが辞職した。

***歴史的責任

1915年 : フサイン=マクマホン協定

イギリスが、オスマン帝国下にあったアラブ地域の独立とアラブ人のパレスチナでの居住を認定。

メッカの太守フサイン・イブン・アリとイギリスの駐エジプト高等弁務官ヘンリー・マクマホンとの間で交わされた書簡の中で、イギリスはアラブ人のパレスチナにおける居住を認めた。

1916年 : サイクスーピコ協定

第一次大戦中に、イギリス、フランス、ロシア帝国の間で、オスマン帝国量の分割を約束した秘密協定で、イギリスの中東専門家マーク・サイクスとフランスの外交官フランソワ・ジョルジュ・ピコが協定の原案を作成したので、この名がついた。

1917年 : バルフォア宣言

イギリスの外務大臣、アーサー・バルフォアが同国のロスチャイルド貴族議員に送った書簡の中で、イギリスのシオニズムの支持表明。パレスチナにおけるユダヤ人の移住地(ナショナルホーム)の建設に賛意を表明し、その支援を約束した。

これらの約束事は、イギリスの三枚舌外交を表し、また植民地主義的な態度から、一方的に、パレスチナの分割、そしてイスラエルの建国を認知したものであり、1947年に国連のパレスチナ分割案が出たが、現地に住むパレスチナ人より、入植してくるユダヤ人のほうに有利な分割案だったので、パレスチナ人は拒否、イスラエルは一方的に建国宣言をして戦争状態となった。これが1948年のナクバ(大惨事)につながる。ナクバとは、ユダヤ人民兵やテロ準軍事組織(ハガナー、イルグンなど)によって、イスラエル建国後は、イスラエル国防軍によって当時のパレスチナ人の3分の2が故郷の村や町を追われ、500以上の村が破壊ないし放棄され、離散し難民となった。その数約75万人と言われる。ガザの住民の大多数が難民となった世代とその子供たちの世代。

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