ナガサワ先生の高校白書41 歴史総合を実践する。

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「独立」とはどういうことかを考える授業

フランスやスペインの支援もあって、アメリカは独立戦争に勝利した。戦争中の独立宣言は1776年で、独立が国際的に承認されたパリ条約は83年だった。他方のハイチ(仏領サンドマング)の独立は複雑な経過をたどった。1791年8月22日の奴隷が一斉蜂起したことがことの発端である。白人を殺し、砂糖やコーヒーのプランテーション破壊しながら北部州17万の内5万人が蜂起に参加したと推定される。革命中のフランスでは1789年7月4日に選挙権、被選挙権を白人に限定しサンドマングに6議席を付与していた。当時カリブ海の真珠と謳われたこの植民地は砂糖とコーヒーで大いに繁栄し、それを反映した議席配分である。その後、自由有色人に選挙権を認めるかどうかの議論はあったが、それは植民地に任せることにし、91年9月3日の憲法も植民地には効力は及ばないとした。そこにサンドマング奴隷蜂起のニュースが飛び込んだ。これを有色自由人が不平等な対応に怒り奴隷と組んで反乱をおこしたと見たブリッソは有色自由人の法的平等を認めた法令を提案し、立法議会は92年4月4日にそれを可決した。

 初期にフランス革命政府は奴隷反乱に冷淡であったが、イギリス、スペイン等との戦争が植民地に影響が及ぶと本国では奴隷を解放して兵とし、サンドマングをイギリス、スペインから守ろうとする動きがおきた。他方、サンドマングでは解放奴隷でプランテーションの所有者、啓蒙主義的教養を持つトゥサン・ルヴェルチュールが蜂起軍のリーダーとなって活躍する。最初、蜂起軍は奴隷解放を支持するかに見えたスペイン軍に加わり、サンドマングの白人と闘うが、本国議会が奴隷解放を認めた後は、兵となった黒人のみを解放するスペインの方針を見て、フランス軍に復帰する。こうした状況下1794年2月4日に国民公会は植民地奴隷制廃止を宣言したのだ。蜂起は一旦成功したが、独立は目指していなかったので黒人支配の仏領サンドマングとなった。

 この廃止宣言は1802年にナポレオンによって反古にされ、奴隷制は復活した。彼は砂糖植民地を復活させようとしたのだ。またこれはトゥサンが1801年にサンドマング憲法を制定し、自身に絶大な権力を付与したことにナポレオンが怒ったためでもある。トゥサンの憲法はサンドマングをフランスの不可分の植民地とはしているが、事実上独立国と言える内容である。結局、ナポレオンは大軍を送り、トゥサンを逮捕し、フランスに連行するが、黒人とムラートの団結した軍に遠征フランス軍は敗れ、1804年、ハイチとして独立した。その後、黒人支配層はプランテーションの復活と農奴制のような仕組みで砂糖やコーヒー生産の復活を図り、ある程度成功していくが、しだいに砂糖生産は衰退していった。プランテーションに戻らなかった黒人は自給的農業を展開し、米、豆、トウモロコシ、粟、バナナ、ポテト、マニオクなどを生産した。この結果、約40万だった人口は1904年には250万人になった。

 自由黒人が難民となって押し寄せたアメリカ合衆国では、ハイチ革命は、奴隷制擁護の白人にとっては、白人に復讐した黒人の残虐性が強調され、悪夢としてのハイチ像が造られ、逆に黒人にとっては解放の夢を与える国となった。ハイチはこのアメリカに独立の承認を求めたが、アメリカは拒否、ないし無視し続けた。(この時、要求を無視したのは国務長官のジョン・クインシー・アダムスだった。彼はその後大統領になり、引退した後に起きたアミスタッド号事件の裁判では黒人解放に貢献した。)交易と軍事的な友好関係(独立戦争時には有色自由人約700名がサンドマング志願猟兵隊として動員、米英戦争時にも150名の兵を送った。)は維持されたが。フランスとは1814年から24年にかけて独立承認の交渉が行われたが、うまくいかず、結局フランスの軍事的威嚇を背景に1825年、1億5千万フランの「賠償金」を払うことで決着した。この途方もない金額が後のハイチを縛り、経済発展を阻害することになった。

他方、ラテンアメリカ諸国は本国スペインやポルトガルがナポレオンに占領された混乱をついて1810~20年代にかけてブラジルを除いて、独立に成功した。独立運動のリーダーの一人、シモン・ボリバルは独立運動の資金を最初イギリスに求めたが、うまくいかず、次にハイチにそれを求めた。ハイチは奴隷解放を条件にさまざまな援助を行った。しかし、その後、ボリバルは態度を変え、自軍の黒人やムラートの軍人を処刑し、ハイチに対する独立の承認も行わなかった。フランスとの不首尾の交渉中の1824年、ハイチはグラン・コロンビア(ベネズエラ、コロンビア、エクアドル)に軍事・通商条約の締結を打診したが、断られた。結局、ラテンアメリカで最初にハイチを承認したのはブラジルで、それも1865年のことだった。

アメリカ合衆国やラテン・アメリカ諸国の独立が認められ、ハイチの独立はヨーロッパ諸国や他の南北アメリカ諸国が認めなった理由は何か。それはハイチが奴隷制を廃止し、黒人国家だったからである。1804当時、南北アメリカには黒人奴隷制が存在し、独立運動のリーダーはクレオール(現地生まれの白人)だった。こうした諸国にとって、ハイチの存在は奴隷反乱を誘発する危険な存在とみられていた。アメリカはリンカン大統領時、南北戦争中にハイチを承認するが(1862年)、これは黒人との共存を望まないリンカンが自由黒人をリベリアに移民しようとするがうまくいかなかったため、近場のハイチに移送しようと計画したためであった。経済構造としての黒人奴隷制は、その維持の合理化のため黒人を劣った人種とみなした。つまり人種は政治経済的な構築物である。こうした差別を構造化しているヨーロッパ中心主義の国際秩序は当然ハイチの独立を認めなかったのである。

ある国の独立を周囲の国が承認する場合、国際秩序を牛耳る周辺諸国の意向にそった国家体制であるかどうかが問題になる。日本は戦後、サンフランシスコ条約で独立を承認された。これはポツダム宣言にならい民主化、非軍事化がなされ、東京裁判の結果を受け入れ、日米安保条約を結ぶという条件を日本が飲んだからである。国連総会(5月10日)で143票を集め決議されたパレスチナの国連加盟が実現できないのはイスラエルーアメリカが認めないからである。イスラエルはパレスチナ全土を支配しようとし、アメリカはそれを暗に支持している。他方、アジア、アフリカ、ラテンアメリカ諸国の多くはパレスチナを支持している。イスラエルを支持する国の民衆層の間ではパレスチナを支持する運動がしだいに広がりつつあることは未来への希望である。

 授業は、これらの様々な独立をめぐる事例を提示して、生徒自身の考えをまとめていくことになるだろう。

参考文献
浜忠雄『ハイチ革命の世界史』岩波新書、2023年
スティーブン・スピルバーグ監督 映画『アミスタッド』1997年
カレン・ザイナート 黒木三世訳『アミスタッド号の反乱』瑞雲舎、1998年。この本の解説に映画と史実との違いが説明されている。

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