夏休みなどに人物を調べる課題を出すと、外務省の指示に逆らい、日本通過ヴィザを発行し、ナチス・ドイツからユダヤ難民らを救った外交官杉原千畝(カウナスで領事代理:1939年8月28日から40年9月4日カウナスを発ちベルリンへむかうまで)を調べてくる生徒がクラスに数名はいる。今年、使用している教科書にも千畝の事績は載っている。ところが先日、書店でふと『「命のヴィザ」言説の虚構』(共和国、2021年)というフランス・ユダヤ人史などを専門にする研究者菅野賢治氏の著作をみかけ気になった。そこでこうした課題にコメントを付す必要から、この分厚い本を読んでみた。以下なるほどと納得したこの言説にかかわる内容を紹介する。
現地リトアニアのカウナスとの電文記録には、千畝から外務省にヴィザ発給の許可を求めた形跡はなく、外務省からも通過ヴィザ発行をやめるよう指示したものもない。ただ発行の条件として、日本通過後の最終目的地のヴィザを所持していること、日本滞在費用として250円の所持を確認することを打電している(8月16日)だけであった。千畝は7月末、この条件を厳密には満たさないポーランドを脱出したユダヤ難民にも通過ヴィザを発給していたので、これをただす訓電である。
7月28日の杉原電文には、リトアニアに進駐したソ連赤軍が白系ロシア人官僚、政治家、軍人、ユダヤ人政治団体幹部、ポーランド人の政治家を逮捕しモスクワに送ったという報告、これに危機を感じた者が、農村に潜ったり、ドイツ領に脱走している状況、(ドイツ支配下のポーランドから難民となって逃れたユダヤ人はドイツ領には戻れないので)日本経由で渡米すべく通過ヴィザを求めるのもが連日百名内外いることを報告している。つまりこの電文には、ポーランド東半分の占領(39年9月17日)後、今次リトアニアに進駐しソ連軍が開始したソ連化(40年6月から)による現地の混乱が報告されている(8月3日にリトアニアはソ連に「正式加入」)。日本通過ヴィザを求めて日本の代表部に殺到した人びとはこのソ連化の危機から逃れようとした人びとだったのだ。1940年の7月から9月までの杉原ヴィザ発行の時期は、独ソ戦が始まる(1941年6月22日)前なので、ドイツがリトアニア内のユダヤ人を虐待・殺害し、強制収容所に送るという心配のない時期だったわけである。「ソ連警察の魔手を逃れるための格好の避難地はとりもなおさずナチス・ドイツとその占領地であった。一説によると、1939年から41年の期間を通じてドイツに居をうつしたリトアニア人の数は4万人にも上ったという。」一方、もとより財産、信仰、政治信念を守りたいユダヤ難民たちは、とにかくソ連の脅威を逃れ日本経由の出国を求めたというわけである。
他方、こうしたソ連国籍を取らずに出国しようとするポーランド国籍難民に対し、ソ連は、カウナスのイントゥーリスト支社に200ドルを支払えばソ連通過・出国ヴィザを与えた。出国を希望するポーランド難民がリトアニアに残ることは統治の妨げになるとソ連は判断し、彼らの出国を許可した。カウナス支店で申請を受け付けた後はイントゥーリスト・モスクワ本店が、モスクワ滞在、シベリア鉄道の予約、ウラジオストク滞在、「欧亜連絡船」の予約、カウナスの領事館閉鎖後は、モスクワの日本代表部(ソ連大使、建川美次)への通過ヴィザの代理申請も行っていたと考えられる。または難民自身がモスクワで日本代表部へ申請した場合もあるだろう。しかしこの経緯はモスクワの史料が確認できないので確かめようがない。41年2月10日ソ連は通過ヴィザの申請を閉めきり、2月末、日本はモスクワでの日本通過ヴィザの発給を停止した。
以上が菅野氏が従来の言説を史料から批判的に再構成したヴィザ発給の顛末である。つまり、千畝がユダヤ難民に日本通過ヴィザの発給を行ったのは事実だが、それは外務省の意向に逆らって行ったものではなく、その発給は外務省のほぼ条件どおりだったこと。リトアニアからユダヤ難民が出国する理由はナチス・ドイツの脅威ではなく、ソ連の脅威だったこと。もちろん結果的にリトアニアを去った人びとは41年6月以降にドイツ支配下リトアニアで行われた、ユダヤ人絶滅政策を逃れることができたし、千畝が相当のハードワークで実務をこなし、やや「弛緩」した条件でヴィザを発給した事実は評価されてよいと私は考える。しかし虚構に基づいた千畝美談は、この研究により大きく訂正される必要がある。なお菅野賢治氏の『「命のヴィザ」の考古学』(共和国、2023年)はこの美談誕生の経緯の研究である。
カウナス代表部閉鎖後、日本通過ヴィザを発給したモスクワの建川美次やモスクワのイントゥーリスト実務担当者も結果的にはユダヤ人を救った。そして条件を満たさないユダヤ人も在日ユダヤ会衆の保証があれば日本は入国を許したこと、またユダヤ人をヨーロッパから脱出させるための実務、金銭面の援助はJDC(アメリカ・ユダヤ合同分配委員会)ニューヨーク本部が多大な努力をはらったこと、ヨーロッパからのユダヤ人の出国は非常に複雑な事態であったことなど非常に勉強になった。大量に残る整理されたJDC史料とスルガイリスの先行研究により菅野本の骨格は構成されている。また当時「ユダヤ人国家」を作る画策をしていたシオニスト指導部はパレスチナに向かわないユダヤ人のヨーロッパからの出国を妨害し、むしろ彼らがナチス・ドイツに殺された方が将来のイスラエル建国に有利になると考えていたことを同時に読んでいたヤコブ・M・ラブキン著、菅野賢治訳『イスラエルとは何か』(平凡社新書、2012年)によって学んだ。つまりホロコーストはイスラエル建国のための政治的資源として利用され、この点、ナチスとシオニストはゆるい「共犯」の関係にあったということ。なんとも恐ろしい話である。