白川真澄
「年収103万円の壁」の引き上げの問題点
いま、「年収103万円の壁」の引き上げが大きな政治的争点になっている。
現在は103万円が課税最低限(基礎控除48万円、給与所得控除55万円)で、年収がこれを超えると所得税や住民税が課せられる。これを逃れるために、パートやアルバイトで働く人は労働時間を制限している。このため、サービス業などでは人手不足にいっそう拍車がかかっている。
そのなかで、国民民主党は年収の「壁」=課税最低限を103万円から178万円(基礎控除75万円、給与所得控除103万円)に引き上げて、所得税を減税し手取りを増やすことを提案してきた。それによると、年収200万円の人は8.2万円、500万円の人は13.3万円、800万円の人は、22.8万円の減税、すなわち手取りの増収になる。
これは、2%を超えるインフレに苦しめられてきた人びとに歓迎され、国民民主党の支持率が急上昇している。しかし、そこには見すごすことのできない落し穴が潜んでいる。
①年収が高い人ほど減税額が大きく恩恵を受けるという不公平が発生する。年収104万円の人は、住民税を合わせて約6500円の減税にしかならない。年収103万円以下の低所得者は、何の恩恵も受けられない。
②「年収130万円の壁」のほうが、手取りが大きく減るという問題が残る。130万円を超えると社会保険料の負担(約32万円)が発生し、手取りが大きく減るからだ。
③所得税収が7.6兆円(とくに地方税収が4兆円)も減る。これは税収全体の1割にもなる。そのため、住民への公共サービスが削られる危険が生じる。
④扶養控除や第3号被保険者制度など「男性稼ぎ主」のモデルの家族(専業主婦世帯)を前提にした時代遅れの仕組みにまったく手をつけていない。
例えば、「壁」の引き上げに伴って学生アルバイトの年収が103万円を超えても150万円になるまでは親の特定扶養控除(63万円)から除外しない措置も導入される。これによって、バイトを何十時間も増やすことが可能になり、親の手取りも増える。しかし、バイトに追われて他のことが何もできない多くの学生をこれ以上働かせてよいのだろうか。大学教育の無償化や給付型奨学金の支給によって、バイトに頼ることなく勉強したり社会運動に参加するのが学生の本来のあり方ではないのか。個々人の所得が増えることを選ぶのか、無償の公共サービス(ベーシック・サービス)の拡充を選ぶのか、という選択が問われているのだ。
政府と与党は「年収の壁」を103万円から123万円に引きあげることを提案しているが、国民民主党は納得せず150万円台をめぐる駆け引きが表面化している。しかし、緊急の物価高対策としてより効果的なのは、インフレで打撃を受けている低所得層への支援である。低所得層(さらに中間層)に対する一律の給付金を支給する。あるいは給付付き税額控除(課税最低限以下の年収の人は、課税分の給付を受ける)を導入することが必要である。「年収の壁」=課税最低限の引き上げも必要だが、それは給付付き税額控除の導入とセットで行うべきである。
減税による手取りの増大か、公正な増税による公共サービスの拡充か
より根本的な問題は、野党(立憲民主党を除く)が所得税や消費税の大幅な減税によって個々人の手取りを増やす政策だけを声高に主張していることである。
所得や手取りが増えれば、個人の消費が活発になり、景気も回復し、経済も成長するというわけだ。「国民の手取りが増えれば消費も活性化し、企業業績も上がり法人税収も消費税収も増える」(国民・玉木代表、日経新聞24年11月21日)。消費税をなくすことで「個人消費を活性化させることが景気を回復させ、経済成長を促します」(れいわ、24年総選挙公約)。相変わらずの経済成長主義の発想であり、政権側の「物価上昇と賃金上昇の好循環」の論理とまったく変わらない。
ところが、現実には手取りや所得が少し増えても、多くの人はお金を消費に支出せず、貯金や投資(新NISAなど)に回している。将来の生活や社会保障への不安が日々大きくなっているからだ。内閣府の調査では、「毎日の生活を充実させて楽しむ」人が51.4%に対して、「貯蓄や投資など将来に備える」人が47.8%もいる(「国民生活に関する世論調査」23年11月)。また、2023年の家計の消費支出は、65歳以上が前年より4.7%増だが、50~54歳が2.4%減、55~59歳が4.2%減と、インフレ下の節約志向が目立っている。また、「人手不足により十分な介護を受けられなくなる心配」を感じる人は、89%にも上る(朝日新聞24年5月4日)。
こうした現在の生活と将来の社会保障への不安を取り除くことこそ、政治の使命であろう。そのためには、次のことがどうしても必要である。①ケア(医療、介護、子育て)や教育(高等教育を含む)など公共サービスを充実させて、無償で提供する(ベーシック・サービス)、②人間らしい最低生活ができる現金をすべての人に保障する(最低保障年金、限定的なベーシック・インカム)、③住宅手当を導入し、住まいの権利を保障する。
人口減少・高齢化・労働力不足の時代を迎えて、私たちには次のような選択肢が問われている。減税によって個々人の手取りを増やして「自己責任」で生活を守るのか。それとも、税負担を引き上げ「共同の財布}(財政)を大きくして公共サービスの拡充に頼るのか。前者は新自由主義の道であり、減税ばかりを大声で叫んでいる頭目はトランプなのである。
人口減少・脱成長の時代には、「連帯と分かち合い」による生活保障の社会をめざすことが否応なく求められている。しかし、「103万円の壁」引き上げをめぐって、減税によって個人の「手取りが増えるなら住民サービスの低下は仕方ない」と思う人が53%と、「サービスが低下するなら手取りは引き上げなくてもよい」と思う人の29%を上回っている(ANNの世論調査、24年12月7~8日)。
このように、「自己責任」の発想のほうが勢いを増している厳しい現状がある。減税ポピュリズム(日本では左派がそのお先棒を担いでいる!)に対抗して、「連帯と分かち合い」の社会をめざすことは容易なことではない。だが、長期の視野での将来的な対抗社会像を見失うならば、私たちは保守・右翼や新自由主義の勢力とたたかうことはできない。
巨額の財源調達を、経済成長や国債増発に頼ることはできない
先に述べたような公共サービスの無償提供や現金給付の拡充には、巨額の財源が必要になる。例えば介護サービスの崩壊の危機を解決するために、極端に低い介護職員の報酬を労働者の平均水準に引き上げる(月7.7万円のアップ)だけで、年2.5兆円が必要になる。井出栄策さんの試算では、ベーシック・サービスの実現には、およそ20兆円がかかる。
この巨額の財源調達を、経済成長による税収増や国債増発に頼ることは、もはやできない。労働力の深刻な供給不足の影響で、日本はこれから避けがたくゼロ成長(0%台の成長)の時代に入り込む。日本経済研究センターの予測では、実質GDP成長率は2026~30年は0.6%、31~35年は0.1%と「マイナス成長突入が目前に迫る」(「中期経済予測」24年3月8日)。政府の長期予測(2025~60年)でも、出生率やTFP(全要素)生産性が現状のままでは年平均の実質GDP成長率は0.2%、すこし上向いても1.2%とされている。
また、これまでは「異次元の金融緩和」=ゼロ金利政策によって、国債を増発しても利払いが急増せず横ばいを続けてきた。しかし、金融の正常化、すなわち「金利のある世界」の到来によって、国債の利払いは急増し国債費(債務償還費を含む)が膨らみつつある。2024年度の利払い額は9.7兆円、国債費は27兆円であるが、2028年度に利払い費が16.1兆円にまで急増するため国債費が35.3兆円に膨らむ。国債費が社会保障関係費に次ぐ大きな支出項目として、必要な財政支出を圧迫しつつある(さらに、トランプ政権下の米国との関係で防衛費の増額が重圧となるだろうが、その抜本的な削減が課題になる)。
したがって、巨額の財源調達のためには、公正な大増税が必要である。しかし、日本では税負担率が実際には低いにもかかわらず(所得税の負担は、夫婦と子2人で給与収入が700万円の場合、イギリス111.0万円、ドイツ86.4万円、フランス70・9万円に対して日本は39.2万円にすぎない)、多くの人が重税感を感じて「税を取られたくない」という拒否感を抱いている。富裕層や大企業を優遇する不公平な税制があること(例えば所得1億円を超えると税負担率が軽くなる「1億円の壁」、大企業の研究開発投資への税控除)、逆進性のある社会保険料の負担が増え続けてきたことが、大きな理由である。
しかし、何と言っても、「政府や政治を信頼できない」という不信感の強さこそが、租税拒否感の最大の理由となっている。例えば2020年のある調査(エデルマン・ジャパン)では、政府に対する信頼度は、カナダ70%、韓国67%、ドイツ64%、イギリス60%、フランス48%、米国48%に対して、日本は38%と際だって低い。
信頼できる政府をめざしながら、公正な大増税で公共サービスの拡充を
したがって、富裕層と大企業への課税強化をはじめ「公正な大増税」を実現するためには、信頼できる政府をつくることが不可欠の条件となる。
以下は、信頼できる政府の形成をめざしながら、公正な大増税を実現して公共サービスを抜本的に拡充するための試案である。
1 富裕層と大企業への課税強化から増税を始める
*金融所得に勤労所得課税なみの累進性を適用する(総合課税化)。所得1億円以上の富裕層(約148万世帯)の税負担を重くする。ミニマム税(所得が30億円を超えると22.5%を下回らないように課税する)を引き上げたり、5億円を超える者に適用する。
*大企業への法人税率を引き上げる。法人税に累進税率(課税所得が10億円を超えると45%)を適用する。大企業の内部留保に課税する。大企業への優遇税制(受取配当金不算入制度や研究開発投資減税)を抜本的に縮小する
2 逆進性のある社会保険料を引き下げる。
3 累進性のある所得税の負担を引き上げる。配偶者控除や扶養控除など「男性稼ぎ主」型家族を前提にした所得控除を整理・廃止する。課税最低限を引き上げると同時に、給付付き税額控除を導入する。
4 消費税率は、インフレが家計を直撃している現在は引き上げない(時限的な減税はありうる)が、将来的には引き上げる。低所得層への給付で逆進性を解消する。
5 相続税を重くする。
6 環境税を抜本的に引き上げる。ガソリン税の引き下げではなく、炭素税に組み替える。現行のCO2排出1㌧当たり289円を1万円以上に引き上げる。
7 住民税の均等割=定額部分をなくし、逆進性を解消する。
8 防衛費の増額をやめ、さらに大幅に削減する
9 グローバル・タクスを強化する/巨大IT企業へのデジタル課税と法人税の最低税率を導入するという国際的合意を必ず実行する。
10 増税によって増える税収は、ベーシック・サービスの実現、最低生活保障のための現金給付、住宅手当の導入に支出する。
「103万円の壁」引き上げ問題、さらに高校教育無償化問題を切り口にして、消費税問題だけにとどまらない税と社会保障の全体像に関する人びとの関心が高まっている。税と社会保障についての学習と討論が人びとのなかで活性化することが、政治の復権にとって欠かせない事柄である。この試案が学習や討論のためのたたき台になれば幸いである。
(図1:給付付き税額控除)
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(図2:ミニマム税)
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【参考文献】
*諸富 徹『税と社会保障』(2024年、平凡社新書)
*井出栄策『幸福の増税論』(2018年、岩波新書)
*白川真澄「消費増税をどう考えるか」①(「テオリア」2019年7月10日、8月10日)、②(同上11月10日、12月10日、2020年1月1日号)
*森信茂樹「給付付き税額控除とその課題」(2012年4月27日 民主党WT総会講演資料)
【関連のイベントの案内】
*研究所テオリア「座標塾」第21期第1回/3月21日(金)18:30~21:00
テーマ「『103万円の壁』
講師:白川真澄
会場:文京区民センター&オンライン
*PP研第21回経済・財政・金融を読む会/3月29日(土)13:30~16:30
テキスト:神野直彦『財政と民主主義』(2024年、岩波新書)
報告者:長澤淑夫
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(2025年2月5日記)