長澤淑夫
治安維持法体制の解体と「再生」から「逆コース」を授業する。
歴史総合の教科書『詳述歴史総合』(実教出版、2021検定)では以下のように治安維持法の制定について書かれている。
「41 ひろがる社会運動と普通選挙の実現」(p.141) いわゆる大正デモクラシー期に花開いた労働運動、女性運動などを記述した後、ロシア革命の影響から共産党がひそかに結成されたこと、マルクス主義の思想と運動がひろがったことを記述した後、女子を除いた「普通選挙法」が成立したが、女性が除外され、植民地では議会がなかったことの記述がある。続いて「同時に、政府は治安維持法を制定した。これは、天皇を中心とする秩序である『国体』の変革や私有財産の否認を目的とする結社を禁止し、取り締まるための法律であった。背景には、1925年の日ソ基本条約締結によるソ連との国交樹立にともない、社会主義思想が国内に波及することへの強い警戒心があった。こうして、普通選挙法によって成年男性を国民国家に主体的に参加させるとともに、治安維持法によって国家に従わない者たちを排除する体制がつくられたのである。」と記述している。その後は日中戦争下の「人民戦線事件」を取り上げ、政府による知識人弾圧があったことを記している。
授業で付け加えた点:3年後に勅令によって治安維持法の最高刑が死刑になったこと、明治時代は自由民権運動などの政治活動弾圧のため保安条例(1887年M20)、集会及び政社法(1893年M26)、日清戦争後は、労働運動の弾圧、女性の政治運動を禁止した治安警察法(一部改正。1922年4月20日公布、女性の政談集会への参加と発起を許可した。)が制定されていたことを復習しつつ、もとより日本には言論、集会、結社の自由はなかったことを確認した。
またこうした運動の取締りと弾圧を担当した特別高等警察は、秘密裏に組織を内偵する点から日本の秘密警察であり。ナチスでいえばゲシュタポであることを説明した。(日独のこれら組織は互いに交流し意見を交わしていた。ただしゲシュタポは強制収容所の管理・運営を行っていた点に違いがある。)この組織は1911年、大逆事件後、社会運動を担当する特別高等課が警視庁に置かれ、しだいに組織を整え、内務省警保局に直属した組織として各県に置かれていった。
続いて取締の対象の説明。28年から6年間の検挙者のうち本来のターゲットである共産党員の割合は3.4%で制定時の目的からはかけ離れた運用だった。結局、逮捕者、数10万人、虐殺、獄死2000人という被害者を出し、人権蹂躙を恣ままに行い、1945年を迎えた。日本人の死刑は数人に過ぎないが、植民地では猛威を振るった。朝鮮では「独立運動は国体の変更」と解釈され、処刑されたためである。日本国内では治安維持法単独の死刑はないが、朝鮮では少なくとも50人はくだらないという。
当初からの悪法論も存在した。美濃部達吉は、京都学連事件(25年11月)に関連して「言論と教化の力によらず、法律と刑罰の力をもって、反対の主義信念を殲滅しようとするものなる」として悪法と断じていた。これは近代刑法が外形的行為を罰し、アタマの中を処罰しないことを原則としていたのだから当然の判断である。
続いて戦後の解体と「復活」を以下のように説明した。
広島・長崎への原爆投下とソ連参戦を機に、ポツダム宣言(日本に非軍事化と民主化を要求)を受諾し、日本は連合国に降伏した。9月、降伏文書調印後、米軍による占領統治が始まった。他方、敗戦やポツダム宣言受諾の意味を重く受け止めない日本の支配層は、自ら改革を行わなかった。アメリカ政府が「降伏後における米国の初期対日方針」を出した(9月22日)直後の26日、哲学者三木清が治安維持法により拘置所に拘束されたまま死亡した。この事態に占領軍は驚いた。29日には、マッカーサーを訪ねた昭和天皇の写真が新聞に掲載された(一旦政府は差し止めたが、GHQが介入し、掲載)。10月3日に山崎内務大臣が英紙のインタビューに答え、治安維持法に固執する姿勢を表明すると、4日にマッカーサー司令官は覚書き(いわゆる人権指令)を発し、治安維持法、特高体制の解体を命じた。こうして明治以来の権威主義体制、戦前日本のファシズム国家体制の解体がGHQの命令で始まった。他方、民衆や社会運動の抑圧体制をなんとか温存したい支配層は、「公安課」を新設し、GHQの民主化に協力するフリをして旧警察体制の温存を図った。各府県にも「警備課」が設置され、46年2、3月には「公安課」と改称し、その後公安警察になっていった。しかし内務相、警保局長をはじめ、治安維持法体制を支えた主要な役人はGHQにより、罷免、追放された(4990人)。戦前に数10万人を逮捕し、2千人を拷問で殺したことを考えると、この罷免数は軽微なものにすぎない。ナチスのゲシュタポの責任者が自殺し、または殺害されたことと対比すると、この組織的人権弾圧機構の運営者の罪の意識のなさ、罰の軽さは驚くべきである。
この46年GHQは内務省の解体まで踏み込み、日本の治安維持法―特高体制を消滅させ、その上、民主的で軍備を禁じる憲法の素案を作り、アタマの古い支配層に提示した。国会による、案の審議・修正を経て、新憲法は11月3日に公布、翌年、5月3日に発布された。東京裁判も進み、戦犯の絞首刑も実行された。
しかし、48年ころから米ソ冷戦が進行し、49年に中華人民共和国が建国され、50年に朝鮮戦争が始まると、占領政策は逆方向に変化した。この戦争のさなか、51年9月にサンフランシスコ平和条約を西側諸国と結び、日本は主権を回復した。と同時に日米安保条約と行政協定(後の地位協定)を結び、占領軍が主権回復後も日本に残り、米軍の特権的地位をも認める対米従属の基本的関係ができあがった。他方、民主化から「反共の砦」へと日本占領目的を変更したGHQの「逆コース」に乗って、戦前の支配層、つまり治安維持法体制下で議員や高級官僚を務めた保守派は復活した。54年には、治安維持法制定と運用の要であった池田克は最高裁判事に就任した。ゲシュタポの長官は戦後、西ドイツで枢要な政治的、司法的地位には就けなかった。(ヒムラーは逮捕後、自殺、ハイドリッヒはチェコ人部隊に暗殺)
最後に授業で、52年の「血のメーデー事件」を目撃した梅崎春生の証言を読み、警察が社会運動を敵視し、民衆に銃を向け、さらに「正史」では参加した民衆を「暴徒」と記述する理由を考えてもらった。
治安維持法―特高警察体制こそ侵略戦争遂行の要とみたGHQは警察の地方分権体制、公安委員による警察の縛りを意図した警察改革を実施した(47年警察法)。しかし、「逆コース」と独立回復の中で戦前の中央集権的警察に戻っていく事態(51年「改正)警察法)の推移については授業では展開できなかった。警察だけでなく内務省と陸海軍を除けば、中央官僚が無傷で残り、戦後憲法体制を内側から骨抜きにしていく事態も論じることはできなかった。(52年の「破防法」はその一つであろう。)今後の課題としたい。
参考文献
青木理『日本の公安警察』講談社現代新書、2000年
NHK「ETV特集」取材班荻野富士夫監修『証言 治安維持法』NHK出版新書、
荻野富士夫『特高警察』岩波新書、2012年
「特集2 生きている治安維持法」『地平』3月号、2025、no.9
原武史『完本 皇居前広場』文春学藝ライブラリー、2014年