オルタナティブ提言の会
第4回 農業と地域社会
2009年10月11日
発言 大野和興
今日は新しい貧困がいま農業と村を襲っているという現実と、それに対してどのようなオルタナティブを出していくかという考え方をお話できればと思っています。
1940年代後半から50年代にかけては、日本の村が一番元気がよくておもしろかった時代でした。戦後民主化と、朝鮮戦争が始まる前の食糧増産政策の時代です。
ぼくは愛媛の出身なんですが、愛媛の青年団運動はすごく元気がよかった。とくに南の南予という地方はいまも元気のいい団塊の世代の百姓がいるんですけれども、その親父たちは右のポケットに毛沢東の農村調査、左のポケットに近藤康男さんの『貧しさからの解放』を入れて、村中を駆け回って活動していました。近藤康男さんは100何歳かで亡くなった農業経済学者ですが、この本は1950年代前半に中央公論社から出版されて、当時爆発的に売れました。農村の貧しさをひじょうにわかりやすく書いていて、広く読まれました。それから50年以上が経ちますが、いま新しい貧しさが村に来ているのだろうと思います。
まずその現状ですが、農水省の農業経営動向調査から数字を追ってみます。 販売農家(年間50万円以上農産物を販売する農家)の所得の動向を見て見ます。1996年と2007年を比べて見ると、農業所得が125万円から110万円に下がっています。もっとひどいのは農外所得が531万から194万。この農外所得を詳しくみると、主業農家(収入の半分以上が農業所得で、65歳未満、年間60日以上農業従事者がいる農家)では、95年に117万円あった農外所得が07年には39万円になっています。農外所得の方が大きい副業農家では、639万から413万円。60年以降、日本の農業の生産力を支えてきたという兼業農家も、再生産ができなくなってきています。つまり、農家といわれるものの全面的崩壊が始まっていることを、この数字は示しています。
「米入札価格と生産費の推移」を計算して出してみました。米生産費が06年で16,820円(60キロ玄米)です。入札価格が15,000円弱。そこから3,500円くらい引いた金額が農家の手取りになりますから、農家手取りは11,000円強。そうすると、60キロで5,500円の赤字になります。赤字が大きく増えるのは1995年からです。この年はコメのグローバル化が始まった年です。GATTウルグアイ・ラウンドでミニマムアクセス米が入るようになり、日本のコメは部分自由化に移行します。食管法が廃止されて、市場原理を取り入れた新食糧法が施行されました。ちなみに06年度、10?15haの大規模農家(米作農家平均:1.8ha)でも557円の赤字になる。これと先ほどの数字を見ていただくと、大規模層も副業農家も含めて全面的に解体状況にきているというのが、ここ10年の農家経営実態です。
その結果、何が起こっているのか。農地価格が暴落しています。統計だけでは実態がつかめないので、何年か前から山形県置賜地方の米作地帯の聞き取り調査をしました。聞いたところでは、5年くらい前から売りに出す農地の規模が従来の常識では考えられない規模になっている。これまでは農家どうしの農地としての売買単位は1反(10a)でしたが、それが1haつまり10倍になった。これはなぜかというと、さきほどの米価状況のなかで規模を拡大した農家が土地を維持できなくなって、叩き売りを始めたということです。それ以降この10年、農地価格の暴落はすさまじい。
置賜地方では上田(生産力の高い田)10a250万円くらいしていたのが、いま、70万?50万円くらいです。中田(普通の生産力の田)では、150万?200万円で取引していたのが、いま30万円で売れない。去年北上の水田地帯で聞いたら、やはり30万で売れないと言っていました。
菅野芳秀さんの暮らす置賜の長井市は朝日連峰の裾野の大変生産力の高いところですが、そこでも一昨年、80歳過ぎの爺さんが農地を売ろうとして、以前であれば1反150万?200万円の値がついた土地が30万円の値をつけても売れない。1年経っても売れなくて、15万円に下げてやっと買い手が見つかったと言っていました。2008年、北海道洞爺湖周辺の農業地帯で聞いたところ、1反20万の価格がついているけど、売れないからゼロと同じだという話。つまり農地価格が形成しえないような状況が出てきています。農地が農地価格を形成できないということは、農業が経営として成り立たないということです。なぜかというと農地が担保能力を失って資金手当ができない。政府は今年の通常国会で農地法第一条を改正しました。農地を所有するのは、その農地をもっとも効率的に利用するものである、と。それは株式会社であるということを含意しています。そういう形で農地を流動化する制度も整いました。
もうひとつ象徴的だったのは、水代が払えなくなったということです。これも一昨年、置賜地方を歩いていて聞きました。日本の場合、灌漑施設を公的資金と農家の負担とでつくり、村レベルの水利は農民の自主的な組合方式で管理運営しています。これは江戸時代から続いているやり方です。水利費はまちまちですが、1反およそ5000円程度でとして1町だと5万円。10町の大規模経営だと50万円くらいかかります。その水代が払えない。大規模農家ほど払えません。コメ作り百姓が水代を払えないというのは、有史以来のことじゃないかと思います。
次に農村地域の地域経済のようすを山形県白鷹町を例にみてみます。2003年から2005年3年間の生産高推移をみると、総生産で農業が100から94に下がっています。逆に製造業は05年103。いまはもう少し下がっているのではないかと思いますが。建設が76。これは公共事業の削減が響いています。卸し、小売が87。建設業と農業が振るわなければ財布にカネが行き渡らないですから卸し、小売も振るいません。農業生産高は90年に100だったのが05年には46と半分以下になっています。中身を詳しくみてみると稲作は100から59。畜産が100から77。ここは米沢牛の産地なんです。白鷹は酪農が盛んな地域ですし、果樹もあって豊かな地帯です。これらをグラフ上で物差しで延長してみると、コメなんか2012年頃にはゼロです。この右下がり振りはすさまじいです。
しかも農業の衰退と商業の衰退がパラレルに動いています。建設業がダメで農業がダメではてきめんに商業に響きますから、確実にシャッター通りにつながっていきます。秩父の小鹿野町でも300年は続いている古い旅館が閉じました。その隣には古い、何代も続いている羊羹の店があるのですが、その店もつぶれてしまいそうな状況です。
兼業農家の勤め先、農村工業はどうか。これも山形で聞いた100人規模くらいの自動車下請け工場の話ですが、ものすごい低賃金です。100人中99人が派遣の「もっぱら派遣」なんです。総務のなかに派遣会社をつくって人を雇って本社に派遣する。だからいつでも首が切れる。文句を言えばすぐ「中国行くからいいよ」とか言われる。農家の兼業収入の激減へとつながっています。
農業就業人口の年齢構成は、5年ごとに高齢ピークが右に移っていきます。供給がないから今いる高齢者がそのまま歳をとっていきます。そして死んでいく。2000年のピークが70?74才。いまは75?80になっているはずです。あと数年経ったら、80?85才になりますから、もう作ってくれませんね(笑)。
こうした現在に至る経過を、かいつまんでみていきます。資料をさがしていたら、1997年の出稼ぎ大会の資料が出てきました。大量の出稼ぎが出始めるのは1963年から64年にかけてです。それまでももちろん農村出稼ぎはありましたが、近代的な出稼ぎになっていくのは高度経済成長が始まる60年代以降です。とくに大型公共投資が始まる東京オリンピック、新幹線、高速道路、石油コンビナート、そして大阪万博と続く70年代にかけての大規模インフラ整備のなかで、農村出稼ぎが恒常化します。ピークは100万人といわれています。
出稼ぎ農民組合づくりの先覚者の高橋良蔵さんが、秋田の数字で教えてくれました。1964年からの20年で、秋田からの出稼ぎ者は106万人。年間5万人ですね。その6割は東京、神奈川、埼玉、千葉、愛知に出て行っています。67年から74年にかけて、出稼ぎの背景を高橋さんはこう説明します。この間に自動車工場の出稼ぎ労賃は3.5倍になっっているのに、生産者米価は1.7倍にしかなっていない。生労「これでは出稼ぎに出るのは当然だ」と高橋さんは います。
この時期、それぞれの生産者価格が上がっているのは、当時の自民党政策の優れたところで、当時春闘で賃金が15%上がったら、米価は8%くらいあげていた。そういう形で所得の再分配をしていました。所得政策としての米価政策です。それでもやはり都市労賃に農民は惹かれていく。
出稼ぎ組合が各村で作られ始めるのは63年から64年にかけてです。僕が日本農業新聞に入ったのは63年で、その年はものすごい豪雪でした。出稼ぎと過疎は当時の最大の農村社会問題でしたからずいぶん取材に行きいました。やがて冬は村には男はほとんどはいなくなって、最初はニュースになった「女性消防団誕生」がだんだん当たり前になっていきました。100万人出稼ぎ時代です。
ではどうするかということに話をうつします。土地と価格と自由貿易の問題3点に絞って話します。
いま、民主党が出しているのは所得補償です。GATTウルグアイラウンドと、それに続くWTO体制のなかで、国際的に農産物価格支持政策はWTO違反だということになってしまいました。価格補償はふたつの問題をはらんでいます。一つは農業生産を刺激して過剰を生む。過剰農産物は輸出補助金付きで国際市場に溢れ出て世界の貿易秩序を乱す。その一方、価格支持政策を成り立たせるためには国外からの農産物の流入を遮断しなければなりません。自由貿易の原則と相容れないわけです。こうして価格支持政策はWTO違反ということになり、農業政策の体系から消えていき。所得補償方式に変わります。所得補償だったら価格と生産が連動するのを断ち切るから、という理屈です。これをデカップリングといいました。
いま、かろうじて価格補償について言っているのは日本共産党だけです。共産党は二本立てで、米価は17,000円補償する(60キロ、玄米)。その上に所得補償として、下がった分を補償し、直接支払いするという二本立ての政策を出しています。
あとは社民党も民主党も所得補償政策だけです。ぼくはどちらを取るかというと、やはり価格支持政策です。いまもう一度この政策を仕組み直す必要があると思います。
日本にはかつて食管制度というのがあって、これはとても優れた価格支持政策でした。二重価格制度で、日本国民が食べる米が1000万トン(限界値)だとしたら、そこの生産費は農産物価格としてきちんと補償する。国民の必要量をまかなうコストを農家に支払うという思想です。そのコスト計算のなかで一番重要なのは労賃の取り方です。政府は農村の日雇い賃金、一番安い額を取りましたが、農協は都市並みの労賃ということで製造業の全平均賃金を主張しました。農民が受けとる労働の価値を農村の低賃金に固定させるか、都市並みの労賃を農民に保証し、自らを再生産させる価格を保障するかという対立でした。農協は悪口ばかりいわれますが、当時は理論的にはかなりきちんとしたものをもっていた。こうして農産物支持政策ははからずも高度経済成長の果実の所得分配政策になりました。
もうひとつは家計米価です。食管法では「家計を安定せしむることを旨として定める」とされていました。標準家計で五人家族の米代はまかなえるという計算です。これを生産費と関係なく政府が決めて、この生産者米価との差額を公的に税金で埋めるわけです。当時、この家計米価についても消費者団体が要求を出したりしていました。当時は生活保護基準を決めるときの判定基礎がこの米価でした。それがそのまま最低賃金を決める基準にもなった。そのくらいの重さをもって米価が位置づけられていました。
これが95年に壊れます.。農村ばかりでなく都市のくらしの安定にも一定の役割を果たしていた食管制度がくずれ、グローバル化のなかで新しい貧困が村と街を襲っています。いま、くらしを支える基盤としてベーシックインカムの問題と重ね合わせた議論が必要ではないかと思っています。これまで所得補償にしても価格政策にしても農業の分野だけで考えていましたが、社会全体に貧困が広がって、生活保護でも最賃でもまかなえなくなってきているなか、ベーシックインカムという新しい思想と仕組でやろうという運動も出てきている。その一環として、農民のくらしの問題も位置づけ、その上に農民は農産物に注ぎ込んだ価値を実現するための価格補償を重ねていくといった整理はできないか、そんなことを考えています。だから民主党が出している戸別補償という仕組も、農業内部だはけのものにせずに、もう少しひらいた形で議論することを考えてはどうでしょうか。
第二に土地の問題です。さきほど言いましたように、土地が担保能力を失って、農業経営の全面的な崩壊が始まっている。そのなかで農業地帯の農地価格が暴落して値段もつかないような状況になっています。それを目当てに農地法が改正されて外部資本が入ってきている。そのような状況下で、農地の問題をどう考えるのか。
今の議論で言われるのは、農家はそもそも農地法で土地を使う独占的権限を与えられているにもかかわらず耕作放棄しており、それが50万haにも及んでいる。権利だけ与えられて義務を果たしていないのだから、そんな権利は剥奪してしまえ。その権利は最も農地を有効利用できる企業に譲ってしまえばいい。そうすれば国民への食糧供給も不安なく行なわれるし、何より、日本の農業の国際競争力がつくではないか。それが一つの議論です。
もう一つは、やはり土地は耕すものが所有し、利用すべきだという議論です。農民的土地所有をきちんと守れと。僕はどちらかといえばこっちです。しかしそれだけでは済まない現実があることは確かなので、ここは「土地は誰のものか」という問題に立ち返って土地所有制度を考えていく絶好のチャンスではないかと思います。日本でそういう議論が起きてくれば、いま世界的に起こっている、アジア、アフリカ、中南米における多国籍企業による土地の大量買占めのなかで、農民が土地から引き剥がされ、農民的農業がどんどん壊滅していっているということと重ね合わせた土地論ができるのではないでしょうか。
土地は誰のものか。土地は誰のものでもない、と歴史学者網野義彦は言っています。土地も海も川も山もそもそも持主はいなかったはず。誰のものでもないということは、みんなのもの、ということです。それが歴史のなかで王様のものになったり地主のものになったり、そして資本主義勃興期の私有財産制の確立と同時に私有権が確立してきました。
いま、世界の農地の圧倒的な所有形態は「農民的土地所有」です。農地改革がなされていない中南米やフィリピンなどは大土地所有制ですが、伝統的な農業のところでは、そこに住む人たちが共同で使う入り会いも残っています。それを含めて農民的土地所有及び利用というふうに考えますと、土地は誰のものでもないという土地の本来の性格をもっとも端的に表現するのは、農民的土地所有であると思います。耕すものが土地をもつ。私有財産制のもとで、土地の持っている本来の公性を表現している所有形態は他にないだろうと僕は思うのです。
この農民的土地所有が解体してきています。多国籍企業的土地所有がわーっと広まってきている。それに対して我々がどう土地所有と利用のありかたを提起するのかがいま問われています。単に農民的土地所有と言っただけでは済まない現実もあります。その回答を用意しなければいけません。
かつて社会主義国では、全人民的土地所有というのがあいましたが89年に終りました。いま僕が考えているのは、「市民的土地所有」のような概念が打ち出せないかということです。もちろん市民のなかには農民も入ります。企業的土地所有に移り変わろうとするときのこちらからの出し方として、土地はみんなのもので、土地の公性を一番代表する農民的土地所有を、企業的土地所有という形の独占的な私的所有にもっていくのは、歴史に逆行するじゃないか、と。そうでなくて市民に開放する仕組ができないでしょうか。所有は農家でもかまわなくて、その利用の仕方を、その土地を使いたい市民が参入でき、地域で人びとが一緒に野菜などが作れる、そういう方向に農地をめぐる仕組みをひらいていく。
いまは単に農地法を守れという形でしか運動がないのですが、それを越えたところで対案を出さないと現実の動きに追いつきません。昔からある入り合いというのは、そのものは家父長制が前提だったり、閉鎖性を持つものです。そういうところをとっぱらった形の入り合い的な仕組み方を、下からつくっていく。そしてそれを自治体の政策にさせていくといった、運動論を含めて何かないかと考えています。いまの時点ではそれ以上はわかりません。
最後に自由貿易ですが、これはこの後佐久間さんに補ってもらいたいところです。
「自由貿易」というのは、新自由主義がこれだけ壊れても、いまだに聖域というか神話なんですね。自由貿易に異議を唱えようものなら、「ではお前は保護貿易か」とたちまち保守反動のレッテルを貼られます。「自由貿易」か「保護主義」かの二者択一の議論しかなくて、思考停止状態になる。そのなかで自由貿易は聖域化されています。そこでいくら議論してもだめでしょう。もう一度交易のあり方みたいなところから解き明かしていくと同時に、何を自由貿易にし、何をしないかということを、少し具体的に詰めていくことが必要でしょう。以前中村尚司さんが、商品にしていいものと悪いものという腑分けをした本を書かれました。人間が作れないものは商品にしてはいけないと。血とか臓器とか。土地もそうです。彼は農産物は人間がつくっているのだから商品にしていいよといいまして、そこは少し異論があるところですが、そういうふうな具体的な議論を組み立てなおす必要があるでしょう。生命に関わること、自然環境や生態系に関わること、生存権というか基本的人権にかかわることは自由貿易や私企業化と言ったことに対象にしないとか、そのあたりを少し議論してみたいと思います。