ガザ自由船団に対する攻撃から考えること

清末愛砂
(島根大学教員)
2010年6月9日

 ガザとは、あるいはガザに生きるということは、何を意味しているのか。2010年5月31日未明に起きたイスラエル軍の特殊部隊による「ガザ自由船団」に対する攻撃を問題化する前に、まずはこの点を先に確認しておきたい。ガザ自由船団がガザに向かっていた理由、すなわち今回の襲撃事件の背景にある、最も核心的な問題を語ることなくして、この「事件」を理解しようもないからだ。いや、ガザのみならず、東エルサレムやヨルダン川西岸地区を含む被占領地全土におけるイスラエルの占領政策を全体的に見るとともに、そのなかで細分化されている占領の様々な方策がパレスチナ人の生活のすべてを圧迫していることに触れることがなければ、ガザ自由船団襲撃事件は、一過性の「事件」として<片付けられて>しまうだろう。

 1993年にイスラエルがガザ地区をフェンスで包囲して以来、同地区はイスラエルの占領政策によって段階的に封鎖されてきた。フェンスを建設する、という行為そのものが、現在まで続く封鎖・包囲の始まりであった。ガザ住民は出入国を制限され、文字通り「野外監獄」となったガザのなかで暮らすことを余儀なくされてきた。その封鎖は、解除されるどころか、年々、強化されてきたのである。2006年のパレスチナ評議会選挙の結果、ハマース(イスラーム抵抗運動)主導の政権が誕生すると、イスラエルはガザに対する封鎖を一層強固なものとし、人の移動のみならず、食糧やその他の生活物資の搬入にも大きな制限を加えるようになった。それは明らかに、ガザ住民に対する集団懲罰の行使であった。パレスチナ人が極めて民主的な選挙で自らの意思を示したことに対して。それに屈しないガザ住民に対し、2008年からは全面的にガザが封鎖され、正式なルートでは物資の搬送が許されないため、トンネル経済がそれに代わるものとして「機能」している。それ自体が、ガザの異常性を示している。

 2008年年末から2009年初頭にかけてイスラエル軍が行ったガザに対する大攻撃から一年半が経過した今もなお、封鎖が解除されないために、攻撃後の復興もなされず、住民たちはじわじわと首を締めつけられるような一日、一日を過ごしている。<私たち>を含む世界がこのような状況を許しているために、住民の約80%が貧困線以下の生活を強いられ、ときおり、搬送が許可される国際機関からのわずかの援助に頼らずには生活が成り立たない、というあまりにも屈辱的な思いを味わっている。さらには、大攻撃以降も、イスラエル軍はガザ住民に対し、散発的に軍事攻撃を仕掛けてきた。封鎖した上に攻撃するという信じがたい行為を、繰り返し行ってきたことにも<私たち>は目を向けなければならない。

 そのような状況のなかで、ガザ自由船団はイスラエルの残酷な封鎖や国際社会の黙認に挑戦し、住民に物資を送り届けようとしたのである。それに対し、イスラエル軍は、ガザ沖の公海上に入り、世界中から集まった600人以上の平和活動家と1万トンの支援物資を載せて、6艘の船でガザに向かって航行中の同船団を襲うという信じがたい暴挙を犯した。事件から約10日が経過するなかで、少なくとも9人の非武装の平和活動家が正規軍のなかの特殊部隊によって殺害され、多数が負傷したことが判明している。世界が背をそむけ続けていることを許さず、自らの良心に従い、ガザ住民に対する連帯の気持ちを示したために命を奪われた、これらの勇気あるシャヒードを心から追悼したい。

 ヨルダン川西岸地区は、イスラエルの占領政策の下で作られてきた分離壁、入植地、ユダヤ人専用道路、検問所、道路ブロック、トンネルなどにより、内部で小さく分断され、住民はそれらの小島のようになったコミュニティのなかで生きている。ガザに対する政策が住民への窒息作戦であるならば、西岸地区における政策は分断作戦といえよう。それはアパルトヘイト体制の確立・実施といっても過言ではない。例えば、同地区の28%を占めるヨルダン渓谷では、95%にもおよぶ土地が完全にイスラエルの支配下に置かれている。渓谷の住民は、テントや小屋を含む家を破壊され、土地を奪われ、豊かであるはずの水源を奪われ、検問所によって人や農産物・物資の出入りが制限されている。本来そこに帰属する住民に対する生活破壊を恣意的に行うことで、その地に住む権利を奪う行為は、ある種の組織的なエスニック・クレンジング(民族浄化)である。

 イスラエルによって勝手に併合された東エルサレムではどうだろうか。国際法に抵触する入植地の建設がこの時点においても進み、パレスチナ住民は家屋破壊の被害にあっている。これはエルサレムのユダヤ化政策の一環である。

 6月1日に国連安全保障理事会は、今回の事件に対し、公正で、信頼がおけ、かつ透明性のある事実調査を行うことを呼びかける議長声明を採択したが、イスラエル政府に対する直接的批判はなされなかった。公海上における正規軍による民間人殺傷という極めて重大な事件が起きたにもかかわらず、である。6月2日には、国連人権理事会でイスラエルに対する非難声明が採択され(日本は棄権する、という恥ずべき行為を行った。その責任が大きいことも明記しておかなければならない)、国際事実調査団の派遣が決定された。6月5日には、バン・キムン国連事務総長が、国際事実調査団の設置を提案したが、イスラエル側はその提案を拒否している。一方、イスラエルの同盟国である米国は、このような事態においてもイスラエルの肩を持ち、イスラエルによる調査を主張している。イスラエルによる調査が行われた場合、それらが国際法の水準を満たし、公正で、透明性のあるもの、になる可能性はひとかけらも残されていない。その不可能性は、過去から現在にいたるまでのイスラエルによる数々の国際人権法・人道法違反を見るだけでも明らかであろう。

 国連等の国際機関は、ガザ封鎖がジュネーブ第4条約第33条違反にあたる集団懲罰であることを指摘し、イスラエルに封鎖の解除を求めてきた。しかし、イスラエルはガザを「実効支配」しているハマースと「戦闘状態」にあることを理由に、それが国際法上、違反するものではないと主張している。その上で、ガザ自由船団に乗船していた平和活動家たちが、テロリストサポーターであるとし、これらの人々が、「ハマースが実効支配」するガザと交戦状態にあるイスラエルに国際法上認められている「敵」に対する海上封鎖を突破する意思があり、さらには船団を構成している船舶数が多かったため、やむをえず公海上で同船団を拿捕せざるを得なかったと言い訳をしている。また、これらの人々が拿捕しようとやってきたイスラエル軍の兵士に対し、斧やナイフや棒で襲うなどの挑発行為を行ったため、自衛として強硬手段に出ざるを得なかったというのである。

 では一体、誰がガザを支配しているのか。誰が一方的にガザを攻撃してきたのか。そのことを考えてみるならば、このようなイスラエルの主張が矛盾するものであることがみえてくる。ガザを支配しているのは、ハマースではない。占領国であるイスラエルである。2005年にガザから「一方的撤退」をしてからというもの、ガザではあたかも占領が終結したかのような印象が作りだされてきたが、それは違う。フェンスによる包囲を完成させ、そこから「撤退」し、出入り口や空や海や陸までも封鎖し、完全な野外監獄を作った上で、一方的に<戦闘状態>を続けてきたのではなかったか。停戦中であろうが、なかろうが、ガザの住民の一秒一秒ごとの生活が、イスラエルによって完全に握られているのだ。2009年1月にイスラエル側からなされた「一方的停戦」を思い起こしてほしい。なぜ、「一方的停戦」だったのか。なぜ、イスラエルは彼らが勝手に主張する「ガザを実効支配しているハマース」と<戦闘状態>にあり続けることが必要だったのか。そこまで遡ると、国際法を用いて封鎖を正当化するイスラエルの思惑が見えてくる。「終戦」ではなく、「(一方的)停戦」という名の下で<戦闘状態>にあり続け、それを理由に封鎖を強化することによって、住民をさらに締め上げることを意図していたのである。

 占領に反対するイスラエルの団体を巻き込む形でパレスチナ内部から、イスラエルに対するBDSキャンペーン(ボイコット、イスラエルからの資本の引き揚げ、イスラエルへの制裁を求める運動)が呼びかけられ、その動きが今、世界で広がりつつある。イスラエル政府は、そのようなBDSキャンペーンの盛り上がりに脅威を感じ、敏感に反応するようになってきた。その流れのなかで、援助船に乗っていた民間人を正規軍の特殊部隊が殺害するという<異常事態>、すなわちイスラエルによる不当な<反撃>がなされたと考えることもできるだろう。BDSキャンペーンの広がりを脅威だと思うのであれば、自らが作ってきたその原因である占領を一刻も早くやめる決意をすればいいだけではないか。イスラエルが占領をやめない限り、BDSキャンペーンは世界中に広がるだけである。<私たち>もまた、パレスチナ人やそれに共感するイスラエル人とともに、ガザ封鎖の即時解除だけでなく、東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区の解放をも求めて、BDSキャンペーンを広めていかなければならない。

 さらには、<私たち>は、今回の事件を含むイスラエルによる数々の国際人権法・人道法違反による不正義(犯罪行為)をただし、その責任をとらせるべく、連帯して動いていかなければならない。そのような不正義がただされるときが来なければ、占領下で殺されたパレスチナ人や亡くなったガザ自由船団のメンバーが浮かばれることはない。今回の事件のことだけでいえば、独立した専門家から構成される国際事実調査団が即時に派遣され、事実関係を明らかなものとし、その結果に基づいて責任者が国際法の水準を満たす形で処罰されなければならないことを、<私たち>は強く訴えていかなければならない。

 6月5日に、後発したガザ自由船団のレイチェル・コリー号が、イスラエル軍に拿捕された。レイチェル・コリー。その名を聞いたことがある者もいるだろう。2003年3月、イスラエル軍によるパレスチナ人の家屋破壊に抗議している最中に、巨大な軍事ブルドーザーに轢き殺された若き米国女性の意思は、ガザ自由船団のメンバーやそれを支持する人々の間で、今もなお生き続けている。彼女の意思がさらに多くの人々に共有され、実際の動きにつながるとき、彼女が亡くなったガザを含むパレスチナの地が解放されることになるだろう。そのときがいつになるのか。それは私たちの今後の継続した行動にかかっている。