「脳死」のパラドックス
高草木光一(慶應義塾大学教員)
2009年6月
6月18日、衆議院で臓器移植法改正案4案のうち「脳死=人の死」を前提とするA案が可決された。これから参議院でどのような議論が行なわれるのかはわからないが、「脳死=人の死」に向って大きく舵が切られたことになる。
「脳死」という概念が問題となるのは、「臓器移植」という特定の目的を念頭に置いてのことである。臓器移植のためにできるかぎりフレッシュな臓器を摘出するために、脳死を人の死とする考えが出てきたのだから、「脳死」がわれわれの「死」に対する日常感覚と乖離することはむしろ当然であるかもしれない。体温も脈もある身体を「死体」とみなす感覚をわれわれは通常もっていない。また、「脳幹を含む全脳の不可逆的機能停止」という定義および基準にしたがって実際に医療現場で行なわれる臨床的脳死診断やその後の法的脳死判定には、さまざまな疑問が提示されている。「脳死」と診断・判定された後に通常の生活ができるまでに「回復」した者もいれば、「長期脳死」という新しい事態も現れている。
そして、その「脳死」の目的である「臓器移植」という技術は、おそらくは時代の徒花でしかない。現在、国が過剰とも言える支援を行なっているのが山中伸弥京都大学教授らのiPS細胞研究をはじめとする、再生医療の基礎研究である。再生医療の見通しは不透明ではあるものの、仮にこれが実現すれば、自己と同じ遺伝子をもつ臓器の生成が可能となり、他人からの臓器移植は不要となる。その瞬間から、「脳死」について議論する必要はまったくなくなってしまうだろう。また、再生医療という「夢」を語らずとも、臓器移植に代わる代替医療は進歩している。「臓器移植でしか助からない」というケースは日々失われていくはずである。つまり、「脳死=人の死」とするA案は、人間にとってもっとも根源的な「生死」の問題を、過渡的な技術であるはずの「臓器移植」のために無理やり捩じ曲げようとしているものだと言える。
とは言え、A案の選択は、「助かる命は助けなければならない」という現実的な要請の結果であり、法改正をすれば国内で安価に臓器移植を受けられ、難病に苦しむ人々を救うことができるという主張には一理ある。とくに焦点となっている子どもの救命については、臓器移植が必要とされる子どもをもつ親たちの必死の叫びが、報道を通して多くの同情を生んでいる。しかし、「臓器移植患者団体連絡会」が、法改正を行なって臓器移植の拡大を目指さないのは「国会の不作為」とまで主張することには疑問を禁じえない。交通事故等による「脳死」という他者の不幸と引き換えに自らが生き延びることは、そもそも「権利」概念になじまないのではないだろうか。
銘記すべきは、「死の前倒し」である「脳死」が人の死としていったん法的に認められれば、それは「尊厳死」法の基礎になりうるということである。「尊厳死法制化を考える議員連盟」は、既に法案要綱案を公表している。その議員連盟の会長は、臓器移植法改正A案の提案者、中山太郎前外相である。2008年4月にスタートして国民から大顰蹙をかった後期高齢者医療制度に明らかなように、医療給付制限の方向は明確に打ち出されている。「尊厳死」という美名の下に高齢者等の医療給付を打ち切ることができれば、国家財政にこれほど好都合なことはないだろう。そう考えれば、「脳死=人の死」とするA案は「臓器移植」の先まで見据えて考え出されたものであるとも看做しうる。ともかく、今回の臓器移植法改正が今後の医療政策のターニングポイントになりうることは指摘しておかなければならない。
つい最近、2008年度慶應義塾大学経済学部「現代社会史」の講義録として、高草木光一編
『連続講義 「いのち」から現代世界を考える』(岩波書店)を上梓した。本書は、臓器移植法改正A案の提案者の一人である河野太郎衆議院議員と、脳死・臓器移植そのものに真っ向から反対する医師・山口研一郎氏との対論から始まっている。改正論議の背景には、どのような人間社会を構想するのかという壮大な問題が横たわっていた。この二人の対論を皮切りに、第1部と第2部では、「いのち」とは何かをめぐって生物学、生命倫理学、伝統医学、宗教学等の多様な切り口から「対論」という手法によって議論が展開される。本書の中心となる第3部、「まとめ」の位置にある座談会形式の第4部では、1960年代以降の同時代史を「いのちの救済」と「いのちへの侵犯」という二重の視点から再構成し、将来を展望するという試みが行なわれる。「いのち」の問題は、ここでは、戦争の問題としても自殺や殺人の問題としても捉え返されている。臓器移植法改正問題のもつ奥行きと広がりを知るためにも、できるかぎり多くの人に本書を手にとっていただきたいと願っている。
【編集部注】著者の高草木さんも名を連ねている、生命倫理会議による
「衆議院A案可決に対する緊急声明」(2009年6月18日)もあわせてご覧ください。