敗戦70年を越えて:安倍極右政権を倒すとは何を意味するか、その先に何が開けるのか――国家の正統化原理の角度からの考察(4)


武藤一羊
(PP研運営委員)
2015年8月1日記


戦後国家の正統性の危機をどう掴むか


 「アメリカ製憲法」を廃棄(手続きは改正であれ)して、自主憲法を採択するという主張には、強弱いくつものヴァージョンがあるとはいえ、基本は国家の構成原理にかかわる主張である。それは戦後国家の大日本帝国からの原理的断絶を認めず、大日本帝国を継承する原理の上に日本国を再組織するというものである。継承とは大日本帝国のそのままの再建ではなく、大日本帝国とその行為の正当化の上に今日の日本国家を位置付ける、そしてそれに沿って国家を改造する、というものであろう。したがってそこでは、大日本帝国の事績の顕彰が継承の定義的要素となる。帝国を継承するためには、帝国の事績の正当性が主張されなければならないが、その事績とは戦争と植民地化による膨張に彩られた近代日本の歴史そのものだ。したがって「歴史認識」が政治の核心部分に置かれなければならない。戦後七〇年を飛び越して、未来を帝国の過去の継承として設計するとすると、アメリカ製憲法に支配された戦後七〇年は恥ずべき歴史となる。

 こうした立場が戦後社会に存在したことは少しも不思議ではない。むしろ当然といってよい。問題はしかし戦後の国家そのものの中にこの立場すなわち帝国継承原理が、他の二原理とならんで、固く保持され、他の二原理のように目立つ形ではなかったにせよ、一貫して国家の実践に移されてきたことである。帝国継承原理は他の二原理によって抹殺されるどころか、戦後国家の中に生かされ、可能なところではどこでも行動に移されていた。それを国家原理として公然とかかげることだけは禁じ手であったが。

 帝国継承原理が戦後国家の中に現に生きている原理として維持されていたということにかんして、多くの有力な論者の中にはっきりした認識がなかったし、いまでもないかに見えることに私はいら立ちを感じている。

 安倍政権に鋭い批判的論陣を張っている政治学者の山口二郎は、「いまの状態を一言で端的にあらわすと「戦後の正統性の危機」」であるとする。このつかみ方に私は完全に同調する。ではなぜ正統性の危機が起こったのか。山口は二つの理由を挙げる。その第一は単純な時間の経過、第二は二〇年にわたる停滞、社会の閉塞、国力の衰弱だと言う。第一の理由について山口はこう言う。「七〇年たてば戦後の民主化や解放を実感として記憶している人がきわめて少なくなってきました。あるいは戦争の悲惨さを直接体験している人も減ってきた」。それは確かであり、否定しようもない。しかし山口は続けてこう整理するのである。

 解放の祝福の経験が世代を超えて継承されることはなかった。ところが敗北の屈辱の経験は世代をこえて継承されてしまった。それはなぜなのか。その要因がよくわかりません。戦争の悲惨さの体験の継承は、ある程度行われました。しかし、リアリティは時間の経過とともにうすくなってきている。ところが、敗戦を屈辱として記憶した岸信介をはじめとする戦前日本の指導者たちの思いが世代をこえて継承されてしまった。人間の記憶には、喜びよりも怨念や憎悪のほうが残りやすいということでしょうか。[傍点引用者]

 山口の率直な物言いに私は好感をもつ。だが言われていることには、驚きと落胆を隠せない。安倍政権という醜悪で危険な存在をまえにして、あっさり、岸―安倍的なものが生き残った「その要因」は「よくわからない」としていることにである。喜びより憎悪や怨念が残りやすいかどうか、など軽くやり過ごせる問題なのだろうか。「その要因」を掴みだすことにこそ政治学の役割があるのではないか。(『現代の理論』デジタル二号、「戦後政治の正統性の危機」法政大学法学部教授山口二郎さんに聞く)

 もう一つ。大澤真幸と木村草太の討論から成る「憲法の条件――戦後七〇年から考える」という書物のなかで、大澤の発言に、オヤと思った。極東軍事裁判が戦争責任をすべてA級戦犯に負わせて、普通の日本人にはそれほど重い罪はないことにしたと説く下りである。この処理の仕方で納得しましょうというのが「戦後の政治的合意」で、この合意の上に「中国やアジアの人たちと、またアメリカと手打ちをしようとした」と言う。ここまでは枕である。そこから大澤はこう続けるのである。

 ところが、それ(A級戦犯に責任をすべてかぶせた政治的合意――武藤)すらも自らを否定されたような感じがして、自尊心を維持できないと感じる日本人が一部にいる。それが、一般の日本人ならばそれぞれの考えだということになりますが、ときに政府の要人、つまり大臣や首相だったりする。彼らはA級戦犯を参拝して、できるだけ戦後の前提になるような政治的合意を否認しようとしている。そのため、中国が怒ったりするわけです。

 大澤の理解では、たまたま要職にある要人が、極東軍事裁判を受け入れたことを屈辱と感じ、戦後の前提を否認したりしていることになる。問題は政治家個人の政治志向に還元される。そういう政治家が要職にいるから中国は「怒ったりする」とされる。

 山口と大澤、どちらの見方でも安倍政権という姿で出現したものの正体には迫れそうもない。その根が戦後国家そのものに最初から深く埋め込まれていたことが見えていない。これでは、戦後日本の認識としては、一九九〇年代加藤典洋が提起した戦後日本のジーキルとハイドへの人格分裂説からも大後退であろう。


戦後国家の保持してきた帝国継承原理


 こうした認識は戦後国家にたいして甘すぎると私は思う。戦後国家は、帝国継承原理をその正統化原理の一つとして最初から組み込んで成立していたのである。そしていま憲法クーデターを推進する安倍政権の動機中の動機は、この帝国継承原理を中心に国家を再編成することにあるのだ。

 それに立ち向かうには、帝国継承原理が戦後国家の内部にどのように組み込まれていたかを見る必要がある。

 帝国継承原理はいくつかの典型的な形で戦後国家に埋め込まれた。その前提となるのは、国家としての戦争責任――対外、対内――の回避による事実上の否認、それによる自己免責である。たしかに日本は一九五二年四月二八日発効したサンフランシスコ講和条約で「極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾」した。だが、この条約発効の翌日、五月一日、日本政府は木村篤太郎法務総裁名で、処刑された戦犯を国内法上「刑死」ではなく、「法務死」と扱うと通達し、軍人恩給など恩給の支払いを復活した。戸籍上も「刑死」から「法務死」に改められた。「法務死」という戦争犯罪関連でしか用いられない用語をわざわざ作ることで、彼らは犯罪によって処刑されたのではない、すなわち「刑死」したのではない、だから犯罪者ではないとしたのである。東京裁判を含めて、戦争裁判が多くの問題を孕んでいたことは疑いないし、BC級戦犯について冤罪や不公正があったことも事実であろう。だがそれは、日本が自ら法廷を設けてもっと公正に戦争犯罪を裁く理由にはなっても、戦争犯罪者を復権する理由にはならなし、戦争犯罪がなかったことにすることにもならない。日本政府の措置は、帝国の行為の是認、その正当性の確認を含意するものだった。

 一九五二年、戦犯釈放を要請する大規模な署名運動が始められ、四〇〇〇万人が署名した。それを受けて、同年六月には参議院本会議で「戦犯在所者の釈放等に関する決議」がほぼ全会一致で可決され、一二月には同様の決議が衆議院で採択されている。衆議院は続いて一九五三年、一九五五年と同様の決議を上げた。五二年の決議の提案者は自由党の田子一民であったが、提案理由でこう述べていた。

 わが国は、平和条約の締結によって独立国となって、すでに半歳以上をけみしておるのであります。国民の大多数は、独立の喜びの中に、新生日本の再建に努力しております。この際、このとき、この喜びをともにわかつことができず、戦争犯罪者として、あるいは内地に、あるいは外地に、プリズンに、また拘置所に、希望なく日を送つておりますることは、ひとり国民感情において忍び得ざるのみならず、またさらに国際友好上きわめて遺憾に存ずるところであります。(拍手)

 さらに言う。

 そもそも戦犯による受刑者と申しまするものは、旧時代における戦争によって生じた犠牲者なのであります。これらの人々は、和解と信頼による平和条約の発効の後におきましては当然赦免せらるべきことを期待し、あきらめの態度を定め、従順かつまじめに服役を続けて来ておるのであります。しかるに、条約発効後すでに半歳以上をけみしましても、荏苒(じんせん)期待に反して、そのことなきことは、私どもの遺憾禁じ得ざるところであり、関係者の失望と焦燥とは察するに余りある次第でございます。(傍点引用者)

 参議院員本会議におけるこの討論は、日本社会党の古谷貞雄の賛成発言を含めて、東京裁判はじめ「勝者による戦争裁判」の批判を基調とするものだった。反対したのは、共産党と労農党だけだった。
 
 この議事録を読み返して、やはりそうだったかと、あらためて衝撃を受ける。戦犯はすべて犯した犯罪の如何を問わず「戦争によって生じた犠牲者」とみなされたのである。戦犯釈放を求める論拠に戦争犯罪自体の否定が潜り込まされているのである。そして国会におけるこの議論に戦犯とされた人びとが犯したとされている戦争犯罪そのものは、視野からきれいに消されているのである。その犯罪の犠牲者については、意識から完全に抹殺され、巣鴨プリズンにいるA級戦犯をふくめて全員が勝者の一方的な裁きによって不当に苦しめられている同胞と前提されている。そこには強い自己免責の論理が基調を形作っている。戦争犯罪人にたいしては、「ごくろうさまでした」とねぎらうコンセンサスが形成されたのである。

 東京裁判を勝者による一方的な裁判と批判するなら、戦後日本国は、そうでない公正な戦争犯罪裁判を自ら立ち上げる義務があっただろう。一九四五年にいたる帝国の戦争の経緯を検証し、植民地化と侵略の責任の所在を明らかにし、冤罪があればそれをただし、適正に処罰を下し、被害者に謝罪し、補償することが、近隣アジアに千万の単位の死と破壊を、そしてその結果として当の日本に百万の単位の死と破壊をもたらした国家のなすべきことであったろう。それはまた広島、長崎への原爆投下、東京大空襲を含む無差別戦略爆撃などアメリカが犯した戦争犯罪も裁きの対象にすべきであった。前者はまったく行われず、それと裏腹に後者も行われなかった。

 戦争が何であったのか、だれが責任を負うべきかを国家として明らかにするという発想は独立回復後の日本国家の中に一粒も孕まれていなかったと見るべきであろうか。敗戦から七年、戦争責任についてまったく意識の外に追放した戦犯釈放決議は、それが国権の最高機関たる国会によって行われただけに、戦後日本国家の底部に帝国継承原理が自己免責コンセンサスの形で仕込まれてしまっていたことをはっきり示していた。

 A級戦犯としてスガモ・プリズンに収容されて屈辱を味わいつつ、名を惜しんで自刃せよとすすめた恩師に「名にかえてこのみいくさの正しさを来世までも語り残さむ」と詠んだという岸信介が、講和後、保守合同の立役者として返り咲き、一九五七年には首相になり、安保改定を手掛ける。岸はアイゼンハワー大統領との首脳会談の「環境つくり」として東南アジア六か国を歴訪する。原彬久の『岸信介――権勢の政治家』はこのアジア訪問の意味について岸自身の言葉を引きつつこう書いている。

 (東南アジア歴訪について)彼の目的は明らかである。「アジアにおける日本の地位をつくり上げる、すなわちアジアの中心は日本であることを浮き彫りにさせることが、アイクに会って日米関係を対等なものに改めようと交渉する私の立場を強化する」、というのが岸の「判断」であった。(『岸信介回顧録』)…岸におけるアジアへのこうしたアプローチが、日本を盟主とする彼の「大東亜共栄圏」思想ないし「大アジア主義」と必ずしも矛盾するものでないことは、やはり記憶されなければならない。彼は後年インタビューで、戦前みずからが抱いた「大アジア主義」と戦後におけるアジアへの関心とは「完全につながる」とともに、「自分が満州国に行ったこととも結びつく」こと、すなわち自身における「戦前」と「戦後」とは「おそらく断絶はない」し、「一貫している」と断言する。(岸インタビュー)(原 彬久『岸信介――権勢の政治家』、岩波新書、p190、1995)

 帝国継承原理は見事に生きていた。そして岸は日本国総理としてそれを実行に移した。一九五八年一月、このアジア諸国歴訪から帰った岸は国会での施政方針演説でこう報告した。

 当面する東西の緊張の中にあって、アジアは、その歴史にかつて見ない重要な地位と役割を持つにいたった。今やアジアは、世界を動かす新しい原動力である。これらの国々の大部分は、過ぐる大戦によって大きな痛手を受けたのであり、また、この戦争を契機として、長年にわたる隷属から解放されたのである。

 戦後国家によって帝国継承原理が政府の政策としてもっとも露骨に実践に移されたのが教育の分野であることは明らかだ。文部省はいわばこの原理の保存、管理、運用の機関であった。ここでは、教科書検定という形で、日本帝国の過去への批判的記述を抑え込もうとした文部省は、帝国継承原理の公然たる保管・運用官庁として機能していた。戦後期の大半、文部省は、教育基本法の下で平和教育を推進する日教組を敵視し、その破壊に多大な精力を費やした。一九六五年から三二年間、三次に渡って続けられた家永教科書訴訟は、家永三郎執筆の教科書の叙述への文部省の検定による介入と国家の検定制度そのものの違憲性を争うものであった。

 教科書検定においては、検定官が教科書から日本帝国の侵略、植民地化の描写を無難な表現に書き換えさせるという試みが一貫して行われてきた。家永訴訟の発端は、家永執筆の「新日本史」の南京大虐殺、七三一、沖縄戦などについての記述が不適切として不合格とされたことにあった。

 日本政府は一九五〇年代以来、文部省をつうじて、教科書検定によって、日本の中国侵略を「大陸進出」、朝鮮の三一独立運動を暴動と書き直させたり、朝鮮人強制連行や日本軍による沖縄住民虐殺の記述を削除させたり、一貫して日本帝国の行動を弁護する方向に歴史叙述を捻じ曲げる淫靡な努力を続けていた。そして一九八二年、中国侵略を「進出」と書き直させたとする新聞報道が中国と韓国の抗議を招き、教科書は外交問題に転化する。そこで政府がとった措置は「近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮」をするという「近隣諸国条項」の導入であった。これは外交問題としての配慮的処理であって、日本国の歴史観を変えるものではまったくなかったことは、例えば軍慰安婦問題が教科書記述からついに消されていくにいたる教科書検定をめぐるその後の展開からも明らかであろう。

 そして何よりも戦後日本は一九一〇年の韓国併合の合法性を主張し続けている。韓国という植民地は正当に取得され、どこからも異議を挟まれなかった、そして帝国の支配は搾取的ではなく、近代化に後れをとった韓国に経済的、社会的、文化的向上をもたらしたという主張である。一九六五年の日韓条約では、日本は植民地化への謝罪もなく、賠償も支払うことなく、一九一〇年の韓国併合条約は「すでに無効」という玉虫色表現を「当時は有効」と一方的に解釈しつつ国交を「正常化」した。

 ここでは、第二次大戦処理にあたって植民地化責任を問わないとする欧米諸国の態度、対日交戦国として韓国をみとめず、韓国の要求にもかかわらず対日講和署名国に加えないとする決定が背景として働いていた。イタリア講和条約とサンフランシスコ講和を比較して日韓交渉を論じた太田修は「韓国併合は合衆国を含むほとんどすべての国家によって承認されたという、米国の植民地支配認識」があったとしている。(李鐘元、木宮正史、浅野豊美編著『歴史としての日韓国交正常化』、法政大学出版局、p27、2011)一九〇五年、日露戦争の後をうけて、桂・タフト密約で、米国は大韓帝国における日本の支配権を、日本は米国のフィリピンの支配権を認め合うという植民地主義者間の合作の歴史からすれば、戦後処理においても米日合作が継続したことは驚くにあたらない。こうして朝鮮については、日本帝国の行為の継承性は米国の保証を得て戦後国家に公然と保持され、いまにいたるも生きている。東京裁判が一九三一年以後の日本帝国の行動に焦点を絞ったことは、それ以前の日本帝国の行動を問題にすれば、裁く側の侵略、植民地化が問題化するからであろうが、戦後日本は、それに付け込んで、サンフランシスコ講和発効時までの近代日本=日本帝国の朝鮮への侵略と支配をすべて正当化したのである。


                          (続く)
※次回アップロードは、9月4日(金)を予定しています。
※なお、本論説は、武藤さんが準備中の論文集の書下ろし原稿の一部になります(8月8日追記)。