※小倉利丸氏ブログより転載。
婚姻と権力

小倉利丸

2010年1月11日

今日の新聞で、女性から男性へ性を変更し、戸籍上も男性となった人とその妻との間に生まれた子どもが嫡出子としての出生届けを認められなかったことが報じられていた。妻は夫の弟から精子を提供してもらい、人工授精で子どもをもうけた。東京新聞の報道によれば、非嫡出子としての扱いは、法務省の「生物学的に親子関係がないことが明らかな場合、嫡出子として受理するわけにはいかない」(民事一課)が、他方で「生まれつき男性と女性の夫婦の子は、AIDの事実が分からない限り、生物学的にも親子関係があると推定し、嫡出子として受理」するという考え方に基づくものだという。(AIDは人工授精のこと)いわゆる性同一性障害による性別変更はすでに可能となっているのに、人工授精で生まれた子どもについては、非嫡出子扱いとするように国が指導していることになる。また人工授精で子どもをもうけたカップルは、もしこのことが知られれば、嫡出子としての扱いはしないということでもある。なぜ、ここまで厳格な生物学的な血統にこだわるのか、僕の価値観とは真逆だ。

 この法務省の態度は、法のもとでの平等よりも、親子の関係を生物学的な意味での親子の関係によって厳格に規定しようとする意思を強く感じる。しかし、現代の婚姻関係が「愛情」に基づくものであるなら、それが同性どうしであれ、異性間であれ、あるいは今回のケースのように「性同一性障害」によって生物学的な性とは異なる性をもつケースであれ、どのような場合を選択しても、それは選択する個人の自由に委ねられるべきものだし、誰を自分たちの子どもとするのかについても、そこに生物学的な親子関係だけを唯一のものとして認めるべきではない。

 さらに問題なのは、戸籍制度だ。戸籍の情報によって、生物学的な親子関係の有無が確認され、ここに嫡出子、非嫡出子の差別がうまれる。そうまでして生物学的な親子関係にこだわる理由はいったいどこにあるのか。親となることを確認した者が親としての養育の責任を負えばよく、そこに親子としての結びつきが作られてゆくはずではないか。それとも、生物学的な親子の関係が存在しなければ親子としての愛情が生まれないとでもいうのだろうか。国が、ここまで親子関係を厳格に管理したがる理由は、何なのか。いまだに、戸籍制度(こんな無駄で差別だけを助長するような制度は世界中をみても日本くらいなものだ)とこの制度が前提する「家」や「血統」を重視する態度がなくなっていない。このような態度は、婚姻を子どもを産むことと結びつけ、日本人という「民族」の幻想を再生産し、この列島に住む多様な人々を日本人と外国人、生物学的な「男」と「女」に分類して差別化するイデオロギーや価値観を支えている。

 しかもこうした生物学的な親子関係への固執は、今回のケースだけでなく、多くの差別や偏見を事実上もたらす。離婚や死別による再婚などで生物学的な親子関係がないが、実際には親子として暮らしている家族はごく当たり前にある。しかし、こうした親子関係に対しても、「本当の親子ではない」という偏見や差別が容易に口にされることがある。同性婚を認めないこの国の頑なな婚姻制度と同性紺への一般にある偏見も国家が固執する生物学的な「血統」へのこだわりと無関係ではない。このような親子の「血統」へのこだわりは、近代日本が家制度を社会関係の基盤とし、天皇制イデオロギーを「万世一系」という物語でつくりあげた戦前の国家制度とも無関係ではないだろう。というか、こういう荒唐無稽な「物語」以外にこの国の存在理由を見出せるような確固とした理念などは存在しないのだ。だからこそ、生物学的な血統にこだわるのだろう。

 自分の性、国籍、愛する相手、扶養する相手を選ぶ自由は、個人の自由、自分の身体や関係の自由の基本だろう。「おまえは男だ、男だったらこうあるべきだ」とか「おまえは、日本人だ、日本人ならこうあるべきだ」という道徳的な要求が必ずついてまわるからだ。法務省が強気なのは、この国ではまだまだ性や婚姻に関するステレオタイプな価値観が支配的で、戸籍制度への疑問もほとんどみられないからだろう。だが、その結果が、今回のような法務省や自治体による対応となっている。非嫡出子として差別されて不利益をこうむるのは、子どもである。「子どもに嫌な思いをさせる親」というレッテルが親たちに跳ね返る。その結果として、「性同一性障害」のひとたちの婚姻や子産み、子育てを萎縮させる。破綻した関係にありながら、離婚を我慢する。婚姻関係にない間柄で子どもをもうけることが躊躇される。そして、非嫡出子差別は、経済的社会的な制度にまで及ぶ。これは権力による構造的な差別というしかないだろう。

 子どもは子どもであり、血のつながりがあるかどうかとか、婚姻関係にあるかどうかとかとは別に、扶養や養育に責任をもつ大人は必要であるし、その意思を持つものが親役割を担うのだ。法的に杓子定規な対応をとらなければならないような事ではないはずで、人の関係の多様性を許容できない権力の不寛容が如実だ。やっかいなのは、こうした不寛容が、大衆的な偏見や価値観をつくりだしてしまうことだ。庶民感覚に国家の不寛容が反映して、人々が「血のつながりのない」親子や、婚外子を偏見をもって見てしまう。よくよくみてみれば、国家が想定するような理念的な親子関係ではなく、むしろ「例外」がもはや例外とはいえないくらいに多様にあることをみな知っているはずなのに、である。こうした権力の不寛容を覆すためには、ぼくたちが寛容になることがまず大切なことだ。性的マイノリティであれ人種や民族のマイノリティであれ、マジョリティとは異なる生き方やライフスタイルをとる人々を歓待することこそがこの国の頑なさを変える第一歩だと思う。