【つるたまさひで読書メモ】
『社会を変えるには』小熊英二著
第3回


4章の209pでは「重要なのは議論の盛り上がることだ」という。社会運動の側で議論の盛り上がりを作ることの大切さを小熊さんは書く。

その参加感が重要だという。自分が参加した議論の中で、ものごとが決まっていくという経験。これを読むと、やはりローカルなコミュニティから、いろんなことを考えていくしかないのかと思う。コミュニティは旧来の地縁・血縁型のものだけでなくてもいいだろう。それは、それとして重要なものだとは思うが、ともかく、彼や彼女がそこに参加感と発言できる雰囲気があるようなコミュニティが必要なのではないか。

4章のその後の記述と5章の記述に、ぼくはほとんどそそられるものがなかった。ここはなくてもいいんじゃないかと思えたくらいだけど、こういうのが好きな人もいりのか。社会を変える実践に興味があるなら、もしかしたら、この部分は飛ばしてもいいんじゃないかとさえ思うっていうか、ぼくはちゃんと読めなかったし、読んでもいないのだけど。

6章『異なるあり方への思索』

「この章では、代議制の自由民主主義が行き詰まってきたことをふまえた、思想的な模索を紹介します」

という文章で始まる。そして

「ここで紹介するのは、代議制の自由民主主義を、なんとか活性化させるために、どんなことができるかという思想が中心」

とのこと。335p

社会を変えようと思ったときに「代議制の自由民主主義を・・・活性化させる」という視点以外の視点も当然あるはず。それをどう考えるか。では、それ以外の視点とは何か。古くは社会主義革命とかだったのだろう。

で、うんざりするような話なんだが、安倍晋三とかいう人もやはり社会を変えようとしている。戦後国家のレジームチェンジを目指すという。それがめざす姿は自民党の憲法草案にでている。中国と戦争をかまえることのできる大きな軍事力を持った社会であり、そこでは、人権は天賦のものではなく、制限されてもしょうがない。また、当然にも、日本人以外の人権は制限される社会だろう。さらに安倍晋三と仲のいい麻生さんの話などを総合すると、医療費の削減のためには「(彼らにとって)役に立たない命」は軽視されてもいいような社会だ。ま、「社会を変える」ということを考えるときに、そんな方向に社会を変えようとしている人たちが、国会では最大の勢力を誇っていることを自覚しておくことは必要かもしれない。

現状で社会を変えようと考えるときに、あり得ない武装闘争での政権奪取や暴力革命を考えるより、「代議制の自由民主主義を・・・活性化させる」という方向で考えることはまっとうなのだろう。ただ、その先にあるものも意識しておきたいとは思う。「代議制の自由民主主義」は一定必要だとしても、そこを超える何かが欲しい。でもいま、それが何かはわからない。

この章の最初に書かれている、人は理性的に動くとは限らないという話、社会運動はどう捉えたらいいのだろう。この「理性的に動くとは限らない」だけでは不十分な気がする。例えば、ヴェーバーの【――人間の行動を直接に支配するのは、理念ではなくて(物質的ならびに観念的な)利害である。しかし、「理念」によって創り出された〈世界像〉は、非常にしばしば転轍機として、利害の力学が行動を推し進めて行くレールを決定したのであった。……】という記述をこの文脈に当てはめると、どうなるか。

ちょっと横道

これをメモするために、このヴェーバーの言葉をグーグルで探した。すると、こんなのが出てきた。『マックス・ヴェーバー物語―二十世紀を見抜いた男―』http://www.shinchosha.co.jp/books/html/603608.html ここに書いてあるのは、引用なのかなぁ。とりわけ以下の部分が面白い。

そうだとすれば、われわれに必要なのは、ひょっとすると地球を破滅に導きかねない現在の軌道を変えられる新たな〈転轍機〉の創出であろう。 以下は、これまで伝えてきたマックス・ヴェーバーの壮大で強靭な思考に触発された筆者のささやかな「価値判断」である。〈転轍機〉が必要なのは間違いないにしても、全世界を同時にひとつの軌道に乗せようとするような、強引でかつ巨大な〈転轍機〉は、可能ではないし、有効でもない。そのことは、過去の経験ですでに明らかになったはずだ。 いかなる一元論にも、決して絶対的な権力を与えてはならない。 これが過去の人類の全歴史を合わせたよりも、比較にならないほど多数の死者を出して得られた二十世紀の痛切な教訓である。一元論は、すべてを敵と味方に分ける二分法と表裏一体になっていて、自分の側を「善」とすれば、相手側は許すべからざる「悪」であって、それを絶滅しないかぎり、理想の世界は実現されない、という目が吊り上がった「正義」の狂気を生む。 したがって〈転轍機〉は、かならず複数でなければならず、二十一世紀は、世界中の各地、また国中の各地域に、それぞれの環境の特質を活かし、住民に平和と幸福をより多くもたらす中小の多様な〈転轍機〉が数知れず編み出されて、たがいにその有効性を競い合う時代になるのが望ましい。 とうぜんそれは、試行錯誤の連続となるだろう。

とりあえず、いまの支配的な方向を変えなければしょうがないのは間違いない。ぼくはどんな条件で転轍機が動くのだろうという方向で考えてきたのだけれども、こんな風にも言えるのか、というのは目からウロコだった。「ローカルの方向へ」とか「サブシステンスの方向へ」あるいは「脱開発の方向へ」ということは可能だけれども、そう、それは単数ではないと言えるのかもしれない。転轍機というと単数の別のコースに向かわせるイメージがあったが、別のコースであれば、それは単数でなくてもかまわない。アナザーワールドは「もうひとつの」ではなく「こうじゃない」と訳すべきと書いた小沢健二の話にもつながるかもしれない。

そう、問題はどんなときに人が動くのか、という話だった。とりあえず、理性的に動くわけではないということだけでも、それは大事な情報かもしれない。

349pからの『個体論でなく関係論』というのも、気になった。構築主義なのだと思う。つまり、個体論とは「私とあなた」を私はこういう存在であり、あなたはこのうような存在だと固定的にとらえるもので、関係論ではその関係が存在を規定していると考える。351pの図によると、主体があり客体があるのが個体論で、それを関係性において把握するのが関係論だと言い換えることもできるだろう。(個体論の話は最後の方で再び出てくる)