秋から冬にかけて、世界は新型コロナの感染拡大の大波に見舞われた。感染者は1億人を突破し、死者も210万人を超えた(1月16日)。日本でも感染者が5千人を超える日が続き、重症者が急増。病床の逼迫によって自宅療養を余儀なくされた患者が増え続け、容態が急変して亡くなる事態も頻発した。人びとは、先の見えない大きな不安のなかに突き落とされた。しかるに、菅政権のコロナ対応の無為無策ぶりは驚くべきものだった。GoToキャンペーンやビジネストラックをただちに停止せず、ずるずる引き延ばしたのは、その見本であった。そこには、経済活動の再開を優先する、東京五輪開催の足がかりを作るという意図が強く働いていた。さらには、官邸主導の下で官僚機構に忖度が蔓延し、危機管理と政策立案の能力がマヒしていたことも一因だ。その対応が「後手」「後手」と「朝礼暮改」を繰り返したことは、人びとの失望と怒りを買った。内閣支持率は急降下し、政権基盤が大きく揺らいだ。
ここに至って、菅政権は経済再生よりも感染防止に舵を切らざるをえなくなった。その優先目標を「新型コロナ対策と経済の両立」(10月26日の所信表明演説)から「新型コロナ対策」(1月18日の施政方針演説)へと付け替えた。そして、1月7日から、2度目の緊急事態宣言を1都11府県に発した。
しかし、急激な事態の悪化に対して、政権のその後の対応もいぜんとして小出しで中途半端なものに終始した。例えば、日本の病床数は人口1千人当たり13・1(OECD諸国は4・7)と世界トップクラスなのに、コロナ患者受け入れ病床が不足し入院できない人が急増した。これはもちろん、これまでの医療政策の新自由主義的な歪みや欠陥が大きい要因である。公立病院・公的病院はコロナ患者を積極的に受け入れているが、それを再編・統合する政策がSARS流行時からの警鐘を無視して進められてきた。また、保健所の業務が過多になり自宅療養の患者への健康観察が十分にできなくなっているが、これも保健所が大きく減らされてきたことの結果だ。
それでも、政府が自治体と協力して緊急にやれること、やるべきことは沢山ある。医療・介護施設の職員や感染が急拡大している地域でPCR検査を集中的に実施する(例えば広島市は80万人を対象に独自に実施する方針)。民間病院によるコロナ患者受け入れを促進するために、赤字補填の補助金を増額して速やかに支給する。人材確保のために看護師などの報酬を大幅に引き上げる。保健所のスタッフを増員するなどなど。
ところが、菅は、資金と人材をこうした対策に集中的に投入しようとはしない。第3次補正予算のなかのGoTo事業費1兆円を削って、コロナ対策に回すことを拒んだ。予備費はたっぷり残っているのに、時短営業する事業者への協力金(地方創生臨時交付金を経由する)を思い切って積み上げることもしない。それどころか、真っ先にやろうとしたのは、入院を拒んだ人に刑事罰を科す、時短営業の命令に従わない業者に過料を課すという感染症法と特措法の改正であった。刑事罰を科す前に入院できない状態を改善せよ! 要介護者や小さな子どもがいて入院できない人を支援せよ! 時短や休業で経営が成り立たない業者にまず十分な補償をせよ! 怒りの声が上がったのは当然のことだ。立憲民主党との密室協議で刑事罰は削除されたが、罰則は残った。政府の公的責任を棚上げして個人の自己責任を追及する、という本末転倒の法改正であることに変わりはない。
さらに、経済活動が落ち込み、飲食・宿泊・小売り業などで仕事と収入を失う人が急増し、非正規の女性を中心に多くの人が困窮に陥っている。こうした人びとに対する支援も、ケチケチしている。雇用調整助成金(休業手当)の特例措置と休業支援金の3月末までの延長、住宅確保支援金の再支給は決まったが、中小企業や個人事業主への支援は短縮営業の飲食店と取引先への補償(協力金)に限られた。持続化給付金と家賃支援給付金の継続・再支給は拒否された。この際、生産性の低い中小企業や個人事業主は淘汰してしまうという下心があるのかと疑いたくなる。バイデン新政権は、低・中所得層への1人当たり約20万円強の現金給付に乗り出す。日本でも、困っている人びとに対する一律10万円の現金給付を申請者に無条件(審査なし)で繰り返し行う、あるいは生活保護を親族への扶養紹介と資産保有条件をなくして給付するといった対策が行われるべきだ。
菅政権は、ワクチン接種による感染の急減、東京五輪の開催(1割強しか支持しない)に延命の道を求めようとしている。だが、この政権には望めるのは早期退陣しかない。
本号では、日本と米国の政治に起こった変化、菅政権とバイデン新政権の登場の意味と特徴を解き明かし、私たちに問われる課題を探ってみた。
白川真澄(本誌編集長)