主権はアメリカからではなく人民から「回復」するのだ
――四・二八「主権回復」政府行事をとりまく政治的景観

武藤一羊
(ピープルズ・プラン研究所運営委員)
出典:反天皇制運動機関紙「カーニバル」No.2(通巻345号、2013年5月14日発行)


 主流メディアの手放しの応援で舞い上がり、もはや「安全運転」の必要なしと見た安倍極右政権は、彼らの国家改造に向けて全力疾走にギアを切り替えることにした。

 安倍政権は四月初めすでに暴走に入っていた。副総理を含む閣僚に続く議員一六八名の集団靖国参拝、同日の国会答弁における安倍の「侵略」には定義がないとする「村山談話」否定発言。これらの挑発的行為は、韓国、中国からの強い抗議に出会ったが、それにたいして安倍は「いかなる脅威にも屈しない」と開き直って、両国との関係を平気でぶち壊した。「主権回復の日」はこの暴走の理念的な出発の儀式として位置づけられていた。

 しかしこの儀式は失敗したと私は見ている。四・二八は沖縄にとって屈辱の日、それを祝うとは、「県民の心を踏みにじり、再び沖縄切り捨てを行うもの」として、沖縄が真っ先に怒りの声をあげた。米国も安倍政権の「歴史認識」に不快を表し、米国主要紙は社説と論評で公然と安倍を批判した。多くの地方紙は批判の論陣を張った。「毎日新聞」は「首相の歴史認識を疑う」という明確な暴走批判の社説を掲げ、あの「朝日新聞」でさえ「主権回復の日、過ちを総括してこそ」と距離を置いた。

 その四月二八日の式典は異様なものであった。沖縄県知事は不快感を表して欠席した。天皇夫妻は出席した。数日前までの鼻息はどこへやら、安倍のあいさつは無内容の見本であった。「自主憲法」の制定も、戦後レジームからの脱却も語られなかった。そのかわり「「沖縄の辛苦にただ深く思いを寄せる努力」と沖縄の抗議に応答のそぶりを盛り、「トモダチ作戦」を持ち出して、歴史認識で不信を買っている米国にゴマをすってみせた。現実の儀式は、彼らの「新憲法」制定への号砲を国民に向かって放つ場からは程遠いものだった。

 後述のように、極右政権が用いる「主権回復」という概念は、独特の右翼ジャーゴンで、沖縄はもちろん、日本社会全体にも通用性を欠くものである。日本国憲法の尊重と擁護の義務を負う公務員である首相が「占領憲法」を(象徴天皇の前で)諸悪の根源と攻撃することはやはり無理だったのである。しかしこの儀式は「占領憲法」を葬るためにこそ提案され実行されていた。式典は安倍政権を骨がらみにとらえるこの矛盾を露わにしたのである。

 実際の儀式は右翼が支配した。天皇夫妻が退席しかかったとき、会場からの発声で「天皇陛下万歳」が叫ばれ、安倍も唱和した。天皇夫妻は困惑の表情だったと多くのメディアは伝え、これは一種の不祥事として扱われた。だが、この式典は、偶発か仕組まれたかは別として、「天皇陛下万歳!」を必要としていたのである。首相挨拶では無理でも、何とか「連綿と続く天皇中心の日本文化」の圏内にこの国家行事を引きこんでおきたい。「天皇陛下万歳!」は、行事に本来の意味を与えるシンボルとしての意味があった。「バンザイ」だけでなかった。式典に出席した「沖縄タイムス」記者は鋭く儀式の異様さを感じ取っていた。「児童合唱団が歌声を披露する場面でも不可解な空気が漂った。出席者に向かって舞台上で歌うのではなく、出席者と同じ舞台下から、天皇皇后両陛下や首相などが並ぶ舞台上に向かって「翼をください」などの歌を合唱した」。(「沖縄タイムス」4月二九日)なるほど。子供たちの歌は、壇上のお上に奉納されたのである。お上は国家であり、国家の中心は天皇である。それが安倍政権の「日本文化」であり、「とりもどす」べき日本である。

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 奇妙なことに、四・二八をめぐる自民党の「主権回復」議論には、サンフランシスコ講和条約と安保条約への評価がほぼ完全に欠けていた。一見不可解である。「主権回復」を祝うなら、両条約の締結を祝うことになるはずだ。だが、言うまでもなく、そうできない二つの事情があった。何より沖縄の米国支配への遺棄を主権回復と言いくるめることは不可能だった。内乱条項まで含み、米軍への基地の無期限提供を決めた安保条約を主権回復の達成と讃えるのも難しかった。逆に、右翼政権にとっては、講和条約第十一条で東京裁判を受け入れたことは、祝うどころか屈辱以外の何ものでもないことは明らかだった。立場は正反対だが、どちらの側にも一九五二年四月二八日を「主権回復」の日として「祝う」理由はありそうもない。

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 では何を祝うのか。安倍自民党が祝おうとしたのが、アメリカの占領支配からの日本の主権回復、と読もうとするのが誤りなのである。「主権回復」とは、日本支配集団が「占領憲法」を改定・廃止する自由の獲得、と読むべきなのである。占領が終わり、この憲法を片付けられる時代がきた。それが「主権の回復」なのだ。そしてそれは日本支配集団が、綿々と引き継いできた特殊な用語法なのだ。

 占領終結後、権力を吉田茂から引き継いだ鳩山一郎から岸信介までが、真っ先に取り組んだのは憲法改定と再軍備であった。「占領憲法」を変えて、彼らの望む「国のかたち」に日本を「取り戻す」好機が到来した。それこそが彼らの「主権回復」の内実であった。

 しかしこの時期の改憲攻勢は失敗した。議会の三分の二を獲得できなかったばかりか、岸内閣の一九六〇年の安保改定では、政権は、からくも新安保は通せたものの、平和主義と民主主義による民衆の分厚い抵抗にぶつかった。そこでそれ以後の自民党政権は、迂回コースの選択を余儀なくされた。それでも一九五五年、保守合同で成立した自民党は綱領に「自主憲法」の制定を掲げ、以後も掲げつづけたのである。

 だがなぜ彼らはこの憲法を嫌ったのか。三つの理由があろう。第一に日本国憲法は、抽象的ではあるが、大日本帝国の過去への批判と反省を、とくにその前文と九条で言い表しているからである。第二に主権在民が宣言され、貫かれているからである。第三に基本的人権が普遍的原則として導入されているからである。戦後日本権力にとって、このような「国のかたち」は心底から厭わしく、それを廃棄して別の「国のかたち」に変えたかった。それができるようになること、それが「主権回復」の意味するものだった。

 私は戦後日本国家が三つの相互に矛盾する正統化原理の便宜的折衷として構成されてきたと論じてきた。アメリカ帝国の覇権原理、日本国憲法の平和主義と人民主権=民主主義原理、そして、日本帝国の過去の行為を正当化し帝国を継承する原理である。この第三の原理は、戦後世界において表に出すことが難しかったが、戦後国家はけっしてそれを放棄しようとはしなかった。占領の終わりとは、平和と民主主義の原理の優位を押しのけて、この第三の原理を回復するチャンスに他ならなかった。沖縄を米軍支配の下に遺棄しようが、米軍基地が残ろうが、それはそれ。大事なのは「国のかたち」=「国体」であって、その核心は第二の原理=人民主権にある。「四月二八日は、敗戦国の日本が被占領体制から脱し、国家主権を取り戻した日である」と「産経新聞」主張は書いた(2013.4.29)。「国家主権は、自国の意思で国民や領土を統治するという、国家が持つ絶対的な権利を意味する。国民主権とともに重要な権利だが、戦後、日本国憲法の下で軽視されがちだった。主権回復の日、強い国づくり目指したい」。主権が二つあるのは不思議だが、人民主権でなく国家主権。これが主権回復の意味なのである。

 主権はアメリカから回復されるというより、なによりも人民の手から回復され、国家の手に移される。そこで初めて帝国継承の原理の貫徹が可能になる。主権在民の無効化と国家への主権の移行は、帝国継承原理のカナメの部分なのである。

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 ところで、私はいつのことを語っているのだろうか。鳩山―岸の一九五二―六〇年のことか、安倍政権の今日、二〇一三年のことか。実はどちらでもいいのだ。五〇年余の歳月を経て、事態はラセンを描いて同じ地点に戻ってきたのだからである。

 この二つの時点の間には半世紀余の歴史的時間が横たわる。その時間は〈戦後日本国家〉という構造によってほぼ安定的に充填されていたのである。それは自民党が、第三原理を露骨に表に出すことを封じられ、憲法民主主義を選挙マシーンとして都合よく使い、米国への忠誠を深めつつ、長期政権を維持した時間であった。社会党を中心とする戦後革新勢力は、平和と民主主義を旗印に、自民党政権と対峙したが、議会内三分の一勢力を大きく越えることはなかった。米国覇権原理と日本帝国継承原理の正面衝突は、間に平和・民主主義原理がバランサ―として挟まることで、とりあえず回避されていた。そして大衆的基盤に支えられた平和・民主原理の存在は、日本政府にいくらかの対米交渉力をも与えていたのである。このバランスは、一九九〇年代半ばから急速に崩れ始めた。平和・民主原理を下から支えていた社会党・総評ブロックが解体したからである。それに伴って、自民党は第三原理を奉じる極右の支配下に入った。

 〈戦後国家〉破産の産物である民主党政権の分解を踏み台に成立した第二次安倍政権は、それが政治生命を賭けている帝国継承原理を貫徹しうるだろうか。この原理はアジアの隣人との共存を不可能にするだけでなく、アメリカ覇権原理とも並び立たない。安倍政権は、「主権回復」を謳うことで、「平和主義・人民主権」の緩衝装置を外す決意を内外に示した。そうしながら、帝国継承原理への固執をアメリカに承認してもらうため、輪をかけた米国への同調と追従に走っている。
 
 ことは主権の所在に関わっている。国家か民衆か。安倍政権への高い支持率を見ると、今のところ民衆は自発的に主権を国家に預けているかに見える。この委任を取り消し、主権を民衆が回復できるかどうか、それが始まった攻防の最前線である。
(2013・5・3記)