極右による「国家改造」の性格
――耳栓・目隠しで「日本を取り戻す」(上)
武藤一羊
2012年12月12日記
極右勢力が権力を握り、戦後国家の崩壊の濛埃のなかで彼らの「国家改造」を強行する危険、そうなる弾みに目をつぶるわけにはいきません。出現しつつあるのは、どんな連立政権が望ましいかなど政局論議の枠に収まる生易しい状況ではないと私は感じています。マスコミが誘導する安易な社会意識を利用さえして、中央突破が図られる危険が存在します。あらゆる意味での支配の危機、破綻がこの状況を生みだしたので、この中央突破を挫折させる下からの民衆力もまた出現しています。しかしこの極右の国家改造への新しい対峙の戦線は未形成です。
どのような「国家改造」が推進されようとしているのか。自民党の政権公約を読んでみました。恐るべき右翼全体主義国家の約束が並んでいますが、それらの項目を個々に取り上げる以前に、それらの背後にある姿勢、このようなものを平気で公約として提出しようとする政治主体の立ち位置に何より深刻な問題が潜んでいると感じました。ヤバイという感じです。12月総選挙で安倍晋三率いる自民党が核になる政権がつくられる公算が高いとすれば、この政権公約の姿勢と方向で政策が実施されていくことになるわけです。この公約とその普及版である「自民党重点政策2012」は、最新の自民党の憲法改定提案とともに、極右政治家としての安倍晋三の見果てぬ夢である国家像を体現していることは明白です。
この文章を読んで私が衝撃を受けたのは、この公約が、恐ろしい唯我独尊、疑うことを知らない「ジコチュウ」的立場の上に組み立てられていることです。内向き、内訌的と言ってもいいですが、それは他者というものが存在しないかのごとく振舞うことを意味します。これは他者というものの存在を前提にしない「わが国」=日本についての作文なのです。「日本を、取り戻す」が安倍自民党のキャッチフレーズですが、その「日本」とは唯我独尊の国としての日本です。
むろんアメリカは存在することになっています。しかしそれは本来の意味の他者としてではなく、「日米同盟」という、自己なのか他者なのか弁別不能な一つの実体、いや自他の区別があってはならないものとして理解されているようなのです。「ジコチュウ」といっても、ここが戦後日本のちょっと特別なところです。一方では、唯我独尊の主体は、米国と区別されるわが国・日本ではなく、日米同盟に合体されてあるかぎりでのわが国日本であると見えます。しかし他方日本国が米国の一州でない以上、やはりそれは日本一国の唯我独尊でもあるのです。この奇妙な関係の中に今日の日本国家が行き着いた状況を解くカギがあると私は思うのですが、それは後に検討しましょう。
自己都合と日米同盟だけ―これは外交か?
この方針には本来の外交というものがないのです。政権公約」にはたしかに「外交」という項目はあります。しかしその中身は、「強固な日米同盟の再構築」ということに尽きると言っていいものです。外交領域での個々のテーマ、テロとの闘い、海賊対策、ODAなど項目は並べられていますが、外交方針というべきものは欠如しています。すなわち今日の激動する世界の評価に基づいて日本がどのような立ち位置で何を追求するかという視点はまったく欠けているのです。アジアについては「自由で豊かで安定したアジアの実現」と抽象的には友好関係を謳っているけれど、このアジアは対等な他者ではなくて、利用対象の資格でしか現れないのです。「アジアとの経済協力」については、アジアの「潜在力を引き出す」ため、「アジア市場の内需化に向けた」施策を実施、という自分勝手なもので、そのアジアがどうなっていて、何を求めているなどは考慮の外です。実際は近隣アジアとの関係は、「歴史認識」の問題に加えて、領土問題で正面衝突し、完全に行き詰まっているのに、それらを素通りして、「友好協力関係の増進」ができるはずはないでしょう。「公約」にある対アジア外交とは「米国の新国防戦略と連動した自衛隊の役割強化」で「抑止力を高め」中国と対決するということが本筋、本音なので、対アジア政策はつまるところ「日米同盟」の強化に収斂するという仕組みになっています。
さてその日米同盟ですが、ここでは日米同盟の強化ではなくて、その「再構築」が「外交」のトップの課題に掲げられています。そこがミソです。「再」とはむろん鳩山民主党政権が日米同盟を壊したという認識に立ってのことです。「民主党政権による外交の迷走により、日米の信頼関係が大きくそこなわれ」た。だから自民党は従来に輪をかけた忠誠を披歴して信用を回復しなければならない、という発想です。鳩山が「普天間基地の国外、県外移設」などとんでもない要求を持ち出したことが、大切な日米同盟にヒビを入れた。自民党はそれを修復するため全力をあげる。それが「わが国外交」の最大に任務だというわけです。鳩山が「国外、県外移設」に失敗したからけしからぬのではなく、身の程知らずの要求を言いだして、米国の不信と不興を買ったことが糾弾に値する、という立場です。この「公約」にも沖縄の「基地負担の軽減」などどこかに一行ほど入っていても、この「同盟再構築」外交では、沖縄の脱基地要求は考慮にいれる余地はまったくない、そのように組み立てられているのです。
私は、戦後日本国家の対米関係の特徴として、「増幅揺れ戻しの方程式」とでもいうべきパターンの存在を指摘してきました。それは日本国家がわずかでも米国離れを試みようと見動きすると、米国はそれに倍する力と幅で巻き返し、米国への倍加された忠誠を要求し、確保する、そして日本の支配集団は、それを先読みして進んでこの揺れ戻しに自分から力を加えることで、忠誠を証するというパターンの繰り返しを指すものです。(拙著「潜在的核保有と戦後国家」、社会評論社)あいまいながら「対等な日米関係」を謳った鳩山・小沢民主党政権の微弱な試みに対し、米国はそれに十倍、百倍する揺れ戻しをかけてきました。菅政権期の東日本大震災と原発破局での「トモダチ作戦」はこの揺れ戻しの増幅率をさらに大きくしました。今回、この揺れ戻しが、米国の戦略的「アジア太平洋回帰」と「空海戦コンセプト」による対中戦略の中で、軍事的にどのような形をとっているかは、『季刊ピープルズ・プラン』誌(No.58-59)で論じました。しかしむろん軍事だけではなく、経済を含む全分野での揺れ返しです。自民党の「公約」は「外交」の項目で「安全保障、政治、経済はもちろん、防災、医療、保健、教育、環境」などで「協調と協力を進め、日米同盟の一層の深化を図る」と言います。TPPはその具体的な姿の一つです。
さてこのような日米関係は、国家間外交ではありえません。外交とか外交方針は自分の立場を定義し相手の立場を認識したうえで立てられるものでしょうが、この「外交方針」にはそのどちらもありません。米国の疑いを晴らし、忠誠を高度化するという、一切の分析や認識を含まない態度表明でしかないなのです。日米同盟が基軸と繰り返しながら、そのアメリカについてのつきはなした認識もないのです。
すべては「日米同盟」を通じてなどという外交は外交でしょうか。アメリカもヨーロッパも経済はガタガタになり、覇権国の座から降りたくない没落期の超大国アメリカは中国と張り合ってアジアを囲い込むことで生き残ろうと必死になり、中国は、深刻な内部関係をかかえながら、アメリカと張り合いながら巨大な国際的権力要素として登場しつつあります。そうしたなかで、状況の分析も示さず、相手の札も読まず、自分の手札だけじっと見て勝負を組み立てる、それは子どもみたいな幼稚さです。しかしこれのような自分のヘソしか見ない(見えない)視点は「安倍的」であるだけではなくて、いまの日本社会で前提にされている構え方(とりわけマスコミの視点)であるように思えます。
冒険的愚行、一度で懲りず二度まで?
ジコチュウという点では、むろん大きく異なった状況・条件の下でではありますが、1930年代の日本軍部の視野、認識、振舞いが繰り返されつつある感があります。当時の日本は、中国民衆の侵略への抵抗の力を認識できず、ヒトラードイツの対英勝利に賭け、ひたすら自己の都合に合うよう世界情勢を解釈し、破滅につき走りました。天皇の統帥権の下での軍の無制限の決定権・政治支配権が、一元的な天皇主義ナショナリズムの社会的規範と自己礼賛の文化をつくりだし、革命派はもとより、体制内の路線的な異論の存在を許さない社会状況が生み出されました。実際の世界とジコチュウ的な世界認識とはますます乖離し、手直しではとうてい埋めることできないものになりました。都合の悪い客観的な情勢分析は退け、希望的観測だけに頼って冒険的国策を強行した結果がどうなったかは言うまでもありません。
アジア太平洋戦争末期に大本営発表がウソで固められたことはよく知られていますが、それは、そのはるか以前に、自己の欲望の対象として以外の他者を失い、近隣アジアの民衆を日本帝国膨張の対象としてしか見られなくなっていたことの(従って他者の側から日本帝国を見る契機の拒否の)最終的帰結だったと考えるべきでしょう。自己中とは、他者によって自己を測ることができず、自己の背丈(都合)を自己の背丈(都合)で測る悪循環を意味します。
安倍自民党の「ジコチュウ」は、安倍が属する右翼勢力の歴史観――日本帝国の過去を全面的に肯定し、過去の反省をすべて「自虐」として退ける立場――の無神経な政策化に表れています。「公約」にも、その一般向け要約である「重点政策2012」にも、とくに「教育」の項目ではっきり言われています。「多くの教科書に、いまだに自虐史観に立つなど偏向した記述が存在して」いるとして、これからは「副読本なども含めた教科書採択」について「文部科学大臣が各教科書で記載すべき事項について具体的に定める」としています。「国旗・国歌を尊重し、わが国の将来を担う主権者を育成する教育を推進」し、そのために「不適切な性教育やジェンダー・フリー教育、自虐史観偏向教育等は行わせません」。そして「いわゆる『近隣条項』に関しては、見直します」と言います。
公教育から「自虐史観」を排除するとは、明治以来、日本帝国がおこなった近隣アジアへの侵略、戦争、植民地化を肯定する極右史観を国家の名において採択することにほかなりません。それは日本帝国が踏み荒らした近隣アジアの人びととの関係を不可能にする立場、帝国の行為によって殺りくと破壊と屈辱を被ったアジアの人びとの声と視線には「耳栓」と「目隠し」で対応するという選択です。安倍晋三は、自民党総裁選に先立ち、戦後日本が曲がりなりにも過去への反省を表した村山談話と軍慰安婦について日本軍の責任を認めた河野談話を見直すと言明しました。「公約」によれば、日本がいま抱える最も尖鋭で敏感な尖閣・釣魚諸島問題について、「無人島政策」を見直し「実効支配を強化し」、「島を守るための公務員」を常駐させるそうですが、過去の反省を拒否するなかでこのような措置を強行することは、戦争による解決を選択することとほぼ同義です。安倍自民党はほんとうにその気なのでしょうか。
極右リーダーたちに本気で戦争する用意があるとは私には思えません。そのうち一人たりとも戦争の経験もなく、戦争が何たるかを知りもしない。そのなかで、自分のヘソだけ見つめながらこのような冒険的道に日本国を引きずっていく。それが最悪の政治行為であることは目に見えています。その危険に気づかず、警告も発せず、当たり前の政策の一つのように扱うことしかしない主流メディアの姿が、不幸にして今日の日本の姿を映し出しています。(続く)