何が論点か――大手5紙の元旦社説を読む

白川真澄

(2017年1月6日)


読売新聞――反グローバリズムの波に日米同盟強化で対抗せよ
 ここ数年、読売新聞の元旦社説は、安倍首相の所信表明演説の下書きかと思わせるような内容を書き連ねてきた。ところが、今年は「反グローバリズムの拡大防げ」と題して、めずらしく論点を絞った議論を展開している。
 トランプ米国大統領の登場を取り上げ、「『反グローバリズム』の波が世界でうねりを増し、排他的な主張で大衆を扇動するポピュリズムが広がっている」と、危機意識を募らせた現状評価をしている。「力による独善的な行動を強めるロシアや中国に、トランプ氏はどう対応するのか。既存の国際秩序の維持よりも、自国の利益を追求する『取引』に重きを置くのであれば、心配だ。米国が、自由や民主主義といった普遍的な価値観で世界をリードする役を降りれば、その空白を埋める存在は見当たらない」。
 社説は、トランプ外交への危惧を述べた上で、日本が米国に同盟強化を働きかけトランプを説得せよと主張している。「日米同盟の重要性をトランプ氏と再確認し、さらに強化する道筋をつけるべきだ」、「日米同盟による抑止力の強化が、東アジア地域の安定に不可欠で、米国の国益にも適うことを、粘り強く説明していくべきだ」、「[安倍]首相には国際政治が混迷しないよう、トランプ外交に注文をつけていく役回りも期待される」。安倍首相とそっくりの独りよがりの政治感覚だ。12月に真っ先にトランプに会いにいった直後に、TPPからの離脱のあらためての表明という返礼を受けるという大恥をかいたことは、もう忘れているようである。
 社説は、ポピュリズムが欧州諸国を席巻している現状を憂慮し、「米欧で反グローバリズムやポピュリズムが伸長する背景には、リーマン・ショックを契機とした世界的な経済成長の停滞がある」と分析する。グローバル化がもたらした巨大格差や中間層の没落、既成の政治システムへの不信や機能マヒといった事柄に目を向けない、おそろしく表層的な分析である。そこから、「自由貿易で成長復活を」という陳腐な処方箋が提案されている。自由貿易で「成長の復活を目指すしかない。それが国際政治の安定の基盤ともなろう」が結論である。経済成長を追い求めたグローバリゼーションが、反グローバリズムやポピュリズムを生み落としたというのに。

日本経済新聞――自由主義経済の旗を守り、第4次産業革命で活力復活を
 この新聞の社説も、読売社説と同じく、トランプが登場した世界では自由主義経済(自由貿易)の推進が必要だと主張している。
 社説は、トランプの登場が呼び起こしている株高・ドル高(円安)をまずは歓迎しながら、それに甘えるなと警告している。「トランプ次期米大統領が掲げるのは大減税、公共投資、規制緩和の『3本の矢』だ。世界的なデフレに幕を引くリフレーション政策だとはやす人々もいる。足元の円安・株高は日本企業に収益の改善をもたらしている。……。日本政府や企業はそれに甘えてはいけない」。
 一方で、トランプの掲げる政策には「自由主義経済を損ねる要素も数多く含まれている」。「だからこそ、日本は自由主義の旗を掲げる責務を負っている」、「安倍首相はトランプ氏にTPPへの参加を粘り強く説くべきだ」。力がこもっていない論調になっている。
 社説は、話題を変えて「加速するデジタル社会への対応」の必要性を訴え、「第4次産業革命を担う……物心ついたときからデジタルに親しんできた若手人材」の育成を主張する。「若者を前面に押し出せば、日本に活力が戻るだろう」。たしかに、人口減少=労働力不足の時代には、労働生産性の飛躍的な上昇に賭ける以外に経済成長の可能性は残されていないだろう。その意味で、AIやIoTなど第4次産業革命の推進を強調するのは分からないでもない。しかし、元旦の社説としては、勢いが感じられない。アベノミクスの大失速、ひいては「成長なき時代」の到来を映し出しているのかもしれない。

毎日新聞――持続可能な国内システムの再構築でグローバル化と共存しよう
 毎日新聞の元旦社説も、「世界とつながってこそ」と題して、「グローバル化がもたらす負の課題」にどのように対応するかを論じている。
 「トランプ氏の勝利と、それに先立つ英国のEU離脱は、ヒトやカネの自由な行き来に対する大衆の逆襲だ。グローバルな資本の論理と、民主主義の衝突と言い換えることもできる」というのが、現状認識である。この社説では「民主主義」の内容がイマイチ明確ではないが、グローバルな資本の論理と民主主義(大衆の意思)の衝突は「ポピュリズム政治家の台頭」、しかも「国際協調の放棄や排外的ナショナリズムといった『毒素』を含んで」いるポピュリズムの台頭という姿をとって現われたと捉えているようだ。この認識は、基本的に間違っていない。
 「米国がこうした[排外的ナショナリズムの]潮流をけん引す」れば「国際秩序は流動化し、国際経済は収縮に向かう」が、「日本はこの転換期にどう立ち向かえばいいのだろうか」。社説は「他国との平和的な結びつきこそ日本の生命線であるという大原則」に立ち帰るべきだと主張する。「自由貿易を軸とした通商政策やグローバル企業への課税のあり方、地球温暖化の防止対策など」を「多国間の協調」によって進めると述べられているが、まだ抽象的で部分的である。日米同盟の根本的な見直し、中国などアジア諸国との友好・協力関係の優先的な構築、世界的なマネーの動きと多国籍企業への国際的規制、そのための市民と労働者の国境を超える連帯といった課題は、(ないものねだりではあるが)提示されていない。
 次に、社説は「戦略的に国際協調の路線を歩むには、足元の安定が欠かせない」として、「少子化、その下での社会保障政策、借金頼みの財政、日銀の異次元緩和というサイクルが長続きしないのは明らかだ」と言う。アベノミクスへの批判を含意していることは、明らかだ。そこから、「日本がグローバリズムと共存していくには、国民の中間的な所得層をこれ以上細らせないことが最低限の条件になる」。民主主義には「社会の構成員として何らかの一体感」の保持が不可欠だが、「所得分布が貧富の両極に分かれていくと、この一体感が損なわれ」、民主主義が危うくなるからである。貧富の格差是正のための具体的方策は述べられていないが、「持続可能な国内システムの再構築に努めながら、……世界とのつながりを求めよう」というのが、結論である。
 なお、日経新聞も、1月3日の社説で「中間層を分厚くする工夫が大切であり」、「豊かで活力あふれる国であり続けるために重要なのは、開放的な経済であり、中間層が希望を持てる社会だ」と主張している。いまや全体の20%にも達する貧しい人びと(年所得200万円以下の世帯)は、置き去りにするのか、と思わず反問したくなる。

朝日新聞――民主主義の暴走への歯止めとしての立憲主義を再確認しよう
 朝日新聞の元旦社説のタイトルは、「『立憲』の理念をより深く」である。「あれっ」と思わせるが、民主主義が産み落とす鬼っ子としてのポピュリズムを意識しながら、それと対抗する原則として立憲主義が強調されている。
 「昨今、各国を席巻するポピュリズムは、人々をあおり、社会に分断や亀裂をもたらしている。民主主義における獅子身中の虫というべきか」と、現状を見ている。「民主主義は人類の生んだ知恵だが、危うさもある。独裁者が民主的に選ばれた例は、歴史上数多い」。たしかに、イギリスのEU離脱(そこにはEUの新自由主義的な支配に対する批判と抗議が含まれてはいたが)を決めたのは、国民投票という直接民主主義的な方法であった。トランプも民主主義的な手続きで選ばれたし、EU諸国の極右政党も選挙という仕組みを使って伸長している。民主主義は、移民排斥や女性・マイノリティへの差別の根深い意識や感情を表出させ同調的に大きくさせる装置になりうる。
 社説は、このポピュリズムに対抗する手段、民主主義の暴走への歯止めとして、立憲主義を持ち出している。「立憲主義は、時に民主主義ともぶつかる」、「立憲主義は、その疑い深さによって民主主義の暴走への歯止めとなる」。なぜなら、立憲主義は、「個人の尊重」を原理とするからである。
 排外主義的ポピュリズムとたたかうためには、グローバル化がもたらした巨大格差、政党間の対立や差異が消失した政治システムといった問題に立ち向かっていく必要がある。しかし、個人の自由の尊重に強くこだわる立憲主義も、対抗する理念として有効性をもつと言えるだろう。
 立憲主義の賞揚は、もちろん安倍政権による明文改憲への危機感による。社説は「自民党は立憲主義を否定しないとしつつ、その改憲草案で『天賦人権』の全面的な見直しを試みている」と批判している。しかし、安倍政権の改憲攻撃に対抗する理念や原則という役割にとどまらず、世界的な排外主義的ポピュリズムの波に抗する理念や原則として立憲主義の役割を位置づけたことは、評価できる。
しかし、同じ元旦の一面を飾った「試される民主主義」では、ポピュリズムが恣意的な「敵と味方」の区分によって社会の内部に多くの分断を持ちこんでいることを指摘している。とすれば、ポピュリズムの席巻に抗するためには、人びとのなかの多重的・多層的な分断を超えていく「連帯」の形成が求められていると言わねばならない。その意味で、個人の自由の尊重という立憲主義(リベラリズム)の論理だけではとうてい不足だ。連帯の構築、つまり「社会的なもの」の回復という論理が対置されねばならないだろう。

東京新聞――憲法の平和主義をあらためて確認する
 東京新聞の元旦社説は、驚くほど愚直である。「不戦を誇る国であれ」と題して、「平和主義、世界に貢献する日本の平和主義をあらためて」強調している。
 社説は、日本の平和主義を「先の大戦に対する痛切な反省」と「戦後憲法との関係」という2つの観点から捉えかえしている。そして、「日本国憲法の求める平和主義とは武力によらない平和の実現というものです」とシンプルに述べ、貧困や飢餓など「暴力の原因を取り去る」国際的な非軍事的活動を語っている。つまり「積極的平和」の構築を主張している。これは、集団的自衛権行使を可能にする憲法解釈を強行し「駆け付け警護」の任務を課せられた自衛隊を南スーダンに派兵する安倍の「積極的平和主義」に対する痛烈な批判である。
 米国は、読売新聞社説が不安がるように、世界秩序を維持する覇権国(「世界の警察官」)から降りつつある。オバマが始めたこの撤退を、トランプはさらに加速しようとしている。覇権国として振る舞うために必要な普遍性のある理念さえ捨てて。混沌と不確実性に満ちた世界に入る時代に、米国覇権の永続を前提にした「武力による平和」(抑止力論)という安倍流の「積極的平和主義」は役立たず、危うい。「武力によらない平和の実現」という平和主義の構想と実践にこそ、リアリティがあるはずだ。
 明文改憲への意欲をたぎらせる安倍政権と対抗する上で、このことを再確認する意義は小さくない。

〈追記〉
 1月4日付けの朝日新聞は、「資本主義の未来 不信をぬぐうためには」と題する社説を載せている。資本主義それ自体があらためて懐疑と不信にさらされている時代状況を反映していて興味深い。しかし、その結論は、「当面は資本主義を使い続けるしかない」、「経済成長を自己目的化するのは誤りだが、敵視したり不要視したりしても展望は開けない」とつまらない。
 ところが、同じ日の1面から2面には「『経済成長』永遠なのか」と題する論評(原真人)が掲載されている。「成長信仰」を批判し、「成長の鈍化はむしろ経済活動の『正常化』を意味しているのかもしれない。少なくとも成長は『永遠』だと思わないほうがいい」と締めくくっている。こうした脱成長の考え方が大新聞の一面を飾ることに、時代と社会の変化が端的に表れている、と思う。