参院選挙後の政治的光景:
   民主党は過渡的存在である――
     すべての政党は原則によって離合集散すべし
     

武藤一羊

2010年7月15日

 7月11日、参院選の結果は、梅雨空に似たうっとうしい状況の下に日本の政治を引き入れた。菅民主党の過半数割れという大敗北、自民党の思いがけない勝利、「みんなの党」というダークホースの不気味な躍進、社共両党の後退、そして衆参での与野党の「ねじれ」。視野は霧で閉ざされ、先の光景は見えない。昨年9月の政権交代から8カ月、権力をめぐる状況はしだいに当初の解放感を失っていったとはいえ、天気の変化は急速にきた。普天間基地の辺野古移設を認める日米共同声明(5・29)、社民党の政権離脱(5.30)、鳩山、小沢辞任(6・2)から、菅政権成立(6・8)へ、そして参院選での民主党敗北(7・11)、舞台が回り、シーンが一変するのに5週間しかかからなかった。

 だがこの芝居、いったい筋はどんなものなのか。そもそもこれは何の芝居なのか。もう一度舞台が回ったときどんな景色が開けるのか。政治においては、われわれは観客ではなくて、役者でもあり、裏方でもあり、演出家、脚本家でもありうるので、霧の中でこれからの筋書きをつくろうではないか。だがそのためには、やはりこれまでの筋を読み直す必要がある。自民党支配の崩落過程、そして昨年の政権交代の意味に遡ってみる必要がある。

私は昨年の政権交代が、民主、自民による二大政党制の幕開けなどではなく、50年にわたって戦後日本国家につくりつけの構造であった自民党体制とでもいうべきものの自壊を現していると考えた。中華人民共和国に中国共産党が抱き合わせになっているのに似ていて、戦後日本は独特の「党・国家」、「国家=自民党」であり、自民党とはこの国家装置の一部、選挙民をこの国家に統合するカナメであった。自民党は「国民政党」と自称していたが、それは理由のないことでなく、自民党を頭部とするこの国家装置全体は、万年野党の存在を組み込んで機能していたのである。

◎政権交代で“相続”されたもの

 昨年8月の総選挙での自民党の大敗と民主党の圧勝は、この国家装置の崩壊プロセスとの関連で、独特の意味をもっていたと私は考えている。第一に戦後の日本につくりつけになっていたこの装置はガタガタになり、足元から崩れていたということである。経済のグローバル化のなかで多国籍化した大企業は日本の国土や民益など足蹴に、外へ出ていったので、国内は空洞化し、一方膨れ上がる借金財政は利益誘導型の力を失い、国内では貧困、自殺、格差が拡大した。アメリカ・世界経済への一体化を進めた小泉「構造改革」(市場原理主義・ネオリベ)は社会の一層の荒廃をまねき、自民党支配の基盤を崩すことで彼の言葉通り「自民党をぶっこわした」。そのアメリカは軍事だけでなく経済でも世界支配の破綻に見舞われている。国家主義的右翼イデオロギーを軸に支配の破綻を繕おうとした安倍内閣が惨憺たる失敗に終わったあと、自民党は国家政党として国民統合をみずから調達する方策も能力も喪失していたのである。だから政権交代は起こるべくして起こったのである。

 この政権交代の特異性は、民主党が、支配政党自民党と、もっぱら政策・綱領で争って権力の座についたのではなく、「政権交代」を自己目的にして闘い、勝利したという点にある。奇妙なことに、去年の選挙運動中、麻生太郎は声をからして「政権でなく、政策を選んでください!」と呼びかけていた。他方、テレビ討論で「争点は?」と聞かれた岡田克也が「政権交代が争点です」と答えていた。それはこの政権交代の特殊な性格を端的に表わしていた。

 すなわちこれは、英米モデルのように、対抗する二大政党がそれぞれの政策公約をかかげて争い、選挙民が公約にしたがってその一つを選択するというものではなかったのである。政権交代それ自身を争点にして圧勝することで、民主党は、国家=自民党という構造を相続したのである。この構造自身がボロボロになり、使い物にならない状態にあるときにである。したがってこの遺産のなかには、国民統合の基礎としてつかえるものはほとんど残っていなかったのである。

 逆にいえば民主党とは、もともとこの意味での政権交代のための――ただそれだけのための――政党としてつくられていた。周知のように、民主党は、日米安保や憲法をふくむ基本的な問題について一致を欠き、リベラル左派から極右まで、新自由主義推進派から地元利益推進派まで、平和主義者から軍拡主義者までを包含する政治集団である。自民党レジームを倒し、政権に就き、自民党装置の入れ物をそのまま引き継ぐところまではそれで済んだ。だがその先は?

◎鳩山政権の迷走、そして裏切りへ――自民党装置への変態

 鳩山民主党政権は、滑り出しにおいて、中道左派よりの立場をとった。確定的なスタンスがないとはいえ、自民党との違いを印象付けることは不可欠であった。マニフェストには、鳩山の友愛主義とともに、「いのちを守る」、「コンクリートから人へ」と自民党の土建中心の利益誘導政治を批判し、市場原理主義を批判して、非正規雇用労働者の使い捨てを制限する方策を公約し、定住外国人の地方参政権や夫婦別姓を約束した。直接に下からの運動に支えられて誕生したのではなかったが、この政権はある程度社会運動からの圧力をプログラムに反映しようとしたのである。

 鳩山・小沢民主党が、自民党政権との違いを際立たせたのは、対米関係を対等なものに変える志向を表明したことであろう。マニフェストには「対等な日米同盟関係」へ向かって「米軍再編や在日米軍基地のあり方についても見直しの方向ですすむ」という文言が盛り込まれた。そして鳩山は、沖縄の負担軽減のため普天間基地の「国外、最低でも県外移設」を約束した。鳩山・小沢の対米関係対等化の志向は、憲法9条による非武装平和主義ではなく、改憲・自主武装と結びついたものではあるが、「米国いのち」の自民党では考えられないことであった。鳩山の約束は、基地の重荷からの自由を求める沖縄の人びとの声を国政の中心に響かせ、沖縄の基地問題をヤマト政治の焦点に投げ入れたのである。

 ここまでは鳩山政治の功績と認めるべきであろう。
 
 だが鳩山は「迷走」8カ月、与党・政府の統一意思を形成することも、米国と体当たりの交渉をすることもなく、約束を裏切り、圧倒的に表明された沖縄の民意を無視して、米国の意向のみに従う「辺野古舞い戻り」を選択したのである。日本政府が沖縄を背にして米国と対峙するのではなく、日米両国がテーブルの向こう側に座って沖縄と対決するというここ50年間続いてきた同じパターンを繰り返してみせたのである。なぜそうなったのか。

 この党が原則にもとづく政策決定と無縁だからである。自民党なき自民党装置に変態しつつあるからである。そこでは権力についていることが存在意義であって、立場や政策は取り換え可能なもので、原則に裏打ちされたものである必要はないからだ。

◎第三幕;すべての政治勢力に原則選択を迫れ!

 鳩山が倒れ、首相は菅に代わった。とたんに民主党は中道左派から中道右派に立場を変えたのである。「外交における現実主義」で対米信頼を回復するという。マニフェストからは「米軍再編や在日米軍基地のあり方についても見直しの方向で臨む」は無造作に削除された。菅はオバマに「日米同盟」への忠誠を再再確認することで総理の仕事を始めた。安保や沖縄はこの党にとってはその程度のことだったことが確認できるのだ。

 鳩山政権が初期に発していた解放感に比べて、菅政権は最初から抑圧的な雰囲気を発散している。開きかかった圧力がまの蓋を強引に閉めようとしているからだ。沖縄の基地と安保の問題は、参院選の争点から消し去られた。菅は民主党代表就任にあたって「普天間と政治とカネの問題」という「その二つの大きなある意味での重荷を鳩山総理には自らが辞めるということで取り除いていただいた」と語った。問題は中央政治から「取り除かれた」、沖縄県のローカル政治になったというわけである。
だがそれは政権のおごりであり、誤算である。この8カ月、沖縄は基地を拒否するとともに沖縄に平然と基地を押し付けて恥じないヤマトの差別を拒否し、いかなる頭越しの決定も拒否する意志を明確にしている。沖縄の米軍基地を中軸とする「日米安保」問題は、すでに浮上し、再度争点化を迫っているのである。原則的な政治スタンスなしには対処できない状況である。

 私は、民主党は過渡的政党であり、民主党政権は過渡的政権であると考えている。日本政治が行き詰まりを脱するには、民主党、自民党をふくめて、原則にもとづく離合集散、政治地図の塗り替えが不可欠であろう。最低(1)「日米同盟」と呼ばれる対米関係、(2)憲法平和主義、(3)日本帝国の戦争と植民地化への態度、(4)新自由主義=市場原理主義と社会的連帯、(5)人種、ジェンダーなどの社会的差別、などの原則的分野で、すべての政治勢力(党内集団・政治家個人)が立場を明確にすることが不可欠だ。それだけで今日の日本を覆う雲から晴れ間がのぞくことになるだろう。

 それをもたらすためには議会外に草の根の力がつくりだされ、それが政治家たちに原則選択を迫る方向で無言、有言の影響力をふるい始めることが必要だ。沖縄はすでに強烈な質量感を放射しつつヤマト政治の真ん中に存在している。それと連帯しつつ、ヤマトに原則に拠り、気脈をつうじる心の広い楽天的なピープルの存在を感知させることができれば、芝居はこのうっとうしい第二幕からダイナミックな第三幕に移ることができるだろう。

出典:「市民の意見」第121号(2010年8月1日発行、市民の意見30の会・東京