この文章はつるたまさひでさんのブログ
今日考えたことより転載しました。
【今月のお薦め/つるたまさひで】
「トイレの神様」と石垣りん
以下、昨日ツイッターでつぶやいたもの
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「トイレの神様」という歌が話題になっていて、聞いて、ちょっとうるっとさせられた。しかし、連れに「男はそんなこと言われたことないかもしれないが、女の子はけっこうそう言われてる」と指摘された。おばあちゃんを思う気持ちが素直で、男のぼくにはすっと入ってしまうということをもう少し考えたい
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知ってる人には少し古い歌かもしれない。先月、話題になっていたらしいがぼくは知らなかった。
トイレの神様
http://www.youtube.com/watch?v=Z2VoEN1iooE&
以下のようなインタビューや紹介番組も
http://www.youtube.com/watch?v=CXpQOqF3Tsc&
http://www.youtube.com/watch?v=tKzVpHPtVEc&
http://www.youtube.com/watch?v=DNKIJ5aqZm8&
ほんとに素直に歌ってるんだろうと思う。
で、ぼくもうるってきてしまった。
連れの反応は違った。
「男はこんなこと言われたことがないでしょ」
確かにそうだ。
「女の子はけっこうこんな風に言われてると思うよ」と連れはいう。
そんな風に言われて、初めて気がつく。
この若い歌手がジェンダーロールの固定化を図ってるってわけじゃないだろう。
ただ、素直におばあちゃんへの思いを歌ってるように、ぼくには聞こえる。
ほんとにおばあちゃんが好きだったんだなぁと思う。で、この歌、やっぱり好きだし、悪い歌じゃないと思う。
「でもね」っていう部分があることに気がつかないのが、ぼくの「ジェンダー意識」のレベルだったわけだ。
トイレの掃除も料理も洗濯も、ほとんどできないまま育った。それはぼくにとって、「不自然なこと」じゃなかった。いまでも出来ない部分は少なくない。もう7年だか8年になる連れとの暮らしの中で鍛えられた部分もあって、毎日、弁当も作るようになったけど、なかなか自然にできないことは多い。
ぼくは毎日弁当をつくるだけで「えらい」といわれたりする。ほんとはあるもの(あるものは自然にあるわけじゃない)を詰めてるだけだ。で、「えらい」っていわれてうれしくないわけがない。実に単純だ。
ここで石垣りんの詩を思い出す。
「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」
http://tu-ta.at.webry.info/200803/article_19.html
に全文引用してるので、ぜひ読んで欲しい。
この詩はこんな風に始まる
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私の前にある鍋とお釜と燃える火と
それはながい間
私たち女のまえに
いつも置かれてあったもの、
===
だけど、そこで終わらないのが石垣りん
彼女はこの詩の最後に以下のように書く
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炊事が奇しくも分けられた
女の役目であったのは
不幸なこととは思われない、
そのために知識や、世間での地位が
たちおくれたとしても
おそくはない
私たちの前にあるものは
鍋とお釜と、燃える火と
それらなつかしい器物の前で
お芋や、肉を料理するように
深い思いをこめて
政治や経済や文学も勉強しよう。
それはおごりや栄達のためでなく
全部が
人間のために供せられるように
全部が愛情の対象であって励むように。
===
また、この詩によせたエッセイにはちゃんと
「今迄の不当な差別は是非撤回してもらわなければならないけれど」
とも書かれている。
この詩に本質主義的な危うさを感じる人もいるかもしれない。でも、ぼくはこんな風に思う。
炊事は「奇しくも分けられた女の役目」だったけれども、生活の基本的なことであり、それは男もとりかえさなければならないことだ。生活の基本的なことをちゃんと男も取り戻すことができれば、見えてくる世界は異なってくると思う。同時に政治や経済を男に独占させてはいけない。
植村さんっていう若い女性の歌手にも
おばあちゃんのいのちへの思いを、
そこに終わらせないでほしいな。
気立てのいいお嫁さんになるのが夢だったかも知れないけれども、いのちを大切にしない、大切なことを忘れさせる社会の仕組みについて考えて欲しいと思う。