【今月のお薦め/つるたまさひで】
『越後妻有』に行ってきました


今回はちょっと変化球ですが、見てきた展覧会の話を書こうと思います。
一部では話題の「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2009」

公式ガイド(美術手帖2009年8月号増刊)には以下のようなコピーがあります。
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里山とアート

日本の原風景、里山と
現代アートが出会った!
760平方キロメートルにわたる
新潟県の越後妻有地域で
2000年から3年に一度
開かれている国際展

故郷の記憶と夢を

米づくりを生業とする豪雪地帯
人々は年をとり
若者は土地を離れていく
それでも、アートの力が空家や廃校など、
置き去りの場所を蘇らせる
暮らしに息づく知恵を見直す

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また、プロデューサーの福武總一郎さん(ベネッセ CEO)とディレクターの北川フラムさんによる以下の文章もあります。
ちょっと長いので、途中をはしょって紹介

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未来を照らし出す里山の記録

大地の芸術祭
越後妻有アートトリエンナーレ2009
開催にあたって


田舎でこそ力を発揮する美術

日本の地域はとても疲弊しています。荒地、泥沼を開墾し、山腹に棚田を作って必死に稲作に励み、営々と農業をやってきたら、突然、「米はいらない」という国の方針です。

近代化の課程で、若い労働力は都市に流出しました。それでも残された人たちは[……]痛みをこらえることができました。しかし、「農業は切り捨て」「遠い田舎は効率が悪いから、見切りをつけて都市、あるいは地域の中心部へ移住せよ」とは無理難題です。そのうえ、農業をやめたらお金をあげるとは、あまりのことです。

私たちは私利私欲で生きていますから、お金をくれれば手を出してしまう。しかしそれは人間の誇りを傷つけます。祖先がつくってきた田園、美しい集落、お墓はどうなるのだろう。爺ちゃん婆ちゃんは元気をなくしました。

大地の芸術祭は「いくらなんでもそれはないだろう。もし美術が[……]、人間の友達だったとしたら、[……]人々に愛され、人々に元気づける力があるならば、美術はこの田舎でこそ、その力を発揮できなくてはならない」と企画されたお祭りです。

美術は、自然と人間、文明と人間、社会と人間との関わりを知るための方法、技術でした。


名前を呼んでもらえる故郷へ

「中山間地の」「農業をやっている」「お年寄り」と「都市・外国で」「何をやっているかわからないが美術なるものをやっている」「アーティスト・若者」[……]2000年の第一回[……]より、無数の批判、疑問を浴び、多くの葛藤を生みました。

しかし、地域の永年の労働、密度ある集落、そこでの豊かな生活を寿ごうというアーティストたちの作品は、その制作の過程で人々の心をほぐし、共感を呼び、赤ちゃんのもつ頼りなさ、赤心をもって、さまざまなものをつなげました。[……]

もともと地域には他者、あるいは都市の専門家が必要であると思っていました。しかしこの10年の経験で、実は都市の人間にこそ、田舎を欲しているのではないかと思うようになりました。

東京(首都圏)にはお金と情報、記号が氾濫しています。そこでの価値観は「最新、最大」の情報に「最短」でアクセスできることです。またそこには興奮、欲望と消費、変化があふれていますが、人間の五感、身体、感情に深く染み入る関係性はありません。

[……]

それぞれの全的活動の契機として

[……]農業を通して大地と関わってきた集落の濃密な時間の蓄積に接して、驚いたアーティストたちは、それらの光景、時間、生活を寿ぐべき作品をつくり出しました。

[……]

妻有では美術が、生きていくための手だて、世界や社会を理解するための方法として蘇ってきました。彫刻、絵画、インスタレーションだけでなく、食や身体表現、音楽、ピクニック、映画といった、地球と人間を深く把握し、誰もが関われるような企画が増えてきました。

地球環境の危機、資本主義の隘路を迎えている現在、私たちにできることは多くの労苦と数限りない踏分道を前に、土地の力を指針として生活してきた先祖、地域に深く入りこみ、そこで学び、生きること。個々の人間の全的活動、内的本性の発現を促すことしかありません。美術はそのための方法です。


無限の交錯する祭の魅力

[……]

==引用ここまで==


「越後妻有アートトリエンナーレ2009」に行ったと書きましたが、アジア女性資料センター主催の富山妙子展を中心に企画された越後妻有+松代大本営見学ツアーに参加したのです。いろいろ経過があったようですが、このツアーは男にも開かれていて、偶然にも、申し込んでいる3名の男性参加者がPP研会員だという話を聞いていました。この3人が書いた本で本棚1段は埋まるというような濃いメンバー。ぼくは富山さんの展覧会もあるし、今年こそ越後妻有に行きたいと思いつつ、このツアー参加者も濃くてすご過ぎだし、行けそうにないかなぁ思っていました。そんな中、ツアーの10日程前ですが、あと数名参加可能というアナウンスがMLで流れました(あとで聞いた話では女性向けのつもりのアナウンスだったらしいのですが)。ここで行かなければ行けそうになかったので、ちょっと迷ったのですが、行くことにしました。

はじめて行った越後妻有(このトリエンナーレは4回目)、楽しいし、面白い。そしていろいろ考えさせられます。ツアーなので、自分ではなにも考えず、与えられたところ二十数カ所を駆け足で回っただけです。(300以上の作品が展示されています。)それでも十分に楽しいし面白かったです、っていうか、始めて行って、一人で行きたいところをチョイスして回るのはかなり大変そうだ、とも思いました。

この展覧会では、コピーにあるように、廃校や廃屋という置き去りにされた場所がさまざまな形で蘇っています。話には聞いていたのですが、行ってみないとわからないことに満ちています。これはひとつのアートの可能性。想像力を喚起させるアートの力がここにあります(もちろん、好きなものばかりじゃないですが)。

人がどんどん減少している中山間地に外から人がきて、その地域が肯定されることで、年寄りも元気になっていくというプロセスは話を聞いているだけでも気持ちいいものです。

こんなことがありました。いくつかの作品が置かれている上野集落(ここは企画されている北東アジア芸術村の中心でもあります)で、北海道から参加したPP研のHさん(彼の現代アートに対するコメントはとても面白かったです)が道端の畑で農作業をしている婆ちゃんと話していました。89歳だそうです。ぼくも途中から横で聞いていたのですが、その婆ちゃんが収穫していた一抱えのきゅうりをHさんにくれるというのです。最初は申し訳ないと言っていたのですが、結局、喜んでもらって、バスのみんなで分けました。とてもおいしいきゅうりでした。そんな風に婆ちゃんが現代アートを見に来た客をもてなし・もてなされる関係なんて、他にはないはずです。

ちなみにこの集落には金九漢(キム・クーハン)という韓国の作家の(有名らしい)「かささぎたちの家」という巨大な焼き物でできた家(家としては小さいですが)があります。2003年のときに出来た作品らしいですが、金九漢は毎日、集落の人と酒ばかり飲んでいて、集落の人は本当に何かできるのか、心配したそうです。

いろんなエピソードはきりがないくらいあるようですが、小さな集落に何台ものバスや乗用車が入り込むのはうんざりすることもあるだろうと思います。でも、地域の人はそれを受け入れつつあるようです。夏休みの一ヶ月半の会期が長いのか、短いのかわかりませんが、現代アートが中山間地に置かれることで、背景を含めた空間全体がアートになり、響きあうものが発生します。当初はほとんどすべての集落で反対されたというこの企画が徐々に受け入れられていくプロセスと重ねて、その異化された空間を見るとき、ぼくには文章ではうまく表現できない感覚がぼくの中に生まれているのを感じます。北川さんと福武さんが連名で(たぶん内容は北川さんが)書いている、上に引用した文章の
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地球環境の危機、資本主義の隘路を迎えている現在、私たちにできることは多くの労苦と数限りない踏分道を前に、土地の力を指針として生活してきた先祖、地域に深く入りこみ、そこで学び、生きること。個々の人間の全的活動、内的本性の発現を促すことしかありません。美術はそのための方法です。
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というのは、そういうことなのかと感じます。

ひとつひとつの作品にここでコメントすることはできないし、富山さんの展覧会の評価も書けないっていうか、そんな能力はないのですが、少し、印象に残ったことを書いておきます。きれいに磨かれた古民家(以前は廃屋だった)に複雑で立体的な蜘蛛の巣のようにワイヤーを張り巡らせ、そのワイヤーの中に作家自身の身体を浮かび上がらせたグレゴリー・ゴームリーの作品を見て、北海道から来たHさんが「このワイヤーがなければ、(この民家は)とても美しいのに」というのです。これには、ちょっとうなりました。

また、富山さんの展覧会。富山さんの全仕事の展示というような展覧会がいままで、ちゃんとやられていないということが、日本のアートシーンの問題を表しているように感じます。彼女の全仕事の展覧会はもっとさまざまな場所で開かれる意味があるのに、と思います。今回の彼女の展覧会もあまり注目されているようには思えません。そんなアートシーンのありかたが問われる必要があると思うのです。

ともあれ、このトリエンナーレがアートの新しい可能性を見せていることを、ぼくはすごいと思います。北川フラムさんの個人的な力も大きかったのでしょうが、閉じた美術館で見ても、それなりに面白い現代アート、その多くは自然をテーマにしていてもとても洗練された都会的なものですが、それが田舎に置かれることで、見るものまで共振させるそのチカラを、あたかも自分が発見したかのような感じにさせます。

また、ツアーをガイドしてくれた「こへび」(*)というより「中へび」で、新潟県の職員でもあるTさんも言っていた話ですが、これで完全に地域が再生されるわけではありません。しかし、長く生きてきた地域の老人がその地域の歴史ごと肯定され、そこに笑顔が戻るなら、それだけでもいいじゃないかという話は本当にそうだと思のです。人のいなくなった学校や家に灯がともるのは悪くないはずです。


「でもね」、っていうこともやっぱり書いておきます。これと同じことは他ではできません。日本中の中山間地で破壊は進んでいます。霞ヶ関では平成の町村合併の後は集落の再編だと公然と言われているようです(内山節による)。最初に引用した文章の「遠い田舎は効率が悪いから、見切りをつけて都市、あるいは地域の中心部へ移住せよ」という話です。

それを止める方法がをもっとさまざまな形で探す必要があります。それぞれの地域で、さまざまな形で地域の再生が図られなければならないと思います。アートの力だけでそれが可能になるわけではありません。そこにはもちろん政治も必要でしょう。そして、それだけでは足りません。政治・社会・文化を貫くさまざまな形での取り組みとそれに伴う価値観の転換が問われているのだと思うのです。

価値観の転換という話で、山之内靖さんが『マックス・ヴェーバー入門』で紹介している以下の文章を思い出しました。
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 人間の行為を直接的に支配するものは、利害関心(物質的ならびに観念的な)であって、理念ではない。しかし、「理念」によってつくりだされた「世界像」は、きわめてしばしば転轍機(ターンテーブルのルビ)として軌道を決定し、その軌道の上を利害のダイナミックスが人間の行為を推し進めてきたのである。
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そして、山之内さんは、その『世界像』の革命が必要であると説き、それが転換していくプロセスが進行中であると、最近の本などで書いていると思います。

ここでいうところの世界像の書き換え、それはひとつひとつの具体的な取り組みを抜きに実現しません。

そんなことを喚起してくれた妻有トリエンナーレでした。現代アートの多くは確かに見るだけで楽しいこともあるのですが、それが消費されるだけだとしたら、それはちょっとつまらない。そういうのもときどきはいいかもしれないけど、それだけじゃね、と思うのです。

つまり、アートがかきたてる想像力に喚起されたら、そのわくわくした感じを大切にして、こんなふうであって欲しくないっていう社会をなんとかするために自分を動かす力にできればいいなと思ったわけです。


*「こへび」とは、このトリエンナーレの若いボランティアの呼び方。


P.S.『経済成長って何で必要なんだろう?』というタイトルで経済成長の必要性を説いた新書の感想にしようか迷ったのですが、やめました。
 ぼくは、『経済成長は必要』という声はまだまだ主流で、それがなければ『私たちは豊かになれないのだろうか』というような声は傍流だと思っているのですが、この本の主要な著者の飯田泰之さんは『脱経済成長』という声の高まりに危機感を感じているようです。そんなに大きな声になってるとしたら、ぼくにはうれしい話なんですが。