測定とミクロの権力(旧稿の掲載にあたって)/小倉利丸
小倉利丸氏ブログより転載
2011年3月21日 17:20
昨日、今日と東電前で抗議行動が行われ、明日も行われる。ぼくは、富山にいて東京にはいないが、ustreamのライブを見ていた。見るという受動的な行為からさらに直接の行動へという呼びかけが、ネットを見て参加した人たちから訴えられていた。行動を呼びかけた園良太さんのアピールは、これまで聞いたアピールのなかでももっともまっとうなものだと思う。
運動のこれまでの基調が、首都圏ですら、どちらかというと危険から逃げることに関心が集まってきたように思うが、そうした首都圏の運動をぼくは、違和感をもって傍観してきたのだが、東電前の抗議行動にはそうしたスタンスはない。園さんや、多くの発言者は、東京こそが福島原発の悲劇の加害者であるこを自覚している。このことが、運動の出発点におかれることに僕は深く共感する。多くの人たちが原発現地から避難するのは当然として、さらに首都圏からも金と時間のある人たちが退避しはじめているなかで、活動家の使命は、今の状況を踏まえればむしろ福島との距離を縮めることだろう。
1988年、今から20年以上前に、ぼくが『クリティーク』(青弓社)という雑誌の編集に携わっていたとき、「反原発、その射程」という特集を金塚貞文さんの協力で作ったことがあった。この特集に僕は「測定とミクロ権力」という文章を寄稿した。当時、チェルノブイリ原発事故と伊方原発出力調整実験をめぐって、原発の危険性が実感としても多くの人々に感じられ、反原発運動もこの危険に対してどのように運動の基本的なスタンスを作るかをめぐって、多くの議論がなされた。放射能汚染の危険のなかで、危険から逃げることが必要だが、その危険な状態は五感ではわからない。だから放射能汚染を測定し、危険からの避難を運動化しなければならないという切実な実感が運動のなかにもあった。しかし、はたしてそのような運動でいいのだろうか?という疑問が当時議論された。この疑問をめぐって僕が当時考えていたことを文章化したものだ。チェルノブイリ原発の被害が、日本では直接、緊急の生命の危険にはつながらなかったが、しかし、それでも「危険」への敏感な反応が運動の多くに拡がった。それは、一面では正しいが、他方で、すべての人たちが逃れられるわけではないことを前提した場合、測定という問題は、価値判断と行動をめぐるかなり深い判断が問われる問題を含んでいる。専門家ではないが、専門家への批判的な判断力を持たなければならない。私も含めてある種の活動家あるいは市民運動の担い手である者が持つべき観点と責任は、一般の市民と同じだということにはならないと思う。政府は、安全基準の数値を次々に反故にして安全の枠を広げ、「正しい情報」はマスメディアや官邸からもたらされるという宣伝に対して、実感ではなく論理と思想に基づいて批判することは、物理学者などの仕事ではなく、「素人」の役割である。それが、政治の意思決定の基本を民主主義とする社会が持つべき本質である。(日本はとうていこうした意味でも民主主義社会とは言えない)専門家に委ねず、自らの実感を素朴に信じることもしてはならない(実感はこの社会が私たちの身体に植え付けるものでもあるからだ)。しかし、確信ももたなければならない。これは、ある意味で困難な問いであるが、同時に答えをみいださなければならない思想的な問いであり、世界観に関わる問いである。科学はこの問いへの答えの一部を構成するだけだし、政治の力学はこの問いを、現状を肯定するイデオロギーによって押さえつけようとすることを自覚することが必要だとおもう。私たちだれもが、判断の主体である。誰にも判断を委ねてはならない。
福島原発の問題は、当時とは異なるより切迫した状況をもたらしているが、そうであればこそ、測定し逃げることを運動化する前にまだやれることは多くあるのではないか。。とりわけ、東京電力の本社と中央政府がある首都圏の運動の活動家であれば、踏みとどまることが今必要だと思う。退避を運動化するのであれば、原発現地を最優先に、現地の退避を支援する運動こそが、そしてまた国境を越える被害への深慮が求められていると思う。
小倉利丸
測定とミクロの権力