オルタキャンパス「OPEN」2012年
【連続講座】運動史から振り返る原発と原爆


<運動史から振り返る原発と原爆
   ――被爆国日本はなぜ原発大国になったのか>

【発言録】

第1回 50年代原水爆禁止運動のなかの平和利用論
 発言者 武藤一羊(ピープルズ・プラン研究所)
 2012年1月21日

 加納さんありとうございます。問題の大枠、とくに高度成長期、消費社会に入りかかる時期の日本社会の気分やその中での原子力の受け止め方について、生き生きと語っていただいたので、僕はそれを前提にして議論することにします。加納さんの出された大枠については僕は加納さんと共有しているとご理解ください。レジュメをお配りしてありますが、ここには四十分では語れないくらいいろんなことが詰め込んであるので、その中からつまみ食い式に少し話したいと思います。

 今日のテーマは「五十年代原水禁運動のなかの平和利用論」ということなので、できるだけそこを中心にお話します。

 僕は一九五〇年代の終わり、57年から59年にかけて、原水協で、事務局スタッフをやっていました。まだ若かったですから、生意気な若者で、いろんな方に迷惑をかけたりしました。数年前から、この当時にこの運動に関わっていた方がだんだんと亡くなり、淋しくてなったので、聞き取りをやろうと提案し、何人かの仲間ができ、四年ほどかけて聞き取りをしえ、ようやくそれが完成したところです。この聞き取りを一緒にやった山村茂雄さんは今日も見えていますが、長年原水協に関わっていらっしゃって、この運動についてあらゆることをご存じの語り部です。原水爆禁止運動については、本当に生き字引です。それで今回の講座でもだいぶ山村さんのお世話になって、いろんな資料を見せていただきました。

 さて、本題ですが、平和利用をいうまえに、戦後初期の日本社会が広島、長崎への原爆使用というものをいったいどうで考え受け止めていたのかという問題が、一つあるんですね。平和利用じゃなくて軍事利用、都市人口の無差別虐殺。その原爆使用に対して日本の民衆はどう思っていたのか。四五年八月に原爆が落ちた時、僕は一三歳、中学二年生でしたけれど、これが原爆であることはみな勘づいていたんですね。熱線が恐ろしい。防空壕に光るトタン板を貼れば大丈夫、熱線を跳ね返すからなどと、後に三菱重工の技師になった友人が教えてくれて、納得していた、そういう世代なんです。

 僕は原水協にいたと言っても、国際部のスタッフで、日常的に地元を歩く仕事じゃなかった。日本原水協というのは「中央」なんですよ。中央事務局。だから、なんて言うのかな、目線が現場でやっている人とは違ってくるんです。運動を担っている人たちとは日常的に知り合い、話をきいたり議論したりということはあったけれど、やはりそれは現場とは違うし、その上国際部ですから日本原水協でも組織部のような部署のスタッフより現場から遠い、そういう部署でした。広島と長崎の状態について、被爆者のなかまの運動者との付き合いのなかから、個人的に身近に感じていたことはたしかですが、振り返ってみると特別の知識はなかったですね。で、今回山村さんの助けもかりて、被爆後の広島について少し資料を当たってみました。長崎については触れる力がありません。

 今回、敗戦直後期の広島で原爆というのがどういうふうな位置を占めていたか、どういうふうに受け止められていたかということを、少し調べてみました。中国新聞社が『ヒロシマの記録』という連載を本にしたものを出していて、その資料編に詳しい年表があり、それをたどってみました。そしたら知らないことがいっぱい出て来ました。お配りした資料の後ろの方にあります。

 まず原爆投下一周年、一九四六年八月六日がどういうふうな迎えられ方をしたかと言いますと、午前八時十五分、全市民が黙祷するわけですね。そして、仏教、キリスト教、神道、全部集まって追悼式をやります。そこに被曝一周年に寄せるメッセージが衆議院議長の樋貝詮三という人からよせられて、読み上げられる。「原子爆弾の破壊力に端的に示された新エネルギーの威力が、すべて世界の恒久平和への新しい礎石となって建設的新生発展への力強い推進力とならんことを切に望んで止まない」という内容です。これはすでに「この犠牲のおかげで平和が来た」式の議論の始まりです。

 当時の広島市長は木原さんという人です。この木原市長の言葉というのに、僕はショックを受けました。こうあります。「本市が被りたるこの犠牲こそ、全世界にあまねく平和をもたらした一大動機を作ることを想起すれば、わが民族の永遠の保持のため、はたまた世界人類恒久平和の人柱と化した十万市民諸君の霊に向かって熱き涙を注ぎつつも、ただ感謝感激をもってその日を迎うるのほかないと存じます」。すごいです。感謝感激と言っています。誰が、何に、また誰にむかって感謝感激するのでしょうね。その後に花電車と山車が繰り出され、7日まで演芸大会が開かれる、と年表にはあります。これが一年経った広島の姿です。被爆した人たちはそれをどう見、感じたのでしょうか。私たちはこれをどういうふうに解釈したらいいでしょう。

 一九四七年、二年目になりますと、これは違う資料、岩波から出ている『原爆災害』という書物から引用しますが、この被曝二周年に広島市は市として「平和宣言」を出します。ここではどう言っているかというと「この朝投下された世界最初の原子爆弾によってわが広島市は一瞬にして壊滅に帰し、十数万の同胞はその尊き命を失い、広島は暗黒の死の都と化した。しかしながらこれが戦争の継続を断念させ、不幸な戦いを終結に導く要因となったことは不幸中の幸いであった。この意味において八月六日は世界平和を招来せしめる機縁を作ったものとして、世界人類に記憶されなければならない」。

 原爆投下のお陰で戦争が終わった、平和になった。この見方というのは、アメリカの戦争観そのものですよね。占領下とはいえ、このアメリカの戦争観を、被曝二周年に市の平和宣言として出す。ここでは「世界平和」とか「世界人類」とかいうことばが使われています。戦後日本社会が原爆を受け止める仕方を規定する非常に大事なキーワードです。そこでは、原爆による殺りくと破壊を被ったということ、それと世界平和ということが、当たり前みたいに常にイコールで結ばれます。だがこの二項の間には何か、非常に大きな重大なものが欠けている。欠けているのは戦争の原因の認識や責任の追及の問題ですね。核虐殺は米国の戦争犯罪であり、その責任は追及されなければならないこと、そして日本帝国はアジアを侵略し千万の単位の人びとの命を奪い、国土を破壊し、その結末が原爆であったこと。被爆から平和へという短絡回路で、この二つが素通りされてしまうのです。それは戦後日本社会の平均的戦争観そのものの問題でした。広島の被爆二周年の平和宣言はそのような戦争観のはしりではなかったでしょうか。

 この同じ年、四七年に、歌人の正田篠枝さんが『さんげ』という原爆歌集を出しています。百五十部印刷され、密かに配布されました。僕は後に、六〇年代半ばに原水協に頼まれて、「ヒロシマ」という写真集の英語版を作るためジョン・ロバーツというアメリカ人のジャーナリストと一緒に広島へ行って、正田さんをお宅に訪ねました。静かな方で、体調は弱っておられたようでしたが、ことばに力と怒りがこもっていました。彼女が経験した戦後のヒロシマというのは、日常的に占領軍の検閲と弾圧との闘い。いつMPが捜索に踏み込ん来るかわからないので、歌集はまとめて仏壇の後ろに隠していたと言っておられました。それで手から手へ密かに配った。そういうのが四七年です。

 正田さんの歌集の印刷が仕上がるのはその年の十二月五日ですが、その二日後に天皇が広島に来ている。五万人が「お迎え」に出た。それで慰霊のお言葉を言う。「アッソウ」としか言わないので有名だった裕仁が、ここでは珍しく文章を口に出したんですね。「このたびは皆の熱心な歓迎を受けてうれしく思う。本日は久しく広島市民の復興のあとを見て満足に思う」「われわれはこの犠牲をムダにすることなく、平和日本を建設して世界平和に貢献しなければならない」。またしても、原爆による「犠牲」を平和ニッポン、世界平和に直結する同じ論理が出て来る。対米英開戦の詔勅をだした当の本人が広島へきて、他人ごとみたいにこんな説教を垂れていたんですね。

 一九四八年、被曝三周年です。この時には平和式典というのが行われています。広島の歌朗読というのがあります。そしてマッカーサー元帥、英連邦軍ロバートソン中将のメッセージ。日本は連合軍による占領下にあり、連合軍には英連邦軍が入っていました。主力はオーストラリア軍でしたので、ロバートソン中将はおそらくオーストラリア人でしょう。芦田均首相、衆参両院のメッセージ。式典は公式なものです。この時の市長は浜井信三さんでした。彼は非常に有名な市長で、広島を平和都市にするという方向で推進した人です。後に広島原水協の代表の一人になります。さすがに浜井さんは木原市長のようなバカなことは言っていません。ヒロシマは「将来の戦争がいかなるものかを示唆し、戦争による人類絶滅の危険を警告」するものであり、「この教訓を生かすことこそ、地下に眠る犠牲者の犠牲を意義あらしめる唯一の道であり、世界人類に対する最大の貢献でなければならない」という言い方をしています。

 ただこの式典で読まれたロバートソン中将のメッセージというのはすごいです。「この度の惨劇の原因は、日本国民自身にあることを思い起こさねばなりません。開戦布告を与えずに日本は裏切り的に英連邦諸国民ならびに米国民を襲撃し、その国民に非常な苦痛を与えたのでした。広島市が受けた懲罰は戦争遂行の途上受くべき日本全体への報復の一部とみなさねばなりません。今後諸君が平和政策を忠実に守るとすれば、世界全部がこのような悲惨事の起こるのを未然に防止することができると思います」。すごいですよ。原爆使用は当然の懲罰と報復だっていうんですね。これが広島市民の前で読み上げられたに違いないです。それを広島市民、被爆者たちは礼儀正しく、黙って聞かされていたのでしょうか。被爆三年目のことですよ。

 浜井市長は、この式典の名で「いま広島市民は焦土に立って、戦争のほかなにものをもうらまず、永遠平和のほかなにものをも欲しないのであります」というメセージを世界百六十の都市に送ったと記されています。後にビキニ被災に続く原水爆禁止運動は、広島のイニシャチブで、原水禁世界大会を開くことになりますが、世界に呼びかけるという行動の源流がこのあたりにあると考えることができるのでしょうか。式典のあと「千人が広島市内を行進。ノーモア広島、世界平和は広島からのプラカードを掲げ、供養塔から市役所まで行進」とあります。三年目にして行事は平和運動的行事の性格を帯びるようになったと見てよいのでしょうか。「ノーモア・ヒロシマ」という言葉は、すでに四八年に発せられて、国際的に使われるようになっていたんですね。僕はそれを初めて知りました。

 平和運動ということでいえば、その翌年、一九四九年に、「平和擁護広島大会」という集まりが開かれています。「平和擁護大会」というのは、世界平和評議会(世評)という世界的な平和運動組織が一九四九年にできるのですが、それにつながる平和擁護日本委員会、後に日本平和委員会に改称しますが、それが主催する集まりです。後で述べますが、四九年四月には平和擁護日本会議が開かれ、その地方版として一〇月に広島大会がもたれたわけです。そして、ここで初めて、原爆の惨禍を経験した広島市民の声として、原子兵器の禁止が訴えられるんです。年表の記述では「平和擁護広島大会で原子兵器廃棄の大会宣言発表」として、「広島女学院中学校講堂に三〇〇人が参加。緊急動議を採択して宣言。「人類史上最初に原子爆弾の惨禍を経験した広島市民の声として原子兵器の禁止を全世界に訴えよう」」とあります。それまで原爆をめぐる占領下での戦いの最先端をになったのは、文学者だったと言っても言い過ぎではないかと思います。被爆者の援護や救援では様々な活動も行われていたけれど、政治的な要求として、原水爆禁止とか原子兵器禁止が出て来るのは、広島でも遅かったようです。やっと四九年だと思うんです。でもそれは例外でした。原爆禁止はまだ全国の声ではありませんでした。

 今回私たちがやった聞き取りの過程でも、吉田嘉清さんが、原爆の問題が平和運動の課題としてとりあげられ、原水爆禁止が要求としてでてくるには、被爆から十年かかったと、感慨を込めて指摘していました。吉田さんは、原水協のごく初期から一九八四年に共産党に追い出されるまでリーダーを務めてきた原水爆禁止運動の主といえる私の大先輩です。

 今回調べてみて、吉田さんの言う通りだと分かりました。先ほど言いました平和擁護大会、日本平和委員会が主催する初めての全国的な平和大会が、四九年四月二五―二六日に一二〇〇人の参加で東京で開かれているんですが、これはかなり幅広い文化人や組織を集めて盛り上がり、いろいろな決議を採択しています。しかしそのなかには、原水爆についての決議は無いし、ヒロシマも無いのです。前に触れたように、広島県大会では原水爆禁止が初めて要求として掲げられました。でも日本大会には無いのです。この日本大会は「平和綱領」というものを採択していますが、それは「あくまで平和と自由を守りましょう。戦争をけしかける宣伝とファシズムに反対しましょう。日本が軍事同盟に加わることに反対しましょう。平和のために文化と教育を守りましょう。云々。講和条約を早め日本の独立を」ということだけで、そこには、原水爆禁止はまったく欠けているのです。今回それを発見して目を疑いました。原爆体験というものが国民的体験だなんて後になって言われますけれど、四九年の時点では平和委員会の「平和綱領」の中にヒロシマ、ナガサキもなく、原爆禁止もなかったんですね。このころまでは平和運動というものが原爆体験を素通りして構成されていたわけです。

 原水爆禁止というスローガンは、国内の運動からではなく、外から持ち込まれてきます。一九五〇年には六月に朝鮮戦争が勃発するのですが、その三カ月前、世評がストックホルムで平和大会を開き、そこでストックホルム・アピールというまさに原水爆問題に特化した平和アピールを出し、全世界的に署名を呼び掛けます。「原子兵器の絶対禁止と厳重な国際管理を要求する。最初に原子力を戦争で使用する政府は、人類に対して犯罪行為を犯すものであり、その政府を戦争犯罪人として取り扱う」という簡潔な呼びかけで、高まる冷戦の米ソ対決のもとで、かなり大きい反響を呼び、世界では数億の署名があつまり、原爆使用へのある歯止めの役割を果たしたことは確かです。日本でも原子爆禁止運動を語る時は、必ず先行する運動としてストックホルム・アピールの運動が出て来ます。この頃僕は大学一年生でしたが、共産党が真っ二つに割れて、その一派である国際派と言われる人たちー学生運動は国際派の支配下にあったんですがーこの人たちは一生懸命、署名集めに取り組んでいました。僕自身は当時ほぼノンポリ学生でしたが、五〇年の夏休みに世田谷の居住地域の共産党の人たちと一緒に近所で戸別訪問、署名集めをしたことを覚えています。でも警戒されて門前払いが多かったですね。朝鮮戦争のさなか最もキビシイ時代で、この署名を集めるのは「アカ」だとレッテル貼られる雰囲気だったんですね。しかし日本では共産党の人たちが全部これに一生懸命取り組んだかと言うと、必ずしもそうではなかった。このころ米国はソ連を除外した対日講和条約問題に取り組んでいて、それに対してこれは共産党だけでなくいわゆる革新陣営全体が、単独講和、もしくは片面講和に反対して全面講和をという運動をしていた。共産党は、それにたいして全面講和要求署名というのを推進していて、この署名をストックホルム・アピールと抱き合わせで集めることにしていた。それを推進する組織として、全愛協、たしか全面講和愛国運動協議会という名称だったと思うんですが、そういう組織がありまして、愛国運動といってもこれは右翼ではないですよ(笑)。いろんな組織が集まっていた。僕は一回その会議に出たことがあります。なぜそんな会議に顔を出したのか、どうしても思い出せないんですけれども。つまり日本では前面講和と原爆使用禁止のだき合わせの署名運動をしていた。

 これに世界平和評議会はカチンと来た。そして日本平和委員会に勧告を送って来る。いろいろな国はそれぞれ固有の問題を持っているだろう。しかし今原子兵器禁止ぐらい大事なものはない。全世界で核兵器使用を阻止しなければならない。自国の問題にこの課題を優先させるべきだというわけです。ストックホルム・アピールの運動は時宜をえた運動で核戦争への防波堤の役割を果たしたと思います。六月、朝鮮戦争が始まって、アメリカによる原爆使用が日程にのぼっていたときです。それに対して下からの世界的な圧力を作り出そうというのは適切な訴えだった。だから世界中で何億と集まったんです。世評はそれを指摘して、国内問題とは切り離して、これだけ単独でやれというわけです。勧告では、日本の人民は、ヒロシマ・ナガサキの恐怖を知っているから、大カンパニアが行われれば、数千万の署名が集まるはずだと(笑)怒られたんです。これが来たので、気を取り直して集め始めて、結局六百何十万筆が集まった。そして原水爆禁止という命題を正面から日本社会の中に持ち込んだ。

 しかしこの経過が示すようにこれは外来の運動でした。外来だから悪いという意味ではありません。時代が要請する動きでしたし、幅広い知識人も署名しました。何より原水爆禁止のテーマを公然と掲げる先例を開きました。しかしその広がり方は、左翼の影響力の同心円的な拡大という性格のものでした。六百四十万というのは当時の左翼の実力からすれば非常に大きなものですよね。

 さてこのストックホルム・アピール運動と一九五四年から起こった原水爆禁止運動というものとは、どういう関係があるのかということです。私はこの二つの運動は性格を異にする運動だったと思うんです。別物であるところに意味がある。戦後日本では何度か社会全体に影響を与える大きな運動の経験をしています。四〇年代の労働運動の爆発的高揚、六〇年安保闘争、六五?七二年期のベトナム反戦や全共闘などのダイナミックな運動などです。311以後の今日、私たちは新しい運動期に入っていると思います。それらはすべて独自の特徴を持っていて、一概に論じることはできませんが、共通点は、行動が同心円的に広がるのではなくてー60年安保は比較的その要素が強かったですけれどー、運動が横に、水平に、人から人へ、地域から地域へ、広がっていくということです。1954年からの初期原水禁運動は、明らかにそうした運動でした。占領が終わったばかりという解放感がありました。占領下では考えられないことでした。初期原水禁運動は、戦後日本で初めて、草の根レベルで運動が横に、水平に広がっていくという経験でした。

 この運動は東京杉並の主婦の署名運動から広まったとことで知られていて、今日もご出席の丸浜江里子さんがそれについてとても良い本をお書きになりました。杉並の主婦を中心にどういうふうに運動が広がったかは、本当に面白い。丸浜さんが明らかにされたように、杉並のなかだけでも運動は単層ではなく、実にいろんな要素が働いていたんですね。しかしこの杉並タイプが全部ではない。全国の地域、階層、潮流それぞれ固有の仕方でワサワサと動き始めるのですね。この運動の性格全体を表現すると、草の根運動だというふうに表現できるでしょうが、草の根もいろんな草の根があったんですよね。草もいろんな種類があって、杉並の草と広島の草と長野の草とは、かなり違うんだろうと思うんですね。

 先ほど加納さんが二つの女性運動について述べられたけれども、僕はそれはあまり正確でないと思うのは、母親大会をやった人たちは全部原水爆禁止運動の中に入っていたからです。母親大会潮流=婦団連と原水禁潮流=地婦連という分かれ方をしていたわけじゃなかったです。たしかに各地で原水禁に立ち上がった地婦連系の人たちの多くは母親大会を左の運動とみなして参加しなかった。しかし逆は成立せず、婦団連系の運動で原水禁運動に参加しなかったものは一つもないと思います。母親大会の心棒の一つは日教組婦人部でしたが、日教組こそは労働組合の中で初期原水禁運動のもっとも熱心な推進者でした。初期原水禁運動は中央から縦割りに結集したわけではなく、全国組織もその各地の組織が行動し始めてしまう、署名簿をめいめいでつくって集め始めてしまうという形、地滑り的な動き方をしたわけです。あの頃あの運動に参加しなかった革新勢力の集団は、まずなかったです。超党派運動といわれたし、そう自称もしていましたが、事実超党派運動だったんです。しかしこの超党派というのは、上の方で保守政党や共産党や社会党のトップが話し合って、一緒にやろうやとなる、そういう話では、まったくなかったいんです。下から広がっちゃったわけです。草の根が超党派になっちゃったんですね。保守地盤がつよいところでは保守の活動家が動きだすし、地域の組合だの左翼の活動家やグループもむろん動き出す。そして横につながる。だから党派にかかわらずみんな本当にまじめな参加のしかたなんです。お金が絡んでないです。みんな身銭を切るんです。身銭を切って一緒にやろうというのは、やっぱりね、すごい、何か恐ろしくまともなことだった。そこをつかまないと、当時の運動の性格をつかんだことにならないと僕は思っているんです。

 とはいえ、じつは僕はその時参加していないんです。当時僕は学生運動にいて、全学連の中執だったんですが、第五福竜丸のビキニ被災が問題化しつつあった三月半ばに、一斉手入れがあって、僕は何人かの仲間とともにつかまって、署名運動が起こるころは、小菅の拘置所にいた。(笑)。だからいなかった。最初の署名運動のなかに入っていなかった。出て来たら今度は違う部署に配属されて、平和運動からは遠ざかっていた。だから実際には署名集めたりしていないんです。していないんですけれども、その時の気分というのは味わっている。それは解放感でしょうね。死の灰が恐ろしいということはむろんあるけれど、何より占領は終わっているわけです。占領が終わっているのに、こんなむちゃくちゃ許しておくわけにはいかない。それから活動することが楽しいし、自分が動けば広がっていく手ごたえがある。それでみんな動いたんだと思います。この運動を理解するためにはそこのところでつかまえないと、肝心な点を抜かした分析になってしまうと思うんです。

 さて、そう捉えたうえで原子力平和利用問題を位置づけなければならないのですが、その前に、1954―5年期におけるこのような草の根の巨大な活動群が運動としてどのような存在であったかを確認することが必要でしょう。さきに被爆後三年の広島のオフィシャルな原爆観を振り返りましたが、私の考えでは、原水禁運動の出現はその原爆観を拒否し、ひっくりかえしたことに最大の意義があるとしたいのです。いくつかの突破口でそれをひっくりかえしたと思うのです。その突破口の一つはアメリカの原爆投下の正当化をはっきり拒否したこと、つまりアメリカの太平洋戦争観の縛りから離脱したことですね。もう一つは、被爆体験から抽象的な美辞麗句としての世界平和へいくのではなくて、原水爆禁止、原子戦争拒否という具体的な政治課題を設定して、平和への手がかりに据えたことでしょう。それでも、戦争認識について、加害、被害の両面についての大きい欠落の存在は否めないのですが。

 この運動をそれまでの「平和運動」から際立たせる最大の特徴は、被爆者が原水爆禁止にもっとも権利ある主体として登場したことにありました。広島での初めての世界大会は被爆者の直接の訴えをきき、被爆者救援をかかげて、被爆と被爆者の問題をともかくも運動に内部化した。そして被爆者の尊厳を確立した。それまでは被爆者は差別の対象で、被爆者であることを隠さなければならないような社会だった。占領初期の広島の支配的な思想状況がさきほど紹介したようなものであるとすれば、被爆者が差別と抑圧の対象になるのはさけられないわけです。そのもとで被爆者であることを隠して暮らす人も多かった。平和のための人柱などというお話しは、被爆した人たちの生活の実態などとはかけ離れた人をバカにした話ですよね。それが第一回の世界大会で初めて被爆者が声を上げた。被爆者の復権の瞬間です。五五年の世界大会で証言した村戸由子さんが大会後にもらした「生きていてよかった」という言葉が象徴的にとりあげられ、映画の題名にもなりましたが、たしかにそれは価値の転換をはらむ大きな言葉でした。

 ビキニの死の灰への恐怖、水爆実験は許せないという市民的感覚と原爆被爆者の生活と感覚との間には比較にならないほどの距離があったに違いないのに、「被爆国民」というような表現が成立し、一般化するのはこの巨大な運動がともかくも被爆者との初歩的な連帯をつくったことに負うところが大きいと思うでのす。先に紹介した一九四六―八年の広島での原爆への公式姿勢、あるいは平和運動の原爆体験無関心と対比すれば、これは質的な飛躍とみるべきです。しかも三二〇〇万という署名者数を考えれば日本社会におけるこの思想、態度における変化は巨大な意味を持ったと見るべきでしょう。これは反米運動とか反帝国主義運動とかいう性格のものではなかった。同心円的構造でないというのはそういうことです。そこにこの運動の巨大な力があった。しかしこのような形成の仕方はまたそのまま運動の限界でもあった。「唯一の被爆国民」という自己同定がそこから生まれてきて、それが独り歩きすることにもなるからです。

 しかし原水禁運動はそうしたものとして出現した。そしてそれがアメリカの覇権支配には猛烈な警戒心を呼び起こしたんだと思います。で、米国は、「原子力平和利用」で原爆を薄めるという新たな心理戦略を発動し、対抗しようとしました。この文脈での「平和利用」問題はすでにかなり詳しく論じられているし、私も自分の本のなかで論じていますので、ここでは省略します。

 初期の原水禁運動はこのような独特の性格をそなえた運動だったと私は思っています。ということはそれを、何といったらいいか適当な言葉が見つからないのですが、たとえば保守対革新という戦後日本の対立軸に沿った「革新」側の運動、あるいは進歩的社会運動とか左翼大衆運動、そういった範疇にすっぽり分類したうえで評価を下すことはあまり生産的でないように思えるのです。とはいえ、それは保守対革新の構図から自由であったわけではまったくなく、「革新」側は最初から運動の不可欠で主導的でさえある部分でしたし、一九六〇年以降はむしろこの対立軸が剥き出しになって運動はこわれていくわけです。

 加納さんは「なぜ原子力の平和利用は原水禁運動と両立したのか」が自分の今日の話しのテーマであると言われましたが、一般的に言えば以上に述べたようなこの運動の成り立ちが「なぜ」のなかばの理由です。この運動は加納さんが生き生きと描写されたような状況の中で出現したのです。占領が終わり、経済成長の時代に入りかかった時期、そこでは産業発展、生活向上、科学技術などが何の疑いもなくポジティブなものとして共有されていた時代です。そして原子力平和利用は、加納さんが指摘されたように、社会全体にそのポジティブな明るい未来の約束の一部としてすでに組み入れられていました。

 ですから原子力平和利用というのは、初期の原水禁運動にとっては、基地問題やミサイル装備問題みたいに、取り組むべき実践課題というより、むしろ与件として存在したと思うのです。両立ということ言えば、すでに両立が当然のものとして与えられていた、と言った方がいいかもしれません。

 とはいえ、これは事の半面です。1955年のアメリカの広島原子炉建設提案、そして56年の平和利用博が広島開催など露骨に示したように、原水禁運動は平和利用を素通りはできなかった。特に被爆地の運動は放射能の影響について敏感に反応していました。これについては加納さん、広島の田中利幸さんはじめ詳しい分析がなされているし、私も自著で述べているので、省略します。平和利用は社会的に与えられたもの、与件ではあったけれど原水禁運動には素通りはできないものとしてありました。

 私は初期の原水禁運動は、この問題に受け身で対応したのだと思います。つまりタテマエ的に受け入れた。受け身で、条件的、警戒的に受け入れた。受け入れたことに変わりはないけれど、平和利用を推進するという立場に立つことはなかった。「原子力時代」というユートピア的建前は受け入れたけれど、原水爆が禁止されなければそれは実現されないと条件をつけた。そういう受け入れ方だったと思います。

 原水禁の世界大会の資料を見ますと、平和利用は、加納さんのご指摘のように第一回大会から出て来るわけです。大会宣言では、「原水爆禁止が必ず実現し、原子戦争を企てている力を打ち砕き、その原子力を人類の幸福と繁栄のために用いなければならない」という言い方をしています。第二回大会では、「原水爆禁止が実現してこそ初めて原子力は人類の幸せに役立つことが出来ます」と言う。「平和利用はいいことだ」と前提にしたうえで、原水爆は禁止しなければいけないという主張を導く枕詞として使っているんです。この運動全体としては平和利用はマージナルな関心事だったと私は理解しています。

 しかし世界大会には平和利用を積極的に推進する勢力も参加していました。第二回大会では平和利用の分科会が設けられましたが、その分科会のガリ版刷りの議事録を見ると、ロバート教授、この人はおそらく世界平和評議会の人だろうと思うんですが、熱心な推進派なんです。「昨年国連で、原子力平和利用の問題が取り上げられたことは、非常に喜ばしい。多くの国で平和利用の研究が進められることを願うが、それが許されぬ経済状態である国が多数である」。要するにアメリカは核の軍事利用ではなくて、平和利用にもっとお金を出すべしという話です。ルーマニアの参加者も強力な推進派です。ルーマニアは「原子力が人類平和のために使用されることを切に望んでいる。この目的のためにモスクワに代表を送り、原子力平和協定を締結」し、「これに基づいてソ連にウラニウムを送っている」。こう誇らしげに言っています。ルーマニアは有数のウラン鉱産出国で、ウラン資源の乏しいソ連にとって大事な国でした。五三年のアイゼンハワーの「アトムズ・フォー・ピース」路線に従ってアメリカはウラニウム供給の支配を通じて西側ブロックをつくり、それに対してソ連も同じことをする。ルーマニアはソ連との間にちょうど日米原子力協定に見合う関係をつくったという報告なんですね。つまりここでは、「平和利用」をめぐる米ソ冷戦のソ連サイドの論理がすでに主張されていたわけです。親ソ国際組織が積極的な平和利用推進だったということは一つの要素ですね。国際民婦連は、ルーマニアほど露骨な理由ではないが、平和利用にたいへん熱心な団体でした。加納さんが引かれた婦人民主クラブの新聞の見出しは、僕も驚きましたが、これは民婦連の考え方に忠実だったことを表しているんじゃないでしょうか。

 カサディーというイタリアの労働総同盟の代表も推進派です。私はこの大会の後通信社の記者としてこの人に会いにいったことを思い出しました。総評会館でインタビューしました。英語の上手な渋い味のある人でした。彼は、原子力は軍事利用と平和利用があるが「わたしたち働く者は平和利用、しかもそれが科学の進歩に基づき、更に働くものの福利厚生に十分役立つものでなければならない」と言っています。これはソ連側の見方というより、階級視点ですね。イタリア共産党ですからね、この人は。イタリア共産党は、石油やガスなど炭化水素エネルギーを国有化して民衆管理の下において民衆のために役立つように再編せよと主張していて、その線で原子力を位置づけていたんですね。
 

 大会に寄せられたメッセージでは、国際学連(IUS)が平和利用を強く主張しているのに驚きました。国際学連というのは、日本の全学連が加盟していた世界的な学生組織ですが、メッセージでは、その日本全学連の要求に応じて、執行部は「原子力の平和利用と原子戦争反対運動における学生と学生組織の役割と立場」を討議したと言っています。順序に注目。平和利用が先に置かれているんですね。これも「平和利用」が米ソ冷戦における戦略的攻防の場だったことを示しています。

 ではこうした推進派の主張がそのまま原水禁運動の方針になっていったのか。そう言ってしまうと正確ではないと思います。第二回世界大会はこの分科会の議論に基づいて「原子力の平和利用について」という決議、第四決議を採択するのですが、それは推進派が持ち込んだような冷戦の論理を反映していません。決議は「原子力は平和的にのみ利用されなければならない」と始まって、学術会議の公開、民主、自主の三原則、放射線への安全保障措置と健康管理、一部の利益追求の手段にしてはならない、産業の発展と労働者の福祉、社会進歩が促進されるものであること、などの条件をつけたものになっています。これは平和利用推進方針ではない。しかし、原子力そのものへの否定的ないし批判的な観点はまったくない。広島の森滝市郎さんが後に唱えた「核と人類は共存できない」という立場には立っていない。それが初期の原水禁運動の原子力平和利用の受容の姿なんですね。

 この第二回世界大会に連動してその県民版である広島大会が開かれています。その議事録は面白いです。第三議題が平和利用で、広島大学の竹山晴夫教授が問題提起をしていますが、彼は平和利用はいいものだが、二面性があり、原子炉はアイソトープをつくったり発電したりするが、同時に原水爆の材料もつくりだすので、どうしても原子兵器禁止の具体的保障が必要、と言い、同時に放射線による障害を明らかにし、健康管理と運営についての安全性確保が平和利用の先決条件、と述べています。かなりきびしい条件付き受容論です。面白いのはこの報告の後。

   議長―原子力の平和利用ということはこれから大変大切な問題ですからどしどし討論してください(発言なし)

   議長―では、次の議題にうつります。

 噴き出してしまいます。議論ゼロ、関心もほぼゼロ。そういう状態で平和利用のタテマエだけが受容されているわけですね。運動にとって平和利用は与件であったという関係がよく出ています。

 持ち時間がなくなったので大きい論点が残ってしまいましたが、社会全体が原子力を受け入れていく背景としては、加納さんの指摘された戦後日本のアメリカ的生活様式の受容という面と裏腹に、当時の左翼進歩主義、つまり左の勢力が思想的、理論的に積極的に原子力を位置づけていたことがあると思います。二重の文脈で原子力をポジティブに位置づけていたと思うのです。一つは、一般的に科学による生産力の発展は進歩の原動力とする考え方、そこでは、巨大開発のようなものは肯定される。もう一つは、科学の素晴らしい成果に基づく未来の技術を使いこなせるのは社会主義しかないという、そういう議論です。社会主義にしないと原子力技術は本当には使いこなせない、資本主義では原爆にしか使えない、そういう議論になっていきます。そして原子力を平和的に利用できるのはソ連だけだ、ということになっていきます。世界大会での国際団体の代表が、平和利用の推進論を主張したことを紹介しましたが、それはほぼそういう立場から主張されていたと言っていいでしょう。

 初期原水禁運動では、学術会議の三原則の、「民主、自主、公開」の三条件と、さらに原水爆禁止と放射能障害の根治療法の確立が条件で、平和利用を受け入れるという条件付きでの受容でした。とはいえ「原水爆時代から原子力時代へ」、つまり原子力は進歩を代表していていいものだ、原水爆禁止を達成して初めて原子力の恩恵が全面化するのだという見方が前提にされていました。第三回世界大会の成果を報じる原水協の機関紙「原水爆禁止ニュース」は、平和利用分科会での武谷三男さんの「現代は残念ながらまだむしろ原水爆時代と呼ばれるべきだろう。原水爆禁止がなければ原子力の完全な平和利用はあり得ない」という発言を引用し、「実験禁止が第一 今はまだ原水爆時代」という見出しをつけています。

 これが初期の原水禁運動が「平和利用」を扱う枠組みだったわけですが、その枠組みの中では具体的問題ではかなり振れ幅があって、核武装禁止宣言を採択した1958年の第4回世界大会では、「行動についての勧告」のなかで、調印されたばかりの「日米、日英動力協定の批准を阻止する」ことを謳っています。日米間では1955年に研究協定としての原子力協定が結ばれていましたが、それが横滑りの形で発電用原子炉についての協定に変えられていくのですが、それが動力協定と呼ばれていました。これに抗議して湯川秀樹が原子力委員会を辞任しています。これは「自主」に反するという理由です。平和委員会も、アメリカの下に日本の原子力開発を置くことになるから反対である、協定を拒否するという声明を出しています。第四回世界大会では、坂田昌一さんが核実験についての第四議題の基調報告で、その年に調印された英米との動力協定に警告を発しつつ、「平和利用」についてかなり突っ込んだ提起をしています。その部分ちょっと引用してみます。協定による原子炉導入は軍事利用につながる恐れがあり、三原則にも違反すると述べた後で、こう言っています。

 もう一つの大きなゆがみは、原子力開発がこれまで、軍事第一主義ですすめられたことと関連して、原子力に特徴的な放射能害の問題が軽視されてきたという点にあります。昨年くれ、ウインズケールに原子炉の大事故が起こり、イギリス全土が汚染された事件は原子炉が本質的に危険なものであることを改めて認識させたのでありました。…原子炉の安全性、放射性物質の取り扱い、とりわけ放射性廃棄物の処理などは、原水爆によるフォール・アウトの問題と本質的に同じ問題であり、国民全体の健康に危険な影響を与える重大な問題でありますから、国民全部が十分監視せねばならないと思うのであります。(原水爆禁止運動資料集、第五巻、p.197)

 この辺が初期原水禁運動の到達点であったと僕は思います。それがどうなって行くか。六〇年代になって、例の「いかなる問題」が起こります。1961年、原水禁世界大会が最初に核実験を再開した国はいかなる国でも人類の敵であると宣言した直後、ソ連が核実験を再開し、それにどういう態度をとるかで、内部対立が起こって割れていき、ソ連の実験に反対することに反対する原水協といかなる国の実験にも反対する原水禁国民会議とに運動は分裂していきます。ここでの問題は、初期の原水禁運動と違うベースが運動に導入されたことです。それは直接政治的な基準です。ソ連の核実験をどう考えるか、ソ連をどうとらえるのか、それは直接政治的な基準です。そうした直接的に政治的でない、新しい基盤で成立していた運動が、直接政治的な考え方の是非を争うようなものに変質していく。それは必然的に分裂を引き起こします。核兵器でもソ連の核武装は肯定すべきだという立場から、ソ連の核実験はきれいな核実験だといった荒唐無稽な話さえとびだしてくる。こうなると核の「平和利用」それ自体をどうとらえるかといった議論はふっとんでしまいます。この立場に立つ人たちにとってソ連の平和利用はいいにきまっているからです。

 他方、原水禁国民会議の方は原発問題についてははっきりした態度を取るようになります。これは森滝市郎さんが後に述べているように、放射能と環境問題の関連を媒介にしなくては起こらなかったですね。環境問題は、進歩とか開発とか科学技術のあり方など近代文明の全体についてのパラダイムの転換を要求するわけで、その新しいパラダイムのなかで原子力問題は初めて十分に位置づけられると僕は思うのです。原水禁運動が立ち上がったころの日本社会、あるいは世界社会は、圧倒的に近代パラダイムが支配する社会で、パラダイム自身を疑う意識はほぼ欠けていたと言えるでしょう。

 僕は時代的制約という言葉はなるべく使いたくないんです。それを持ち出すと、起こったことをすべて合理化することになりかねないので。にもかかわらず、ある運動の評価をする場合には、その運動の時代的な性格、そのときの社会の支配的な認識パラダイムをつかんだ上で評価を下す必要があります。支配的なパラダイムの内部で、したがってそのパラダイムを一応認めながらではあるが、事実上それを突き崩す意識と運動がどこまで育っていたかをつかむのが大事です。そうしてはじめて歴史的に過去に属する運動を継承可能にすることが出来ると思うのです。初期の原水禁運動は、当時の社会の支配的パラダイムの内部に生まれたのだが、その展開の過程でギリギリそれを越える境界のところまで行っていた、そう僕は位置づけたいのです。そうすることで初めて運動の継承関係というのは成立するのだと思うのです。そしてそれは逆に、いまわれわれが共有しているパラダイムといまわれわれが進めている活動、実践とがどのように親和的であり、どこでどのように敵対的であるかを反省的に見つめる助けになるはずです。過去からの継承関係の発見は、回顧趣味の問題じゃなくて、現在から未来への手がかりを与えてくれるはずだ、そう僕は思っています。