■20世紀末の叫びは生存である
20世紀はじめのスローガンは進歩だった。20世紀末の叫びは生存ということだ。つぎの世紀からのよびかけは希望である。この未来からの希望につき動かされ、またつよい危機感にうながされて、わたしたちはピープルズ・プラン21世紀の総括会議を開いた。
わたしたちが水俣の地に集まったことには意味がある。水俣はわたしたちに開発の極端に殺人的な姿を象徴的に示す地だからだ、ボパールとチェルノブイリがそうであったように、進んだ科学、技術、生産技法をもつ巨大組織が水俣の人びとに恐怖と病いと死をもたらし、その美しい海に取り返しのつかない損害をあたえた。水俣、ボパール、チェルノブイリという三つの災害は、わたしたちの時代の指標といえるだろう。水俣では、資本主義国家の工業が自国の市民を汚染した。ボパールでは、巨大な米国の多国籍企業が南の国民を汚染した。チェルノブイリでは、社会主義政府が、自国の国土と国民に、そして国境を越えて全世界に放射能をまき散らした。ここでこれ以上環境の危機の例を数えあげる必要はない。この三つの例は示している。どこでも隠れるところはないということを。
■「進歩」と「開発」がもたらしたもの
しかし、「進歩」という名の災害を象徴するのはこれらだけではない。先住民にとって、それはかれらの土地や資源の収奪と搾取、生きるすべそのものの破壊と崩壊をもたらすものであった。
女性にとって、開発は、あらゆる面で力の獲得を抑え込むことを意味してきた。女性は、男性中心の宗教、男性中心の科学と知識、男性中心の悪しき開発によって締め出されてきた。巨額のポルノ産業およびセックス産業は女性をただひたすら商品として扱うものだ。その一方で家庭の中では女性はいぜんとして従属的地位におかれつづけている。
第三世界の貧困層にとって、開発とは、自分自身の資源や生活に対する支配権をますます失うことを意味していた。生きるためのかれらのたたかいは困難になる一方であり、生存すること自体を危うくされている。確かに進歩と開発はあったが、それは少数者のためのものでしかなかった。その他はみな自分たちの生活や文化や価値を犠牲にして、この開発のツケを支払わされている。
開発と進歩が悲惨な結果をもたらしたのは、財貨を持ちたいという強迫観念が土台になっているからである。利益と権力がこの開発の神々として登場してきた。この開発の背後には、人間(man, 男性)こそ最高権威であり、人間は自然を思うがままに利用し悪用できるという前提がある。開発は、自然と調和して生きるよりもむしろ、自然を征服するための事業なのだ。
開発の下で権力はますます集中化した。「民主主義」ということばが使われれば使われるほど、それはその実践とは縁遠いものになった。先住民と少数集団にとって、民主主義は多数者の専制政治でしかなかった。第三世界の貧困層にとって、民主主義とは権力をもつ者、ごく少数のエリートによる支配を意味した。被抑圧者にとっては開発も民主主義もいまわしい言葉になってしまったが、それらはいずれも、実際には貧困化と無権力化を意味したからである。
開発はまた、多様性がもつ豊かな価値を破壊した。民衆の創造性と能力を奪い取った。決定権はますます少数者の手に握られている。経済的決定を下すのは巨大複合企業であり、政治的決定を下すのは自国の首都あるいは大国の首都における有力者である。映画・テレビ産業は、なにが娯楽であり誰がわたしたちのヒーローかを決める。どのような教育をこどもたちが受けるか、何人こどもを産んでよろしいかを決めるのは政府である。人工中絶を強制する政府もあれば、中絶を禁止する政府もある。わたしたちが信ずべき宗教を決める政府さえある。
かつて手にしていた力や自治権、創造力、人間らしさといったものを、人間はますます失いつつある。規模の小さい地域社会はもとより、貧しくて小さければ国家でさえ、以前ほどの自治権をもってはいない。それらはみな世界市場、世界銀行の政策、世界の大国のパワーゲームに従属させられているのである。
貧富の格差、南北の格差は拡がりつつある。この20年間だけで前世紀全体をうわまわる富と資源が第三世界から奪い去られた。次の10年間には、北におけるさらに急激な権力の蓄積、集中および中央集権化が眼前に展開するかもしれない。債務の返済、利潤、特許権料、資本逃避、交易条件の悪化などは、帝国主義による搾取のメカニズムの一部である。下品でみにくく、正義にもとるこうした開発はさらに、北のなかに南をつくりだし、先住民や少数民族、出稼ぎ労働者、失業者などを悲惨な生活条件の下においている。
20世紀は、歴史上のどの時代より多くの、そしてずっと残虐な戦争をもたらした。過去の時代に想像もつかなかったような殺戮の技術が発達した。わたしたちの偉大な保護者だと思われていた国家が、最大の殺人者、戦争で他国の人びとを殺すばかりでなく、前代未聞の数で自国市民を殺すものであることがはっきりした。20世紀はジェノサイド、エスノサイド、エコサイドおよびフェミサイドといったものを永続化させ、増大させた。しかもこのような仕打ちが、「進歩」とか「開発」と呼ばれるものの名前でおこなわれてきた。これらすべてはわたしたちにいやおうなく問いかけている。歴史の進歩についてのわたしたちの理解にはなにか根本的な誤りがあるのではないか。なんのためにたたかうかについて、ひどく間違った把握をしているのではあるまいか。どこに希望を見出だすべきかについて、ひどく間違ったイメージを抱いているのではあるまいか。
■希望の合言葉「じゃなかしゃば」
水俣の方言である「じゃなかしゃば」ということばは、「ピープルズ・プラン21世紀」の参加者すべてに親しいことばになった。「じゃなかしゃば」は「今のようでない世の中」を意味する。これは美しいことばだ。水俣集会では新しい歌「じゃなかしゃばば欲しかよ」がうたわれた。
水俣集会がわたしたちにあきらかに示したことは、今日の世界情勢が歴史上初めて世界中の民衆を、運命を共にする共通の立場に置いたということである。わたしたちが生きること、尊厳をもって、おのおのの自治と自決権を侵害することなく多様性をたがいに尊重しつつ、共に生きたいと望むならば、どこにいようとわたしたちには「じゃなかしゃば」が必要である。
この集会でわたしたちは、「じゃなかしゃば」への願いを語りあった。わたしたちの希望は空疎な希望ではない。蜃気楼ではない。この希望は、わたしたちを嘆かせ、時には絶望の淵に立たせる不正、邪悪、腐敗のただ中から生まれたものだ。わたしたちが論じ合った希望は、不正のみならず社会や人間や環境の崩壊とたたかうようわたしたちを鼓舞してやまない希望だ。わたしたちは問いただしあった。果たしてこのような希望に根拠があるのかを。
人間だけでなく、生命と自然そのものが冒されつつある。いまや、空も海も山も川も森も植物も動物も、およそ生きとし生けるものすべてが危機にさらされ、生存を脅かされている。
これら自然の内なるものたちの声が、はっきりとわたしたちの耳に聞こえる。人間のいのちの尊厳を回復するためだけでなく、すべてのいのちのためにたたかわねばならないことを、わたしたちは自覚した。
わたしたちが生まれ落ちた世界は、敵対する諸集団に分裂している。共に生きつづけることを望むならば、こうした分裂を克服しなければならない。水俣で出会ったわたしたちは、たがいを分断する構造を打破しようという意志を確認しあった。
いま、ここに、わたしたちはきっぱりと言おう。二一世紀は堕落した開発に加担する諸勢力によってではなく、これに抗する諸勢力によってうち建てられねばならないと。そこにのみ希望はあり、他にはありえないと。
■人びとは動きだしている
今日、アジア太平洋地域の何百万の民衆が、わたしたちの眼前で行動で示していることはまさにそのことである。これらの人びとは、あたかも運命であるかのように外から押しつけられてきた状態を拒否し、飛躍の用意をととのえている、いや飛躍をこころみつつある。民衆の運動は大波のようにつぎからつぎへと出現し、広がり、国境を無視し、補いあい、あたらしいコミュニケーションのネットワークにたすけられながら、ますます強まる危機への自覚を共有している。韓国、フィリピン、ミャンマー(ビルマ)などの大規模な闘争は爆発的な力を示した。わたしたちは最近、中国民衆の新しい民主化運動が立ち上がるのを目のあたりにした。
最近のグラスノスチ(情報公開)の経験は、参加民主主義が普遍的、永続的に重要であることを再確認しただけでなく、従来の反共主義の基盤を弱め、冷戦イデオロギーの正当性を否定した。そしてそのことによって、民衆の闘いに助けとなる新しい条件を作り出しつつある。しかしながら、ペレストロイカ(改革)は、経済的競争力をつけることを優先させて、正義と民主主義をめざす民衆のたたかいへの支援を後まわしにする方向へ進むかもしれない。
その可能性はあるとしても、社会主義諸国における改革は、東西の分裂を克服し、世界大の規模で真に民主主義的な権力を確立しようとして努力している社会主義諸国の兄弟姉妹たちとあたらしい連合をつくる機会をうみ出している。
こうした大きい国々でも、小さい国々でも、またどの地域、町、村でも、人びとは動き出している。そしてこうした人びとは、かつてないほどたがいのことを認識し、たがいに目をはなさず、コミュニケーションをはかり、いまだかつてないやり方で合流しはじめている。どれをとってもそれはあたらしい動きだ。これこそが、わたしたちの状況を定義する主要な力であり、この会議を開催した主要な理由である。「じゃなかしゃば」は今日の時代の民衆の精神なのだ。わたしたちが、今世紀がもたらしたあらゆる事柄にもかかわらず、二一世紀は希望の世紀であると宣言することをはばからない根拠はここにある。
■希望を結ぶあたらしい論理
希望を語る理由はそれだけではない。現在ある構造は、それ自身の矛盾をつくりだすことによって、みずからの足場を掘り崩し始めている。自然に反する成長、共同の安全保障と対立する軍事主義、文化的多様性と相容れない画一性、人間の尊厳と対立する疎外、失われた価値、意味、精神性を取りもどさなければと願う人間と対立する、後先おかまいなしの消費主義などである。
経済はすでに、あまりにもばかげたところまできてしまったために、ますます多くの人びとがそれを自分とは無縁で空しいものだとしか感じなくなっている。世界のいたる所で、ますます多くの人びとが、時を同じくして、おたがいのあいだに、そして自然のあいだに調和のある別の生き方を探し求めている。
こうした矛盾は、地球規模の破壊の犠牲者の間から新たな歴史的主体をうみだす力としてはたらいている。すなわち、先住民、女性、失業者、それにいわゆる非公式部門の自営労働者などである。将来に希望をもてず疎外感を抱く若者、社会的関心をもつ知識人もまた、農民、労働者、都市貧困層など大衆の歴史的たたかいに加わりつつある。現に広がりつつある民衆運動から、万人が尊厳をもって生きられる社会をわたしたちはつくりうるという希望が生まれつつある。
新しい状況はこうした熱望を力づける。わたしたちには知識も技術もある。草の根の運動がある。民衆としてのたましいと価値観がある。それらは今日の開発パターンが強要する集団自殺を拒む、民衆の生存のためのたたかいの中で確認しなおされ、発見しなおされ、さらにあたらしく創り出されているのである。
こうした現象が世界中で時をおなじくして出現しているということは、それらを通底する共通性があることを物語っている。共通の利害、共通の価値、共通の脅威が世界中のあらゆる被抑圧民衆と被搾取集団を有機的に結びつけているのである。成長、多国籍企業、エリート主義権力の論理に対抗する新しい論理が台頭しつつある。それは真の意味での「多数者の論理」である。ここでいう「多数者」とは世論調査や選挙で数えられる多数者ではなく、世界的な多数者、すなわちもっとも抑圧された人びとのことである。いいかえれば、こうした人びとこそ最優先権をもつべきであり、そのためには、女性、文化、先住民がもつ諸価値によってゆたかにされ、自然と調和する人間的価値に立脚した優先順位の秩序が必要となる。
■民主主義を取り戻す
地方、国、地域で共通の敵と対決しているこうした民衆の運動の中から、あたらしい国際主義が生まれつつある。これら新しい運動は、国家の役割がからむ特異な矛盾という背景の中で育ちつつある。わたしたちが住む地域は、多国籍資本によって組織されているが、この多国籍企業は、広範囲のしかも異質な地域や人びとをひとつの統合された位階的分業の秩序へと編成しつつある。その秩序の中では農民、労働者、先住民、女性などが従属的立場に立たされる。国家は、多国籍資本の国内への進入を仲介する機関として、積極的にこの統合を推進している。と同時に、経済の多国籍化は国家の依ってたつ基盤を掘り崩している。この事実は、自らを至高の存在であるとする国家の主張を、また国家が保護者であるというたてまえを疑問に付さざるをえなくする。こうして、国家の正統性は薄れ、民衆が介入する新しい機会がつくり出されつつある。今日、多くの国ぐにでみられるように、国家は弾圧と暴力を強化することで、あるいは、日本の場合にみられるように国家イデオロギーを国民に植え付ける試みを強化することで、みずからを守ろうとする。
この同じ過程の中で、日本の開発エンジンは過熱し、今や手に負えない形で暴走し、過飽和経済を産み出している。日本人は徹底的に管理された状態で必死で働いており、事実上無力な状態におかれている。日本経済は日本の市民の力を強めてはいない。むしろ、かれらを無力化し、分断しようとしている。さらに、日本経済は国内に「北」と「南」をつくりだした。「南」に属するのは数百万の低賃金の女性パート労働者、下請け労働者、日雇い労働者、さらに増大する一方の南アジア、東南アジアからの出稼ぎ労働者、さらに急速に周縁化されつつある農民である。
「民主主義」ということばは、民衆から盗み取られ、腐敗してしまった。もともと、民主主義は自治、自決、民衆によるパワーの獲得(エンパワーメント)を意味した。だが、第三世界の民衆の多くにとっては、民主主義はうわべだけの「民政」のレッテルとなってしまっている。権力者の利害に奉仕する国家は、自らの正統性を主張するための手段としてテロと弾圧を用いるが、民主主義はこれをごまかすために利用されているのだ。先住民族その他の少数民族にとって、民主主義は「多数者支配」イデオロギーとなり、「少数者」と定義されたかれらは合法的に無視されてきたのである。
他方、アジア太平洋地域の数十億の人びとは、民主主義のためにいのちを賭けてたたかっている。わたしたちは民主主義を民衆のたたかいに役立つものとして取り戻さなければならない。国家ならびに「民主主義」を構成するとされている諸制度が、わたしたちに平和や正義、安全、威厳ある生活をもたらすために、また環境破壊をおわらせるために役立つと信ずることはけっしてできない。わたしたちはそれを確認するところから出発しなければならない。それらのことを実現できるのは自立と自治をもつ民衆の運動だけである。ここでわたしたちが語る民主主義は、先住民その他の少数民族の根本的な人権と自由を認める民主主義であるということを強調したい。
■越境する政治行動ーー新しい権利の宣言
同時に、民主主義は国家の枠内ではもはや達成されえない。今日、数百万の人びとの生活は、かれらが住むコミュニティの外で、それどころか国外でなされる決定によって支配され、損なわれ、ゆがめられ、破壊されている。こうした決定を下すのは外国政府であり、多国籍企業であり、IMF、世界銀行、大国の首脳会談である。
したがって、わたしたちはここに宣言する。抑圧されている人びとには、自分たちの生活を左右する決定の実施については、その決定がどこでくだされるにしろ、これを批判し、これに反対し、かつその実施を阻止する天賦のかつ普遍的権利があることを。
わたしたちは宣言する。この権利は、民衆の権利であり、国家が設定するいかなる人為的法律ないし制度よりもさらに基本的な権利であることを。それは、民衆には、国家や社会を隔てるあらゆる境界を越え、民衆を支配し、破壊しようとする権力の中枢にまでそのたたかいを推し進める権利があるということを意味している。
この権利は、権力者が民衆を抑圧し、搾取し、民衆から奪い取るために国境を越える行動をけっして正当化するものではないことを、わたしたちははっきりという。その反対に、わたしたちは主張する。常におこなわれているこうした介入に対し、民衆は抵抗する権利があることを。
わたしたちは確認する。服従を強いられている民衆の自決と独立をめざすたたかい、みずからの政府を樹立しようとするたたかい、あるいは政府を改革しようとするたたかいが決定的に重要であることを。同時に、わたしたちは信ずる。長期的には、こうした民衆の越境する政治行動こそが、国家の支配力を掘りくずし、国際資本の権力に対抗し、わたしたちが望む二一世紀を産み出すであろうことを。
■21世紀をつくりだす「ピープル」になる
アジア太平洋地域の民衆がおかれている現状について、わたしたちはいかなる幻想もいだいてはいない。支配権力は民衆を分断し、民衆間の敵意をたきつけることによってみずからの立場を維持している。支配者はわたしたちを支配しようとするだけでなく、わたしたちの相互の関係を管理し、わたしたちが自身のためにそうする権利を奪っている。わたしたちはこれを拒否し、克服しなければならない。越境する政治行動、支援、連体運動は現存する分断、とくに南北にすむ民衆の分断を乗り越えるあたらしい「ピープル」を、次第に成長発展させるであろう。
これは決してユートピアではない。わたしたちが語ってきた行動は、現実にアジア太平洋地域で、また世界中で進行していることである。わたしたちは自信をもっていえる。こうした越境する行動は、絶望的な状態への民衆の当然の対応であるばかりではない。このような行動を通して、人びとは、自分たち自身の21世紀を力をあわせてつくりだす「ピープル」となるのである。