[『季刊ピープルズ・プラン』50号・研究会/プロジェクト報告]
戦後研究会

 昨年後半の戦後研では小田実を中心的に論じた。そのなかで1960年代前半期のナショナリズムの「復活」が話題となった。そこで、その一つの潮流として、いわゆる「近代化論」のテーマに入ることとなった。

 今年1月の研究会では、上山春平の『大東亜戦争の意味』(または『大東亜戦争の遺産』。いずれも中央公論社)に収録されている「大東亜戦争の思想史的意義」と「再び大東亜戦争について」を読んだ。本書はそのタイトルゆえに、右翼の侵略戦争否認論と誤解されやすいが、内容はむしろ戦争を主権国家の害悪として問題化したものであった。その観点から憲法九条の実現が議論されているわけだが、その際に「日本文化」の特殊性が拠り所にされてしまう。研究会では、「階級史観」的な戦争論に対して近代国家の問題を取り上げたのは鋭いとしても、結果的にある種の宿命論と天皇制ナショナリズムを支える「日本文化」論に陥っていく著者の論理が指摘された。

 2月はさらに近代化論に踏み込むために、武田清子編『比較近代化論』(未来社)を取り上げた。この本は、欧米の近代化論者の当時の代表的論文をまとめたもので、一口に「近代化論」といってもそのスタンスは様々であることがよくわかる。とはいえ、共通項としては、経済決定論に対して多元的要因の強調、近代化の断絶よりも連続(過去の影響)の指摘、とくに日本について論ずる場合に明治維新・明治政府の肯定的再評価という特徴が見られる。そして明示されてはいないものの、結局「近代化」の主役は国家であるという構図になっているように思われる。いずれにせよ、講座派的な歴史観の相対化という文脈が重要であることが確認された。

 そして3月は、これら近代化論の背景を整理した本として、金原左門『「日本近代化」論の歴史像』(中央大学出版部)を読んだ。本書は講座派的な立場から、しかしたんなる外在的なイデオロギー批判のみに終わることのない、内在的な批判を目指したものである。そのスタンス自体は貴重なものであり、確かに近代化論が変革主体の問題を欠落させているという指摘はそのとおりであろう。だが著者自身が代案を出すことに成功しているわけではない。その点で著者らのスタンスの限界も示しているものと言える。

 4月はお休みして、5月にふたたび日本の近代化論の検討ということで、その重要な源流の一つとなっている梅棹忠夫『文明の生態史観』(中央公論社)を取り上げた。半世紀前の提起であるにもかかわらず、いまだに斬新な指摘として肯定的に紹介されることも少なくない。しかし実際に読んでみると、感覚的な批評ばかりで、相当無邪気なエッセイという感想だ。彼のアイディア自体、すでに戦前に流布していたものだという。にもかかわらずもてはやされたのは、敗戦後に西ヨーロッパと並ぶものとして「日本文明」を持ち上げたこと、その根拠にインドや東南アジアを取り上げたのが新鮮だったこと、等がセールスポイントとなったのではないかと議論された。その意味では五〇年代半ばに提出されたというタイミングが重要だった。また、現代世界を考えるのにアメリカ(「新大陸」)の考察を欠いているのも致命的、との指摘もあった。

 近代化論は一枚岩でないことを確認しつつ、今後もまだしばらく近代化論を追いかけることになろう。次回は6月16日に、E・O・ライシャワーの『日本近代の新しい見方』(講談社現代新書)と『日本への自叙伝』(日本放送出版協会)の二冊を取り上げる。随時参加者を募集中なので、詳細は事務局まで問い合わせを。
(松井隆志)