━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 初期原水爆禁止運動聞き取りプロジェクトについて ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
20世紀がどんどん過去に遠ざかっていくなかで、世紀半ばの社会運動を生きた人々の経験を今のうちに肉声として記録し、資料として残していく必要が痛感されます。なかでも戦後日本の社会運動において独特の存在であったといえる原水爆禁止運動の初期の動きに光を当てようというのがこのプロジェクトです。
1954年3月、米国のビキニ水爆実験による第五福竜丸乗組員の「死の灰」による被災を引き金に、原水爆禁止を求める社会運動が草の根から立ち上がり、占領終結後最大の超党派運動となったことはよく知られています。短期間に原水爆実験禁止を訴える3200万の署名が集まり、1955年には原水爆禁止世界大会が開催され、原水爆禁止日本協議会(日本原水協)が結成されるというめざましい経過のなかで、この運動は戦後日本の社会と政治に大きい影響を与えただけでなく、世界における反核・平和の運動の発展に強い刺激を与えました。しかしこの運動は1961年、ソ連の核実験再開への態度決定をめぐる政治的影響によって分裂に向かい、初期の草の根運動としての性格を失っていきました。
私たちは、草の根の熱気と広がりをもっていた1954-1960年のこの運動を「初期原水爆禁止運動」と呼ぶことにします。
本プロジェクトの発端は、2007年4月24日、初期の原水爆禁止世界大会に通訳として働いた人々の懇親会(86会)にあります。この会は、1977年にそれまで分裂していた世界大会の再統一がなされたことを機会として、翌78年に第1回から第5回くらいまでの世界大会に通訳団の一員として参加してきた人々を中心に発足し、それ以来不定期に集まりをもってきました。発足時は約80名が名簿に記載されていましたが、2011年現在25名が物故者になっています。2007年の集まりの後、滝沢海南子、武藤一羊、山村茂雄、吉川勇一が記録の必要性について相談し、関心ある仲間とともに聞き取りを始めようと合意したのが発端です。関心ある参加者を募りつつ、同年6月2日に第1回の会合を開き、発足しました。その場で戦後社会運動史の研究に取り組んできたピープルズ・プラン研究所(以下、PP研)のプロジェクトとして聞き取りを進めることが合意され、本プロジェクトのかたちが定まりました。また7月、広島市立大学の広島平和研究所からは、本プロジェクトに対し録音の文字起こしと編集について経費の一部を負担する一方で、完成した記録を広島市公文書館に納めるという提案をいただき、PP研との間に合意が交わされました。
聞き取りは、当時の活動家・経験者と、戦後日本の社会運動に関心を寄せる相対的に若手の研究者や有志の共同作業として行なわれました。当時を経験しない若手が経験者に話を聞くという形式(インタビュー)と、当時の経験者が相互に記憶を引き出しあうという形式(相互インタビュー)を組み合わせ、当時の経験者はインタビューされる側であるとともに、する側にも立つという形で参加しました。
このような経過から生まれた本プロジェクトの聞き取り成果は、(1)東京中心、(2)運動の国際活動に重点、(3)日本原水協事務局中心、という制約をもっています。すなわち初期原水爆禁止運動の全体像を明らかにするものではなく、また原水爆禁止運動の全体史を書こうとするものでもありません。本プロジェクトは、当時の活動者それぞれの目を通して語られる経験をそのまま記録として残し、社会運動史の研究者、あるいはこのテーマに関心をもたれる方々に利用していただく記録の作成を趣旨としています。
本プロジェクトの活動は主として東京で行なわれましたが、聞き取り会合については、以下のような経過をたどりました。
1.2007年6月16日 畑 敏雄(1回目) 2. 7月 1日 吉田嘉清(1回目) 3. 7月28日 滝沢海南子 4. 8月18日 吉川勇一(1回目)・武藤一羊(1回目) 5. 9月 8日 武藤一羊(2回目) 6. 9月19日 畑 敏雄(2回目、丸浜出張聞き取り) 7. 9月22日 吉田嘉清(2回目) 8.2008年1月19日 山村茂雄 9. 2月23日 武藤一羊(3回目) 10. 3月30日 永山ヒロ子 11. 4月20日 森 百合子 12. 5月25日 畑 敏雄(3回目) 13. 6月21日 吉川勇一(2回目) 14. 7月13日 和田陽一 15. 8月31日 前田慶穂(丸浜出張聞き取り) 16.2009年1月23日 立花誠逸 17. 6月19日 広瀬方人 18. 7月30日 第1回座談会 19. 11月3日 第2回座談会
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