脱経済成長論への違和感

小林治郎吉
2009年10月

※編集部より――「カサナグのフィリピン」というブログを運営している小林治郎吉さんから、ピープルズ・プラン研究所ウェブサイト上の「脱経済成長」をめぐるいくつかの文章に対して批判の文章をご自分のサイトに掲載したとの連絡をいただきました。論争を喚起するため、ご本人からの転載許可を得て、ここにその文章を2本まとめて掲載いたします。

1.「脱成長経済論」を唱えることは、現実的か?
――つるたまさひで「経済成長?!いる?いらない?」(その1)(その2)への批判


1)「脱成長経済論」

 わたしたちの持つべきビジョンとして、「脱成長経済論」が唱えられている。

「……民主党は、めざすべき経済のビジョン(たとえば脱成長経済)を持っていないから、その時々の経済状況に振り回されるご都合主義的な経済政策を行わざるをえないだろう」(白川真澄「総選挙・政権交代と新政権の行方」、2009年9月6日)

2)選択は可能か?

 つるたまさひでさんは、「経済成長?!いる?いらない?」なる「問い」を書いている。

 そもそもこのように問うことは、経済成長は、人々のいる・いらないという希望や意思による選択によって実現できることが、当然の前提として成立していなければならない。残念ながら、この前提は成立していない。

 たとえば、現在、世界を経済危機が覆っているが、「経済危機は、いる?いらない?」と尋ねたら、ほとんどの人はいらないと答えるだろう。でも「いらない」と望んでも、バブルと破綻を繰り返してきたし、これからもなくなりそうにない。

3)「経済成長」が原因か?

 2つ目の問題は、「経済成長」が原因であるのか、という問題である。

 環境汚染や地球温暖化、エネルギー資源の枯渇、開発による伝統的社会の急速な破壊、また長時間労働など労働強化や派遣社員などの不安定短時間艇賃金労働の増大など、最近の世界は混乱をきわめている。「このままだと未来はない」と多くの人が感じている。その通りである。

 原因は「経済成長にある」と考える人が出てきても、何ら不思議はないし、「経済成長が原因である」と考えた人が、「脱成長経済論」を唱えたとしても不思議はない。このように考える人の気持ちはわかる。

 ただ、はたして「経済成長」がその原因だろうか?

4)「原因が経済成長である」ととらえる「認識」は正しいか?

 確かに、「経済成長したから、環境が汚染された、地球が温暖化した」のは、経過の描写としては間違っていない。確かに同時に進行し出来した。

 たとえば、わたしのうちの近くに踏み切りがある。電車が通るたびに「カンカン」警音を鳴らす。そのあとに電車が通過する。「カンカン鳴ると電車が通る、警戒音が列車通過の原因である、したがって警戒音を止めれば電車が止まる」と、もし考えたとしたら、とんでもない間違いだろう。同時に出来したからといって原因とは限らない。

5)資本の価値増殖運動こそ資本主義

 わたしたちの生きている現代は資本主義社会である。資本の活動が社会的活動の主要な根幹をなしている。資本は、その運動の衝動力を価値の自己増殖に置いている。資本は資本の増大を目的に運動している。たとえば、資本家は資本を投資する、すなわち、原料や設備費、労働力を購入し、生産を組織する。生産したあと市場で販売し、投下した資本以上の金額を得る。すなわちG→W→G'の運動をしており、回収した資本G'は、最初に投下する資本Gよりも、大きくなければならない、あるいはG’がGよりも極力大きくなるように、資本家は努力を集中している。でなければ、生き残れない。その努力、目的にしたがって、たとえば会社組織は活動している。資本家とは、自己増殖する資本の運動が人格化したものであろう。

 さて、資本家に対して、「経済成長?!いる?いらない?」と問うた時、彼はどのように答えるだろうか?予想される反応は「それは儲かるのか?」ではないか。

 さてわたしたちの問いは、「資本の自己増殖運動を是認したうえで、経済成長を否認できるか?」である。もし可能なら、事は簡単である。説得する運動を行えばいい。ひとりひとり資本家を訪問し、考えを変えてもらうのがいいと思う。

6)「脱経済成長論」は資本の価値増殖運動と矛盾する

 わたしの考えを結論的に言っておこう。脱経済成長論は資本の価値増殖運動と相容れない。

 むしろ、現代世界の危機的状況、すなわち環境汚染や地球温暖化、エネルギー資源の枯渇、開発による伝統的社会の急速な破壊、また長時間労働など労働強化や派遣社員などの不安定短時間艇賃金労働の増大などは、きわめて単純化して言えば、資本の自己増殖運動がもたらしてきたものであって、すなわち上記の問いは、正確にいえば「資本主義、いる?いらない?」と問うべきであった。あるいは、「資本主義のシステムは、この危機を回避できるか?この先どうしようもないとしたら、このまま続ける、それともやめる?」このように問うべきであった。

7)「脱経済成長論」の脆さ、危うさ

 「経済成長」という何が原因であるか不明の言葉で表示したことにまず間違いがあった。

 あるいは、資本の活動が原因であると述べるとケンがあるので、なんとなく全体を指している「経済成長」という言葉を使ってソフトに表現したことによって正確さを失った。あるいはあいまいな「経済成長」という言葉ゆえに、受け取ったそれぞれの者が自分の都合よく原因を理解することを意図的に期待して使った論者のずるさに間違いがあった、というべきではなかろうか。

8)オールタナティブとは?

 現代社会の様々な問題、矛盾の原因が資本の活動にあるとしないで、そこを意図的にあいまいにして、はたしてオールタナティブが描けるのか?という疑問に行きつく。そのようなことでそもそもオールタナティブと名乗れるのだろうか?はたして学問的なのか、という疑問が生じる。

 そんなことは無理ではないかと疑っている。もちろん、それが可能であるとの科学的な、学問的な説明をわたしはいまだ見ていないからそのようにいっているだけで、説明され道理が通っておれば自分の考えを撤回する用意はある。

 わたしたちの持つべきビジョンとして主張される「脱成長経済論」は、経済的ロマン主義であろうと判じている。

2. 山口響「『脱経済成長』が提起された――経済危機の中の世界社会フォーラム」への批判

1)経済危機の中の世界社会フォーラム

 山口響さんの論文(『季刊ピープルズ・プラン』46号所収)は、世界社会フォーラム(WSF)の報告である。その内容はきわめて重要でありまた検討しなければならない多くの現代世界の認識・とらえ方・批判、そしてプランの案が含まれている。興味深く読ませていただいた。南米・欧州・中北米を中心とする5808もの団体が集った論議は、彼らがどのように現代世界をとらえ、どのように運動を進めようとしているのかをあらためて認識するとともに、議論の熱気が伝わってくる気もした。その点では論文から多くのことを教わった。

 ただ、あまりに読んで気になる点がいくつかあるので、以下に述べさせてもらう。

2)気になる点、その一

 その第一は、2009年1月の第8回WSFに参加した山口響さんが、「このフォーラムが『脱経済成長』を提起した」と書いていることだ。

 山口さんのWSFレポートを見ての判断であるけれど、WSFでは「脱経済成長論」にどの団体も個人も触れてさえいないように見受けられる。なのに、山口さんにかかると「WSFは脱経済成長を提起した」ことになるらしい。

 どのように判断したらいいのだろうか。少々、強引ではないか。あるいは我田引水的ではないか。

 たとえ強引でも我田引水的でも、その根拠さえ明確であれば、どの団体・個人が言及さえしなかったにしろ、フォーラムが提起した課題を自分なりに解釈・読みかえることは可能であることは承認する。しかし、その根拠を示すことなく、自分なりに解釈・読みかえることは、決してしてはならない。これはあたりまえのことだと思う。しかしわたしには、山口響さんは、この「あたりまえ」を破っているように見える。

 論拠もなしに「自分自身の勝手な解釈」と言ってみたところで言い訳にもならないと思われる。

3)気になる点、その二――WSFでの論議、危機の原因は何か、新自由主義か?資本主義か?

 「危機の原因は何か、新自由主義か?資本主義か?」こそ、WSFで論議されたテーマだという。

 わたしの個人的意見を先に述べておくと、上記の対立が必ずしも非和解的な対立だとは思わない。仮に、現代の危機が資本主義そのものの危機だとしても(わたしはそのようにとらえているが)、野蛮な資本主義である新自由主義への規制、すなわち金融取引への課税、金融システムの改革、食料やエネルギーへの投機の禁止、租税回避地の解体など政策の実施やそのプランには賛成する。実際には、上記の政策を実施しようとすることは、資本主義廃絶の過程でもあると思われるからだ。でなければ現実性が生じない。もちろん、資本にとっては、山口響さんが指摘されているように「排出量取引など環境を主軸にした規制のメカニズムも、そのメカニズムの上での新しい資本間の競争、新しい投機が生まれる機会」であり、資本主義存続の追求となるだろう。その可能性は常につきまとう。仮にそのような政策を実現したからといって、廃絶と継続の綱引き、闘争が終わるわけではないし、最終的に解決するわけではない。事態は矛盾した複雑な過程をたどるとしか言えない。しかし、だからといってわたしたちが頭の中であらかじめ、そのプロセスを決めてしまったり拒否することはできない。

 要するに、「危機の原因は何か、新自由主義か?資本主義か?したがって、解決のプランは社会民主主義か?、社会主義か?」と二律背反的に理念的に頭の中でとらえることに反対する。柔軟にとらえるべきだと思う。

 さて前置きが長くなってしまったが、気になる点その二は、山口響さんのこの議論への接近の仕方である。

 山口響さんは、「危機の原因は何か、新自由主義か?資本主義か?したがって、解決のプランは社会民主主義か?、社会主義か?」と議論を俯瞰し描き出した後で、このように述べる。

「だから、私たちの側も、たんに新自由主義を終わらせればよいとか、あるいは、各国政府による景気刺激策の規模の大きさを見て『社会主義の復活』を単純に観測する傾向に与するわけにはいかない。やはり、資本主義という経済のありかたそのものを問題にしなくてはならないだろう」。

 「『社会主義の復活』を単純に観測する傾向に与するわけにはいかない」ことの論拠として、山口響さんは経済危機、恐慌下での国有化、すなわち「AIGの国有化」や金融資本の債務を国家が肩代わりすることを、あげている。しかしこれは、単純な勘違い、誤りであろう。恐慌下で破綻した資本を国家が救ったとしてもそれは決して社会主義ではない。国家による資本の救済であって社会主義ではない。かつて日本資本主義を最も「社会主義的だ」と描写した論述や報道がなされたことがある。個々の資本の資本蓄積が国際競争する上では相対的に小さかったので、国家を利用し対抗したのであって、そのようなものは社会主義でもなければ社会主義的でもない。単純な誤りである。まさか、このような誤りに影響され、言い訳する必要などなかろうと思うのだが。資本主義のもとでの国有化を論拠として、山口響さんが「『社会主義の復活』を単純に観測する傾向に与するわけにはいかない」と書いているのは、まったく理屈にあわないと思うのだが。

 その意味不明な論拠とともに、山口響さんが「危機の原因は何か、新自由主義か?資本主義か?したがって、解決のプランは社会民主主義か?、社会主義か?」の議論を超越したかのような、あるいは避けるかのような論述をするところが、第二に気になるところである。そのような描出は、現代世界で不断に生まれつつある人々の批判、人民運動のリアリティから、遠ざかることになりはしないか?

 後で判明するが、どうもこれは「脱経済成長論」を主張するための「前ふり」のようだ。

4)気になる点、その三――資本主義と過剰生産

 ここの叙述がわたしは最も重要だと考えている。どうしてかというと、「脱経済成長論」の根拠らしき事が書かれている唯一の箇所だからである。次のように書かれている。

「現在の資本主義の特徴とは、……金融経済が支配していること……金融化は1970年代ぐらいから始まった……そもそもこの実物経済自体が1970年代の時点で過剰生産に陥っていた、という事実である。つまり、この過剰生産への指向、別の言い方をすれば経済成長指向を改めないかぎり、……」

 「経済成長指向とは、過剰生産への指向」だというのだ。そしてこれを改めようという。これが、わずかに触れられた「脱経済成長論の論拠」なのだ。

 「過剰生産」とは何か?「過剰」とは何か?「消費に対する生産の過剰」である。消費と生産の乖離は、資本主義のもとでは不可避的に宿命的に周期的に起きる。限定された消費の水準にまで生産が、強制的に暴力的に引き戻されるのが恐慌局面。恐慌は消費と生産の乖離という形をとって現われる。もっとも恐慌の原因が、過少消費にあるわけではない。

 そもそも「過剰生産」は「資本主義の宿悪」ではないか。山口響さんが指摘する1973-4年の世界的な過剰生産恐慌(石油ショックと言われた)は戦後初の大恐慌ではあったものの決して初めてではなく、過剰生産恐慌は資本主義が発生して以降、何度も繰り返されてきた。もし、「過剰生産」を「脱経済成長論の論拠」というなら、「過剰生産、すなわち資本主義を廃絶しない限り、「脱経済成長論」を主張することはできないことになってしまう。

 資本主義そのものが「過剰生産」を不断に生み出すのではないだろうか?そんなことは明らかだろうと思う。

 それを、「過剰生産への指向、すなわち経済成長指向」と書き換えるところに山口響さんの独自性がある。しかも、何の論拠もなしに、言い換えるところに、山口響さんの独自性がある。

 そもそも「脱経済成長、経済成長への指向を改める」などとわざわざ言葉の言い換えをする必要などないではないか。山口響さんが論拠に述べた通り、「過剰生産、すなわち資本主義を廃絶しなければいけない」と言えばいいではないか。なのに、あえて「脱経済成長」と言い換えている。しかもこの言い換えは、よりあいまいに、より不明確になっている。

 なぜわざわざこのような言い換えをする必要があるのか、不明である。説明はなされない。

 むしろ逆に、説明なしに言い換えてますところに、「脱経済成長論」の特徴があるようにさえ思えるのだ。さて、ここに何か意図でもあるのだろうか、などと考えてしまう。

5)気になる点、その四

 ついでに気になる点、その四を先に述べておこう。

 山口響さんは「経済成長への指向を改めよう」と呼びかけている。

 これはいったい何をすることなのか?どういう政策のプラン、行動のプランとして描くのか?まったくわからない。というより、まったく書かれていないだから、わかりようがない。どのようなプラン、プログラムを通じて実現するのだろうか?書かれていない。目標を掲げる者は、目標に至る過程を規定しなければならない。しかし、書かれていない。

 「脱経済成長論」の主張は必ずしも山口響さんだけではないようだ。でもわたしの見る限り、誰も「脱経済成長」を実現するためには何が必要なのか、少しも述べていない、述べようとしていないように見受けられる。(ひょっとしたら、わたしが見逃しているのかもしれない。もしそうならば、ぜひ指摘願いたい。)

 これは、とてもおかしなことだ。「脱経済成長論」を主張しているのは、山口響さんだけではなく、ピープルズ・プラン研究所としての集団的な見解のようにも読めるが、わたしが見る限り誰もそのプラン、プログラムに触れていない。できればその論拠を書いたもの、「脱経済成長」を実現するプランを書かれたものを教えてもらいたいと思う。まさか誰もが見過ごしていて、誰もが気がつかないはずはないと思うのだが。この点が、不思議でしょうがない。

 この点は、気になる最も大きな点である。

6)言いたかったこと

 このように書くのは、山口響さんの報告されていること、書かれていることを尊重しないわけではない。むしろ、逆である。尊重しているからであり、その持つ意味を読み取ろうと丁寧に読んだ結果出てきた疑問、気になる点である。なるべく、わたしの疑問を率直に書くようにしたので、乱暴な言葉もいくつかあろうとは思うが、悪意はない。