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【今月のお薦め/つるたまさひで】
経済成長?!いる?いらない?――その2


(その1から続く)

次に平川さんの『経済成長という病』について

平川さんはこの本で世紀末から2008年までの10年を以下のように表現している。

「この10年間とは、戦後から継続してきた経済発展至上主義が行き詰まりを起こして、新たな価値観による世界の設計(それが何かはまだ明確ではない)へ至るまでの移行期的な混乱であり、後の時代にターニングポイントとして記憶されることになるであろう出来事がちりばめられている。私たちはまさに、時代のパラダイムの転換に立ち会っている」

この時代認識はぼくもそうじゃないかと、あまり根拠なく考えてきたことと重なる。

そして、クールな見方だなぁと思ったのが以下
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 寒い冬の時代(いや寒い夏もだ)に死なずに生きてゆくために、動物と、その社会にとって必要なものはなんなのかと考えてみる。ひとつは、個体そのものの耐性力をつけることであり、もうひとつは生存のための行動の優先順位を間違えないことである(パンを分かち合うことは、社会にとってもっとも効果的かつ美しい防衛策だが、現在は誰もそれをしようとは思わないだろうし、実際にそのような互酬的な社会は当分の間は再来しないだろう)。
 ひとはしばしば、生存よりは、現在の生活を維持し、向上させることを最優先に行動する。そして少ないパンを奪い合うための効率のよい生き方を選ぼうとする。
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わかちあって、みんなが生きていけるような社会を展望したいと思う。この平川さんの記述にもその微かな願望は読み取れる。しかし、「互酬的な社会は当分の間は再来しない」というのもまた真実であるように思える。多くの人が自分が生きていくのにせいいっぱいだと感じている。将来の見えない日本社会で多少の蓄えだって手放したくない。そういう中で分かち合いを求める無理はあるのだろう。

ちなみに、この平川さんの著作、いくつか納得いかない話も含まれているが、社会運動とは別の立場で、もう経済成長はいらないと言っている。リナックスカフェ代表という彼の肩書きは企業といっても、運動に近いものではあるけれども、それでもやはりここにはビジネスの視点がある。

そして、そういう現実をも前提に、オルタナティブは構想される必要があるのだろう。オルタナティブに向かう道筋は、人間が自分の利害関心によって動かされるということを前提に考えるしかない。

たとえば、その話を山之内靖さんは岩波新書の『マックス・ヴェーバー入門』で、以下のように書いている。

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……。このようにヴェーバーの方法は、社会的行為の内面的動機づけに注目するものであり、そのために行為の理論と呼ばれています。また行為を動機づけている文化的意味への共感と理解を中心に組み立てられていることから、理解社会学と呼ばれることもあります。しかし、だからといって、ヴェーバーは外面的な客観法則を無視したわけではありません。むしろ問題の中心におかれていたのは、行為の内面的動機づけと外面的な客観法則との間の、複雑で時には逆説的でもある関連を解明すること、これでした。大塚久雄教授がヴェーバーの方法を「複眼的」と呼んだのは、そのためです。(『社会科学の方法』1966年)16p
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…。苦難は、民衆にとって内面に誇りをもって生きてゆく支えとさえなったのです。こうしてこれらの世界像は、苦難を超えて一貫した倫理的生活を送るのに必要な内面的動機を、広く社会に形成したのです。この脈絡について、ヴェーバーは次のような印象深い記述を残しています。
 「人間の行為を直接的に支配するものは、利害関心(物質的ならびに観念的な)であって、理念ではない。しかし、「理念」によってつくりだされた「世界像」は、きわめてしばしば転轍機(ターンテーブルのルビ)として軌道を決定し、その軌道の上を利害のダイナミックスが人間の行為を推し進めてきたのである。」17-18p
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この転轍機が動き始めているのだと思う。それが必ずしもいい方向に動くとは限らない。それをこうあって欲しいと思える方向へ動かす努力と、その方法を構想することがいま必要なのかなぁと思ったりしている。
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