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【今月のお薦め/つるたまさひで】
『逝かない身体―ALS的日常を生きる』(読書メモ)


『逝かない身体―ALS的日常を生きる』メモ

川口さんの『逝かない身体―ALS的日常を生きる』、ずっと読もうと思っていたのだが、やっと読んだ。

川口さんのお母さんが亡くなった日のすごい夕焼けの表紙をとりあえず開いて読み始めたら、一気に読めた。いろいろ考えさせられる記述は少なくない。

ぼくは以前、「生きていることの肯定」(『軍縮地球市民No.6』2006年秋号集録、
http://tu-ta.at.webry.info/200811/article_16.html
にも掲載)を書くときのヒントを川口さんからもらったし、実際に発表する前にアドバイスももらった。彼女から聞くALSのお母さんとの関係から、「ただ存在すること」の重さを感じたのだった。

それにしてもこの本、読みやすくて考えさせられる。この読みやすさは彼女の指導教官である立岩さんとは真逆といえるかも。


以下、抜書きとかメモとか

<それは子どもとの関係も変える>

《(帰国子女の娘の教育とALSの母の看病の中で)「私は頭がおかしくなりそうだったが、理想主義と完全主義を一切やめて、なるようにしかならないと運命に身を委ねることにしたら、とたんに身も心も晴れ晴れした」、すると、娘に対して習得させるべきなのは、点の取り方を教えるのではなく、自信をもたせることだということに気づいた》

《その後、長生きのALS患者から学んだこととして「病に犯されて何もできなくなってもなお自分を大切にできる人は、弱く衰えた自分でも愛せる自由で柔軟な思考回路の持ち主であった。長生き患者の秘訣を知り、私は子どもたちへの接し方を変えたのだ」》

《そのような考え方の変化の中で「もっとも重要な変化は、病人に期待しなくなったことだ。治ればよいがこのまま治らなくても長く居てくれればよいと思えるようになり、そのころから病身の母に私こそが「見守られている」という感覚が生まれ、それは日に日に重要な意味をもちだしていた」(66p)》

《子どもに対しては、「私の思い通りにならなくても、私の子どもでいてくれることに感謝できるようになっていた」》

などと書かれている。でも「思い通りにならなくても、私の子どもでいてくれることに感謝できるようになった」っていうのはちょっとできすぎじゃないかなぁ。やっぱ、子どもが言うことを聞かないと腹が立つでしょ。


<「生」への肯定的な介入と否定的な介入>

ちょっと、はっとしたのが、《医療において「家族に白か黒かを迫るのではなく、やんわりと覚悟を決めさせる方法はいくつもあった、それを(中村)先生と生田さん(看護師)は順次実践していった」(70p)》という部分。カルテの余白には患者である川口さんのお母さんが文字盤で伝えた言葉や、家族とのもめごとの内容までが仔細に記録されていたらしい。そのような観察の中で「やんわりと覚悟を決めさせる」という職人技が発揮されるのだろう。

また、108pを読むと、その逆も可能なことが読み取れる。つまり、患者に対して、やんわりとというか、直接それを口に出さずに、「生」をあきらめさせることもまた可能なのだ。療養上の苦労の多さ、大変さを、そこだけ取り出し患者に伝えることで、患者と家族は恐れおののき、呼吸器をつけて生存することを諦める。そして、それでも諦めない人に対して、医療従事者や役場の職員が不思議に思うことも少なくない、という。

やんわりと覚悟を決めさせる肯定的で職人芸的な介入は緻密な観察と豊富な経験がなければありえないものであるのに対し、「生」をあきらめさせる間接的な介入はもしかしたらぼくにもできそうなくらいに単純だ。


<オムツは「受容」ではない、「自立」だ>

《・・・危険だとわかっても、「もうそろそろ諦めよう」とは介助者はなかなか言い出せない。本人に植え付けられた尊厳意識を塗り替えてもらい、生活上の優先順位を入れ替え、合理的で効率的な生活を望むようになったときに、初めて患者は紙オムツをはじめとする介護用品や医療器具の真価に目覚めていくのである。
 これは「障害受容」などという言葉ではとうてい表現できない、介護者との共存のための妥協策である。128p》

どこまでを妥協し、どこまで尊厳を守るのか、あるいは新しい尊厳意識を塗り替えるのか、話はそんなには単純ではないだろう。そのぎりぎりの線を出していくために、現場での知がフルに動員されるのだろうし、あるいは何回かのコンフリクトを経ることが必要かもしれない。「介護者との共存のための妥協策」というような現実にのったありかたが行き過ぎると、批判の対象になるだろう。ここでも、それはぎりぎりのバランスの上に成立するものだと思う。


<新たな関係性の創造へ>

川口さんは母親との言語的会話が成立しなくなったその直後には、母親の血圧も乱高下し動悸も早くなったのだが、大勢で八ヶ岳に旅行に行って戻ってからは、たいへん穏やかなものになったと書く。その身体から出るサインを読み解くことが「身体的な会話」になるらしい(175p)。汗もまた、本音を語るという(184p)。通常、「言語的会話が成立しなくなった」状態(瞬きや脳波での意思疎通を含む)をトータリー・ロックト・イン・ステイト(TLS)などと呼ぶのだが、彼女がその言葉を使いたがらない根拠がここにもあるのかと思う。185pではこんな風に書いている。

《「ただ寝かされているだけ」「天井を見ているだけ」と言われる人の多くは、無言でも、常に言いたいこと、伝えたいことで身体は満たされている。ただ、そばにいてそれを逐一、読み取る人がいないだけなのだ。》

《・・・、繰り返して何度でも意言うが、進行したALS患者が惨めな存在で、意思疎通ができなければ生きる価値がないというのは大変な誤解である。
 ・・・生きる意味は「他者」によって見出されるものでもあろう(182p)》

ぼくもここが大事だと何度でも言いたい。<生きる意味は「他者」によって見出される>とも言えるかもしれないが、生きる意味は関係性の中にあるということなんだろうと思う。

川口さんは晩年のお母さんとの関係のことを以下のように表現する
「蘭の花を育てるように植物的な生を見守る」
脳だけでなく、心臓や胃腸などすべての臓器を萎縮させ、あらゆる動性を停滞させて植物化しようとしているお母さんをこんな風にいう。

《余計な思考や運動を止めて省エネルギーで安定した状態を保ち、長く生きていられるようにしていたということだろう。
 そう考えると「閉じ込める」という言葉も患者の実態をうまく表現できていない。むしろ草木の精霊のごとく魂は軽やかに放たれて、私たちと共に存在することだけにその本能が集中しているというふうに考えることだってできるのだ》200p

ここではすでに、トータリー・ロックト・インだけでなく、ロックト・イン(「閉じ込める」ということ)そのものの再検討が要請されている。そして、「一輪のカサブランカになった母のイメージ」を語り、「母の命は身体に留まりながらも、すでにあらゆる煩悩から自由になっていると信じられたのである」と書くのだが、ここまで言われてしまうと、ちょっとついていけない感じはある。そんなことが本当にありえるだろうか。しかし、一日の多くの時間をお母さんといっしょに過ごした川口さんがそう感じたことを誰も否定はできない。生を肯定することと「祈り」とか「何かを信じること」というのが密接に結びついているのではないかという思いも強くなる。これはラルシュ共同体でどんな形であっても「祈り」が大切にされなければならないとされていることともつながっているように思う。(ラルシュについて説明するともっと長くなるのでhttp://tu-ta.at.webry.info/200606/article_28.html
などを参照のこと)

このあたりの話は、212pから始まる「5 ブレインマシーンの前に」で説明されるコミュニケーションの話ともつながるようにも思える。誰かに表現を「仮託」するという表現が近いようにも思えるこのコミュニケーションのありかた。先の「祈り」などの話と共に、ひとつ間違えると危険で誤った「代弁」にもなりかねない。そのきわどい境目を誰がどのように決めるのか、「証拠は要らない」と川口さんは書くのだが、それが間違っていないということもまた関わる人の関係性の中で受け入れられるということが大切なのだと思う。


ともあれ、この本からぼんやりと見えてくる「新たな関係性」が切り開く地平があるのではないかと思う。しかしそれは、使い方を間違えるととても危険なものにもなりそうだ。この本の主題からはちょっと遠いかもしれないけれども、そんなことを考させられた。
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