【今月のお薦め/つるたまさひで】
パリのモスク――ユダヤ人を助けたイスラム教徒 (読書メモ)
静かに美しい絵がたくさん使われている。文章は短い。もとは絵本だったという。
とても薄い本だが、なかなか知られていない興味深い話。1940年代前半、ドイツに占領されていたパリでモスクはドイツへのレジスタンスの隠れた拠点になっていた。そこで、・・・というような話は「BOOK」データベースの内容紹介にある。
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1940年から44年にかけて、パリはナチス・ドイツに占領され、ユダヤ人はいつ拘束され強制収容所に送られるかと恐怖のうちに暮らしていました。ユダヤ人だけでなく、ドイツ人以外のすべての人々の自由が制限される中で、ユダヤ人を助けようと危険をおかすような人はほとんどいません。そのような日々に、ユダヤ人をかくまい危険なパリから脱出させるため力をつくした人々がいます。誰だったのでしょう。パリのどこで、そんなことが可能だったのでしょうか。当時も今も聞いた人の誰もが意外に感じ驚くであろう場所、それは・・・。
この本は、これまでほとんど語られることのなかったイスラム教徒のユダヤ人救出活動に光をあて、その勇気と信念、献身を讃えるために書かれました。
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もう少し長い紹介の最後の部分は、当時パリに大勢いたムスリムであるカビール人の言葉で書かれたメモが掲載されている。それは1942年のパリでのユダヤ人の大量拘束の翌日、移民の間を回覧されたものだという。あとがきに書かれているのと同様の改行を入れて引用しよう。
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昨日の未明、パリのユダヤ人は拘束された。老人も女性も子どもも。
私たちと同じに異郷の地にあり、私たちと同じ働く者たち。
かれらは私たちの兄弟。
かれらの子どもたちは私たちの子どもも同じ。
その子たちの一人に出会った者は、不幸や悲しみの続く限り住みかと保護を与えるべし。
我が同胞よ、あなたの心は寛容である。
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こんな風にムスリムとユダヤ教徒が共存してきた歴史があるということをもっと多くの人に知って欲しい。シオニストによる建国運動でパレスチナと呼ばれていた地域に「イスラエル」という国家がムスリムを暴力的に粉砕する形で「建国」されたことから、その関係は破壊され、現在に至る。「建国」60年を過ぎ、銃弾で追われたパレスチナの人々の帰還を含む和解はますます困難になっている現実は確かにある。しかし、将来に可能性がないわけではないはず、と思いたい。
1948年の「建国」からのプロセスをすべて見直し、それぞれの宗教を信じるものが共存できる社会のためのステップが準備される必要がある。
この話はこんな風に結ばれている。
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大モスクで働いていたムスリムとレジスタンスを闘ったムスリムは、ユダヤ人もそうでない人も追われる人は誰でも助け、命を救いました。大きな危険をおかしながら正しいと信じることに身を捧げたのです。恐怖のホロコースト(ユダヤ人の大虐殺)のただ中で、パリの大モスクの壁のむこうでは、高貴で勇気ある行為が静かに進められていたのでした。「ユダヤ人は自分たちの兄弟姉妹」であるといって、ムスリムがユダヤ人救出に取り組んだ事実は忘れられてはなりません。
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そして、池田さんによる訳者あとがきには、当時のレジスタンスに植民地出身者が多数参加していたことがほとんど語られてこなかったと書かれている。フランス国家の側は戦後すぐに植民地独立闘争に直面し、対独レジスタンスに植民地出身者が大勢参加していたことを隠したかったし、植民地解放闘争を担った側も宗主国のために共に闘ったものが存在していたことを公にしたくなかったらしい。
当時の大モスクの指導者ベンガプリの評価も定まっていなかったという。ムスリムとの関係を配慮せざるを得ない戦時のドイツ政府やビシー政権との比較的良好な関係があったからこそ、パリのモスクをレジスタンスが隠れた拠点として使用することができたわけだ(疑われてはいたようだが)。当時の権力との関係を維持するための努力が否定的にとらえられることもあっただろう。
これらの事実が公に初めて明らかになったのは1991年に発表された映画「忘れられたレジスタンス――パリのモスク」だったという。
不思議なことにこれは「従軍慰安婦」と呼ばれた人たちのカムアウトの時期ともほぼ一致する。約半世紀の時間がここでも必要とされた。その理由はそれぞれ異なるだろうが。
ちなみにこの映画「忘れられたレジスタンス――パリのモスク」は上映権料なしでどこでも上映可能とのこと。問い合わせのメールアドレスは
parismosquejpn@gmai.com
日本語のメールで申し込み可能、日本語の字幕も入った映像とのこと。2009年に「さらば戦争!映画祭」でも上映されている。
ところで、「パリ」と「モスク」の2語で検索すると、観光地としてのパリのモスクが紹介されている。
http://www.cahierdeparis.com/1_%83p%83%8A%82%CC%83%82%83X%83N_1187
こんな風に書かれている
===
400万から500万人いると言われるフランスのイスラム教徒。その象徴とも言えるのが、カルチエ・ラタンにそびえる白い建物、モスケ・ドゥ・パリ(パリのモスク)ではないでしょうか。ここはもちろん実際に使われている礼拝所ですが、サロン・ド・テとレストランは誰でも気軽に入れます。パリのど真ん中にいることを忘れてしまいそうなその独特な雰囲気に惹かれて、毎日多くのパリジャンたちで賑わっています。
サロン・ド・テでは甘味たっぷりのオリエンタル菓子やミントティーを味わいましょう。
飾りタイルの内装がとても美しいレストランでは、クスクス(12ユーロ?)やタジン(13.50ユーロ?)など本場の味を楽しめます。天気の良い日には、テーブルに落ちたお菓子のおこぼれにあずかろうと開け放たれた窓からスズメたちが入ってきてびっくり。そんな光景ものどかな、ゆったりとした午後にぴったりの場所です。(2007-09-15)
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こんな宣伝の話に誘われて、パリのモスクに行く人にも、この歴史を知って欲しいと思う。
パリのモスク――ユダヤ人を助けたイスラム教徒 (読書メモ)
静かに美しい絵がたくさん使われている。文章は短い。もとは絵本だったという。
とても薄い本だが、なかなか知られていない興味深い話。1940年代前半、ドイツに占領されていたパリでモスクはドイツへのレジスタンスの隠れた拠点になっていた。そこで、・・・というような話は「BOOK」データベースの内容紹介にある。
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1940年から44年にかけて、パリはナチス・ドイツに占領され、ユダヤ人はいつ拘束され強制収容所に送られるかと恐怖のうちに暮らしていました。ユダヤ人だけでなく、ドイツ人以外のすべての人々の自由が制限される中で、ユダヤ人を助けようと危険をおかすような人はほとんどいません。そのような日々に、ユダヤ人をかくまい危険なパリから脱出させるため力をつくした人々がいます。誰だったのでしょう。パリのどこで、そんなことが可能だったのでしょうか。当時も今も聞いた人の誰もが意外に感じ驚くであろう場所、それは・・・。
この本は、これまでほとんど語られることのなかったイスラム教徒のユダヤ人救出活動に光をあて、その勇気と信念、献身を讃えるために書かれました。
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もう少し長い紹介の最後の部分は、当時パリに大勢いたムスリムであるカビール人の言葉で書かれたメモが掲載されている。それは1942年のパリでのユダヤ人の大量拘束の翌日、移民の間を回覧されたものだという。あとがきに書かれているのと同様の改行を入れて引用しよう。
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昨日の未明、パリのユダヤ人は拘束された。老人も女性も子どもも。
私たちと同じに異郷の地にあり、私たちと同じ働く者たち。
かれらは私たちの兄弟。
かれらの子どもたちは私たちの子どもも同じ。
その子たちの一人に出会った者は、不幸や悲しみの続く限り住みかと保護を与えるべし。
我が同胞よ、あなたの心は寛容である。
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こんな風にムスリムとユダヤ教徒が共存してきた歴史があるということをもっと多くの人に知って欲しい。シオニストによる建国運動でパレスチナと呼ばれていた地域に「イスラエル」という国家がムスリムを暴力的に粉砕する形で「建国」されたことから、その関係は破壊され、現在に至る。「建国」60年を過ぎ、銃弾で追われたパレスチナの人々の帰還を含む和解はますます困難になっている現実は確かにある。しかし、将来に可能性がないわけではないはず、と思いたい。
1948年の「建国」からのプロセスをすべて見直し、それぞれの宗教を信じるものが共存できる社会のためのステップが準備される必要がある。
この話はこんな風に結ばれている。
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大モスクで働いていたムスリムとレジスタンスを闘ったムスリムは、ユダヤ人もそうでない人も追われる人は誰でも助け、命を救いました。大きな危険をおかしながら正しいと信じることに身を捧げたのです。恐怖のホロコースト(ユダヤ人の大虐殺)のただ中で、パリの大モスクの壁のむこうでは、高貴で勇気ある行為が静かに進められていたのでした。「ユダヤ人は自分たちの兄弟姉妹」であるといって、ムスリムがユダヤ人救出に取り組んだ事実は忘れられてはなりません。
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そして、池田さんによる訳者あとがきには、当時のレジスタンスに植民地出身者が多数参加していたことがほとんど語られてこなかったと書かれている。フランス国家の側は戦後すぐに植民地独立闘争に直面し、対独レジスタンスに植民地出身者が大勢参加していたことを隠したかったし、植民地解放闘争を担った側も宗主国のために共に闘ったものが存在していたことを公にしたくなかったらしい。
当時の大モスクの指導者ベンガプリの評価も定まっていなかったという。ムスリムとの関係を配慮せざるを得ない戦時のドイツ政府やビシー政権との比較的良好な関係があったからこそ、パリのモスクをレジスタンスが隠れた拠点として使用することができたわけだ(疑われてはいたようだが)。当時の権力との関係を維持するための努力が否定的にとらえられることもあっただろう。
これらの事実が公に初めて明らかになったのは1991年に発表された映画「忘れられたレジスタンス――パリのモスク」だったという。
不思議なことにこれは「従軍慰安婦」と呼ばれた人たちのカムアウトの時期ともほぼ一致する。約半世紀の時間がここでも必要とされた。その理由はそれぞれ異なるだろうが。
ちなみにこの映画「忘れられたレジスタンス――パリのモスク」は上映権料なしでどこでも上映可能とのこと。問い合わせのメールアドレスは
parismosquejpn@gmai.com
日本語のメールで申し込み可能、日本語の字幕も入った映像とのこと。2009年に「さらば戦争!映画祭」でも上映されている。
ところで、「パリ」と「モスク」の2語で検索すると、観光地としてのパリのモスクが紹介されている。
http://www.cahierdeparis.com/1_%83p%83%8A%82%CC%83%82%83X%83N_1187
こんな風に書かれている
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400万から500万人いると言われるフランスのイスラム教徒。その象徴とも言えるのが、カルチエ・ラタンにそびえる白い建物、モスケ・ドゥ・パリ(パリのモスク)ではないでしょうか。ここはもちろん実際に使われている礼拝所ですが、サロン・ド・テとレストランは誰でも気軽に入れます。パリのど真ん中にいることを忘れてしまいそうなその独特な雰囲気に惹かれて、毎日多くのパリジャンたちで賑わっています。
サロン・ド・テでは甘味たっぷりのオリエンタル菓子やミントティーを味わいましょう。
飾りタイルの内装がとても美しいレストランでは、クスクス(12ユーロ?)やタジン(13.50ユーロ?)など本場の味を楽しめます。天気の良い日には、テーブルに落ちたお菓子のおこぼれにあずかろうと開け放たれた窓からスズメたちが入ってきてびっくり。そんな光景ものどかな、ゆったりとした午後にぴったりの場所です。(2007-09-15)
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