【今月のお薦め/つるたまさひで】
「経済成長?!いる?いらない?」へのレスポンス
===
「脱成長経済論」を唱えることは、現実的か?/小林治郎吉
(PP研サイトにも転載)
===
へのレスポンスとして
はじめに
「経済成長?!いる?いらない?」にレスポンスをもらいました。こういう相方向性がインターネットでの配信のいいところです。書いてることが、どんな風に読まれているかわからないので、コミュニケーションが可能なレスポンスをもらえることはうれしいことです。小林治郎吉さんに感謝します。
ただ、「ご意見ごもっとも」というような話を書いても面白くないでしょうし、そういうことを求められてもいないでしょうから、以下に書くことは、ここで表明されている違和感への反論が主になります。そこんとこ、よろしくお願いします。
1、経済成長を求める社会を選ぶのか、脱経済成長の社会を選ぶのか
小林さんは、まず、こんな風に書いています。
===
つるたまさひでさんは、「経済成長?!いる?いらない?」なる「問い」を書いている。
そもそもこのように問うことは、経済成長は、人々のいる・いらないという希望や意思による選択によって実現できることが、当然の前提として成立していなければならない。残念ながら、この前提は成立していない。
===
前提としてこの「問い」は「経済成長が必要だ」という主張があったから生じた問いです。『反貧困』を主張している人の中にもそういう主張があるという前提を、まず共有したいと思います。そういう主張がなければ、こんな問題の立て方をする必要はないわけです。
また、問題にしているのは、経済成長を前提とした社会を構想し、そういう立場を選ぶのか、そうではない経済成長に頼らない社会を構想するのかということです。これは人々の意志による選択の問題でもあるとぼくは思います。
ただ、小林さんの主張の中心はそこではなく、問題は「資本の活動」であり、それを語らずに、脱経済成長というのはまやかしだということのようです。
2、「反資本主義」と「脱経済成長」どちらが明確か
「経済成長が必要だ」という価値が金科玉条と言ってもいいほどにまだまだ大きな力を持っています。それは資本の活動として当然だといわれてしまえば、もう身も蓋もない部分はあります。小林さんは資本主義に於いて定常型の社会はありえないと考えているようです。そうかもしれませんが、ぼくはそうだと言い切れる根拠も持っていません。資本主義とは何かっていうのは、ぼくにとってはすごく難しい問題です。また、さらに大きな問題は「資本主義じゃなければ何があるのか」という問いにぼくがちゃんと答えられないということでもあります。
そこでの小林さんの回答は「社会主義」という話になるのでしょうか。そこのところに小林さんは明確には触れてないように思います。
「資本主義に対抗するのは社会主義であり、かつ、悪いのはスターリン主義で、本当の社会主義は別にあるはず」と、80年代頃までぼくもそんな風に思っていました。しかし、いつのまにかそんな風にも思えなくなってきました。
確かに反資本主義というのは明確な主張のようでもあります。しかし、それは具体的にどういう運動になるのでしょう。暴力革命で権力を奪取して、生産手段を国有化するという話はもう終わってると思うのです。もちろん、いまは従来と違う反資本主義運動があるのだと思います。しかし、ぼくにはこれがなかなか具体的にイメージできません。(そういう意味で、ベネズエラのチャベスが主張している「社会主義」の中身には興味があるのですが、それが何を指しているのか、ぼくは知りません。)
というわけで、ぼくにとって「反資本主義」というのは「脱経済成長」という以上に曖昧模糊としています。それがどういう運動になるのかというところが見えないのです。ぼくは社会運動に身を置く人間として(ま、一応って感じですが)、「それがどういう運動になるのか」という視点を抜きになかなかものごとを考えられません(笑)。
だから、「GDPで計られる経済成長を指標にして、それを追い求める社会に反対する」といった方が、ぼくにはわかりやすいわけです。そんな風に言ったほうが、いまの社会の歪みが明確になると思うわけです。
地球の持続可能性が損なわれている問題、農村で食えなくなっている問題、大量の廃棄を前提としたシステムの問題、新自由主義政策の下で作り出された貧困の問題、それらの解決策は反資本主義だというのが小林さんの主張のようにも読めるのですが、ぼくには「経済成長至上主義がそれらを生みだしている」といったほうが、わかりやすいし、経済成長を求めないというありかたの中に解答がありそうだ考えています。そして、そのほうが問題を明確にできるように感じています。
というわけで、「現状の資本の野放図な活動に反対する」という主張と「経済成長はもういらない」という主張は両立しなければならない別の位相をもった2つの主張だと、ぼくは思います。
3、問題は権力奪取なのか
別の角度から見ると、「権力を奪取して、社会を変える」のか「権力を取らずに社会を変えるのか」という風に考えることもできるかもしれません。権力をとって社会を変えるという方法がいまだに有効な地域もあるでしょうし、それを信奉する人を否定はしないのですが、ぼくは日本列島社会では直接、権力をめざさない方法が有効なのではないかと感じています。
また、それは「改良主義」だといわれるかも知れません。確かに現状は革命的なパラダイム転換を必要としているし、「経済成長は必要ない」という主張も、そういう類の主張だと思います。しかし、それは改良主義的な変革が不要だということにはならないと思っています。武者小路公秀さんが『人間安全保障論序説』で紹介している「非改良主義的改良」というのも面白いと思うのです。武者小路さんは以下のようにそれを紹介しています。
===
改良主義は、体制の枠内での問題解決のみに政策を限定する主義であるが、「改良」政策の中には、これを推進すれば、必ず体制自体の変革につながらざるを得ないものもある。非改良主義的改良とは、初めから体制変革を打ち出さないけれども、その推進する改良が、必ず体制そのものの変革を導き出す「改良」をいう。
===
(そんなことをいいつつも、この考え方もまた体制内に取り込まれていく危険が大きいというか、こんな風にいう人の多くが取り込まれているという話も強調したいと思いますが)
4、オルタナティブとは?
小林さんは「現代社会の様々な問題、矛盾の原因が資本の活動にあるとしないで、そこを意図的にあいまいにして、はたしてオールタナティブが描けるのか?という疑問に行きつく」と書きます。確かに矛盾の大きな原因は資本の活動にあるのだと、ぼくも思います。そこのところをあいまいにするつもりはないのです。「野放図な資本の活動を規制せよ」というのは大切な主張だと思います。小林さんはそこを越えて、「資本を廃絶せよ」と主張しているようにも読めるのですが、それはぼくの読み違いでしょうか? しかし、そこで、ぼくは立ち止まってしまいます。「資本を廃絶せよ」って言われても、それがどういうことなのかがわからないのです。
オルタナティブとは何かという問いは、どのようにオルタナティブに近づくのかという問いと無関係には存在し得ないとぼくは思います。原因は資本の活動にあるのだから、それを廃絶せよ、とか規制せよ、という主張を否定するつもりはないし、規制は大いに必要だと思うのですが、「経済成長が必要かどうか」という問いが不要だとも思いません。繰り返しになりますが、反資本主義のオルタナティブな社会がどんな社会になるのかぼくにはイメージできません。それよりも、具体的に、こんな風であって欲しいというイメージを紡ぎあわせることのほうが、オルタナティブに近づきやすいというか、それがオルタナティブを描くことではないかと思います。
暴力で権力や資本を打倒するというイメージが荒唐無稽にしか思えない現在、こうあって欲しいと思える社会を、現在の社会からどのように実現していくのか、そこから問いを立てたいと思います。その方法として、経済成長至上主義を俎上に載せることは、それなりに有効な話だと思うのです。
また、資本の活動が原因だということを意図的にあいまいにしたわけではありません。思いつかなかっただけです。ま、潜在意識的に、「それだけを書いてもしょうがない」と思ってたのかもしれませんが。
しかし、小林さんの主張が資本主義をどう超えるかという問題をもっと論議する必要があるという主張だとすれば、それはその通りだと思います。少なくとも、いまの資本主義は変えなければならないと思います。それをどのように変えていくのか、その先に何を構想するのか、という問いとともに。
確かにぼくが書いたものにいろいろ不十分なところはたくさんあります。そして、そのことの問題を明確にしていない弱さはあると思います。小林さんなりの資本主義をどう超えるのかという展望を聞かせていただければ、論点はより明確になるかも知れないと思いました。
あわてて書いたレスポンスで抜けや勘違いも多いかもしれません。また、小林さんの主張と充分にかみ合っていないところもあると思います。再び、そういう部分を指摘していただけたら幸いです。しかし、この小林さんのレスポンスは、ぼくなりに問題を考えるいい契機になりました。そのこともあわせて感謝したいと思います。
「経済成長?!いる?いらない?」へのレスポンス
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「脱成長経済論」を唱えることは、現実的か?/小林治郎吉
(PP研サイトにも転載)
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へのレスポンスとして
はじめに
「経済成長?!いる?いらない?」にレスポンスをもらいました。こういう相方向性がインターネットでの配信のいいところです。書いてることが、どんな風に読まれているかわからないので、コミュニケーションが可能なレスポンスをもらえることはうれしいことです。小林治郎吉さんに感謝します。
ただ、「ご意見ごもっとも」というような話を書いても面白くないでしょうし、そういうことを求められてもいないでしょうから、以下に書くことは、ここで表明されている違和感への反論が主になります。そこんとこ、よろしくお願いします。
1、経済成長を求める社会を選ぶのか、脱経済成長の社会を選ぶのか
小林さんは、まず、こんな風に書いています。
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つるたまさひでさんは、「経済成長?!いる?いらない?」なる「問い」を書いている。
そもそもこのように問うことは、経済成長は、人々のいる・いらないという希望や意思による選択によって実現できることが、当然の前提として成立していなければならない。残念ながら、この前提は成立していない。
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前提としてこの「問い」は「経済成長が必要だ」という主張があったから生じた問いです。『反貧困』を主張している人の中にもそういう主張があるという前提を、まず共有したいと思います。そういう主張がなければ、こんな問題の立て方をする必要はないわけです。
また、問題にしているのは、経済成長を前提とした社会を構想し、そういう立場を選ぶのか、そうではない経済成長に頼らない社会を構想するのかということです。これは人々の意志による選択の問題でもあるとぼくは思います。
ただ、小林さんの主張の中心はそこではなく、問題は「資本の活動」であり、それを語らずに、脱経済成長というのはまやかしだということのようです。
2、「反資本主義」と「脱経済成長」どちらが明確か
「経済成長が必要だ」という価値が金科玉条と言ってもいいほどにまだまだ大きな力を持っています。それは資本の活動として当然だといわれてしまえば、もう身も蓋もない部分はあります。小林さんは資本主義に於いて定常型の社会はありえないと考えているようです。そうかもしれませんが、ぼくはそうだと言い切れる根拠も持っていません。資本主義とは何かっていうのは、ぼくにとってはすごく難しい問題です。また、さらに大きな問題は「資本主義じゃなければ何があるのか」という問いにぼくがちゃんと答えられないということでもあります。
そこでの小林さんの回答は「社会主義」という話になるのでしょうか。そこのところに小林さんは明確には触れてないように思います。
「資本主義に対抗するのは社会主義であり、かつ、悪いのはスターリン主義で、本当の社会主義は別にあるはず」と、80年代頃までぼくもそんな風に思っていました。しかし、いつのまにかそんな風にも思えなくなってきました。
確かに反資本主義というのは明確な主張のようでもあります。しかし、それは具体的にどういう運動になるのでしょう。暴力革命で権力を奪取して、生産手段を国有化するという話はもう終わってると思うのです。もちろん、いまは従来と違う反資本主義運動があるのだと思います。しかし、ぼくにはこれがなかなか具体的にイメージできません。(そういう意味で、ベネズエラのチャベスが主張している「社会主義」の中身には興味があるのですが、それが何を指しているのか、ぼくは知りません。)
というわけで、ぼくにとって「反資本主義」というのは「脱経済成長」という以上に曖昧模糊としています。それがどういう運動になるのかというところが見えないのです。ぼくは社会運動に身を置く人間として(ま、一応って感じですが)、「それがどういう運動になるのか」という視点を抜きになかなかものごとを考えられません(笑)。
だから、「GDPで計られる経済成長を指標にして、それを追い求める社会に反対する」といった方が、ぼくにはわかりやすいわけです。そんな風に言ったほうが、いまの社会の歪みが明確になると思うわけです。
地球の持続可能性が損なわれている問題、農村で食えなくなっている問題、大量の廃棄を前提としたシステムの問題、新自由主義政策の下で作り出された貧困の問題、それらの解決策は反資本主義だというのが小林さんの主張のようにも読めるのですが、ぼくには「経済成長至上主義がそれらを生みだしている」といったほうが、わかりやすいし、経済成長を求めないというありかたの中に解答がありそうだ考えています。そして、そのほうが問題を明確にできるように感じています。
というわけで、「現状の資本の野放図な活動に反対する」という主張と「経済成長はもういらない」という主張は両立しなければならない別の位相をもった2つの主張だと、ぼくは思います。
3、問題は権力奪取なのか
別の角度から見ると、「権力を奪取して、社会を変える」のか「権力を取らずに社会を変えるのか」という風に考えることもできるかもしれません。権力をとって社会を変えるという方法がいまだに有効な地域もあるでしょうし、それを信奉する人を否定はしないのですが、ぼくは日本列島社会では直接、権力をめざさない方法が有効なのではないかと感じています。
また、それは「改良主義」だといわれるかも知れません。確かに現状は革命的なパラダイム転換を必要としているし、「経済成長は必要ない」という主張も、そういう類の主張だと思います。しかし、それは改良主義的な変革が不要だということにはならないと思っています。武者小路公秀さんが『人間安全保障論序説』で紹介している「非改良主義的改良」というのも面白いと思うのです。武者小路さんは以下のようにそれを紹介しています。
===
改良主義は、体制の枠内での問題解決のみに政策を限定する主義であるが、「改良」政策の中には、これを推進すれば、必ず体制自体の変革につながらざるを得ないものもある。非改良主義的改良とは、初めから体制変革を打ち出さないけれども、その推進する改良が、必ず体制そのものの変革を導き出す「改良」をいう。
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(そんなことをいいつつも、この考え方もまた体制内に取り込まれていく危険が大きいというか、こんな風にいう人の多くが取り込まれているという話も強調したいと思いますが)
4、オルタナティブとは?
小林さんは「現代社会の様々な問題、矛盾の原因が資本の活動にあるとしないで、そこを意図的にあいまいにして、はたしてオールタナティブが描けるのか?という疑問に行きつく」と書きます。確かに矛盾の大きな原因は資本の活動にあるのだと、ぼくも思います。そこのところをあいまいにするつもりはないのです。「野放図な資本の活動を規制せよ」というのは大切な主張だと思います。小林さんはそこを越えて、「資本を廃絶せよ」と主張しているようにも読めるのですが、それはぼくの読み違いでしょうか? しかし、そこで、ぼくは立ち止まってしまいます。「資本を廃絶せよ」って言われても、それがどういうことなのかがわからないのです。
オルタナティブとは何かという問いは、どのようにオルタナティブに近づくのかという問いと無関係には存在し得ないとぼくは思います。原因は資本の活動にあるのだから、それを廃絶せよ、とか規制せよ、という主張を否定するつもりはないし、規制は大いに必要だと思うのですが、「経済成長が必要かどうか」という問いが不要だとも思いません。繰り返しになりますが、反資本主義のオルタナティブな社会がどんな社会になるのかぼくにはイメージできません。それよりも、具体的に、こんな風であって欲しいというイメージを紡ぎあわせることのほうが、オルタナティブに近づきやすいというか、それがオルタナティブを描くことではないかと思います。
暴力で権力や資本を打倒するというイメージが荒唐無稽にしか思えない現在、こうあって欲しいと思える社会を、現在の社会からどのように実現していくのか、そこから問いを立てたいと思います。その方法として、経済成長至上主義を俎上に載せることは、それなりに有効な話だと思うのです。
また、資本の活動が原因だということを意図的にあいまいにしたわけではありません。思いつかなかっただけです。ま、潜在意識的に、「それだけを書いてもしょうがない」と思ってたのかもしれませんが。
しかし、小林さんの主張が資本主義をどう超えるかという問題をもっと論議する必要があるという主張だとすれば、それはその通りだと思います。少なくとも、いまの資本主義は変えなければならないと思います。それをどのように変えていくのか、その先に何を構想するのか、という問いとともに。
確かにぼくが書いたものにいろいろ不十分なところはたくさんあります。そして、そのことの問題を明確にしていない弱さはあると思います。小林さんなりの資本主義をどう超えるのかという展望を聞かせていただければ、論点はより明確になるかも知れないと思いました。
あわてて書いたレスポンスで抜けや勘違いも多いかもしれません。また、小林さんの主張と充分にかみ合っていないところもあると思います。再び、そういう部分を指摘していただけたら幸いです。しかし、この小林さんのレスポンスは、ぼくなりに問題を考えるいい契機になりました。そのこともあわせて感謝したいと思います。
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今月のお薦め/つるたまさひで |
経済成長?!いる?いらない?――その2 |