【今月のお薦め/つるたまさひで】
障害学の射程について
先日、
「怯えの時代」メモ その4
で以下のようなことも書いた。
以下は内山節さんの「怯えの時代」からの引用
===
自然との連帯、地域社会での連帯、都市と農山漁村、高齢者と若者、健常者と障害者、異なった文化のもとで暮らす人の連帯……。それをひとつひとつみつけだしていく積み重ねに先に、今日の社会システムとは異なる未来の姿が見えてくるような気がする。
==この引用ここまで==
そう、障害学が障害をテーマにしながら、もっと深い射程をもった学問だという根拠がこのあたりにもある。
==このブログからの引用ここまで==
もう少し、この障害学の射程の話を補足しようと、これを偶然読み返していて思った。
裸の資本主義の論理では、多くの場合、いわゆる重度の障害者は生きる場所を恩恵としてしか与えられるないというようなことになるのではないか。すごく単純化しているわけだが、市場原理主義とか新自由主義のもとで福祉や教育に関わる予算ががんがん削られてきたのは否定できない事実だろう。じゃあ、本来の資本主義はそのようなコストをどう考えるのか、そもそも本来の資本主義なんてあるのかという話になると、ぼくはもう何も書けないのだけど。
ここで、話が変る。障害の社会モデルの根っこには「存在・生存そのものに意義がある」という風に問題を立てることとダイレクトにつながっているように思う。それは資本主義社会のメインストリームからは外れている。あくまで、イメージの話だが、資本主義では「何かができること」「何かをすること」「生産すること」に価値が置かれる。「ただ存在していること」「いること」「生きていることそれ自体」にはあまり価値が置かれていないように思う。
今日のメインストリームが持つ、経済的な成功が賛美される価値観、スピードや便利さが重視される価値観、生存そのものよりも進歩とかの方が価値あるものとされるようなありかた、それらの価値観ではどうしようもないところに時代はやっと本当に到達したのではないかと感じる。もちろん、スピードや便利さ経済的な豊さに価値がまったくないというような時代はありえないだろう。
しかし、これまで、そこにこそ価値があるということで社会は回ってきた。それが資本主義の近代だったのではないか。否、資本主義だけでなく、それに対抗して生まれたはずの既存の(というか、その多くは既になくなった)社会主義国家も生産性とか開発とかの価値観がかなり前面に出て、すべての人が生存することよりも、それらの近代の価値観が重視されていた。そういえば、内山節さんも同じような指摘をすでにしている。(ていうか、他でもいろんな人が言ってるかも。)
その価値観が見直さなければならない時代が到来している。(っていうのも内山節さんが言ってる話でもあるし、言ってるのは内山さんだけじゃなくて、正木高志さんもサティシュ・クマールさんもヘレナ・ノーバーグさんも、辻信一さんも、ダグラス・ラミスさんも言ってる話だ。ヴォルフガング・ザックスさんの主張もそうだろうし、そう、「縮退派」と呼ばれる人たちもそうだ。時代をイリッチやシューマッハにさかのぼることも可能だし、19世紀にさかのぼって、そういう主張を探すことも、そんなに難しくないだろう。)
その古くて新しい、まだ未定形ともいえるメインストリームに変る価値観を形成し、それを考えていく上で重要な役割を障害学が果たしうるのではないかと思う。その先鞭をつけたのはジェンダー・スタディーズだったかもしれない。
いくつもあるフェミニズムズだから、まとめていうのは難しいが、その多くは女性の生産力をもっと尊重せよという話だったり、あるいは生産よりも再生産の機能に注目せよ、というような話だったりすることが多かったのではないか(いまはもっといろいろに複雑みたいだが)。「障害の社会モデル」というモデルはそこを突き抜けるパースペクティブを持っているのではないか。
他者との関係の中で、存在することに意義があるということを明確にしうる視点はフェミニズムズよりも障害学に可能性があるのではないかと感じる。
いちばん最初に引用したのは内山節さんの本の読書メモだが、 藤村靖之さん著の「愉しい非電化」にはこんなようなことが書かれている。再び読書メモから引用
====
藤村さんは、格差や争いを増やすグローバル化と対極をなす「共生原理で動くローカル化」を紹介する。それは生産や経済活動は地域での循環を基本にし、足りない部分を広域で補い、環境と雇用を地域レベルで両立させ、人と人、人と自然が共存し、持続的に平和に生きる社会を目指すという。(205p)
また非電化焙煎機を例に、結果を急ぐのではなく、プロセスを愉しむというのを提起している。このあたりも資本主義とどう折り合いをつけるのか、あるいは折り合いがつかないのか、という問題でもあるように思う。(210p)
==このブログからの引用ここまで==
ここにも、競争に勝つことよりも存在することそれ自体が、他者との関係の中で祝福されるようなありようとつながるものがある。誤解を避けるために書くと、この本はこんな概念的な話ではなくて、具体的な「非電化製品」の紹介がメインの本で、この読書メモにも書いたが、その製品などについては http://www.hidenka.net/jtop.htm
で見ることが出来る。
この本の終章「非電化の意味論」で書かれていたことに、近代を見直す価値観の問題を感じたのだった。
生産力至上主義では、このプロセスを愉しむという発想はないだろう。結果としての生産物の出来高、経済的価値だけが重要なのだ。そうではない社会を構想するときに障害の社会モデルという考え方を補助線にして、見えてくることがあるのではないか。
※つるたまさひでブログ「今日、考えたこと」より転載
障害学の射程について
先日、
「怯えの時代」メモ その4
で以下のようなことも書いた。
以下は内山節さんの「怯えの時代」からの引用
===
自然との連帯、地域社会での連帯、都市と農山漁村、高齢者と若者、健常者と障害者、異なった文化のもとで暮らす人の連帯……。それをひとつひとつみつけだしていく積み重ねに先に、今日の社会システムとは異なる未来の姿が見えてくるような気がする。
==この引用ここまで==
そう、障害学が障害をテーマにしながら、もっと深い射程をもった学問だという根拠がこのあたりにもある。
==このブログからの引用ここまで==
もう少し、この障害学の射程の話を補足しようと、これを偶然読み返していて思った。
裸の資本主義の論理では、多くの場合、いわゆる重度の障害者は生きる場所を恩恵としてしか与えられるないというようなことになるのではないか。すごく単純化しているわけだが、市場原理主義とか新自由主義のもとで福祉や教育に関わる予算ががんがん削られてきたのは否定できない事実だろう。じゃあ、本来の資本主義はそのようなコストをどう考えるのか、そもそも本来の資本主義なんてあるのかという話になると、ぼくはもう何も書けないのだけど。
ここで、話が変る。障害の社会モデルの根っこには「存在・生存そのものに意義がある」という風に問題を立てることとダイレクトにつながっているように思う。それは資本主義社会のメインストリームからは外れている。あくまで、イメージの話だが、資本主義では「何かができること」「何かをすること」「生産すること」に価値が置かれる。「ただ存在していること」「いること」「生きていることそれ自体」にはあまり価値が置かれていないように思う。
今日のメインストリームが持つ、経済的な成功が賛美される価値観、スピードや便利さが重視される価値観、生存そのものよりも進歩とかの方が価値あるものとされるようなありかた、それらの価値観ではどうしようもないところに時代はやっと本当に到達したのではないかと感じる。もちろん、スピードや便利さ経済的な豊さに価値がまったくないというような時代はありえないだろう。
しかし、これまで、そこにこそ価値があるということで社会は回ってきた。それが資本主義の近代だったのではないか。否、資本主義だけでなく、それに対抗して生まれたはずの既存の(というか、その多くは既になくなった)社会主義国家も生産性とか開発とかの価値観がかなり前面に出て、すべての人が生存することよりも、それらの近代の価値観が重視されていた。そういえば、内山節さんも同じような指摘をすでにしている。(ていうか、他でもいろんな人が言ってるかも。)
その価値観が見直さなければならない時代が到来している。(っていうのも内山節さんが言ってる話でもあるし、言ってるのは内山さんだけじゃなくて、正木高志さんもサティシュ・クマールさんもヘレナ・ノーバーグさんも、辻信一さんも、ダグラス・ラミスさんも言ってる話だ。ヴォルフガング・ザックスさんの主張もそうだろうし、そう、「縮退派」と呼ばれる人たちもそうだ。時代をイリッチやシューマッハにさかのぼることも可能だし、19世紀にさかのぼって、そういう主張を探すことも、そんなに難しくないだろう。)
その古くて新しい、まだ未定形ともいえるメインストリームに変る価値観を形成し、それを考えていく上で重要な役割を障害学が果たしうるのではないかと思う。その先鞭をつけたのはジェンダー・スタディーズだったかもしれない。
いくつもあるフェミニズムズだから、まとめていうのは難しいが、その多くは女性の生産力をもっと尊重せよという話だったり、あるいは生産よりも再生産の機能に注目せよ、というような話だったりすることが多かったのではないか(いまはもっといろいろに複雑みたいだが)。「障害の社会モデル」というモデルはそこを突き抜けるパースペクティブを持っているのではないか。
他者との関係の中で、存在することに意義があるということを明確にしうる視点はフェミニズムズよりも障害学に可能性があるのではないかと感じる。
いちばん最初に引用したのは内山節さんの本の読書メモだが、 藤村靖之さん著の「愉しい非電化」にはこんなようなことが書かれている。再び読書メモから引用
====
藤村さんは、格差や争いを増やすグローバル化と対極をなす「共生原理で動くローカル化」を紹介する。それは生産や経済活動は地域での循環を基本にし、足りない部分を広域で補い、環境と雇用を地域レベルで両立させ、人と人、人と自然が共存し、持続的に平和に生きる社会を目指すという。(205p)
また非電化焙煎機を例に、結果を急ぐのではなく、プロセスを愉しむというのを提起している。このあたりも資本主義とどう折り合いをつけるのか、あるいは折り合いがつかないのか、という問題でもあるように思う。(210p)
==このブログからの引用ここまで==
ここにも、競争に勝つことよりも存在することそれ自体が、他者との関係の中で祝福されるようなありようとつながるものがある。誤解を避けるために書くと、この本はこんな概念的な話ではなくて、具体的な「非電化製品」の紹介がメインの本で、この読書メモにも書いたが、その製品などについては http://www.hidenka.net/jtop.htm
で見ることが出来る。
この本の終章「非電化の意味論」で書かれていたことに、近代を見直す価値観の問題を感じたのだった。
生産力至上主義では、このプロセスを愉しむという発想はないだろう。結果としての生産物の出来高、経済的価値だけが重要なのだ。そうではない社会を構想するときに障害の社会モデルという考え方を補助線にして、見えてくることがあるのではないか。
※つるたまさひでブログ「今日、考えたこと」より転載
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