2008/3/31 12:20:46
研究会 : 社会運動研究会 「私]と戦後日本の社会運動 第II章

社会運動研究会
「私]と戦後日本の社会運動 第II章
国際連帯運動の歴史・これから
―ベトナム反戦からピープルズ・プラン21へ

【第1回】 1960年代後半?1970年代

■2008年4月19日(土)16:00?20:00
■発言者:武藤 一羊(ピープルズ・プラン研究所運営委員)
加地 永都子(『AMPO』、『世界から』編集者)




1960年代後半、国境を越えた草の根の人びとが共に民主主義を創ろうとする試みが始まった。それは、政党を基盤として行われてきた従来の国際連帯の営みとは違う、民衆による連帯の回路を開き、国家や企業の利益のために推進される昨今のグローバル化に対抗する論理と実践の先駆けとなった。
「『私』と戦後日本の社会運動」の第II章では、この取り組みの中に身を置いた人たちを迎え、身近な歴史を振り返りつつ、グローバルな民衆運動の今後についても展望していただく。

【第1回】 1960年代後半?1970年代

■2008年4月19日(土)16:00?20:00
■発言者:武藤 一羊(ピープルズ・プラン研究所運営委員)
加地 永都子(『AMPO』、『世界から』編集者)

ベトナム反戦運動から生まれた英文雑誌『AMPO』の発行が始まった。この雑誌は、サブタイトルの「A Report From the Japanese People痴 Movement(日本の民衆からの発信)」が語るように、この時期、日本で躍動した広い意味での新左翼や三里塚や水俣、沖縄などの動きを海外に伝える役割を果たした。この『AMPO』を基盤に、73年には「アジア太平洋資料センター(PARC)」が設立され、国内の社会運動と海外の左翼・知識人らがつながる中心的窓口のひとつになる。79年からは、当時、「第三世界」で噴出していた民衆の解放への動きを日本に伝える『世界から』も発行され始めた。『AMPO』や『世界から』による情報発信とPARCが果たそうとした役割、それらがどう機能したのかなどを焦点に話を聞く。

【第2回】 1980年代
日本のODA問題や公害輸出問題が、アジアの民衆や日本国内の活動家らによって表層化された時期。国内では、ODA倍増計画が発表され、NGOがODAの一部を使い海外援助活動を活発化させた時期でもある。1983年にPARCが開いた「国際合宿」(アジア地域を中心に、国内外約160人が参加)で発表された「国際連帯マニフェスト」は、日本の援助がアジアの独裁政権を支え、民衆の生活を悪化させている点を突き、援助「する側・される側」の関係性の脱却が打ち出された。
 1989年には民衆の下からの連合をつくるための「ピープルズ・プラン21世紀(PP21)」が開催される。日本列島各地18ヶ所で開催されたPP21の最後に出された「水俣宣言」には「越境する参加民主主義」という新しい概念が盛り込まれ、もうひとつの世界を「民衆」が主体になって創ろうという呼びかけが出された。
 「北」のあり方に警鐘を鳴らし、新しい世界を「民衆」が創るという考え方は、2001年に始まった世界社会フォーラム(WSF)の精神を先駆けて具現化したとも言える。この時代のダイナミックな動きを焦点に話を聞く。

■2008年5月31日(土)16:00?20:00
■発言者:武藤 一羊(ピープルズ・プラン研究所運営委員)
     大橋 成子(ピープルズ・プラン研究所アドバイザー/ネグロス在住)
 
【第3回】 1990年?現在
 冷戦体制の崩壊後、米国の一極支配と新自由主義が世界を席捲する時代。南の国のみならず、世界の大多数の人びとが生活の基盤を剥ぎ取られてきている。しかし、その一方で、WTO/IMF、世界銀行、先進国サミットや、アフガン・イラク戦争に明確に反対を示す民衆の存在も国境を越えて顕在化してきた。世界社会フォーラムなどの現在のグローバルな社会運動をどう見るか、国境を越えた人びとが共に民主主義を創る試みは、今後どう展開されていくのか、どのような課題を抱えているのか、などに焦点を当てて話しを聞く。

■2008年6月14日(土)16:00?20:00
■発言者:武藤 一羊(ピープルズ・プラン研究所運営委員)
     村井 吉敬(早稲田大学客員教授)

投稿者:事務局
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