2016/10/19 21:12:00
論評 : 【論評】試論 戦後国家解体プロセスでの「象徴権力」の露出――安倍政権下の平成天皇制と「お気持」の位相/武藤一羊

みなさま

先般、武藤一羊さんの「試論 戦後国家解体プロセスでの「象徴権力」の露出――安倍政権下の平成天皇制と「お気持」の位相」の第一弾を掲載しました。その際、全三回にわたっての分割掲載ということをアナウンスしましたが、それに加えて、読者の皆さまの読みやすさも考慮し、このたび一括掲載することといたしました。また、第二部でどういうことについて議論するのか、目次項目も新たに加えました。

なお、当ニュース欄には文字数の関係で全文掲載できません。したがって、全文は以下のURLからアクセスしてください。
http://www.peoples-plan.org/jp/modules/article/index.php?content_id=187

PP研では11月13日(日)のシンポジウムにおいても、同様の問題について議論する予定ですので、ぜひご関心のある方にはご一読いただければと思います。どうぞよろしくお願い致します。


試論 戦後国家解体プロセスでの「象徴権力」の露出――安倍政権下の平成天皇制と「お気持」の位相?

武藤一羊

(二〇一六年一〇月一九日)

第一部 安倍改憲と平成天皇制―「象徴権力」の解明

象徴的行為

 NHKによる七月一三日の天皇明仁の「生前退位」意向の「スクープ」という異例の形で口火を切られ、続く八月八日の明仁天皇の国民向けビデオメッセージで後戻りできぬ現実となった天皇家と天皇制をめぐる新展開は、安倍政権の手による戦後日本国家の破壊・解体・再編プロセスにおいて、新手の戦略的政治要素の浮上を表している、と私は考えている。

 結論を先に言えば、明仁の「お気持ち」声明は、安倍の支配する政治権力にたいする明仁夫妻の象徴権力ともいうべきものの挑戦的自己防衛の試み、そしてそれを通じて、進行する国家レジーム再編過程において、天皇家=皇室の独自の民衆支配力を守り、維持するための大胆な試み、と読むべきものである。この文書で最も注目すべきことはそれが「国民の理解を得られることを切に願っています」と国民への訴えで締めくくられている点であろう。天皇の象徴としての地位は「主権を有する国民の総意」に基づいていると憲法は定めている。天皇のこの文書は安倍政権に宛てられていない。政権の頭越しに、象徴の地位を最終的に決定するこの主権者への呼びかけとしてだされている。

 この明仁ステートメントに宣言されているのは一個の明確な政治意志であり、その文言はその政治意志を伝達する隠語として周到に組み立てられたものである。これが単なる高齢や体調で象徴天皇としての任に耐えなくなったので退位さしてほしいという訴えなどではないことは誰でも直ちに読み取れるだろう。だが、政治家もマスコミも、ここにかなり露骨に表明されている政治意志を読み取りながら、いや読み取っているがゆえに、その核心だけを避けて、周辺をぐるぐる回りながら、「生前退位」は可能かどうか、皇室典範をいじるべきか、明仁天皇だけに適用される特別立法はどうか、いややはり摂政を置くべきだなどと、あらぬ議論を展開して見せ、問題から逃げ回っているのである。私にはそう見える。

 この「お気持ち」文書の核心は「象徴的行為」という概念にある、と私は読む。「天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たす」ためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への「理解を求める」行為・活動が必要である、とこの文書で明仁天皇は主張する。ここが肝心である。このような行為を明仁は「象徴的行為」と呼ぶのである。明仁によればこの「象徴的行為」は一方通行でなく、双方向的交通として成立している。すなわち「天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要」があると言う。天皇夫妻がこれまで行ってきた国事行為外の活発な活動は、ほぼすべてこの意味の「象徴的行為」と説明されるのであろう。

 このような意味を担う明仁の「象徴的行為」が憲法学で用いられている概念と同じかどうか、私には判断しかねる。しかし「お気持ち」ではそれは上記のように明確に定義されている。象徴に関連する行為が天皇自身によってはっきり概念化さるのはこれが初めてではないか。

 そこで、以下、戦後国家の破壊がすすむ現在の時点で、〈象徴〉に与えられる意味に照明を当ててみることにする。

一九四七年「あたらしい憲法のはなし」

 象徴とは何か。日本国憲法は第一条に天皇を置き、「天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基ずく」と規定している。

 中学2年途中まで教育勅語で教育された私などの世代は,「新憲法」と呼ばれていたこの憲法で,象徴という言葉に初めて出会ったと言えるだろう。いや日本国民の大多数にとってもそうだったに違いない。「象徴」とは何のことか、教師は答えなければならなかった。いまでも私の耳に残っているのは、象徴とは学帽についている記章みたいなもの、という教師の説明であった。(その頃中学生はみな自校を表す記章つきの学帽をかぶっていた)。

 当時文部省は、新憲法をやさしく解説する「あたらしい憲法のはなし」という新制中学向けの教科書を編集して、それが全国で教材として使われたらしい。「らしい」というのは、私は戦後学制改革で旧制中学から新制高校に横滑りしたせいか、当時この教科書を目にした記憶がないからだ。しかし教師から聞いた天皇=象徴=「記章」という説明がそこから出ていたことは疑いない。この教科書は記録によれば一九四八年から朝鮮戦争勃発の一九五〇年まで中学の教科書として用いられたが、五〇年度に副読本とされ、五一年度から使用が打ち切られている。しかし憲法施行直後の文部省、そして日本政府の公式の憲法解釈をこの教科書が表していたことは間違いない。その意味でこれは現在にとって価値ある歴史的文書である。(以後この冊子を「新憲法冊子」、もしくは「冊子」と呼ぶ)。

 その上この「新憲法冊子」は後に護憲運動のなかで生き返る。八〇年代以降、憲法改正が叫ばれ、日米安保の下での日本自衛隊の飛躍的増強が進むなかで、この「冊子」は、戦後初期の日本政府がいかに憲法平和主義と民主主義をまじめに受け取り、実施しようとしていたかを示す例証として、復刻され、護憲の立場に立つ運動の中でてかなり広く用いられてきた。岩波書店や日本平和委員会が小冊子として復刻版を出している。確かに九条の解説は非武装がしっかり書かれていて役に立つ。

 だがこの「冊子」を再利用した人びとは、以下の「天皇陛下」の項をどう読んだだろうか。あるいは読み飛ばしていたのだろうか。本文をちょっと覗いて見ることにしよう。

天皇と戦争

 まず「象徴天皇制」について、「冊子」はどのように説明していただろうか。この教科書の目次立てでは、(一)憲法、(二)民主主義とは、(三)国際平和主義、(四)主権在民主義、と続き、その次に(五)天皇陛下、が来るという順序になっている。その天皇項目はこう始まっている。


五 天皇陛下 こんどの戰爭で、天皇陛下は、たいへんごくろうをなさいました。なぜならば、古い憲法では、天皇をお助けして國の仕事をした人々は、國民ぜんたいがえらんだものでなかったので、國民の考えとはなれて、とう/?戰爭になったからです。そこで、これからさき國を治めてゆくについて、二度とこのようなことのないように、あたらしい憲法をこしらえるとき、たいへん苦心をいたしました。ですから、天皇は、憲法で定めたお仕事だけをされ、政治には関係されないことになりました。

 筆者は憲法を「こしらえる」のにだいぶ苦心したようだが、この解説も苦心の作である。しかし苦心はまったく報われていない。目を覆うばかりの自己分裂に引き裂かれた文章だからである。だいたい、冒頭の「こんどの戦争」での最高責任者、最高指揮官だった大元帥裕仁天皇への言及を「ごくろうなさった」ですませるのは、ふざけている。そのうえで戦争責任を「国の仕事をした人々」になすりつける。しかしこれらの「人々」が「天皇をお助けして」仕事をした人々だとも言う。つまり彼らは助手で、主要な行為者は天皇だったことを事実上認めることになっている。だからこそ、これからは、天皇は「憲法で定めたお仕事しか」してはならないと憲法は定めたという論理の運びになる。支離滅裂である。1947年の段階で、裕仁天皇を真っ白に描くことはさすがにできなかった。だが責任を取らせることはしたくないし、できない。だからそこは「たいへんごくろうなさいました」と裕仁の主観的状態の描写でごまかしたのである。

 おまけに「天皇をお助け」した人々は「国民の考えとはなれて」いたとして、国民はみな戦争に反対していたみたいなフィクションを導入している。それによって、戦争を支持した国民の反省の道を閉ざしている。戦争責任についての裕仁天皇の免責から日本国民の自己免責を導く戦後国家を貫く最悪のごまかしがすでにここで始められていたのである。

象徴A,象徴B

 さてこの後に〈象徴〉がくる。二段に分かれている。以下はその第一段である。

 憲法は、天皇陛下を「象徴」としてゆくことにきめました。みなさんは、この象徴ということを、はっきり知らなければなりません。日の丸の國旗を見れば、日本の國をおもいだすでしょう。國旗が國の代わりになって、國をあらわすからです。みなさんの学校の記章を見れば、どこの学校の生徒かがわかるでしょう。記章が学校の代わりになって、学校をあらわすからです。いまこゝに何か眼に見えるものがあって、ほかの眼に見えないものの代わりになって、それをあらわすときに、これを「象徴」ということばでいいあらわすのです。こんどの憲法の第一條は、天皇陛下を「日本國の象徴」としているのです。つまり天皇陛下は、日本の國をあらわされるお方ということであります。

 ここで挙げられている象徴とはたいていはモノである。校章ならそれは特定の図柄を打ち出した金属片である。だが、日本国の象徴は、人間である。天皇とは、血筋によって運命付けられた特定の人物が埋めなければならぬ地位・身分を指し、同時にその地位と一体化している人間そのものを意味する。記章のように金属製でなく、国旗のように布製でなく、オオムラサキのような昆虫でもない生身の個人を生まれによって国家の象徴(シンボル)と固定するというのは、それ自身、相当無理のあることだと誰でも思うだろう。職業選択の自由も奪うわけだから、この憲法の謳う基本的人権は保障されていない。このような存在を憲法全体を貫く人権と個人の平等の原理と両立させることができるのか、という根本的な難問が存在する。これはしかし後に回そう。

 ここで「冊子」は次に移る。ここが一番肝心なところである。旗や記章の例えには収まらない憲法第一条の二番目の象徴規定である。「(A)天皇は日本国の象徴であり(B)日本国民統合の象徴であり、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基ずく」の(B)の部分である。A,Bは便宜上筆者が入れたもので、憲法では(A)と(B)は、句読点も置かずにさらりとつなげられている。しかし「冊子」は(B)を単独で取り出してちょっと熱っぽく議論を展開する。以下のようにである。

 また憲法第一條は、天皇陛下を「日本國民統合の象徴」であるとも書いてあるのです。「統合」というのは「一つにまとまっている」ということです。つまり天皇陛下は、一つにまとまった日本國民の象徴でいらっしゃいます。これは、私たち日本國民ぜんたいの中心としておいでになるお方ということなのです。それで天皇陛下は、日本國民ぜんたいをあらわされるのです。
 このような地位に天皇陛下をお置き申したのは、日本國民ぜんたいの考えにあるのです。これからさき、國を治めてゆく仕事は、みな國民がじぶんでやってゆかなければなりません。天皇陛下は、けっして 神様ではありません。國民と同じような人間でいらっしゃいます。ラジオのほうそうもなさいました。小さな町のすみにもおいでになりました。ですから私たちは、天皇陛下を私たちのまん中にしっかりとお置きして、國を治めてゆくについてごくろうのないようにしなければなりません。これで憲法が天皇陛下を象徴とした意味がおわかりでしょう。

 なるほど。「日本国民の統合の象徴」というのは、「日本国の象徴」とはかなりちがったものなのである。「日本国民統合の象徴」の方には天皇は自動的になれるわけではない。天皇が「日本国民統合の象徴」になるためには、国民側がかなり努力しなければならない。「国を治めていくしごと」はこれからは全部国民がやるが、そのなかで、天皇が「私たち日本國民ぜんたいの中心としておいでになる」ようにしなければならないのである。「日本國民ぜんたいの考え」によって「このような地位に天皇陛下をお置き申した」ので、国民は「國を治めてゆくについてごくろうのないようにしなければなりません」ということになる。天皇に「ごくろう」をかけず、彼をたえず日本国民全体の中心に保持しておく責任を国民が負うということになる。天皇が国の中心にいる状態を維持するためにはーすなわち戦後天皇制を維持するためにはー国民はそのために一生懸命努力しなければならない、となる。

 しかし国民はいつどこで「総意」を表明したのか。天皇制の維持のために、国民は一体、なぜそんな努力をしなければならないのか。そういう疑問が出されても不思議ではないはずだ。だが文部省にとって、つまり日本政府にとっては、それはあるはずのない質問である。天皇制はまずあるのである。天皇陛下あっての日本。日本という定義にすでに天皇というものが入っている。それが文部省のこの「あたらしい憲法のはなし」の語られない前提なのである。ちなみにそれは、自民党の憲法改正草案にそっくり、いやもっとはっきり、気兼ねなしに引き継がれている。戦後日本国憲法体制というものは出発点においてそのように観念され、組み立てられていた。「冊子」の記述は、戦後日本が依然天皇制国家として、ただし象徴天皇制国家として、再出発したこと明らかにしているのだ。

時を隔ててデュエットが歌い交わされる

 さて、私のこのエッセーのテーマは二〇一六年の明仁天皇の「お気持ち」声明の意味するものについてであった。それを論じるのに、なぜ大昔の「あたらしい憲法のはなし」なぞを古証文みたいに持ち出したのか。

 それは二〇一六年の「お気持ち」声明と今から七〇年近く前に日本国文部省によって書かれたこの「あたらしい憲法のはなし」がどこか、ひどく似ていると感じたからである。この二つのテキストを並べてみるとよい。そこには同じテーマが、別の立位置から、展開されていることがわかる。それは天皇を中心にした日本国民の統合というテーマ、それを実現するための象徴作用=象徴実践の要請というテーマである。対極に立つ二つの立場から、すなわち一方は文部省の理解する〈国民〉の方から、他方は天皇の方から、時代を隔てて、掛け合いの二重唱が歌われているかのようである。それは象徴されるものと、象徴するものの恋のデュエットである。

 この両者には「国民統合の象徴」という概念が〈国民統合活動〉=〈象徴的活動〉を要求しているという共通了解がある。「冊子」の方は、天皇を国民の中心に象徴として置いておく国民側の活動を「国民統合」のための活動とし、「お気持ち」の方では天皇が国民統合の象徴になるための天皇の「象徴的行為」が語られる。すなわち「天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには」、天皇のがわからの「象徴的行為」が肝要だと「お気持ち」は主張し、「常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる」ために「日本の各地、とりわけ遠隔後や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なもの」とする。

 明仁は、だいぶ前から「象徴である」ことと、「国民統合の象徴としての役割を果たす」ことを明確に区別して用いている。前者は「日本国の象徴」のことである。天皇は「国家の象徴」だけであるなら、憲法七条に挙げられた国事だけを黙々とこなしていればよい。東京都千代田区の居城に腰を据えて、差し出される書類に署名捺印し、賓客の接受など儀礼的な仕事をこなしていればよい。いや憲法はそれだけをやれと命じている。憲法は第4条で「天皇は、この憲法に定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」とさだめ、第七条で、一〇項目にわたる「天皇の国事行為」を列挙している。「のみを行い」というのはそれ以外の行為にたいするきわめて強い禁止規定と読める。

 ちなみに国民統合の象徴についての「冊子」・明仁のような理解は、憲法学会の多数の理解ではないようである。日本国民統合の象徴ということについて、衆議院憲法調査会の小委員会で参考人として発言した憲法学者の横田耕一は、憲法学会では「統合とは日本国民を能動的、積極的に統合するというものではなくて、国民の統合というものを受動的に、受け身的にあらわす」と考えられていると述べ、それは鏡のようなもので、「国民がまとまっておればまとまった国民を映す、国民がばらばらであればばらばらな国民を映す、そういったものとして理解されて」いると陳述している。(第一五九回国会憲法調査会最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員会、二〇〇四年二月五日)

 明仁天皇はこのような見解に立たなかった。

裕仁天皇の場合―他人ではない関係

 現実には、戦後日本において、憲法七条の「国事行為」以外の行為の禁止規定は、象徴天皇制成立以来、一度も守られたことなかったと言っていいだろう。それを最初に大規模、かつ無神経に破ったのは昭和天皇であり、彼の全国巡行という天皇制存続のための一大政治キャンペーンであった。マッカーサー司令部の庇護のもと行われたこのキャンペーンは、天皇家・天皇制の生き残りを賭けた必死の大事業であり、それは裕仁本人にとって、もはや大元帥ではない自分と臣民大衆の関係を過去とは別の関係に組み替えられるかどうかが賭けられた乾坤一擲の大勝負だった。罵声と石礫に見舞われるかも知れなかった。だがこの賭けに裕仁は勝った。行く先々で彼を迎えて歓呼する群衆が出現し、彼はもみくちゃにならんばかりだった。軍装に白馬の人だった同じ人物は、今度はソフト帽に草臥れた背広の猫背の中年男として、大衆の前に出現した。もはや神ではなく人間だった。だが称号は同じ「天皇」であった。一九四六年から五四年まで実に四九回、沖縄を除く全県、三万三〇〇〇キロの旅を裕仁はやり遂げた。そういう彼を「国民」は受け入れ、それによってかつてとは異なる関係が新たに取り結ばれた、と天皇側は解釈した。この関係に中身はなかった。象徴とはそういうものであった。「生活は苦しいか」、「何とかやっております」、「アッソー」、「ご苦労であった」、そしてちょっと帽子を持ち上げ、去る。戦後日本において、国民統合の象徴という新しい関係はこうして天皇側からの積極的活動を通じて構築されなければならなかった。

 昭和天皇については言い出せばきりがないので、ここではあまり立ち入るまい。彼は、悪名高い「沖縄メッセージ」をはじめ、講和交渉への介入など戦後の国の進路について露骨に政治介入し、歴代首相との間に「内奏・御下問」関係を維持するなど、憲法4条などほとんど無視して振舞った。米英をはじめ旧敵国への訪問―皇室外交と呼ばれたーも裕仁の活動領域であり、政治権力は戦後外交にそれを有効に利用した。国事行為から逸脱したこれら広範な活動―厳密に言えばすべて違憲であったーは「公的活動」、「公務」などとして事実上認められるようになり、それが平成期に引き継がれて、明仁天皇夫妻に活動領域を保証したのである。

 昭和天皇は、おそらく「国民統合の象徴」の意味などに反省的に考えをめぐらすことはなかったであろう。敗戦・降伏・占領という天皇制の存続が危機にさらされる環境、そして彼の恐怖する〈共産主義〉の波が「食料メーデー」など大衆行動の姿で〈宮城〉に押し寄せる中で、必死に自己の生き残りをさぐり、米占領軍に取り入ると共に、日本国民大衆との関係をつなぎなおそうとしたのが戦後初期における昭和天皇の姿であった。

 ここで押さえておくべきは、裕仁天皇の場合は、日本国民大衆とのあいだにすでに切っても切れない関係が存在していたことだ。夥しい死者の姿が人々の目に焼き付いている時代、人々の間に戦争の体験がまだ生きていた時代、「ご真影」とか「宮城遥拝」とか「米穀通帳」とかの語彙がまだ理解されていた時代、そして、それらについて親から直接聞かされていた時代にあっては、人々は否応なく天皇裕仁と関係させられていた。それは歴史的関係であった。天皇の名のもとに戦争に駆り出され、その戦争で家を焼かれ、夫を失い、といった関係、怒り、恨み、同時に苦難の時代を一緒に過ごしたという一体感、などなど、愛憎ともに、裕仁天皇という人物は日本国民大衆にとって無関係な他人ではなかった。裕仁天皇にとって、新しい象徴関係の構築はこの既存の関係を土台にすることができた。両者を結びつけていたのが、侵略と戦争の過去の不総括と自己免責という共通分母であったにしても。
〈つづく〉

投稿者:事務局
印刷用ページ このニュースを友達に送る
投稿された内容の著作権はコメントの投稿者に帰属します。