【連続講座】運動史から振り返る原発と原爆
<運動史から振り返る原発と原爆
――被爆国日本はなぜ原発大国になったのか>
【発言録】
第2回 82年「反核フィーバー」とは何であったのか
発言者 近藤和子さん(批評家)
2012年3月17日
近藤和子です。今流しました『グリーナムの女たち』のDVDですが、この後、四月一日に、CNDという日本でいえば原水禁みたいな組織のイースターアクションがあって、グリーナムの女たちはテディベアなど、いろんなぬいぐるみを着て、中に入ってピクニックをしました。二百人位で。そういうとても面白いパフォーマンスがあるんですけれども、時間がありませんので。本当は全部見ていただいて、本日のメインの菅さんの話に行っていただくのが一番いいかと思うんですが。
福島の女たちが昨年の十月二十七日から二十九日まで、通産省前で座り込みをしました。座り込みアクションをし、毛糸で指編みをし、それで通産省を包囲したという行動をしました。その報告集会が、郡山で十二月二四日にありました。その時に『グリーナムの女たち』を上映して、彼女らが非暴力、直接行動という行動で、基地そのものを無くし、ミサイルそのものも撤去させてしまったという素晴らしい成果をあげているというのにとても勇気をもらって、「私たちもそれに習っていろんなアクション、パフォーマンスを自分たちで編み出していこう。そして原発事故にとにかく抗議をしたい」という報告があり、グリーナムの女たちと日本の女たちのつながりというのを少しみなさんに知っていただきたいと思って、上映しました。
レジュメを見ていただければわかると思いますが、「『グリーナムの女たち』から福島の女たちへ」というタイトルをつけて、ヨーロッパの反核運動と日本の反核や反原発運動とのつながりを私なりにまとめてフォローしてみました。
映画そのものは、一九八四年に英語版が完成しました。もともとの映画は六五分です。それだと集会などで流す時ちょっと半端で長いので、テープをチョッキンチョッキン切って縮めて、六〇分にしました。今はもうないのですが、飯田橋に東京都の婦人情報センターというのがあったんですが、そこのスタジオをただで借りて、ただで編集作業や音入れをやりました。監督はチェコの演劇をずっとやっていた女性、村井さんで、私が音入れ。「あんたは音痴だから歌を歌うのを止めなさい」と途中で言われ(笑)、ナレーションだけにしました。もう一人編集の人が、本当にテープを切って、ほとんど現物と変わらないものにしました。それが八六年に完成した日本語版です。
この映画は、キャンプに行ったヒロさんが携えてきて、日本の女たちと交流をして、じゃあ日本語版を作ろうということになったという経緯があります。ピースキャンプのヒロさんと、草の根の平和の声をつなぐネットワークということで、沖縄はなかったんですが、九州は松下さん、大分の赤とんぼ。広島、京都、千葉、下北、そして札幌まで。このネットワークは今回の原発の事故でも生きていて、それこそ八四年以来、何十年ぶりかに会った。福島の武藤類子さんもこの時に出会っています。ニューウェーブと言われている人たちとも、このかん福島で会いました。
もう一度『グリーナムの女たち』の方に戻りますと、キャンプが出来たのが、一九八一年の九月五日だったと思います。二百キロくらい平和行進をして基地のところに来た。グリーナム・コモン米軍基地は、イギリスと米軍の基地が両方あります。オックスフォード大学のある町から、五、六キロの所です。そこはもともとグリーナム・コモンという位ですから共有地で、第二次大戦の時にイギリス政府が接収して、戦略空軍基地になりました。この基地は第二次大戦のDデー、一九四四年六月四日のノルマンディー上陸作戦の時に兵士を運んだ基地です。それからリビアを空爆した時も、このグリーナムからノンストップで出て行きました。だからそこに米軍は巡航ミサイル・トマホークを九六機配備するという計画を立てた。それが七九年のNOTO決定。十二月十二日です。それに抗議して一九八二年十二月十一日、NATO決定から三年目だということで、三万人以上の女たちで翌十二日から基地の封鎖行動、人間の鎖行動を始めた。八三年正月に、サイロアクション。映画に撮られていたものです。八三年からトマホークは、日本周辺では水上艦に配備されたと言われていますが、その巡航ミサイルが搬入され、最終的には九六機配備されました。そして連日、とにかく基地の機能そのものを麻痺させてしまえば核ミサイルは使われないという、すごいシンプルな行動スタイルで、基地の中に入り込んで、演習が始まると車両の前に身を投げかけて、演習そのものを阻害してしまう。
グリーナムのすぐ近くにストーンヘンジがあります。その場所がソールズベリー平原といって、そこが演習場になっているんです。そのソールズベリーに一回行ったことがあります。アイルランドのベルファストの模擬の町がそのまま作られていて、IRA掃討作戦の練習をやっているという所です。案内してもらったときに、「そうかぁ」というふうに、ちょっとびっくりしたんですけれども。
グリーナムに戻ります。八三年からずっとミサイルが搬入されるんですが、彼女たちが連日基地の中に入るものだから、まともに機能しなくなる。基地の中に入る時に、最初は毛布などを金網に被せて入ったりするんですけれど、暴力か非暴力かというので大議論して、結局ニッパでパチパチ基地のフェンスを切って入って行く。ものすごい柔い金網なんです。日本でも同じなんでしょうかね、米軍の金網というのは。私は切ったことがないからしらないけれど(笑)。柔いので全部ニッパで切って全部のフェンスを剥がしちゃった時は、イギリス中のニッパを買い占めて、品薄になったというかとても困ったというエピソードもあるそうです。それをとにかく連日やった。基地の正面ゲートの前にテントを張って、毎日監視しているわけです。軍事作業が出て行ったら、どこに行くのかということなどを全部監視していて、追っかけたり、車両の前に身を投げだしたり。その度に捕まると今度は裁判だとかいう感じで、延々と続けた。
結局レーガンとゴルバチョフが、一九八七年にレイキャビックで欧州配備の中距離ミサイルの交渉をやって、撤廃しましょうと。旧ソ連のSS20も米国の巡航ミサイルも、ドイツに配備されている米国のバーシング?も、お互いに止めちゃいましょうと。グリーナムの女たちもいて、それからドイツでも凄い盛り上がっているんで、ミサイルそのものは戦力的に役に立たないと。ということで撤廃が決まって、九一年に全部撤廃した。同時に米軍基地も、基地そのものも毎日毎日女たちが潜り込むは入り込むはで機能しないから、基地も撤退します、というふうに決定しました。私もその頃に、九一年ぐらいかしら、一緒に入りに行ったんです。フェンスをビヤーっとめくって、さっさっさあっと入って行くんですよ。基地の滑走路はちょうど嘉手納と同じくらいの長さなんです。米軍基地というのは世界中全部統一規格で、二四〇〇メートルくらいです。そこに座ってロウソクでビジルという、お祈りみたいなことをするんです。ピーポピーポとかいって基地の警備車両が来て、「出てってください」とか言う。「英語しゃべれますか?」と聞かれたので「No, I can’t」とか言ってね。それで車両に乗せられて、基地の外に送り出す。すると基地の人たちは「またどうぞ、来てください」(笑い)とかね。「なんなの」とかいう感じで、結局基地は撤去した。もともとコモン、入会地だから住民たちのある種の共有地になっているから、「そこを返します」ということで、こういうふうになっています。
これは福島の武藤類子さんのパートナーが拡大してくれたんですけれど、記念の公園みたいなふうになっています。今行くとこういう感じになっています。
二〇〇〇年九月に、丸一九年で、女たちのピースキャンプは終了しました。基地を無くし元の緑を取り戻したという、大成功を収めたということで。
とにかく「記念に建てるのでカンパよこせ」という手紙が来ている。有名なアーティストが作った彫刻があるんで、そこに名前を入れるからと。私はお金がなかったんで、送らなかったんですが。
女だけでやったということと、核ミサイルに反対するんだから非暴力だと。非暴力で直接行動(NVDA)という行動を広めたということです。
季刊『クライシス二〇号』の「女の鎖は世界をつなぐ」という、ここら辺の事情を書いたものを資料に入れてあります。そこでヨーロッパの反核運動というのがどういうふうな影響を与えて、そして日本とつながっているかというのを、三番目の資料『おんな・核・エコロジー』に山代巴さんも書いていますので、それを見てください。
朝日新聞(二〇一二年一月二十二日)の、「原発・国家』という記事に加納さんがコメンテーターとして載っています。また「原発とメディア」(八三回)の「盛り上がる反原発運動」で、「八月、朝日新聞の原発に関する世論調査」で、初めて反対票が上回ったんですよ。これは八六年、チェルノブイリの後です。その時に「“原発と核をなくす女たちの会”の女性翻訳者の発言が掲載された」と書かれていますが、これ私かなあ(笑)。私あまり記憶がない。だけど西尾獏さんは名前が載っていて、女性翻訳者という名無しの誰かが載っている(笑)。なんででしょうねぇ。取材を受けていないからわからない。この記事は、『おんな・核・エコロジー』の中からそのまま孫引きしてあるんです。
女性たちが反核運動や反原発運動で、もの凄い大きな力を発揮し世論も変えたということを、私は強調したいというふうに思います。
(「キャンプは何人くらい?」という質問に対し)最大の時は、八つのゲートすべてに数百人。私が行った九一年くらいの時はもうミサイルが配備されているので、一〇人とか、いつもいるのは四?五人とか。いろいろ変化がありますが、一〇人ちょっとぐらいでした。
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連続講座「原発と原爆」第9回 《広島・長崎から福島を考える》(ゲスト講師:川本隆史×舟越耿一) |