『季刊ピープルズ・プラン』52号(2010年秋号)
【特 集】今こそ植民地支配を清算する時代

特集にあたって

白川真澄

 名古屋で開かれていたCOP10(生物多様性条約第10回締結国会議)で最後まで争点になったのは、生物資源の利用と利益配分(ABS)に関するルールづくりであった。発展途上国側は、利益配分は植民地支配の時代に遡って先進国が取得した資源をも対象にすべきだと主張したが、先進国側は頑なにこれを拒否した。たしかに、途上国側の主張を受け入れることは、近代という時代の原理を自ら否認することになるからである。開発・進歩・成長といった近代のパラダイムは、まさに五百年に及ぶ植民地支配の歴史の上に初めて成り立ってきた。生物資源の利用をめぐって植民地支配の原罪にまで追及がおよんだとき、先進国側はたじろぎ、おののいたのだ。このように、いま、思わぬ形で植民地支配に対する謝罪と補償を行なうことが避けて通れない課題として立ち現われている。

 同じことが、この秋、日本列島の周辺で浮上した領土・領海問題でも問われている。尖閣(釣魚)諸島をめぐって日中間の領有権をめぐる紛争が勃発し、さらにロシアのメドベージェフ大統領のクナシリ島訪問によって北方領土問題が日ロ間で緊張を呼んでいる。「尖閣諸島の領有権は日本にある」と右翼から共産党までが声高に叫べば叫ぶほど、その領有権なるものが日清戦争の渦中の1895年、つまり台湾や朝鮮半島への近代日本の領土拡張戦争と植民地化の過程で、「無主地の先占」の論理によって強奪されたものであるという歴史があぶり出されてくる。同じように、「北方領土は日本の固有の領土」というこれまた挙国一致の合唱も、近代日本が北海道から千島列島を、この地の先住民アイヌの土地の強奪や強制追放によって植民地化する過程で手に入れたという歴史を逆に照射する。北方領土問題の解決とは、何よりも当事者であるアイヌ民族の先住権を承認し、謝罪と償いを行なうことを抜きにしてはありえない。交渉すべき相手は、まずアイヌ民族なのである。

 また、尖閣諸島の領有権の閣議決定から台湾の強奪に至る過程は、1879年に琉球王国を最終的に解体して沖縄を国内植民地化した琉球処分を跳躍台としていた。日本によって凄惨な地上戦を強いられた沖縄は、戦後はアメリカ占領下に無権利状態の軍事植民地とされ、1972年の沖縄返還の後も米軍基地の重圧を受け続けるが、このことは日本国家が沖縄を事実上の国内植民地として扱ったことに起因する。米軍基地の負担を沖縄に押しつけて「日本の安全」を確保することをやむをえないとする日本社会の多数派の考え方は、沖縄を国内植民地化してきた歴史的過程と深く関わっている。民主党政権は、当事者である沖縄の人びとの声を完全に切り捨てて新基地建設に関する日米合意を結んだが、これに対する怒りが「沖縄差別を許さない」という表現をとったのは当然である。沖縄の人びとは、アメリカの軍事植民地支配と日本による国内植民地化の二重の支配を拒否して、自己決定権を行使しつつあるのだ。

 こうして、植民地支配の清算という課題は、歴史的過去を清算する問題というよりも、いま私たちが直面している大きな政治的テーマに関わる「現在(いま)」の問題にほかならない。今年は、日本による韓国併合から百年に当たるが、戦後日本国家は、つねにアメリカに顔を向ける対米依存・従属をその根本性格としてきた。そのことは、日本国家がアジアの脱植民地化の過程と自覚的・主体的に向き合うことを避け続けてきたことと表裏一体の関係にある。「一五年戦争」に関する責任もきちんと果たしきっていないが、明治以来の植民地支配についての真実究明・謝罪・補償を行なう作業にはまったく手をつけていない。戦前の植民地支配への反省の欠落は、戦後も国籍条項を盾にとって在日韓国・朝鮮人を無権利状態に置き、二流市民として差別する事態を生みだした。そして、外国人の地方参政権の保障や高校無償化が日程に上ると、主権侵害になるとか北朝鮮や朝鮮学校を排除するべきだとかとかいった議論が恥ずかしげもなく勢いを増すのも、植民地支配の清算を放置してきた日本社会の大きな歪みを映し出している。

 本号では、「現在(いま)」の課題である植民地支配の清算という課題を、アジア諸国との関わりはむろんのこと、国内植民地化された沖縄やアイヌとの関係においても追求する。同時に、ダーバン会議に代表される植民地支配の責任を根源的に問い直す世界的な流れのなかで問題を深めたい。

 今こそ、植民地支配を清算する時代(とき)である。

(しらかわますみ/本誌編集長)

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