『季刊ピープルズ・プラン』59号(2012年10月31日発行)

交流

【交流】10月7日 村田久さんをしのぶ会/越田清和

 八月八日に急逝した村田久さん(享年七七歳)をしのぶ会が、一〇月七日、北九州市小倉で行なわれた。地元の水巻町や北九州市だけでなく、九州各地、北海道、東京、愛知、大阪、広島などから一五〇人ほどが集まり、村田さんをしのび、ご冥福を祈った。

 村田さんは献体したので、会場には遺影が飾られていただけで、大がかりな祭壇はなかった。献花などもしなかった。その代わり、「サークル村」時代や九州の住民運動の仲間からお隣の中学生まで、ほんとうにいろんな人が村田さんのことを話した。美味しい食べ物とお酒を楽しんだ。久しぶりに会う人と旧交を温め、初めて出会う人との会話を楽しんだ。涙ではなく笑いがあった「しのぶ会」だった。それが、村田さんの一番の供養になったのだ、と思う。

 村田久さんは本を出したり、難しい論文を書いたりする人ではなかった。でも、長年にわたって、お連れ合いの和子さんと一緒に、いくつものニュースレターを編集・印刷・郵送し続けてきた。それが生活の一部になっていた。

 また一度会った人には忘れがたい何かを残す人だった。この人なら頼りにできると思わせるところがあった。誰とでも気軽に話す対等感があった。熱のこもった話し方には、人を巻き込む力があった。その一方で、社会運動の進め方や方向性には厳しい目をもち、マンネリ化した運動パターンや議論をきちんと批判していた。

 ピープルズ・プラン研究所との関係でいうと、「ピープルズ・プラン二一世紀」の一環として「強制連行の足跡を若者と辿る旅」を始め、それを一〇年続けた。武藤一羊さんや東京の運動体のことを強く意識・対抗しているところがあって、PP研の提起する新しい考え方に大いに関心を示し、二〇〇七年にはミニ討論会「グローバリゼーションに対抗する主体は?─ピープルネス・マルチチュード・プレカリアート」の開催を呼びかけたりした。しかし、自分は地域から運動をつくり、それをつなげるという態度を持ちつづけた。晩年は、花崎皋平さんと二人で、「田をつくる」という運動(というか二人旅)で、各地をまわっていた。

 日本の民衆運動にとって大きな存在を失った。

(越田清和/PP研運営委員)
 

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