ことばの魔法と漢字の書き取りー大和田清香
最近字を書くとき、うっかり線を一本多く書いてしまうことがある。「毛」とか「手」とかがそうで、書いてしまってから、何かが変なことに気づく。二本あるべきところが、三本になっている。それで困って、間隔の狭い方の二本の間をむりやりぐりぐり埋めて太い一本と細い一本に見せかけて誤魔化そうとする。誤魔化せていないとは思うけど。
この年齢になって無意識にこんな間違いをするのも、わたしが字を「正規」の教育をつうじてというより、まったくの我流で覚えたことに関係しているのかもしれない。わたしは3歳のとき読み書きを覚えはじめて、読める限りの本を読みあさり、小学校の入学式には当時とくにお気に入りだった本をしっかりと抱いて参列した。ちなみにそれはモーツァルトとベートーベンと瀧廉太郎の伝記で、なぜその本にそんなに夢中だったのかはのちの私にとっては謎である。
両親が字を教えるのに熱心だったわけではない。水俣病との出会いから70年代に有機農業運動の道を歩みはじめていた若い両親は、あまり人為的なことを好まず、母などは、3歳年長の姉がわたしに字を教えようとすることにやんわり疑念を呈していたほどだった。しかし他人の思惑など関係なく、わたしは読み書きの喜びに没頭した。読むだけでなく、自分の創作を新聞に挟んであるチラシの裏に次から次へと書き綴り、「ノート」は長いこと、思い描きうる最高のご褒美だった。白いノートをもらうと、ページをくってもくっても中身が白くて、そこにどれだけたくさん物語をくりひろげられるかと思うと嬉しくてたまらなかった。
姉は、ことばが怖かったという。自分の感じていることとことばがうまくリンクせず、ことばが自分をゆがめ、裏切ることが姉を苦しめた。妹にとっても、ことばはある時期「敵」であったようである。わたしのきょうだいたちはみな、ことばと自己の間で葛藤し、十代の一時期、ことばを極力封印することで自分の身を守ろうとすらした。
しかしわたしにとって、ことばは魔法であり、翼だった。弱く、重たく、地面にぺしゃりとはりついた泥のような小さな肉体に較べ、ことばは変幻自在に空と大地を駆けめぐり、地上のあらゆるものを、あるいは地上にまだ生まれ出ていないものすら、わたしのもとに連れて来てくれるように思われた。ことばはわたしをきつねにし、石ころにし、風で飛んでいく落ち葉にした。ことばがわたしを棄てるのは、ずっとずっと後になってからのこと、たぶん二十歳をいくらか越えたころのことだ。
話を戻すと、そのようにことばへの愛情に満ちあふれ、ことばと親しくかたく結びついていたわたしには、小学校の国語教育がまったく我慢がならなかった。教科書には(論旨に納得いかないものも含め)面白い文章がいろいろ載っていたが、わたされたその日にあらかた読んでしまっていたし、先生がひとつやふたつの文章をいじりまわして「それ」は何を指すか、など聞きたがるのは、良く言ってもつまらなかった。中でも一番いやなのが、漢字の練習など、文脈から切り離して持ってきた字を機械的に何度も書かされることで、わたしはこれは完全にことばへの冒涜であると考えた。
当時のわたしにとって、字は生き生きと意味を持つ物語――前後の文脈――の中にあってこそ意味をもつのであり、単体の字を反復練習するなんて、生きものを剝製にして陳列するようなことであり、子どもたちがそのように文字とふれあい、結果ことばを面倒な厄介事のように遇していることはまったく道理にあわないことだった。
そこでわたしは、漢字の書き取りの宿題は頑として行わないことにした。クラスでは班ごとに、宿題をやってきたか、忘れ物をしていないかなど連帯責任にしてグラフ化し、競い合うシステムがとられていたので、同じ班の子たちは口々に私をなじった。教師は放課後、クラス全員の前で数時間にわたってわたしに説教し、「あなたたちがいつまでも下校できないのは、この子のせいなんですよ」と同級生たちに言い聞かせた。
さまざまな圧力があったが、わたしは基本的に、最後まで宿題をやらなかった。
だけど何回か――まだ書き取りに対する自分の立場を明確に見出す前だったのだろう――書き取りをしていたときの記憶もある。字は意味を失っていてただの形だったが、形としてはかわいらしくて、それぞれに特徴があって、一個一個きれいに書こうとすることは、人参のふくろ詰めのように単調で楽しかった。
わたしは「ほ」や「は」を最初、左右逆に覚えていて、また「きみょう」ということばと「きょうみ」ということばをそれぞれ逆の意味で思い込んでいたので、世間の(正しい)字や用法に慣れるまでしばらくかかり、自分が覚えている方がしっくりくるのになあと、みんながこぞって間違えているんじゃないかと、長いこと内心疑っていた。
そんなわけで、わたしの「ことば」は今もどこか少時の自己流をひきずったままなのだと思う。大学院の先生には、「我流の日本語」で論文を書くのはやめなさいと何度も叱責された。
文字やことばが、「自由」を意味しなくなって久しいが、ことばは今でも、わたしにとって最大で最後の希望である。
ところで字を間違ってもいい、と思っているわけではないということを、ここに一応ことわっておく。とくに人の名前は、……PP事務局から郵便物を送るとき、間違って引いた三本線を二本線にぐりぐり誤魔化して送った方、本当に失礼いたしました。