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『季刊ピープルズ・プラン』56号(2011年12月25日号)
【リレー連載】『根本(もと)から変えよう!』を読む 1

あくまでもフェミニズムの視点に立った変革を

菊地夏野


 少し、モノローグから始めることを許してもらいたい。

 三月一一日からすでに九ヶ月が経とうとしている。この間、わたしは何度もこれは現実ではないのではないか、SF小説のなかの世界なのではないかという思いに揺り動かされた。

 一一日には私の住んでいる名古屋も大きく揺れ、東北沖が震源だと知って宮城県北に住む親に電話をしたがつながらなかった。夜半に数分だけ携帯がつながったもののその後は一週間ほどまったく連絡が取れなかった。テレビでは繰り返し津波の押し寄せる場面とがれきと火災の映像。不安に陥っているわたしには、宮城・岩手・福島全体がこのような惨状にあるのかと思わされた。そしてすぐに続いた原発事故のニュース。事故から数ヶ月ほどの間は、テレビや大手新聞の報道と、ツイッターやユーストリームをはじめとするインターネット上の情報とがまったくずれていた。さまざまな手法や人材、ネットワークを駆使して事実に迫ろうとするネット上の動きと、それを覆い隠すかのように「安全」「人体に影響なし」と根拠のない言葉を繰り返すマスコミ。あのときほど、日本社会で情報格差が拡大し、その情報が人びとの行動に影響を及ぼした時空間もなかっただろう。

 時間の経過とともに世の中は平常に戻っていった。ただし、福島とその周辺地域だけが切り離されたように絶え間なく放射能を浴び続け、避難できる資源を持たない人びとは住み続けざるを得ない状況は変わっていない。

 それにしても、このような形で、福島や東北が、日本のみならず世界中の耳目を集めようとは思わなかった。平らに続く田んぼと川の風景の中でわたしは子ども時代を過ごした。いつか都会の大学に進み、生活をするものと思っていた。そしてそのとおりに都会の大学に進んだが、わたしのなかでの「故郷」というものはどこか落ち着かなかった。沖縄の基地の歴史を勉強したが、そこでの本土と沖縄の関係性、搾取と収奪の関係性は、本土内での都会と地方の関係性に連なって見えた。東北は、東京に労働力を提供し、自然資源を提供してきたが、返ってきたのは政府の一方的な農業保護政策打ち切りと、都市中心主義的な人びとの「イナカ」を軽んじる視線だった。

 このような構図を理解していったが、これは近代社会の構造的な問題であり、解決は遠く、多くの人の注目が集まることはないだろうと思っていた。それが、3・11によりその暴力的構図の最終的な仕上げともいうべき事態となり、さまざまに言説が立ち上がる中で、わたしのなかでふたをしていたものが急に開けられ、外気にさらされたようだった。

 さて、前置きが長くなったが、本題に入ろう。わたしと同じように、多くの人が3・11によって混乱し、衝撃を受け、自分自身の生き方や考え方に変革を迫られたことだろう。この本は、二年前から準備をしていたということだが、完成間近になって3・11が起こり、さぞあわてたことだろうと思う。「最小限の補足・修正を加えて公表を急ぐ」ことにしたということだが、そうせざるを得なかっただろう。おそらく3・11後に執筆するとしたらだいぶ紙面も変わったのではないかと思う。

 もちろんこのブックレットの基本的路線は十分うなずけるものだし、さまざまな課題領域についての基本的知識を知ろうとするさいにも有益だ。運動圏が、社会の閉塞感の中でなかなかそれを打ち破る一歩を進められていない中で画期的な感もある。

「底」をついた感

 そして、さらに欲を言ってもいいだろうか。

 3・11を経てわたしにはどこか「底」を尽いた感がある。この二〇年くらい日本社会は、「閉塞」が語られ不景気にあえぎながらも、やはり結局は「豊か」であり多数派の人びとの生活はどこか「安全」であった。それは日本がいまなおアジアをはじめとする「第三世界」諸国(今やこの言葉さえもリアルではない気もするが)のひとびとの貧困の上に「繁栄」しているからだろうし、国内の女性を含めたマイノリティの抑圧の上にあるからだろう。だがそれでも、いやだからこそ日本はやはり豊かで安全だった。
 それが、3・11の原発震災によって福島や東北・北関東の人びとに対して取り返しの付かない健康破壊・人命無視がもう、起きてしまった。東京も安全に住めるとは言い切れなくなった。それも同じ「日本人」の手によって。

 これまでの日本社会は、本ブックレットにも明記されているように、アジアの人びとの犠牲の上で経済発展し、国内の外国人に対しては好景気のときには使い捨て、景気が悪くなると追い出すという顕著なナショナリズムの暴力を行使していた。だが同時にマジョリティは、「日本人」であれば、普通に「家族」のなかに安住していれば何とか生きていけるという世界観を維持していたのだ。

 しかし3・11が明らかにしたのは、いまや「日本人」であろうと「普通に」生きていようと安全を意味しない、誰からも守ってもらえないということである。そもそも原発は、寄せ場労働者や地元の高卒・中卒の若者、外国人などマイノリティの被曝労働の上に成り立ち、大企業と政府の癒着によって維持された、戦後日本の象徴のような存在である。いや象徴というより、戦後日本の歪みそのものかもしれない。戦後日本の象徴的な歪みによってわたしたちの健康と安全は汚染され、いまや日本は世界でもっとも危険な場所のひとつになってしまったのだ。

 「がんばれ日本」のかけ声は、マジョリティが拠って立つ「日本人」「家庭」というアイデンティティの歪みを覆い隠そうとしている。3・11でかいま見えた、それらのナショナリスティックな同一性のもろさを必死に取り繕うとしている。
 だが戦後日本の軌跡が歪んでいたことはもはや明らかである。国家の数十年にわたる政策が福島の人びとに多大なダメージを与えてしまった。これは戦争による暴力とほぼ等しいのではないだろうか。基地と原発は似ている。国家の周辺部に建設され、地元の住民の健康・人命を無視し、都市の繁栄に貢献する。どちらも放射性物質を放出する。あまりに似ている。

今こそフェミニズムの視点が必要

 このような意味で「底尽き感」があるので、オルタナティブ提言をするならば、徹底的に討論して、もっとビジョンを明確にし、統合していく必要を感じるのだ。これまで日本の市民運動は理論的基盤が弱体化し、個別の問題領域に拡散する傾向にあった。フェミニズム・女性運動も同様である。しかしそれでは力を合わせるべき局面を逃してしまうし、互いの課題の交流もしにくい、何しろ運動の魅力が減ってしまうだろう。たしかに安易に理論的統合を図ると、かつてのマッチョな日本人異性愛男性中心主義的な、観念的な言説に陥ってしまうかもしれない。それを克服するためにも、わたしは、フェミニズムの視点と世界観が今こそ必要だと思う。

 原発も基地も、男性中心的価値観による発想の最たるものである。暴力と効率性によって国家が武装し経済権益を強化しようとする発想。反原発の運動は女性たちの力に多くを負ってきた(三輪妙子編著『女たちの反原発』など)。今こそ、脱原発・反原発の運動は、たんにそのスローガンだけではなく、女性たちの主張に耳を傾けるべきときではないか。
 本書の随所で取り上げられる問題の多くは、ジェンダーやセクシュアリティが奥底で関わっているものだ。

 たとえば、「・何を根本的に変えるのか」の1として血統主義が挙げられているが、日本社会の血統主義はたんに「血統」を守るものではなく、あくまで「父系血統主義」である。いまだに九八%の婚姻関係が妻を夫の姓に変えさせているし、その血統にもとづいて作られる「家庭」は女性の不払い労働によって成り立っている。国籍法の父系主義は、女性運動によって、とくに二〇〇八年にはフィリピン人女性らが起こした国籍法訴訟によって解消されてきたが、法律上の見えやすい父系主義は消えても現実はあまり変わらない。そもそも結婚制度自体が、子どもに対する父親のヘゲモニーを確定させるための制度であり、女性のセクシュアリティを父権社会が独占しようとするものだ。近代社会における血統主義とは、ジェンダーとセクシュアリティを国家が管理する制度として発現し、日本では戸籍制度という形で表現されている。それに対して外国人管理は入管法によって行われる。戸籍法も入管法も明文上は性差別を明確にはしないのだが、現実に機能するときにはジェンダー・セクシュアリティの秩序とかならず連動する。「外国人」という集団を想定する際にジェンダーによる差異は運動の中でも見落とされがちである。「血統主義」という問題は、あくまでジェンダー化され理解されなければならない。

 また、本書の随所で指摘されている非正規雇用・不安定雇用の問題は、数十年前から女性が抱えてきた問題である。資本主義経済は市民社会の亀裂を利用して搾取を始め、それが放置され構造化したところで搾取を全体化する。これまで非正規雇用の問題が放置されてきた理由、社会運動のジェンダー・バイアスに向き合わなければ同種のことは起こり続けるだろう。

「日本社会」の枠を越えて

 さらに3の植民地支配と侵略戦争の問題でも、今まで取り組まれながらもっとも解決の遅れているのが日本軍「慰安婦」問題である。これが女性に対する暴力であることは言うを俟たず、同時に植民地主義の暴力でもある。

 つまりわたしは、ジェンダー・セクシュアリティ等のフェミニズム的課題と、植民地主義のふたつを理論的基盤とすべきではないかと考えるのである。

 そのために、この提言が「日本社会」を一応の対象としていることにも若干の疑問を感じないわけではない。もちろんわたしを含めピープルズ・プラン研究所に集う者たちは、日本社会に住んでいる者が多いだろうから、日本社会をひとまず舞台として想定することは間違っていない。だが、グローバル化の現在では、日本を舞台とする権力関係は当然ながら日本の場所のみで生じているわけではないし、多国籍企業と先進国政府の利権関係が強化され、TPPなど世界の階層化が進もうとしている中では、各国・各地域の社会運動の横の連携を強めていかなければならないだろう。

 「多民族共生」の理念も、国内のみで実現できるものではない。なぜなら、来日する外国籍労働者の多くは、日本の経済力に期待してやってくるのであり、その日本の経済力は一国のみで蓄積されたものではなく、アジア等の諸外国への経済侵略によって形成された。諸外国から労働者が来日する裏側には、出身国の貧困があり、それは植民地主義の結果でもあるのだ。

 現在日本社会が抱えている課題を日本のみで解決するのは無理ではないかと思える。世界中のオルタナティブを求める運動とのつながりのなかで変革ははじめて実現するように思える。そしてそのさいに、異性愛男性中心主義の轍を踏むことなく、あくまでもフェミニズムの視点に立った変革を展望したい。

 もちろんそういう視点はこのブックレットに含まれている。さらに連携を進め、統合できる認識基盤と戦略を考えていきたい。

(きくち なつの/名古屋市立大学)
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