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【反天連声明】福島原発事故、構造化された命の序列を支える天皇制社会を許すな!

 福島原発事故は、原発産業の危険性とそれが構造的にもつ矛盾を、最悪の事態のなかで改めて露わにした。だがこの危険性と矛盾の本質は、事実を明らかにせず「安全・安心・冷静に」を繰り返す報道によって、危機感の上昇とは裏腹に霧散しつつある。そして首都圏では今も原発支持者が半数を占めているという。

 私たちは福島原発の絶望的な状況に対して無防備を強いられている。流布する情報の見極めさえ難しく、信頼できる情報が開示されたところで、自分の身を守ることすらおぼつかない。だが、より深刻なことは、東電あるいは国家機関の中枢にいるほぼすべての者が、この事態に対して同様に無力・無策であろうということだ。そもそも原発事故において、安全で合理的な解決方法などないのだ。

 このような収拾不能な事態の可能性はこれまで幾度も指摘されてきた。それにもかかわらず政府・東電・メディアは「安全でクリーン」を謳い、多くの反対の声を押し切り、国策として原発産業を推し進めてきたのだ。制御不能なものを作りだし、これだけの大惨事を起こした政府、東電、メディアの責任は限りなく大きい。

 いま、危険極まりない現地で命を削りながら作業に従事する人びとがいる。だが、この命を削る労働は事故時に限らず必要とされてきた。原発とは、死に向かう者の存在なくしては動かない、いわば見捨てられる命が想定内のおぞましいシステムなのだ。

 原発現場の日常に伴うその危険度は、この事故という非日常のなかで究極に達している。外部から現地に入る自衛官や警察官、消防隊員は英雄視され、可視化された死に向かう人びとへの感謝と賛美にはかつての特攻隊と靖国神社が彷彿され、言葉を失う。一方で、日常の延長にあったこの事故現場で、文字通り死と直面した命、見捨てられようとする命は、放射性物質の危険性と同様に隠され続けている。

 三月一六日、天皇は「東北地方太平洋沖地震に関する天皇陛下のおことば」をビデオ発表した。原発事故現場や救援活動に従事する人々に感謝し、労をねぎらい、「この不幸な時期を乗り越えること」を願う。誰も天皇のためにやっているわけではない。また、一瞬にして生きる糧すべてを失った人びとに天皇のメッセージなど何の糧にもならない。だが天皇はこのようなときにこそ出てくる。超然と、傲慢に、すべてを代表して語るべき存在として。そして慈愛を装いながら、命を懸け、堪え忍ぶことを説く。

 想定内の見捨てられる命は、天皇を頂点とする社会には不可欠な存在として構造的に組み込まれている。天皇一族とそこに近い存在はすべての危機から遠く、天皇制ヒエラルキーの底辺にいくほどこの社会からは見捨てられる。地震・津波の被災者も、放射性物質に怯えるわれわれも、その「被害」に応じて序列化され、分断され、それぞれに見捨てられることを忘れてはならない。福島原発事故はそのような差別分断社会の上に成立する原発産業の矛盾を露わにした。だが、天皇は安全な場所から発する傲慢な「慈愛」と「感謝」「激励」で、そういった構造をあいまいにし、人びとの不安や不満を封じ込めようとする。天皇制こそがこの構造を維持する装置としてあるのだ。そんな天皇も天皇の言葉も許されるはずがない。

 制御不可能な化け物を作りだす政財界の権力者と、そこに豊かさを求める社会。見捨てられる命を食い物とする化け物に頼りきった社会。原発の迷路のなかで死と向き合いながら働くものと、命令し、あるいは超然と励ましの言葉を垂れるもの。天皇制ヒエラルキーに準じた命の序列。福島原発事故から見えたことはこれらのことだ。その原発産業をこれからも維持したいという政財界と、その思惑通りに動くマスメディアを許してはならない。

 私たちは政府・東電、そしてメディアに対し、抗議と反対の声を、多くの人々とともにあげ、反天皇制の運動のなかから、天皇発言の政治的役割を批判していく。そして、一刻もはやく福島県内と近隣の被災者の安全と生活を確保すること、福島原発で何が起こっているのか、労働者の被曝や被害状況、放射性物質の危険性など、すべての情報を開示すること、人の命を吸い上げ続ける原発を即刻止めていくことを、要求していきたい。ともに!

2011.3.26
反天皇制運動連絡会
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