トップ (メニュー)  >  【OPEN】運動史から振り返る原発と原爆(第4回)白川真澄さん・発言録
オルタキャンパス「OPEN」
【連続講座】運動史から振り返る原発と原爆


<運動史から振り返る原発と原爆
   ――被爆国日本はなぜ原発大国になったのか>

【発言録】

第四回 原水禁運動の分裂問題と原発問題
 発言者 白川真澄さん(『季刊ピープルズ・プラン』編集長)
 2012年7月21日

 私の報告のテーマは、「『いかなる国の核実験にも反対』に、なぜ日本共産党は反対したのか」です。ここでは、日本共産党を代表するイデオローグであった上田耕一郎の『マルクス主義と平和運動』(一九六五年)を素材にして話をします。簡単な年表(※)を作りましたので、参考にしてください。

■背景としての中ソ論争

 「いかなる国の核実験にも反対する」かどうか、いまから考えれば、なぜ、そんなことをめぐって論争して原水禁運動があれだけの分裂をしたのかというのは、奇妙な感じがいたします。原水禁運動がビキニ環礁での水爆実験を契機にして大きな大衆的運動として盛り上がるという運動それ自身の流れに加えて、背景として中ソ論争というもう一つの流れがあったと思います。

 安藤さんが紹介された日本共産党の内野竹千代の「核戦争が始まったからといって全人類が絶滅してしまうことは考えられない」という発言も、内野のものというよりも、実は毛沢東が語っていたことを繰り返しただけです。毛沢東は、五七年にモスクワで開かれた世界の共産党の会議で、世界核戦争によって「人類の半数が滅亡しても、あと半数の人が残る。その代わり、帝国主義は完全に一掃され、全世界は社会主義だけになるであろう」と発言しているんです。

 六一年は中ソ論争の最中で、日本共産党はソ連共産党から離れて中国共産党へ傾斜していく。そういうふうにはまだ当時は言ってはいませんでしたけれど、明らかにその影響を強く受けていたのだと思います。

 中ソ論争が公然化するのは、六一年に入ってからのことで、アルバニア労働党を非難するかどうかということをめぐって中ソの共産党間の論争が表面化しました。それで中ソ間に論争があるんだということが、僕らにも分かった。五七年に「モスクワ宣言」という、中国も含めた当時の社会主義圏の共産党の共同声明が出された。各国の共産党のトップがいつもロシア革命記念日に集まるのが慣例だったんですが、六〇年には八一カ国の共産党が一堂に会して声明を出します。五七年が「モスクワ宣言」で、六〇年が「モスクワ声明」です。当時の共産主義者にとっては知らない人はいないというほど権威をもちました。

 今度探してみたら捨てないで本箱にありました。当時の定価六〇円です。大学食堂のカレーライスが四〇円で食えましたから、そのくらいの手ごろな値段でよく売れたんだと思います。高校時代に僕は初めて読んだと思いますが、その後もとにかく熟読玩味して、書き込みが残っている。学習会のテキストに使ったわけです。この「宣言」「声明」が国際共産主義運動の統一見解ということで、これをどう解釈するかをめぐる論争が激しく展開されていきます。

 簡単に言えば、中ソ論争は、五六年のソ連共産党二〇回大会でフルシチョフがスターリン批判をやります。そこで世界戦争を経ずに資本主義から社会主義に移行することはできるんだという、いわゆる「平和共存」の理論を打ち出す。つまるところ、米ソ間の共存の維持を最優先させ、民族解放運動や資本主義国の平和運動や労働運動もそのことに奉仕せよというものです。それに対して中国共産党は、戦争は避けられないと言った。具体的な中身は、民族解放戦争です。民族解放戦争こそ世界を変えていく最重要な主体的力だというわけです。

 理論的にはこういう対立だったんですが、実はその裏があって、それは後で分かるわけです。五九年にフルシチョフが初めて訪米したんですが、同時にソ連は中ソの技術協定を破棄している。要するに核技術をソ連が中国に渡すかどうかということで、ソ連が拒否した。それが中ソ論争の原因だったと、いまから考えれば言えると思います。そして、中国は六四年に核実験をやって核保有国になるというプロセスが進行するわけです。

 そういう背景が絡みながら、「いかなる国の核実験にも反対する」か否かという論争が、原水禁運動の中で展開されていく。日本共産党が選んだ立ち位置は、中ソ論争に左右されるというのか、翻弄されことは間違いないと思うんです。最終的に共産党は、六六年にプロ文革が始まってから、それでビビッたというのか、気づいたというのか、毛沢東なんかには付き合っていられないということで、中国共産党から離れていわゆる「自主独立」の立場を打ち出す。昔からずっと自主独立だったと言っていますけれども、それは嘘で、六六年に初めて宣言したんです。

■原水禁運動への私の個人的関わり

 私自身の原水禁運動へ関わりは、実はちょっと複雑なところがあります。恥をさらすようなものですが。安藤さんより私は二歳若いので、高校に入ったのは一九五八年です。当時、勤評闘争で授業がないので、「ああ、こんな良い学校はないな」と思いました。先生がいつもストライキで休暇を取っていて、いませんから。特に女性の教師が頑張っていて、それが非常に印象的でした。勤評闘争から翌年の警職法反対闘争、そして六〇年安保闘争というふうに、運動が上り調子の時代でした。

 五八年に、ソ連が核実験の一方的停止、いわゆるモラトリアムをやった。その前にスプートニクを打ち上げていて、ソ連というか社会主義の生産力の優位が明らかになって、「ソ連は平和の守り手」というパフォーマンスが劇的に成功した時期だった。これを疑う人はあまりいなかった、という状況だったと思います。

 僕が最初に原水禁大会に参加したのは五九年のことで、高校二年生として参加した。その大会では、安保問題をどう取り上げるかというのが大きな議論になっていて、原水禁運動は、原水爆禁止だけではなく平和運動全体のセンターのような役割があった。すでにその前に砂川闘争があって、軍事基地反対を原水禁運動が課題としていましたが、ある意味では反戦平和に関わるあらゆる課題が原水禁大会に持ち込まれてくる。その良し悪しはあるのですが、そのことに僕はあまり疑問も感じずに、そこで安保が論じられるのは当然で、いよいよ安保闘争をやらなければいけないと決意したのを思えています。

 この時、僕は京都で高校生徒会の会長をやっていました。お金がありませんでしたので、街頭署名をやって、集まったカンパでヒロシマへ行くというのが夏の恒例イベントでした。

 その時にはまだ、共産党にも民青にも入っていませんでした。無党派の立場でした。後に部落解放運動のリーダーになる藤沢さんは、そのときすでに共産党に入っていて、初めてその場で彼と議論した記憶があります。次に、彼と原水禁大会で顔を合わせたときには、私が共産党、彼は共産党を離れてフロント派と、立場が入れ替わっていました。

■ソ連核実験を支持して散々な目に

 六一年に京大に入学して、共産党に入りました。その年の八月末に、ソ連が核実験をやって、日本共産党はこれを支持する声明を出しました。「ソ連核実験を支持する立場を宣伝せよ」と、安藤さんの話しではないけれど「人びとを説得しろ」というのが共産党中央の指示でした。私たち共産党の京大学生細胞で、僕は一年生だったけれども、ちょっと生意気だったせいで、学生細胞のリーディング・コミッティー、つまりLCの一員で、大衆運動部長でした。それで、先頭に立ってソ連核実験支持のビラを学生に配る、クラス討議をやるという役割を担ったんです。この時期が、人生の中でスターリニストとして最も忠実にすごした一時期だったというふうに思います(笑)。

 当然にも、学生たちは「お前ら、バカじゃないか」と猛烈に批判してきます。いくら理屈をこねて説得しようとしても、そんなものは全く通じませんでした。その年の十二月に教養部自治会選挙がありました。東大と京大の教養部の自治会は、全国の学生運動ではきわめて重要な拠点になりますから、そこでの選挙の意味は大きいわけです。その選挙に副委員長候補として出たわけですが、惨敗もいいところでした。そりゃ、ソ連核実験を支持するという人間に、票を投ずる学生はいませんよ。学生たちは非常に健全だったわけです(笑)。とにかく、かつてない敗北を喫しました。

 それからクラスの自治委員選挙もあり、クラスの中から二名選ぶのですが、関西は革共同系が弱かったので、ブンド系と共産党系で議席を二分したので、本来は当確なはずです。どちらからも必ず入る。ところが、僕は自治委員選挙でも落選しました。対立候補は、いまひじょうに親しい友人で、世界経済学をやっている本山美彦さんです。彼は義憤に駆られて、ソ連核実験支持を主張する共産党員が同じクラスから自治委員に出るのは許せないということで、そのとき初めて立候補したそうです。

 僕は落ちました。そしたら、共産党細胞の会議で、「クラスの大衆に支持されないような人間は、幹部、つまりLCとしてはダメだ」と女性の先輩党員から批判された。ちょっと憧れていた女性でしたから、落ち込みました。「だけどソ連核実験支持を主張したら、いくら良い人でも落ちるだろう」と思ったんですが、それは言いませんでした。「悪うございました」というふうにだけ言いました。だからこの時期は、一番嫌な思い出の残る時期です。

 六二年になると「いかなる国の核実験にも反対」をめぐる論争が、原水協の中で猛烈に吹き上げていましたから、激しいぶつかりがあった。六二年の原水禁大会は東京で開かれたと思いますが、共産党に属している立場で参加しました。六三年は、事実上分裂した原水禁大会に参加したはずですが、記憶があまり鮮明ではないんです。というのは、六三年の夏くらいから、私は共産党中央に反対する活動を始めていました。六二年頃から、「これはとてもじゃないが、宮本とは一緒にはやれない」という感じを持っていました。「いかなる国の核実験にも反対」をめぐる理論的な問題と同時に、大衆運動と党との関係をめぐる問題があったからです。

 この当時の共産党は、労働運動であれ学生運動であれ、とにかく「分裂させろ、割って割って割りまくれ」という方針だったんです。そのセクト主義と大衆運動への分裂の持ち込みはすさまじいものでした。労働運動では、六四年に公労協のストライキに対して、挑発に乗るなという反対声明を出して、潰しにかかる。学生運動でも、京大ではブンドの諸君たちと一緒に行動していて、六三年にたまたまポポロ事件の判決があって京都地裁に共産党学生細胞の旗を持って一緒に突っ込んだら、それがテレビで放映された。それを宮本顕治が見ていたらしく、「なんだ、あいつらは」といことで、調査と統制が入ってきました。とにかく「トロツキストと一緒に自治会をやっているのはけしからん、自治会の決定をボイコットして分裂させろ」という指示が下る。「そんなことはできない」という思いで、僕らは抵抗を始めていたので、六三年はそちらのことをよく覚えているんですが、原水禁大会にどう関わったかはあまり覚えていません。しかし、参加して共産党系の行動隊として総評・社会党系の活動家とぶつかって暴れていたようですが。

 六三年には原水禁運動はもう分裂状態になります。六四年から広島、長崎、静岡の三県連、つまり被爆地の原水協が中心になって、原水禁に繋がる集まりを始めるわけです。

 六四年の夏に、私は共産党を除名されます。ですから、もう「いかなる国の核実験にも反対」してもいい立場に立ったんです(笑)。原水禁が六五年に結成されるんですが、同時に米軍による北爆が始まって、世の中はベトナム反戦闘争に向かって大きく動いていきました。京都でも原水禁ができて、「お前、事務局をやらないか」という話があり、引き受けたんです。お金がなかったものですから、原水禁大会を含む夏の期間だけお金が出るというので、事務局をやりました。それが六六、六七、六八の三年間です。

 ですから、あいつは原水協でソ連の核実験支持で走り回っていたのに、今は「いかなる国の核実験にも反対」と言うんだから、何て奴だと思われたでしょう。豹変したと言えば豹変した。まともな立場に立ち戻ったといえば、立ち戻った(笑)。ということで、原水禁運動というのは、自分の中で、何というか、まだ整理のついていないところがあります。

 ただ、六〇年代後半の原水禁運動は、核実験あるいは核兵器問題というよりも反戦平和のいろんな課題に取り組んでいて、とりわけベトナム反戦闘争が大きな課題になっていました。ですから、京都原水禁も、京都で作られていた反戦青年員会やベ平連と一緒になって、もっぱら反戦デモをやっていました。べ平連の代表でデモの打ち合わせに来ていたのが、「思想の科学」をやっていて後に経済学者になった塩沢由典さんでした。夏の大会だけは参加する、それに向けて京都府内一円の平和行進をやる、学習会を組織するといった活動をしました。池山さんもどこかで言っていますが、原水禁それ自身としてはもう独自のものがあまりなかったような印象があります。ただ、原水禁という看板がありますから、いろんな労働組合や団体が加入してくれていたので、そういう人たちに反戦運動に参加してもらうために、京都原水禁の名前を使っていいじゃないかと思って、乱暴なんですが、活動していました。それが僕の個人的な関わりということになります。

■上田耕一郎という人

 では、「いかなる国の核実験にも反対」に反対した共産党の論理とは、どのようなものであったのか。そこで、上田耕一郎の『マルクス主義と平和運動』を取り上げてみます。
 
 上田耕一郎さんという人は、共産党きっての理論家であったと思います。私がまだ共産党の京大細胞にいた時なんですが、六一年に、日本共産党第八回大会がありました。いろんな論争があったのですが、日本は帝国主義として復活しつつあるけれども、日本の帝国主義は自立した帝国主義になるのかどうかというのが大きな論争になっていました。共産党から除名されたり離党した人たちの多くは、自立帝国主義論の立場を取ったんです。ブンドの諸君もそうでしたが。私はちょっと違うんじゃないか、対米従属はなくならず構造的に続くのではないかというのが私の見方でした。共産党の新しい綱領は、宮本顕治流の従属論で、日本は従属国・半植民地という規定でしたが、それはおかしい。帝国主義として復活しながら独特の新しい従属的な形態が生まれているのではないかと、思っていました。それを理論的に展開したのが上田耕一郎です。

 私は、日本の帝国主義の捉え方は、上田耕一郎が正しいという判断をしました。それで六一年の八回大会の時も、「一緒に離党しようよ」という誘いが僕にはかなりかかったんですが、共産党に残りました。そのために、後でいろいろ苦労をするんですけれど。

 そのこともあって、上田耕一郎には注目していました。彼には、新しく出される著作集には入っていない『戦後革命論争史』という名著があります。当時も絶版状態でしたから、これを手に入れて、密かに読むというのがすごくスリルがあって、ワクワクした思いがあります。それで上耕は良いなということで、六二年に、学生細胞の中に思想文化部というマイナーな部署があったものですから、文化活動という名目で上田を京大に招いたんです。当時の上耕は党の中央委員でもなんでもありませんでした。講演会で話してもらい、京都の僕の自宅に泊めて、一晩、何人かのメンバーと一緒にかなり議論しました。上耕は「いまは筆を折っている状態だよ」と嘆き、どうも宮本従属論はおかしいという点で意見が一致しました。この人とは気脈を通じて一緒にやれるんじゃないかという期待を持ちました。

 ところが、その後から『マルクス主義と平和運動』に収められた論文に見られるように、もっぱら共産党のイデオローグとして、ひじょうに華やかに論陣を張っていくんです。さすが宮本は人事管理が巧みだなと思ったんですが、上田耕一郎、不破哲三兄弟を中央委員に抜擢して、位をどんどん上げていった。いわゆる「位うち」です。それで、もちろん私たちと上耕との関係は切れちゃったわけですけれど、僕にとってはちょっと思い入れがあった人だったわけですね。

 ですが、改めて読み直してみたんですが、彼の理論的仕事の中でも、この『マルクス主義と平和運動』は最もダメなものの一つだろうなというのが、率直な感想です。どういうことを言っているかを簡単に紹介しておきます。

■「社会主義の核兵器は防衛的」

 まず、上耕が主張するのは、ソ連、中国といった社会主義国の核兵器は自衛のための手段であり、核戦争を阻止するための手段であるという論理です。同じ核兵器でも、持っている主体が違えば意味が違って来る。社会主義国が持っている核兵器は平和のための武器であり、防衛のための武器である。「社会主義を防衛し、帝国主義の核戦争放火計画を阻止するための」手段である。これに対して、帝国主義国の持っている核兵器は、侵略のための武器であるんだ、と。「いかなる国の核実験にも反対」という論理に対しては、アメリカの核とソ連の核とを「同列視すべきではない」ということが、繰り返し言われます。「社会主義の防衛的軍事力は、帝国主義の侵略的軍事力に対抗するために必要なかぎり、ひきつづき発展させられなければならない」と。

 では、なぜソ連の核兵器が防衛的で、平和を守る手段であるのか。その根拠づけなんですが、一つは、核兵器を先に使用することはしないと、ソ連は誓約しているからだ。ただし先制攻撃を受ければ、反撃・報復して壊滅的な打撃を与えるんだということも、はっきり言っています。「社会主義国は、防衛のための兵器としてのみ核兵器を保有し、かつ使用すべきであるり、絶対に核兵器を最初に使用してはならないことを宣言する」。だから防衛的なんだという論理です。

 二つ目は、当時の状況認識と関わるんですが、要するにアメリカの外交軍事政策、これこそ戦争の根源であるということです。当時の原水禁大会の中で論争になったのは、誰が「平和の敵」かという問題でしたが、アメリカ帝国主義こそ平和の敵であると。これは、社会党の浅沼委員長と中国共産党の共同声明でも確認されて、日本共産党はそれを高く評価した。誰が平和の敵であるかを明らかにすることが先決であり、とにかく「平和の敵」を明らかにせよということを、共産党はどんな場でも繰り返したんです。

 当時運動の中にいた僕の立場から見ると、「アメリカ帝国主義は平和の敵である」という言説が、リアリティを持っていたことは間違いない。もちろんソ連もハンガリーの革命を戦車で潰しますから、そういう意味では平和の敵じゃないかとも言えたのですが。しかし、世界的に軍事基地を置くとか、インドシナ半島からフランスが撤退した後にアメリカが軍事的な干渉を強めてくるといった現実から見ると、アメリカの戦争挑発が目立っていた。これに対して、ソ連が一方的なモラトリアムをする。アメリカが平和の敵で、ソ連はそれに対抗している、こういう対立の構図が六〇年代からベトナム戦争が終わるまで、人びとにとってある共通了解として成り立っていたことは否定できないと思います。
 
 三つ目は、社会主義は本質的に戦争を否定し、平和を志向する体制であるという論理です。「社会主義の政策と平和運動の政策は基本的に一致する」とまで、上田は言っていました。核実験の問題に関して言えば、ソ連による一方的なモラトリアムなどを具体的に頭に浮かべてのことだと思います。

 さっき紹介した「モスクワ宣言」「声明」と関連して、五七年に世界の共産党による「平和のよびかけ」というアピールが発せられたのですが、その中で「社会主義国には戦争を利益とする階級または社会階層はありません。権力を握っているのは、すべての戦争で最大の被害を受けた労働者と農民であります」と言っている。だから、その社会主義国が戦争するはずがないというわけです。当時は「そうかな」と納得したんですけれども(笑)。要するに階級支配がなくなれば、その国家が侵略政策を取るはずはないんだという論理です。それがそのままソ連という国に当てはめられていたわけです。

 それだけに、さっき安藤さんが言いましたが、まさかソ連が最初に核実験を再開するとは予想していなかったので、これはものすごい衝撃を与えた。説明がつかない。「平和の味方」が一転して「平和の敵」になるわけですから。しかも直前の原水禁大会で「最初に核実験を再開する政府は人類の敵」とまで決めつけていた。これは、共産党が無理やり入れさせた決議だと言われています。その決議がそのままソ連に当てはまるという事態になったわけです。

■核抑止論の焼き直し

 考えてみると、防衛的軍事力か侵略的軍事力かというその論理立ては、国際政治における現実主義(パワー・ポリティクス)の思考、つまり核抑止論の立場の言い換えというか、焼き直しにすぎないと言えます。ソ連による核実験の再開は、ソ連が軍事力による対抗という国際的な権力政治の論理に囚われていたことを露呈しました。また、核兵器保持は「防衛的」と称しても反撃・報復のための使用を公言しているのだから、核の抑止力の論理に立っているわけです。抑止力の論理、力の均衡による平和の論理は、鳩山首相が沖縄の基地問題に直面した時に最後に学んだことらしいですけれども、上耕も五十歩百歩です。核抑止論、権力政治の論理をそのまま受け入れて、核兵器の保持を正当化したと、結論的には言えると思います。

 それに関連して、日高六郎さんが核実験の後で「社会主義国による一方的な核放棄」ということを提言しているんです。それに対して、上田は、一方的な核放棄をしても「帝国主義が核開発を中止する保障はなく、核戦争の危険は遠のくどころか増大するだけ」だと反論しています。日高さんは、ソ連が一方的な核廃棄をすることによって「道義的説得力」が高まる、その力に依拠してアメリカの戦争政策に対抗すべきだ、と言っているわけです。これは注目すべき意味のある提言だと、私は思います。

 それに対して、上田は、一方的核廃棄ではなく「逆に核攻撃にたいする断固たる防衛のためには核兵器をも使用せざるをえないという社会主義国の決意」を示すことが必要だと反論しています。それに絡んで、これまた毛沢東の言葉と言われていますが、「上策、中策、下策」というのがあって、「下策」はアメリカだけが核を持っている。「中策」はアメリカとソ連や中国も核を持っている。「上策」はいずれの国も核を持たない状態です。いかにして、「下策」から「中策」へ、「中策」から「上策」へ行くのか。日高さんは、「中策」の危険性を指摘し、ソ連が一方的に核を放棄する「下策」に戻り、それによって「上策」に進むと言った。上田はそれは非現実的だ、「中策」から「上策」に進むべきだと主張しているわけです。つまりアメリカもソ連・中国もいずれも核兵器を持って対峙し、その中からいずれの国も核を廃棄する状況に進むべきだという論理を展開しています。

 「道義的説得力」の問題ですが、日高さんは別にアメリカを説得しろと言っているわけではなくて、世界の人びとを味方につけてその力でと言っているんです。上田は、突き詰めれば唯武器論、武器の力を過大評価する論理に陥っていたと思います。上田は日高さんに対して、「世界の理性ある人々が『道義的説得力』を発揮しても、アメリカ帝国主義の答えは、大規模な爆撃であり、インドシナ戦争の拡大である」と反論している。武器の力に頼らねばどうにもならないじゃないか、と。しかし、ベトナムの解放闘争は武器をとりましたが、武器の力で勝っていったかというと必ずしもそうではない。やっぱり「正義」は侵略に抵抗するベトナム人民の側にあるという道義的な優位性が、世界中の共感を呼んでアメリカの戦争政策を締め付けていったのだと思います。そういう意味で「道義的な説得力」を過小評価するという論理は、逆に言えば武器の力に頼る唯武器論の立場に近いし、世界の民衆運動の力を過小評価し国家の軍事力に依存するという発想になっていると思いまます。

■正義の戦争と不正義の戦争

 ただし、いまでも答えが出ていない問題もあります。ベトナム戦争の評価に関わるのですが、当時のベトナム解放闘争においてソ連や中国の果たした役割をどう見るかという問題です。ソ連や中国が核兵器を持っていたから、アメリカのベトナム侵略に対する抑止力になったのかどうかというと、どうもそうではないと私は思うのです。しかし、まぎれもなくソ連や中国は解放民族戦線に対する軍事的な支援をしています。そういう民族解放闘争に対するソ連や中国の軍事的な支援の役割をどう見るのかという問題は、もっと議論を詰めるべきだと思います。

 さらにもっと言えば、当時の武装闘争を含めて、それ以降の第三世界における武装闘争の高揚と衰退の問題をどう総括するかという問題が残されています。というのは、上田耕一郎がソ連・中国の核実験とアメリカの核実験を「同列視」すべきではないと主張するときに、よく持ち出したのが、「いかなる戦争にも反対する」と言うことは民族解放戦争を否定することになるじゃないかという論理です。

 正義の戦争と不正義の戦争があって、アメリカのやる不正義の戦争には反対するけれども、ベトナムの民衆がたたかっている正義の戦争は支持すべきである。それを、すべての戦争に反対だと言ってしまえば、ベトナムの民族解放戦争を否定することになる。これは、それなりに説得力があるというか、根拠を持った論理だと思います。

 もちろん、社会主義を看板にしていても国家の軍事力や核兵器は独自の論理で動くわけで、国家の軍事力と民衆の抵抗闘争における武器や暴力の問題を「同列視」することは、間違いです。上田の議論には、そういう乱暴な同列視があります。その上で、民族解放闘争における暴力をどう見るのかという問題が、まだ残っていると思います。いまの民衆運動は非暴力不服従の立場をとっていますし、国家間の戦争に関しては絶対平和主義の立場を私はとります。けれども、民衆の抵抗における暴力の問題は、まだ解けていない問題だと思っています。、

 「モスクワ声明」の中では、世界を変革する主体となるものを三つを挙げています。一つはソ連や中国のような社会主義体制。それから民族解放闘争。そして資本主義国における労働運動や平和運動。この三つが団結していれば、戦争を防ぐことができるという論理です。しかし、現実には、この三つの主体は利害が異なり、背反することが多いわけです。

 「モスクワ声明」では、三つの主体の間に利害の対立はないものと想定されていたから、実際には平和運動がソ連の政策を支持するのは当然のこととされていたと思います。ですから、ソ連の国益を守るために行なわれた核実験のような政策を、平和運動が支持しなければいけないという発想が出てくる。先に紹介した上田の「社会主義の政策と平和運動の政策は基本的に一致する」といった主張は、その見本です。そのうち中ソ間の対立が表面化して、中ソいずれの政策も支持できないという状況になって、この主張は破綻します。中ソ論争に翻弄された挙句の果てに、「自主独立」に行き着くわけですね。

■核拡散が核廃絶を招くという論理

 上田の議論のなかで、論理的に不分明なのは、ソ連や中国が核兵器を持つようになることが、どのようにして核兵器の廃絶に通じるのか、という点です。上田は、社会主義国への核拡散は良いことだと言うわけです。

 「最初の『核拡散』とも呼べるソ連の核兵器所有は、アメリカの核独占を打ち破り、その核戦争政策に大きな打撃を与えた」。さらに、六四年の「社会主義国への第二の『核拡散』と呼ぶこともできる中国核実験も、アメリカの核独占と核脅迫政策にたいする甚大な打撃となった」。しかし、フランスが核兵器をもつのはいけないという議論なんですが。

 問題は、アメリカの核独占が破られて多くの国が核兵器を持てば、核兵器の廃絶になぜ近づけるのかということです。そこの道筋を、上田は何も言っていません。そこは言えないのではないかと思うのです。上田は、核廃絶は核兵器の全面禁止協定の締結によって可能となるのだが、それは「アメリカ帝国主義の『核優位』をけっして許さない社会主義の核防衛能力の維持に依存している」と言うんです。もう一つは、平和運動の力だとは言っていますが。

 そうすると、ソ連や中国の核兵器の性能がアメリカのものを上回るようになればよい、と言っているとしか読めない。ただ、そう断言はしていません。しかし、ソ連や中国が核兵器の性能を高めればアメリカもそれに対抗しますから、結局は無限の核開発競争になるしかない。核開発の経済的な重荷に耐えかねてギブアップする国も出てくるかもしれないし、現にソ連はそうなったわけですが、それは全面的な核廃絶でも何でもない。ソ連や中国の核兵器保持を積極的に認めておいて、核廃絶の道を描くことなど絶対に無理なんです。このことを上田の議論は、証明することになっていると思います。

 それから、上田は、「核実験の禁止」ということと、「核実験に反対する」ということとは、決定的に違うんだと言っています。これがいくら読んでみてもよく分からない(笑)。つまり核兵器あるいは核実験はなくすべきである、だから禁止を求めるわけですよね。ところが、核実験の禁止は言うべきだけれども、反対するのは間違いだと言い張るんです。ここは詭弁を弄していると思います。

 もし社会主義の核が必要であるというのであれば、何も禁止する必要はないわけです。禁止する必要もないし、反対するべきではない。ところが、上田はいかなる国の核兵器も禁止すべきだと言っています。なぜ社会主義国の核まで禁止せよと言っているのか、その理由は示されていません。社会主義国の核兵器や核実験が平和のために必要なものだから、反対するのは間違いという論理は、理屈としては分かります。だけど、必要なはずの核兵器を禁止するべきだという理由が明らかにされていませんから、本心ではそう思っていないのかもしれません。帝国主義の核兵器だけを禁止せよ、というのであれば筋が通ります。

 たしかに帝国主義の核武装がなくなれば、社会主義国の核兵器も「不要」になるでしょうが、それは禁止とは違います。存在してはならない危険なものだから、禁止するんです。「禁止」は求めるけれど、「反対」はしてはいけないという論理には、どう考えても矛盾があります。

■放射能汚染への過小評価

 最後に、上田の議論のなかには、放射能汚染についてのいちじるしい過小評価があると思います。

 上田は、核実験がもたらす放射能の汚染と、核戦争が引き起こす惨禍とを比較すれば、核戦争が引き起こす惨禍の方がはるかに大きいと力説しています。「核実験による放射能禍とは比較にならぬ広範かつ仮借ない悲惨な結果をもたらす核戦争」という言い方をしています。そういう意味で、核戦争防止のために必要なソ連核実験の死の灰に目をつむれとまではあからさまに言っていませんが、核実験の放射能汚染と核戦争の惨禍とを比べるという手法をとっているんです。こういう対比の仕方は、実に奇妙であり、許されないと思います。

 さすがにビキニの核実験による久保山さんの死を経験していたわけで、「日本国民のなかにある『いかなる国の核実験にも反対』という『国民感情』」は認めるというわけですが、それは「自然科学的、生理的関係」の問題であって、「政治的・階級的な本質」においては「すべての核実験を一色にぬりつぶすことはできない」と言います。このことをあけすけに語っているのは、当時の共産党議長の野坂参三の「たとえ死の灰の危険があってもソ連が核実験の再開という手段に訴えることはやむをえないことです。「小の虫を殺して、大の虫を生かす」ということです」という有名な談話です。

 放射能汚染への過小評価は、やっぱり六三年に締結される部分核停条約に対する評価にも出てきます。部分核停条約は、地下核実験を認めるわけで、核兵器の開発に歯止めをかけたかどうかという点では疑わしいところがあると思います。だけども、大気中の核実験を止めるわけですから、放射能汚染はストップされるわけです。上田もそのことは認めているわけですが、放射能汚染という観点からだけ部分核停を評価するのは間違いである、「核戦争防止という中心的課題から」評価するべきだと言います。

 当時は原発の抱える危険性はまだ問題になっていませんでしたが、放射能汚染が及ぼす人間の命や健康に対する破壊力を過小評価する、あるいは直視しないという発想に立てば、当然原発の問題には考えがおよびもつかない。原発はやめるべきだといった議論が出てくるはずはないと、読み返してみて思いました。

 原水禁運動の分裂という点で、もうひとつの大問題は、政党と大衆運動との関係をどうするかという問題でした。共産党の原水禁運動に対する組織的な介入や引き回しが、分裂を招いたことは間違いありません。ソ連核実験をめぐる共産党の主張そのものが強引で粗雑な論理で作られていた上に、議論の仕方や組織的介入の仕方は、まったくひどいものであったと、僕は地方にいましたけれども、感じていました。これは、別の問題として総括されなければならない、と思います。

プリンタ用画面
友達に伝える

前
【OPEN】運動史から振り返る原発と原爆(第5回)最首悟さん・発言録
カテゴリートップ
TOP
次
【OPEN】運動史から振り返る原発と原爆(第2回)菅孝行さん・発言録