社会運動研究会
「私」と戦後日本の社会運動 第3章
笠原光
▼社運研第2回「日米安保体制の変質と反戦平和─反核・反トマからPKOへ」で発言をした新倉裕史さん。彼は、「ヨコスカ市民グループ」で「基地のない町」を訴えて1976年から月例デモを地道に続ける一方で、米軍原子力空母ジョージ・ワシントンの横須賀配備に反対する「原子力空母母港化の是非を問う住民投票を成功させる会」という広範な運動づくりにも尽力してきた。当日配布された「ヨコスカ市民グループ」のグループ誌『じょいんあす』にある「安保雑談ー80年6月・今 安保を語る」(80年6月)は興味深い。雑談参加者たちは安保破棄を一義的に唱えた60年、70年の全国的闘争に照らしながら80年という時代の安保を語ろうとする。
ー80年6月ってことで安保を話すというのがいまひとつよく理解できないな。ー80年だからってわけじゃない。79年も同じだ。そうでなかったらヤバイ。
安保が、いかに「軍都」に暮らす(暮らさざるを得ない)人びとの日常から払拭されえないものであるかがここに示されている。60・70年の反安保闘争に結集した人びとが自分の運動なり生活なりに戻っていったあとでも、だ。「『反安保運動』のように大上段に構える運動のつくり方に関して違和感があった。それが今につながっているのではないか」と新倉さんは当時の想いと、横須賀にこだわりつづける運動とのつながりを語った。
原子力空母配備反対運動は、空母の安全性に重点をおいて運動を進めているので、「安保や基地問題、米軍再編問題も言わない運動に展望はあるのか」とよく聞かれるのだそうだ。これに対しては、「原子力空母が何の審査もなく横須賀に配備されるのは安保があるから。だから安全問題は極めて安保問題である。逆に言えば『安全』問題を前面に出していかなければ、安保問題は闘えない」と新倉さんは話した。
太田昌国さんは、90年代の反PKOの運動が状況を押し返す力を持ち得なかったことの理由として、当時の湾岸戦争が、運動にとって初めて「どちらについていいのかわからない戦争」であったことと、90年代の社会主義圏の崩壊を挙げた。社会主義が具現化された国家に対する批判は運動のなかにも当時からあったわけだが、現状へのオルタナティブとしての社会主義的理想の敗北が運動全体を弱らせ、一方で海外派兵や改憲を目論む右翼に力を与えてしまった、という説明だった。
▼第3回の「『平和』利用なんてありえない─反原発運動」の発言者は菅井益郎さんと西尾獏さん。菅井さんからは、以前、日本の環境運動についてのインタヴューで、新倉さんが言っていたような「地元へのこだわり」に似たようなことを聞いたことがある。「結局は、地元の運動が現状を変える唯一の力」と言っていた。菅井さんは自身の出身である新潟県柏崎刈羽原発の建設反対運動を地元でつくってきた。チェルノブイリ事故が起きて、首都圏でも反原発運動が盛り上がり、各地の反原発運動の現場にも多くの人が集まった。しかしこの盛り上がりが力強く継続されることはなかった、と振り返る。その一方で、柏崎刈羽原発を抱える地元では「原発に頼らない町づくり」が今でも進められているという。西尾さんが配布した、70年代からの電気事業連合会による全国レベルでの電力危機キャンペーンの広告文面についての考察は興味深かった。「たった今、電気がとまったら」といった脅し文句で発電所の新増設を訴えかける広告の相手は建設予定地の住民ではなく、都市の住民。「発電所の新増設さえできれば、停電の心配もないのに」と広告読者に建設予定地住民の闘いを敵視させるカラクリがそこにはある。
▼第4回の「自粛ムードのなかで─反天皇制運動」では、主にXデー当時の反天皇制運動が振り返られた。桜井大子さんは、Xデーに向けての運動が反天皇制運動の「大衆化」への道筋のひとつだった、と話した。彼女は、また、当時の女性たちの言説(たとえば「女(私)たちは天皇制(おとこ)社会を変える」「女たちこそが平和主義(平等主義)」)に違和感を覚えた、と話したが、これは、女たちも銃後の守りとしてアジア太平洋戦争(天皇翼賛体制)に加担してきたことだけを考えても、真っ当な違和感だ。高橋寿臣さんは、Xデー前後に展開された多様な運動について話をしてくれた。最後に高橋さんが指摘した課題(ヒロヒトよりもソフトに演出されてきたアキヒトの下の天皇制をどう批判できるか、大嘗祭問題や靖国をめぐる政教分離問題を宗教者と連帯して取組んで行くことの必要性、税金問題など)は、今後の運動を考える具体的問題提起として有意義だった。
(かさはら ひかる)
「私」と戦後日本の社会運動 第3章
笠原光
▼社運研第2回「日米安保体制の変質と反戦平和─反核・反トマからPKOへ」で発言をした新倉裕史さん。彼は、「ヨコスカ市民グループ」で「基地のない町」を訴えて1976年から月例デモを地道に続ける一方で、米軍原子力空母ジョージ・ワシントンの横須賀配備に反対する「原子力空母母港化の是非を問う住民投票を成功させる会」という広範な運動づくりにも尽力してきた。当日配布された「ヨコスカ市民グループ」のグループ誌『じょいんあす』にある「安保雑談ー80年6月・今 安保を語る」(80年6月)は興味深い。雑談参加者たちは安保破棄を一義的に唱えた60年、70年の全国的闘争に照らしながら80年という時代の安保を語ろうとする。
ー80年6月ってことで安保を話すというのがいまひとつよく理解できないな。ー80年だからってわけじゃない。79年も同じだ。そうでなかったらヤバイ。
安保が、いかに「軍都」に暮らす(暮らさざるを得ない)人びとの日常から払拭されえないものであるかがここに示されている。60・70年の反安保闘争に結集した人びとが自分の運動なり生活なりに戻っていったあとでも、だ。「『反安保運動』のように大上段に構える運動のつくり方に関して違和感があった。それが今につながっているのではないか」と新倉さんは当時の想いと、横須賀にこだわりつづける運動とのつながりを語った。
原子力空母配備反対運動は、空母の安全性に重点をおいて運動を進めているので、「安保や基地問題、米軍再編問題も言わない運動に展望はあるのか」とよく聞かれるのだそうだ。これに対しては、「原子力空母が何の審査もなく横須賀に配備されるのは安保があるから。だから安全問題は極めて安保問題である。逆に言えば『安全』問題を前面に出していかなければ、安保問題は闘えない」と新倉さんは話した。
太田昌国さんは、90年代の反PKOの運動が状況を押し返す力を持ち得なかったことの理由として、当時の湾岸戦争が、運動にとって初めて「どちらについていいのかわからない戦争」であったことと、90年代の社会主義圏の崩壊を挙げた。社会主義が具現化された国家に対する批判は運動のなかにも当時からあったわけだが、現状へのオルタナティブとしての社会主義的理想の敗北が運動全体を弱らせ、一方で海外派兵や改憲を目論む右翼に力を与えてしまった、という説明だった。
▼第3回の「『平和』利用なんてありえない─反原発運動」の発言者は菅井益郎さんと西尾獏さん。菅井さんからは、以前、日本の環境運動についてのインタヴューで、新倉さんが言っていたような「地元へのこだわり」に似たようなことを聞いたことがある。「結局は、地元の運動が現状を変える唯一の力」と言っていた。菅井さんは自身の出身である新潟県柏崎刈羽原発の建設反対運動を地元でつくってきた。チェルノブイリ事故が起きて、首都圏でも反原発運動が盛り上がり、各地の反原発運動の現場にも多くの人が集まった。しかしこの盛り上がりが力強く継続されることはなかった、と振り返る。その一方で、柏崎刈羽原発を抱える地元では「原発に頼らない町づくり」が今でも進められているという。西尾さんが配布した、70年代からの電気事業連合会による全国レベルでの電力危機キャンペーンの広告文面についての考察は興味深かった。「たった今、電気がとまったら」といった脅し文句で発電所の新増設を訴えかける広告の相手は建設予定地の住民ではなく、都市の住民。「発電所の新増設さえできれば、停電の心配もないのに」と広告読者に建設予定地住民の闘いを敵視させるカラクリがそこにはある。
▼第4回の「自粛ムードのなかで─反天皇制運動」では、主にXデー当時の反天皇制運動が振り返られた。桜井大子さんは、Xデーに向けての運動が反天皇制運動の「大衆化」への道筋のひとつだった、と話した。彼女は、また、当時の女性たちの言説(たとえば「女(私)たちは天皇制(おとこ)社会を変える」「女たちこそが平和主義(平等主義)」)に違和感を覚えた、と話したが、これは、女たちも銃後の守りとしてアジア太平洋戦争(天皇翼賛体制)に加担してきたことだけを考えても、真っ当な違和感だ。高橋寿臣さんは、Xデー前後に展開された多様な運動について話をしてくれた。最後に高橋さんが指摘した課題(ヒロヒトよりもソフトに演出されてきたアキヒトの下の天皇制をどう批判できるか、大嘗祭問題や靖国をめぐる政教分離問題を宗教者と連帯して取組んで行くことの必要性、税金問題など)は、今後の運動を考える具体的問題提起として有意義だった。
(かさはら ひかる)
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