本稿は、9月22日「新しい反安保行動を作る実行委員会」主催で開かれた集会の報告をもとに、手直ししたものである。「日刊ベリタ」にも同時に掲載する。
<日米安保体制>という問題
――1952年に遡って歴史を巻き戻す必要
武藤一羊
2009年12月
サンフランシスコ講和条約の発効
60年安保50年との話ですが、私は記念日というのはあまり好きではないのです。なにか記念行事をやって終わりになるというイメージがありますので。
しかし強いて記念日を問題にするとすれば、私は1960年ではなくて、1952年4月28日から考えた方がいいのではないかと思います。1952年と言うのはご承知のとおり、サンフランシスコ講和条約が発効した年、4月28日がその日です。そのとき私は、まだ学生で、東大の時計台前で全都の学生が集まって、講和安保両条約発効に抗議する集会が開かれ、私は急にその議長をやることになって、そのせいで退学処分になりました。その日以来大学には帰っていないのですけれども、そういう意味でこれは記念日的にいうと私にとって大事な時でした。まあそれは個人的なことですが、戦後の日本を考える場合に、いくつか大きな選択の時と言うのがあったと思いますけれど、その第一の選択の時と言うのがその頃だったと思います。つまり、占領が45年から52年まで7年間弱続くのですけれども、その占領を一体どういう終わらせ方をするのか、それが決められるのがその時期で、その後の日本の進路を決める非常に重要な時期でした。単独講和(片面講和)か全面講和かというのが、50?51年の政治的争点で、全面講和を求める運動が社会運動、政党や知識人などが協力して展開されました。アメリカが準備した講和条約は、いわゆる「自由世界」の国だけとの講和で、ソ連を除外することになる、独立を回復した日本は冷戦のなかでアメリカ側につくことを決定する講和になるということで、単独講和、片面講和だ、それにたいして全面講和を求めるという運動でした。しかし吉田茂の率いる日本政府とアメリカはその片面講和を推進し、押し切った。それが1951年に調印されたサンフランシスコ講和条約ですね。講和会議にはインドやビルマは来ませんでした。中国は、中華人民共和国が成立していましたから当然北京政府と講和するのが当然でしたけれども、アメリカは台湾の国民党政府を全中国を代表する正統政府としていたので、これは認めない。かといって、台湾を中国代表として招待するのは、中華人民共和国を承認していたイギリスが認めない。そこで講和会議にはどちらもよばなかった。日本が侵略で最大の被害を与えた中国とは講和しなかったのですね、サンフランシスコでは。そういうへんな講和なのですけれども、そのサンフランシスコ講和条約には、調印後90日以内には米軍は撤退すると書いてあるのです。
戦後日本の最初の選択―講和と駐兵めぐる駆け引き
ところがこの講和条約と同時に日本政府は第一次の日米安全保障条約に調印したのです。この条約によって日本はアメリカ軍の無期限駐留を受け入れることになりました。そしてこのときなされたもうひとつの重大な決定は、沖縄を切り離し、米国の軍事植民地として差し出したことですね。これは本当にあっさりと切り離した。このいきさつについてはいろんなことが書かれています。沖縄をアメリカが支配するよう天皇がマッカーサーに頼みこむという醜いことも背景にありました。いずれにしても、この講和・安保両条約の調印が、戦後日本の進路を決定するもっとも重要な行為でした。この決定によって戦後の日本が、いわゆる自由陣営、冷戦の一方の極であるアメリカ側に立ち、米軍を駐留させることになった訳です。そして沖縄を切り離し、将来はアメリカ合衆国のもとで信託統治にするかも知れないということを決めた訳です。沖縄はアメリカにとっては日本の一部というよりも、アメリカが自国の兵士の血を流して獲得した領土、征服した土地という考えがあるのです。アメリカが太平洋戦争における最大の戦闘をやって、アメリカ人の血を流して取った土地だという考えがあるのです。アメリカ軍部の本音は、沖縄をグアムのような属領にすることだったけれど、国務省がそれには同意しなかったので、日本の残存主権があるとした。しかし実際は沖縄を完全にアメリカ軍の支配下に置き、軍事基地として思うがままに使うことにしました。この沖縄の米軍拠点化を条件にして、日本は非武装でよろしいというのがマッカーサーの「東洋のスイス」論ですね。ですから、21世紀になった今日に直結するすごく重要なことがその時に決められていた。
しかしこの講和条約へ行く過程で、講和条約の後アメリカ軍が日本本土に居残る場合、どういう条件で居残るのかということについては、日本政府と米国との間に駆け引きがあった。その問題を鋭く追及したのは、豊下楢彦さんですね。どういう駆け引きかというと、いずれにしてもアメリカ軍は居座るけれども、それは日本からお願いして残っていただくのか、アメリカが残りたいと申し入れて、それを日本が認めるのか、をめぐる駆け引きなのです。これはどっちでも良いように見えるけれどそうではない訳です。日本の外務省は、向こうが頼んできたから認めるということとして交渉するつもりだったのを、天皇ヒロヒトが、外務省もマッカーサー司令部も通さず、講和条約の交渉窓口であったダレスと直接交渉して、日本から駐留を頼んだという風に持っていくように工作して、それが功を奏したというのが豊下さんの議論です。それが正しいかどうか、私は判断する資格がありませんけれど、いずれにしてもこうした複雑なプロセスのなかでできたのが最初の安保条約ですね。
第一次安保条約の奇妙な条文
こちらからお願いしたのか、向こうから頼まれたのかという観点から読んでみると、第一次安保条約には非常に変なことが書いてあります。日本はまだ武装解除されているので自衛権を行使する有効な手段を持たない。それだから「日本国は、その防衛のための暫定措置として、日本国に対する武力攻撃を阻止するため日本国内及びその附近にアメリカ合衆国がその軍隊を維持することを希望する」とある。ですからこちらからお願いするという形になったと読めます。ところがそのすぐあとが、「アメリカ合衆国は、平和と安全のために、現在若干の自国軍隊を日本国内及びその附近に維持する意思がある」とあり、つまりアメリカも置いて欲しいという含みを入れてあったのですね。それで、第一条に「アメリカ合衆国の陸軍、空軍及び海軍を日本国内及びその附近に配備する権利を、日本国は、許与し、アメリカ合衆国は、これを受諾する。」訳が分からない。日本は「許与し」つまり頼みを聞き入れてやると日本が上に立つような表現ですね。そしてアメリカ合衆国がこれを「受諾する」というのです。「許与」することを受け入れてやるというのでしょうか。訳の分からない玉虫色の条文です。これが第一次安保条約です。
この第一安保はサンフランシスコ条約とともに日本のその後の進路を決める性格のものでした。そこでできた関係というのは、日本とアメリカの外交関係というものではなくて、むしろ日本国家というものの中にアメリカを取りこむ、そういう関係になった。それが一番はっきりしているのが自衛隊の存在で、これは朝鮮戦争の開始とともにアメリカがつくらせた軍隊で、日本の国軍ではない。警察の予備部隊という名目をつけたけれど、「予備」というの意味は、朝鮮戦争をやっていた米軍の後方を固める予備兵力だったのですね。「間接侵略」という言葉が当時導入されました。それは、朝鮮半島では直接侵略、その後方の日本国内で起こる「暴動」などは間接侵略という位置づけで、それにたいしては米軍が出動できる、その米軍とともに日本における暴動や蜂起と戦う予備兵力という性格のものです。日本全体が朝鮮戦争の最前線の後方として位置付けられていて、その前提の上で、講和条約が結ばれ、「間接侵略」には米軍の出動を認める第一次安保条約が調印され、自衛隊の前身である警察予備隊はすでにつくられていたわけです。一方では沖縄永久占領を前提に平和憲法がつくられたわけですが、他方では平和憲法と矛盾するアメリカ軍と連動する軍隊が育てられる。つまり、戦後日本国家は、憲法による単一不可分の主権が存在するのではなくて、安保と自衛隊という姿で、アメリカ帝国が内部に入り込んだ仕組みとして成立したのです。
第二次安保条約――冷戦への積極参加の条件
1960年に安保改定が行われます。来年はその50周年というわけですが、改定された新安保は、1952年に行われた選択を訂正するんじゃなくて、その延長線上にあったわけです。1952年安保では受け身であった日本が、もっと主体的にアメリカの冷戦体制に参加するというのを決めたのが60年安保条約です。岸内閣によるこの新安保条約の締結は巨大な安保闘争を呼び起こしました。しかし、この条約をよく読んでみますと、第六条に「日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリカ合州国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される」と書いてある。日本の安全に寄与する、極東における国際の平和及び安全の維持に寄与する、この二つがアメリカ軍が日本に居るあるいは居られる根拠なのです。その前の第五条は後半に「前記の武力攻撃及びその結果として執った全ての措置は、国際連合憲章第五十一条の規定にしたがつて直ちに国際連合安全保障理事会に報告しなければならない。その措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全を回復し維持するために必要な措置を執つたときは、終止しなければならない」とあり、在日米軍の行動が国連憲章に従って行われなければならないこと、しかもそれは限定的な目的のためである、と定めているのです。今から見るとすごくいい条約じゃないかと思えるぐらい、縛りをかけているのです。法律的にはこの条約が今現在存在する有効な条約なのです。
実際にはその後日本はどんどん深く冷戦に加わって行きます。アメリカの当時の考えは、日本を再武装させる。そして核武装は絶対許さないし、独自の軍事的判断や兵力投入も許さないけれど、自衛隊を育成して、対ソ核対決、中国封じ込めというアメリカの戦略に組み込んでいくということですね。そうして、65年以降ベトナム戦争が激化して、アメリカは勝ちみのない侵略戦争の泥沼に入っていく中で佐藤・ニクソン共同声明で日本の軍事的分担の引き受けと引き換えに沖縄返還をきめ、アメリカ軍の利益を傷つけない仕方で主権を日本に帰すということをやっている訳です。それが72年の沖縄協定ですね。
こうして52年の合意というものに、どんどん中身が追加されていく。1980年代になって新冷戦と言われる米ソの核対決が極端なところまで達して、核戦争の恐怖が世界中を覆った。ソ連のアフガニスタン侵攻が一つの契機なのですが、その中で日本では中曽根政権ができる。その直前に米軍と自衛隊の共同作戦を「相互運用性」の確立で容易にしようと「日米防衛協力指針」、第一次の「ガイドライン」というものが作られています。そして、中曽根は訪米で日本は浮沈空母であると宣言する。こうして52年に作られた体制を基盤にしながら、日本は冷戦の最前線に位置づけられ、自衛隊は米軍を補完する本格的な軍隊として増強されていく。
冷戦の終わり――進路再選択のチャンスを逃す
しかし、そのあとにもう一度日本の進路を決定できる、いやすべきであった時が来ます。90年代です。ソ連が崩壊し冷戦が終わる。本当は、この時期が非常に重要な時期だったのです。どこの国でも冷戦のなかで形成されてきたそれまでの政策をどうするかをめぐる大論争が起こる。当時の『ニューヨーク・タイムズ』などを読むと、ペンタゴンで今までソ連をターゲットにしていたミサイルの標的を今度はどこに付け替えるか、大騒ぎしている状況などが報じられていました。ソ連を標的にすべての核軍備を組み立てていたのに、その敵がなくなってしまったのですね。そこで混乱状況に陥る。
これが、日本が52年に選んだ進路を大きく変える好機だったのですね。90年代は前年のベルリンの壁の崩壊から始まり、91年が湾岸戦争、92年がソ連の崩壊。しかし、日本はこの機会を52年以来のコースの根本的再検討と転換のために生かすことに完全に失敗します。チャンスをみすみす見送ってしまうのです。
逆に日本ではこのころPKO参加問題が起こった。この時は、日本が湾岸戦争で自衛隊をPKOに参加させるかどうかが大問題になり、われわれも毎日国会に行った。1回は阻止した。でも次に通ってしまう。このときの政府のキャッチフレーズは国際貢献でした。国際貢献とは冷戦後のアメリカの秩序つくりにどう貢献すれば、アメリカに気にいってもらえるかの話です。湾岸戦争の時に、130億ドルでしたかお金を出したけれど、ありがとうとも言ってもらえなかった。これではいけない。自衛隊を海外派兵できるようにしなければ、日本は国際的に孤立する(じつはアメリカに見放される)というのが冷戦後の日本の対応でした。本来なされるべき日米安保の再検討どころではなく、逆にそのころから海外派兵、改憲論が高まっていくのです。
細川内閣のときに、アサヒビールの会長の樋口さんが主宰する防衛問題懇談会という首相の私的諮問機関が冷戦後の日本の安保政策について報告書を出し、そのなかで多角的安全保障という考えを打ち出します。これは日米安保を止める話ではなく、これまでのような受け身の安全保障でなく、地域的安全保障を含めた能動的な姿勢が必要とする微温的な提案で下が、それでもこれにアメリカは過剰反応して、冷戦後の日本との関係を引き締めにかかります。
安保再定義――米国の世界覇権への忠誠
冷戦後アメリカのアジア戦略は不確定でした。アジアからの軍事的撤退論も強かったのです。それが新しい形をとるのは95年ごろです。この年ジョセフ・ナイ国防次官がナイ・イニシアティブと言われる提案を出し、その線で「東アジア太平洋地域におけるアメリカの安全保障政策」が打ち出されます。その基本は米軍はアジアから撤退しない、韓国、沖縄、日本に居座るという点にあります。そこで、日米安保はアジアにおけるアメリカの安全保障の要、リンチピンであるという位置づけがなされます。リンチピンとは、引っこ抜くと仕組みが全部ばらばらになるようなカナメのことですね。ほかならぬその95年に、沖縄での少女に対する米兵の暴漢事件が起こり、太田知事を先頭に立てた全島の反基地運動の盛り上がりが起こった。
ここで、「国際貢献」で冷戦後の重要なチャンスを見送った日本=ヤマトが目覚めて、日米安保条約を見直そうという動きが起こるべきでした。しかしそうはできなかった。非常に残念だと思います。ヤマトの運動も沖縄を支援するというスタンスだった。支援は必要なことですけれど、一番大事なことは、この条件の中で、ヤマトの運動の方が、自分たちの問題として、日米安保をどうするかを自身の運動課題としてはっきりと立てることだったと思うのです。そうしてはじめて、沖縄の運動との支援関係を越えた、連帯関係に立つことができたでしょう。日本全体の運動として安保にたいするはっきりしたスタンスを取って、そして日本政府を動かしていくことが大事だったと思う。それができなかった。そしてその状態がずっと続いている。沖縄は闘わざるを得なくて闘っている。そしてヤマトのわれわれはそれを支援する、そういう関係がずっと続いている。私は今それを変える時だと思います。われわれ自身の問題としてこの安保体制をどうするかと問題を立てていかない限りは、沖縄の人たちとの対等な共闘関係は成り立たないと思うのです。
95年、沖縄の反基地運動によってアメリカは土俵際に追いつめられました。そして、土俵際で沖縄にうっちゃりをかけたのです。レイプされたのは沖縄の少女で、しかも北京女性会議のさなかだった。非常にまずい状況だった。だからクリントンが謝罪した。アメリカ大統領が謝罪するなんてことは滅多にないのに、そうせざるをえなかった。相当の危機感を持っていたのですね。つまり土俵際に追いつめられたのです。そこでうっちゃりをかけた。相手の力を利用して土俵の外に放り出す技をかけたんですね。それがSACO合意というものでした。圧倒的な沖縄の反基地の圧力にたいして、沖縄の負担を軽減する、普天間基地を廃止するという譲歩の見せかけで、この圧力を新しい基地を造るという方向にそらせていった。昔から新基地建設の計画を温めていた辺野古に基地を造る話にすり替えた。そうした上で、クリントン・橋本共同宣言で安保再定義というもうひとつ大きいすり替えをやってのけた。
再定義ということは今までの定義では日米安保は成り立たなくなったことの自認なんですね。冷戦は終わった。そうすれば冷戦のために存在していた安保条約の意味は当然無くなったわけです。意味を失った条約ならやめるのが当然なのに、やめたくはない。やめれば基地も失う。それは失いたくない。ならば他の目的に転用しよう。だから安保の目的の方を変えよう、再定義しようとなったわけです。それはなにか。世界の中の安保同盟ということばで、アメリカの世界支配に役立つ日米同盟ということになった。そのなかで日本は役割を果たします、アメリカの世界一人支配に日本が無条件に協力します、というのが1996年の安保再定義なのです。これは60年安保条約と違うじゃないですか。安保条約は米軍の役割を厳密に日本と極東に限定していたのです。ところが対象は世界になり、目的も変わった、それなら安保条約をどうするかという根本問題が当然出てしかるべきなのに、国会でも議論はしないし日本政府はこの根本的性格変更について何も説明しなかった。60年安保をめぐるいわゆる安保国会では条約解釈をめぐって厳密な議論が闘わされ、それを通じて安保に枠をはめた。安保三羽ガラスといわれた社会党の有能な議員たちが藤原外相を問い詰め、安保条約の適用範囲なども、極東の定義を求めて、緻密な議論で枠をはめた。こうした積み重ねた安保解釈などは、安保再定義でどこかへ吹っ飛ばされてしまった。
安保条約は変わらないのに、中身は議論抜きにすり替えられた。新しい中身はアメリカの覇権という考え方です。「東アジア・太平洋戦略」という新戦略では、アメリカの「全領域にわたる支配」という戦略目標がかかげられます。そしてこの支配に挑戦するどんなパワーの出現も許さない。そういうことを露骨に言ってのける、つまり世界はアメリカが仕切る権利があるという宣言です。それを言い始めたのではジョージ・ブッシュではない。ビル・クリントンの政権なのです。
それを東アジアで実現するために日本はカナメ、リンチピンだというのです。この戦略の下でつくられたのが改定ガイドライン「新日米防衛協力のための指針」です。これは本当にどぎつくすごいものだった。日本のすべての能力、軍事基地だけではなくて、港湾から空港、自治体のサービスまでをいざという時にはアメリカが使えるよう日本が協力する。米日の軍隊が「調整センター」をつくって一体的に作戦を展開する。そういうことをガイドラインという形にした。ガイドラインというのは、どういう法律的効力があるのかあいまいな取り決め方です。これには誰も署名していないのですよ。外務大臣も署名していない。誰が決めたか分からない。実際は、両国の軍と外務省の実務レベルで作成して、それがガイドラインということになった。国会にもかからない。成文が日本語か英語かも分からない。条約ではないから国会にかける必要がない、批准が必要ではない。既にその段階で、60年安保というのは、形式的には存在するけれど、実質的には棚上げされた存在になったのです。
このガイドライン安保はまた米日共同軍事の守備範囲を「周辺事態」という言葉を使って拡大しました。「事態」という妙な言葉が使われていますが、これは「有事」と言われていたものと同じでしょうね。「周辺事態」が起こると、日本はアメリカに軍事協力をする。周辺事態は日本の安全にとって脅威になると説明されましたが、周辺事態の定義というものはガイドラインの中にはないのです。その上、「周辺」とは地理的概念ではなくて「状況的概念」であるまで書いてあります。何でもアリです。こういういいかげんな、条約でもない下級のとりきめで、軍事をめぐるものごとが勝手に進められていきました。
この新ガイドラインができたのは1997年、今から12年前です。
ブッシュの戦争――「米軍再編」と自衛隊の米国指揮下への組み込み
さてアメリカでは、湾岸戦争のブッシュの息子であるブッシュが2000年に権力を握り、9・11事件の後、反テロ戦争を開始します。これはグローバル政治におけるクーデターみたいなもので、ブッシュ政権は、アメリカは国際法の上に立つと公然と宣言した。国連は無用という議論が米政府から出るようになります。アメリカにつくか、テロリストにつくか、すべての国はどちらかを選べ、とか、アメリカは国連も国際法も無視して「ならずもの国家」に先制攻撃をかける権利があるとかいうべらぼうなことを主張し、主張するだけでなく実行し始めます。イラク侵略です。これにたいしてはヨーロッパもロシアも反発した。しかし小泉政権は、最初からそのアメリカを支持しました。そのなかで、1997年にガイドラインというあいまいな文書に盛り込まれていた戦時措置が、強制力のある法律として次々に制定されて行きました。99年には周辺事態法がつくられていましたが、9・11後には、2003年には武力攻撃事態法、04年に国民保護法、テロ特措法、イラク特措法ができる、自衛隊法を変えて防衛庁を防衛省にする、と言う風なことがどんどん進んできて、そして2007年の米軍再編に辿りつく。
米軍再編の「日米同盟―変革と再編」という文章は驚くべき文章です。もう一回これを読み直してみる必要がある。一口で言うと、日本の主権を完全に飛び越えて、自衛隊を米軍が一元的に指揮するという中身ですね。横田基地に共同作戦調整センターをつくると述べていますけれど、これは「調整」などではなくて、アメリカが直接に日本の自衛隊を米軍の一部として指揮するに等しいものです。日米両軍の関係は連接性(コネクティビティ)と言いあらわされていますが、これは二つのものの協働ではなくて、文字通り「くっついている」、一体化しているということで、いざという場合には、米軍と日本軍の共同作戦は「シームレス」に、つまりシーム(縫い目)のないかたちで行われると表現されています。日、米と二つの部分があればそれを縫い合わせることになるので縫い目ができる。シームレスとはストッキングみたいに最初から一つのピースに編まれている状態です。こうしたことを公然と文書に書き込む。しかもこれらは条約ではない、2+2というので、防衛庁長官、外務大臣、アメリカ側は国務長官と国防長官の間で合意し、調印する。そのような合意に効力をもたせるというものなのです。それを元にして、どんどん実行してしまうのです。そして沖縄から海兵隊をグアムに移すので、グアムでの基地や隊員住居や施設を日本の予算でまかなえという。座間に米陸軍の国際的司令部を置くなどということは普通考えられないです。日本の領土をアメリカの領土の延長と見なすということですね。沖縄の辺野古基地計画はなかでも不透明この上ないいきさつで変更されました。最初は、辺野古の沖に海上基地をつくる計画だったものが、沖縄の人びとの粘り強い抵抗で進まないとみると、急にキャンプ・シュワブから海上に張り出したY字型滑走路の話に変わり、こんどはこれが絶対必要、それができなければ普天間基地は閉鎖しないなどとになる。こうしたことが、「米軍再編」という怪しい合法性を疑われる取り決めで進められているのです。
オバマ政権の誕生と対日政策―安保再定義派の横滑り
この間、アメリカ側には大きい変化が起こりました。ブッシュ政治のみじめな失敗のなかで、アメリカの有権者は「チェンジ」をかかげるオバマを大統領の座につけました。オバマ政権の評価はいろいろあると思いますけれども、大統領選では下からの草の根の力で勝利したことは確かですね。アメリカの支配階級のかなりの部分も、ブッシュ亜流を支えるのは帝国にとってかえって危険と見て、首を据え変えることを選んだ。しかしオバマはこれまでの他の大統領に比べて、草の根の力に動かされる余地がより大きいことは疑いありません。その草の根の力がどれほど政治的な自覚に裏付けられているかは別の問題ですけれど。その点では自民党政権を倒した日本の有権者の力と似たところがあるじゃないでしょうか。客観的に言えばオバマという人はアメリカ帝国が没落するプロセスをなるべく軟着陸に導くという、そういう人だと思います。しかし、没落をマネージするということは、当然政策変更をはらむのですね。変化を目に見える形にしなければならない。帝国の方針を全面的に変更することはしないけれど、ブッシュのやり方はキャンセルせざるを得ない。しかしその全体的文脈のなかで、対日政策をどうするのかははっきりしていないと見えます。実際は、クリントン時代に対日政策を立てたスタッフがそのままオバマ政権に横滑りしているのですね。例えば、キャンベル国務次官補は、ジョセフ・ナイとともにクリントン政権で東アジア太平洋政策を立てた人物で、安保再定義の推進者です。当時は朝鮮半島が統一しても米軍は居残るみたいなことを言っていた。そういう人物がまた出てきて、2010年は日米安保改定50年、過去の業績を顧みるだけでなく将来にどのように協力していけるか考えたいとなどと発言しています。つまり、この日本通たち、日本知識を政治的資産としてワシントンで暮らしている人たちが、対日政策では強くオバマ政権に影響を与えていると言われています。そういう中で、アメリカ側から96年安保再定義以降の積み重なったプロセスをご破算にするという動きは出てこないでしょう。
鳩山政権の誕生――普天間で対米交渉に踏み出せるか
鳩山政権ができて、自民党が解体的状態に陥る。そこはアメリカと似ているのですけれども、非常に大きく違うのは、アメリカは民主党から共和党へ共和党から民主党へとの政権交代を何度も経験しているのです。ところが日本における自民党政権の敗北は、それよりはるかに大きな意味を持ちうるし持っていると私は思います。日本の自民党政権というのは権力そのもの、国家制度だったんですね。自民党国家制という制度として存在していた。中国共産党やメキシコ制度的革命党もそういう意味の国家制度です。これが選挙で崩されたことは非常に大きい意味をもっていると私は思っています。この状況をどのようにこちらからの巻き返しに使っていくかということがすごく大事ですね。
民主党があまり信用できないことははっきりしています。民主党は自民党との対抗上比較的いいことを言っているし、いいことを本当に考えている人もいるでしょう。ただ、日米関係については、口先と腰の座り方との間のギャップがものすごいですね。脱官僚についてはある程度腰を据えてやろうとしているかにみえますが、日米安保関係については、自分がマニフェストに書いていたことを連立合意に入れることさえいやがって、抵抗したのですね。岡田外相や鳩山首相がアメリカに行こうという段階で、アメリカを刺激したくないという言い草、これにはびっくりしましたね。おずおずとしか言えないのだったら、交渉になんかならないじゃないですか。それは交渉じゃ無くてお願いなのですよ。今の政権の日米同盟についてのスタンスはお願い、もしくはおねだりスタンスですよ。
歴史を巻き戻す――既成事実のゴミの山を取り崩し、安保から脱出する
私はこの政局の変化の中で一番評価すべきことは、民主党政権が、既成事実をいくらか壊し始めたことだと見ています。これは非常に大きなことです。いままでの日本の政治というのは、小泉ネオリベラル改革を別とすれば、既成事実には手を触れない、これからは違った政策をとりたいけれど、いままで積み上げたことは壊さない、というスタンスを外したことはなかった。とくに日米安保や自衛隊の問題については、既成事実を一方的に積み重ねる一方でした。世論の方もそれを認めてきた。この間、何十年も自衛隊はどんどん大きくなってきましたが、いつの時点で世論調査をしても、これ以上の軍備拡張や軍事費の増加には反対という声が多数を占めていた。でも自衛隊は大きくなり続けた。これ以上は反対だけれど、これまでのことは認めるというものですね。民主党政権が少なくともいくつかの分野では既成事実をぶち壊そうとしていることは、こうした惰性を破る意味では画期的なことだと私は考えています。その弾みに乗って、われわれが安保についての既成事実、少なくとも95年以来のでたらめな日米安保関係、その既成事実を取り崩す攻勢に転じなければならない、その好機であると私は思います。
これは既成事実を壊し、巻き戻していくプロセスです。既成事実はそのままにしてこれからは別のことで行きますでは駄目で、少なくとも米軍再編についての取り決めは、これを取り消すために、再交渉する、そういうところまで持っていかないといけない。そういいますと、では巻き戻していけば1960年安保に戻っちゃうじゃないかというお叱りを受けるかもしれません。巻き戻すなど、面倒なことはしないで、60年安保条約は1年間の事前通告で破棄できるんだから、それをやればいいのであって、米軍再編取り決めを取り消せとか地位協定を改定しろとかは、どうでもいい、いや安保を認めることになるじゃないか、という意見があるかと思います。60年安保条約を1年の予告で破棄する、これは大事な落とし所です。それは人びとの間で忘れられている事柄なので、もう一度強調し、広める必要があります。しかしこの50年、積み重なったゴミの山をとりのけられずにいて、安保破棄の力が生まれるでしょうか。確かに巻き戻せば元に戻ると考えるのが普通かも知れません。60年安保に戻れ、その方が再定義された安保や米軍再編の安保よりずっとましじゃないか、となるかも知れません。しかし巻き戻しには別の仕方もあるのですよ。既成事実の巻物を直角に巻き戻したら元に戻る。それではどうしようもないですね。60年安保がそもそもダメなもので、だからこそ大反対闘争が起こったわけですからね。
しかし私は違う戻し方があると思うのです。ちょっと斜めにこういう風に巻き戻すのです。巻き戻すのですけれども、そしてそれによって既成事実を取り消すんですけれども、ちょっと斜めに、斜め左に巻き戻すと、最初とは違うところに戻るのです。そういう巻き戻しをする必要があるのです。冷戦後の日米安保再定義状況、そして新自由主義的グローバル化の行き詰まった状況から始めて巻き戻していく、何に向かって巻き戻すかということを、はっきりさせながら、目前のゴミの山を取り崩していく、今はそういう作業にかかれる好機だと思うのです。巻き戻し過程はグローバルにも始まっている訳です。だから、日米関係だけ巻き戻さないというのはむしろ変なんです。そういうことをこの60年安保50周年に向かって、記念日闘争ではなく、始めていく必要がある。問題は、民主党というのは大抵の問題について原理も原則もないのです。原則が無くて政策だけがある。私たちは原則から出発し、できるだけ民主党まで巻き込みながら、どうやって大きく巻き戻すかを考え、実行する必要があります。このヤマトの地でも、95年以降の米軍再編を巻き戻す、そして60年安保を更に遡って1952年にまで巻き戻す、さらに1945年まで巻き戻す。そしてその先に近代日本全体を巻き戻す。今、そういう動きを始める時期だろうと思うのです。
<日米安保体制>という問題
――1952年に遡って歴史を巻き戻す必要
武藤一羊
2009年12月
サンフランシスコ講和条約の発効
60年安保50年との話ですが、私は記念日というのはあまり好きではないのです。なにか記念行事をやって終わりになるというイメージがありますので。
しかし強いて記念日を問題にするとすれば、私は1960年ではなくて、1952年4月28日から考えた方がいいのではないかと思います。1952年と言うのはご承知のとおり、サンフランシスコ講和条約が発効した年、4月28日がその日です。そのとき私は、まだ学生で、東大の時計台前で全都の学生が集まって、講和安保両条約発効に抗議する集会が開かれ、私は急にその議長をやることになって、そのせいで退学処分になりました。その日以来大学には帰っていないのですけれども、そういう意味でこれは記念日的にいうと私にとって大事な時でした。まあそれは個人的なことですが、戦後の日本を考える場合に、いくつか大きな選択の時と言うのがあったと思いますけれど、その第一の選択の時と言うのがその頃だったと思います。つまり、占領が45年から52年まで7年間弱続くのですけれども、その占領を一体どういう終わらせ方をするのか、それが決められるのがその時期で、その後の日本の進路を決める非常に重要な時期でした。単独講和(片面講和)か全面講和かというのが、50?51年の政治的争点で、全面講和を求める運動が社会運動、政党や知識人などが協力して展開されました。アメリカが準備した講和条約は、いわゆる「自由世界」の国だけとの講和で、ソ連を除外することになる、独立を回復した日本は冷戦のなかでアメリカ側につくことを決定する講和になるということで、単独講和、片面講和だ、それにたいして全面講和を求めるという運動でした。しかし吉田茂の率いる日本政府とアメリカはその片面講和を推進し、押し切った。それが1951年に調印されたサンフランシスコ講和条約ですね。講和会議にはインドやビルマは来ませんでした。中国は、中華人民共和国が成立していましたから当然北京政府と講和するのが当然でしたけれども、アメリカは台湾の国民党政府を全中国を代表する正統政府としていたので、これは認めない。かといって、台湾を中国代表として招待するのは、中華人民共和国を承認していたイギリスが認めない。そこで講和会議にはどちらもよばなかった。日本が侵略で最大の被害を与えた中国とは講和しなかったのですね、サンフランシスコでは。そういうへんな講和なのですけれども、そのサンフランシスコ講和条約には、調印後90日以内には米軍は撤退すると書いてあるのです。
戦後日本の最初の選択―講和と駐兵めぐる駆け引き
ところがこの講和条約と同時に日本政府は第一次の日米安全保障条約に調印したのです。この条約によって日本はアメリカ軍の無期限駐留を受け入れることになりました。そしてこのときなされたもうひとつの重大な決定は、沖縄を切り離し、米国の軍事植民地として差し出したことですね。これは本当にあっさりと切り離した。このいきさつについてはいろんなことが書かれています。沖縄をアメリカが支配するよう天皇がマッカーサーに頼みこむという醜いことも背景にありました。いずれにしても、この講和・安保両条約の調印が、戦後日本の進路を決定するもっとも重要な行為でした。この決定によって戦後の日本が、いわゆる自由陣営、冷戦の一方の極であるアメリカ側に立ち、米軍を駐留させることになった訳です。そして沖縄を切り離し、将来はアメリカ合衆国のもとで信託統治にするかも知れないということを決めた訳です。沖縄はアメリカにとっては日本の一部というよりも、アメリカが自国の兵士の血を流して獲得した領土、征服した土地という考えがあるのです。アメリカが太平洋戦争における最大の戦闘をやって、アメリカ人の血を流して取った土地だという考えがあるのです。アメリカ軍部の本音は、沖縄をグアムのような属領にすることだったけれど、国務省がそれには同意しなかったので、日本の残存主権があるとした。しかし実際は沖縄を完全にアメリカ軍の支配下に置き、軍事基地として思うがままに使うことにしました。この沖縄の米軍拠点化を条件にして、日本は非武装でよろしいというのがマッカーサーの「東洋のスイス」論ですね。ですから、21世紀になった今日に直結するすごく重要なことがその時に決められていた。
しかしこの講和条約へ行く過程で、講和条約の後アメリカ軍が日本本土に居残る場合、どういう条件で居残るのかということについては、日本政府と米国との間に駆け引きがあった。その問題を鋭く追及したのは、豊下楢彦さんですね。どういう駆け引きかというと、いずれにしてもアメリカ軍は居座るけれども、それは日本からお願いして残っていただくのか、アメリカが残りたいと申し入れて、それを日本が認めるのか、をめぐる駆け引きなのです。これはどっちでも良いように見えるけれどそうではない訳です。日本の外務省は、向こうが頼んできたから認めるということとして交渉するつもりだったのを、天皇ヒロヒトが、外務省もマッカーサー司令部も通さず、講和条約の交渉窓口であったダレスと直接交渉して、日本から駐留を頼んだという風に持っていくように工作して、それが功を奏したというのが豊下さんの議論です。それが正しいかどうか、私は判断する資格がありませんけれど、いずれにしてもこうした複雑なプロセスのなかでできたのが最初の安保条約ですね。
第一次安保条約の奇妙な条文
こちらからお願いしたのか、向こうから頼まれたのかという観点から読んでみると、第一次安保条約には非常に変なことが書いてあります。日本はまだ武装解除されているので自衛権を行使する有効な手段を持たない。それだから「日本国は、その防衛のための暫定措置として、日本国に対する武力攻撃を阻止するため日本国内及びその附近にアメリカ合衆国がその軍隊を維持することを希望する」とある。ですからこちらからお願いするという形になったと読めます。ところがそのすぐあとが、「アメリカ合衆国は、平和と安全のために、現在若干の自国軍隊を日本国内及びその附近に維持する意思がある」とあり、つまりアメリカも置いて欲しいという含みを入れてあったのですね。それで、第一条に「アメリカ合衆国の陸軍、空軍及び海軍を日本国内及びその附近に配備する権利を、日本国は、許与し、アメリカ合衆国は、これを受諾する。」訳が分からない。日本は「許与し」つまり頼みを聞き入れてやると日本が上に立つような表現ですね。そしてアメリカ合衆国がこれを「受諾する」というのです。「許与」することを受け入れてやるというのでしょうか。訳の分からない玉虫色の条文です。これが第一次安保条約です。
この第一安保はサンフランシスコ条約とともに日本のその後の進路を決める性格のものでした。そこでできた関係というのは、日本とアメリカの外交関係というものではなくて、むしろ日本国家というものの中にアメリカを取りこむ、そういう関係になった。それが一番はっきりしているのが自衛隊の存在で、これは朝鮮戦争の開始とともにアメリカがつくらせた軍隊で、日本の国軍ではない。警察の予備部隊という名目をつけたけれど、「予備」というの意味は、朝鮮戦争をやっていた米軍の後方を固める予備兵力だったのですね。「間接侵略」という言葉が当時導入されました。それは、朝鮮半島では直接侵略、その後方の日本国内で起こる「暴動」などは間接侵略という位置づけで、それにたいしては米軍が出動できる、その米軍とともに日本における暴動や蜂起と戦う予備兵力という性格のものです。日本全体が朝鮮戦争の最前線の後方として位置付けられていて、その前提の上で、講和条約が結ばれ、「間接侵略」には米軍の出動を認める第一次安保条約が調印され、自衛隊の前身である警察予備隊はすでにつくられていたわけです。一方では沖縄永久占領を前提に平和憲法がつくられたわけですが、他方では平和憲法と矛盾するアメリカ軍と連動する軍隊が育てられる。つまり、戦後日本国家は、憲法による単一不可分の主権が存在するのではなくて、安保と自衛隊という姿で、アメリカ帝国が内部に入り込んだ仕組みとして成立したのです。
第二次安保条約――冷戦への積極参加の条件
1960年に安保改定が行われます。来年はその50周年というわけですが、改定された新安保は、1952年に行われた選択を訂正するんじゃなくて、その延長線上にあったわけです。1952年安保では受け身であった日本が、もっと主体的にアメリカの冷戦体制に参加するというのを決めたのが60年安保条約です。岸内閣によるこの新安保条約の締結は巨大な安保闘争を呼び起こしました。しかし、この条約をよく読んでみますと、第六条に「日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリカ合州国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される」と書いてある。日本の安全に寄与する、極東における国際の平和及び安全の維持に寄与する、この二つがアメリカ軍が日本に居るあるいは居られる根拠なのです。その前の第五条は後半に「前記の武力攻撃及びその結果として執った全ての措置は、国際連合憲章第五十一条の規定にしたがつて直ちに国際連合安全保障理事会に報告しなければならない。その措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全を回復し維持するために必要な措置を執つたときは、終止しなければならない」とあり、在日米軍の行動が国連憲章に従って行われなければならないこと、しかもそれは限定的な目的のためである、と定めているのです。今から見るとすごくいい条約じゃないかと思えるぐらい、縛りをかけているのです。法律的にはこの条約が今現在存在する有効な条約なのです。
実際にはその後日本はどんどん深く冷戦に加わって行きます。アメリカの当時の考えは、日本を再武装させる。そして核武装は絶対許さないし、独自の軍事的判断や兵力投入も許さないけれど、自衛隊を育成して、対ソ核対決、中国封じ込めというアメリカの戦略に組み込んでいくということですね。そうして、65年以降ベトナム戦争が激化して、アメリカは勝ちみのない侵略戦争の泥沼に入っていく中で佐藤・ニクソン共同声明で日本の軍事的分担の引き受けと引き換えに沖縄返還をきめ、アメリカ軍の利益を傷つけない仕方で主権を日本に帰すということをやっている訳です。それが72年の沖縄協定ですね。
こうして52年の合意というものに、どんどん中身が追加されていく。1980年代になって新冷戦と言われる米ソの核対決が極端なところまで達して、核戦争の恐怖が世界中を覆った。ソ連のアフガニスタン侵攻が一つの契機なのですが、その中で日本では中曽根政権ができる。その直前に米軍と自衛隊の共同作戦を「相互運用性」の確立で容易にしようと「日米防衛協力指針」、第一次の「ガイドライン」というものが作られています。そして、中曽根は訪米で日本は浮沈空母であると宣言する。こうして52年に作られた体制を基盤にしながら、日本は冷戦の最前線に位置づけられ、自衛隊は米軍を補完する本格的な軍隊として増強されていく。
冷戦の終わり――進路再選択のチャンスを逃す
しかし、そのあとにもう一度日本の進路を決定できる、いやすべきであった時が来ます。90年代です。ソ連が崩壊し冷戦が終わる。本当は、この時期が非常に重要な時期だったのです。どこの国でも冷戦のなかで形成されてきたそれまでの政策をどうするかをめぐる大論争が起こる。当時の『ニューヨーク・タイムズ』などを読むと、ペンタゴンで今までソ連をターゲットにしていたミサイルの標的を今度はどこに付け替えるか、大騒ぎしている状況などが報じられていました。ソ連を標的にすべての核軍備を組み立てていたのに、その敵がなくなってしまったのですね。そこで混乱状況に陥る。
これが、日本が52年に選んだ進路を大きく変える好機だったのですね。90年代は前年のベルリンの壁の崩壊から始まり、91年が湾岸戦争、92年がソ連の崩壊。しかし、日本はこの機会を52年以来のコースの根本的再検討と転換のために生かすことに完全に失敗します。チャンスをみすみす見送ってしまうのです。
逆に日本ではこのころPKO参加問題が起こった。この時は、日本が湾岸戦争で自衛隊をPKOに参加させるかどうかが大問題になり、われわれも毎日国会に行った。1回は阻止した。でも次に通ってしまう。このときの政府のキャッチフレーズは国際貢献でした。国際貢献とは冷戦後のアメリカの秩序つくりにどう貢献すれば、アメリカに気にいってもらえるかの話です。湾岸戦争の時に、130億ドルでしたかお金を出したけれど、ありがとうとも言ってもらえなかった。これではいけない。自衛隊を海外派兵できるようにしなければ、日本は国際的に孤立する(じつはアメリカに見放される)というのが冷戦後の日本の対応でした。本来なされるべき日米安保の再検討どころではなく、逆にそのころから海外派兵、改憲論が高まっていくのです。
細川内閣のときに、アサヒビールの会長の樋口さんが主宰する防衛問題懇談会という首相の私的諮問機関が冷戦後の日本の安保政策について報告書を出し、そのなかで多角的安全保障という考えを打ち出します。これは日米安保を止める話ではなく、これまでのような受け身の安全保障でなく、地域的安全保障を含めた能動的な姿勢が必要とする微温的な提案で下が、それでもこれにアメリカは過剰反応して、冷戦後の日本との関係を引き締めにかかります。
安保再定義――米国の世界覇権への忠誠
冷戦後アメリカのアジア戦略は不確定でした。アジアからの軍事的撤退論も強かったのです。それが新しい形をとるのは95年ごろです。この年ジョセフ・ナイ国防次官がナイ・イニシアティブと言われる提案を出し、その線で「東アジア太平洋地域におけるアメリカの安全保障政策」が打ち出されます。その基本は米軍はアジアから撤退しない、韓国、沖縄、日本に居座るという点にあります。そこで、日米安保はアジアにおけるアメリカの安全保障の要、リンチピンであるという位置づけがなされます。リンチピンとは、引っこ抜くと仕組みが全部ばらばらになるようなカナメのことですね。ほかならぬその95年に、沖縄での少女に対する米兵の暴漢事件が起こり、太田知事を先頭に立てた全島の反基地運動の盛り上がりが起こった。
ここで、「国際貢献」で冷戦後の重要なチャンスを見送った日本=ヤマトが目覚めて、日米安保条約を見直そうという動きが起こるべきでした。しかしそうはできなかった。非常に残念だと思います。ヤマトの運動も沖縄を支援するというスタンスだった。支援は必要なことですけれど、一番大事なことは、この条件の中で、ヤマトの運動の方が、自分たちの問題として、日米安保をどうするかを自身の運動課題としてはっきりと立てることだったと思うのです。そうしてはじめて、沖縄の運動との支援関係を越えた、連帯関係に立つことができたでしょう。日本全体の運動として安保にたいするはっきりしたスタンスを取って、そして日本政府を動かしていくことが大事だったと思う。それができなかった。そしてその状態がずっと続いている。沖縄は闘わざるを得なくて闘っている。そしてヤマトのわれわれはそれを支援する、そういう関係がずっと続いている。私は今それを変える時だと思います。われわれ自身の問題としてこの安保体制をどうするかと問題を立てていかない限りは、沖縄の人たちとの対等な共闘関係は成り立たないと思うのです。
95年、沖縄の反基地運動によってアメリカは土俵際に追いつめられました。そして、土俵際で沖縄にうっちゃりをかけたのです。レイプされたのは沖縄の少女で、しかも北京女性会議のさなかだった。非常にまずい状況だった。だからクリントンが謝罪した。アメリカ大統領が謝罪するなんてことは滅多にないのに、そうせざるをえなかった。相当の危機感を持っていたのですね。つまり土俵際に追いつめられたのです。そこでうっちゃりをかけた。相手の力を利用して土俵の外に放り出す技をかけたんですね。それがSACO合意というものでした。圧倒的な沖縄の反基地の圧力にたいして、沖縄の負担を軽減する、普天間基地を廃止するという譲歩の見せかけで、この圧力を新しい基地を造るという方向にそらせていった。昔から新基地建設の計画を温めていた辺野古に基地を造る話にすり替えた。そうした上で、クリントン・橋本共同宣言で安保再定義というもうひとつ大きいすり替えをやってのけた。
再定義ということは今までの定義では日米安保は成り立たなくなったことの自認なんですね。冷戦は終わった。そうすれば冷戦のために存在していた安保条約の意味は当然無くなったわけです。意味を失った条約ならやめるのが当然なのに、やめたくはない。やめれば基地も失う。それは失いたくない。ならば他の目的に転用しよう。だから安保の目的の方を変えよう、再定義しようとなったわけです。それはなにか。世界の中の安保同盟ということばで、アメリカの世界支配に役立つ日米同盟ということになった。そのなかで日本は役割を果たします、アメリカの世界一人支配に日本が無条件に協力します、というのが1996年の安保再定義なのです。これは60年安保条約と違うじゃないですか。安保条約は米軍の役割を厳密に日本と極東に限定していたのです。ところが対象は世界になり、目的も変わった、それなら安保条約をどうするかという根本問題が当然出てしかるべきなのに、国会でも議論はしないし日本政府はこの根本的性格変更について何も説明しなかった。60年安保をめぐるいわゆる安保国会では条約解釈をめぐって厳密な議論が闘わされ、それを通じて安保に枠をはめた。安保三羽ガラスといわれた社会党の有能な議員たちが藤原外相を問い詰め、安保条約の適用範囲なども、極東の定義を求めて、緻密な議論で枠をはめた。こうした積み重ねた安保解釈などは、安保再定義でどこかへ吹っ飛ばされてしまった。
安保条約は変わらないのに、中身は議論抜きにすり替えられた。新しい中身はアメリカの覇権という考え方です。「東アジア・太平洋戦略」という新戦略では、アメリカの「全領域にわたる支配」という戦略目標がかかげられます。そしてこの支配に挑戦するどんなパワーの出現も許さない。そういうことを露骨に言ってのける、つまり世界はアメリカが仕切る権利があるという宣言です。それを言い始めたのではジョージ・ブッシュではない。ビル・クリントンの政権なのです。
それを東アジアで実現するために日本はカナメ、リンチピンだというのです。この戦略の下でつくられたのが改定ガイドライン「新日米防衛協力のための指針」です。これは本当にどぎつくすごいものだった。日本のすべての能力、軍事基地だけではなくて、港湾から空港、自治体のサービスまでをいざという時にはアメリカが使えるよう日本が協力する。米日の軍隊が「調整センター」をつくって一体的に作戦を展開する。そういうことをガイドラインという形にした。ガイドラインというのは、どういう法律的効力があるのかあいまいな取り決め方です。これには誰も署名していないのですよ。外務大臣も署名していない。誰が決めたか分からない。実際は、両国の軍と外務省の実務レベルで作成して、それがガイドラインということになった。国会にもかからない。成文が日本語か英語かも分からない。条約ではないから国会にかける必要がない、批准が必要ではない。既にその段階で、60年安保というのは、形式的には存在するけれど、実質的には棚上げされた存在になったのです。
このガイドライン安保はまた米日共同軍事の守備範囲を「周辺事態」という言葉を使って拡大しました。「事態」という妙な言葉が使われていますが、これは「有事」と言われていたものと同じでしょうね。「周辺事態」が起こると、日本はアメリカに軍事協力をする。周辺事態は日本の安全にとって脅威になると説明されましたが、周辺事態の定義というものはガイドラインの中にはないのです。その上、「周辺」とは地理的概念ではなくて「状況的概念」であるまで書いてあります。何でもアリです。こういういいかげんな、条約でもない下級のとりきめで、軍事をめぐるものごとが勝手に進められていきました。
この新ガイドラインができたのは1997年、今から12年前です。
ブッシュの戦争――「米軍再編」と自衛隊の米国指揮下への組み込み
さてアメリカでは、湾岸戦争のブッシュの息子であるブッシュが2000年に権力を握り、9・11事件の後、反テロ戦争を開始します。これはグローバル政治におけるクーデターみたいなもので、ブッシュ政権は、アメリカは国際法の上に立つと公然と宣言した。国連は無用という議論が米政府から出るようになります。アメリカにつくか、テロリストにつくか、すべての国はどちらかを選べ、とか、アメリカは国連も国際法も無視して「ならずもの国家」に先制攻撃をかける権利があるとかいうべらぼうなことを主張し、主張するだけでなく実行し始めます。イラク侵略です。これにたいしてはヨーロッパもロシアも反発した。しかし小泉政権は、最初からそのアメリカを支持しました。そのなかで、1997年にガイドラインというあいまいな文書に盛り込まれていた戦時措置が、強制力のある法律として次々に制定されて行きました。99年には周辺事態法がつくられていましたが、9・11後には、2003年には武力攻撃事態法、04年に国民保護法、テロ特措法、イラク特措法ができる、自衛隊法を変えて防衛庁を防衛省にする、と言う風なことがどんどん進んできて、そして2007年の米軍再編に辿りつく。
米軍再編の「日米同盟―変革と再編」という文章は驚くべき文章です。もう一回これを読み直してみる必要がある。一口で言うと、日本の主権を完全に飛び越えて、自衛隊を米軍が一元的に指揮するという中身ですね。横田基地に共同作戦調整センターをつくると述べていますけれど、これは「調整」などではなくて、アメリカが直接に日本の自衛隊を米軍の一部として指揮するに等しいものです。日米両軍の関係は連接性(コネクティビティ)と言いあらわされていますが、これは二つのものの協働ではなくて、文字通り「くっついている」、一体化しているということで、いざという場合には、米軍と日本軍の共同作戦は「シームレス」に、つまりシーム(縫い目)のないかたちで行われると表現されています。日、米と二つの部分があればそれを縫い合わせることになるので縫い目ができる。シームレスとはストッキングみたいに最初から一つのピースに編まれている状態です。こうしたことを公然と文書に書き込む。しかもこれらは条約ではない、2+2というので、防衛庁長官、外務大臣、アメリカ側は国務長官と国防長官の間で合意し、調印する。そのような合意に効力をもたせるというものなのです。それを元にして、どんどん実行してしまうのです。そして沖縄から海兵隊をグアムに移すので、グアムでの基地や隊員住居や施設を日本の予算でまかなえという。座間に米陸軍の国際的司令部を置くなどということは普通考えられないです。日本の領土をアメリカの領土の延長と見なすということですね。沖縄の辺野古基地計画はなかでも不透明この上ないいきさつで変更されました。最初は、辺野古の沖に海上基地をつくる計画だったものが、沖縄の人びとの粘り強い抵抗で進まないとみると、急にキャンプ・シュワブから海上に張り出したY字型滑走路の話に変わり、こんどはこれが絶対必要、それができなければ普天間基地は閉鎖しないなどとになる。こうしたことが、「米軍再編」という怪しい合法性を疑われる取り決めで進められているのです。
オバマ政権の誕生と対日政策―安保再定義派の横滑り
この間、アメリカ側には大きい変化が起こりました。ブッシュ政治のみじめな失敗のなかで、アメリカの有権者は「チェンジ」をかかげるオバマを大統領の座につけました。オバマ政権の評価はいろいろあると思いますけれども、大統領選では下からの草の根の力で勝利したことは確かですね。アメリカの支配階級のかなりの部分も、ブッシュ亜流を支えるのは帝国にとってかえって危険と見て、首を据え変えることを選んだ。しかしオバマはこれまでの他の大統領に比べて、草の根の力に動かされる余地がより大きいことは疑いありません。その草の根の力がどれほど政治的な自覚に裏付けられているかは別の問題ですけれど。その点では自民党政権を倒した日本の有権者の力と似たところがあるじゃないでしょうか。客観的に言えばオバマという人はアメリカ帝国が没落するプロセスをなるべく軟着陸に導くという、そういう人だと思います。しかし、没落をマネージするということは、当然政策変更をはらむのですね。変化を目に見える形にしなければならない。帝国の方針を全面的に変更することはしないけれど、ブッシュのやり方はキャンセルせざるを得ない。しかしその全体的文脈のなかで、対日政策をどうするのかははっきりしていないと見えます。実際は、クリントン時代に対日政策を立てたスタッフがそのままオバマ政権に横滑りしているのですね。例えば、キャンベル国務次官補は、ジョセフ・ナイとともにクリントン政権で東アジア太平洋政策を立てた人物で、安保再定義の推進者です。当時は朝鮮半島が統一しても米軍は居残るみたいなことを言っていた。そういう人物がまた出てきて、2010年は日米安保改定50年、過去の業績を顧みるだけでなく将来にどのように協力していけるか考えたいとなどと発言しています。つまり、この日本通たち、日本知識を政治的資産としてワシントンで暮らしている人たちが、対日政策では強くオバマ政権に影響を与えていると言われています。そういう中で、アメリカ側から96年安保再定義以降の積み重なったプロセスをご破算にするという動きは出てこないでしょう。
鳩山政権の誕生――普天間で対米交渉に踏み出せるか
鳩山政権ができて、自民党が解体的状態に陥る。そこはアメリカと似ているのですけれども、非常に大きく違うのは、アメリカは民主党から共和党へ共和党から民主党へとの政権交代を何度も経験しているのです。ところが日本における自民党政権の敗北は、それよりはるかに大きな意味を持ちうるし持っていると私は思います。日本の自民党政権というのは権力そのもの、国家制度だったんですね。自民党国家制という制度として存在していた。中国共産党やメキシコ制度的革命党もそういう意味の国家制度です。これが選挙で崩されたことは非常に大きい意味をもっていると私は思っています。この状況をどのようにこちらからの巻き返しに使っていくかということがすごく大事ですね。
民主党があまり信用できないことははっきりしています。民主党は自民党との対抗上比較的いいことを言っているし、いいことを本当に考えている人もいるでしょう。ただ、日米関係については、口先と腰の座り方との間のギャップがものすごいですね。脱官僚についてはある程度腰を据えてやろうとしているかにみえますが、日米安保関係については、自分がマニフェストに書いていたことを連立合意に入れることさえいやがって、抵抗したのですね。岡田外相や鳩山首相がアメリカに行こうという段階で、アメリカを刺激したくないという言い草、これにはびっくりしましたね。おずおずとしか言えないのだったら、交渉になんかならないじゃないですか。それは交渉じゃ無くてお願いなのですよ。今の政権の日米同盟についてのスタンスはお願い、もしくはおねだりスタンスですよ。
歴史を巻き戻す――既成事実のゴミの山を取り崩し、安保から脱出する
私はこの政局の変化の中で一番評価すべきことは、民主党政権が、既成事実をいくらか壊し始めたことだと見ています。これは非常に大きなことです。いままでの日本の政治というのは、小泉ネオリベラル改革を別とすれば、既成事実には手を触れない、これからは違った政策をとりたいけれど、いままで積み上げたことは壊さない、というスタンスを外したことはなかった。とくに日米安保や自衛隊の問題については、既成事実を一方的に積み重ねる一方でした。世論の方もそれを認めてきた。この間、何十年も自衛隊はどんどん大きくなってきましたが、いつの時点で世論調査をしても、これ以上の軍備拡張や軍事費の増加には反対という声が多数を占めていた。でも自衛隊は大きくなり続けた。これ以上は反対だけれど、これまでのことは認めるというものですね。民主党政権が少なくともいくつかの分野では既成事実をぶち壊そうとしていることは、こうした惰性を破る意味では画期的なことだと私は考えています。その弾みに乗って、われわれが安保についての既成事実、少なくとも95年以来のでたらめな日米安保関係、その既成事実を取り崩す攻勢に転じなければならない、その好機であると私は思います。
これは既成事実を壊し、巻き戻していくプロセスです。既成事実はそのままにしてこれからは別のことで行きますでは駄目で、少なくとも米軍再編についての取り決めは、これを取り消すために、再交渉する、そういうところまで持っていかないといけない。そういいますと、では巻き戻していけば1960年安保に戻っちゃうじゃないかというお叱りを受けるかもしれません。巻き戻すなど、面倒なことはしないで、60年安保条約は1年間の事前通告で破棄できるんだから、それをやればいいのであって、米軍再編取り決めを取り消せとか地位協定を改定しろとかは、どうでもいい、いや安保を認めることになるじゃないか、という意見があるかと思います。60年安保条約を1年の予告で破棄する、これは大事な落とし所です。それは人びとの間で忘れられている事柄なので、もう一度強調し、広める必要があります。しかしこの50年、積み重なったゴミの山をとりのけられずにいて、安保破棄の力が生まれるでしょうか。確かに巻き戻せば元に戻ると考えるのが普通かも知れません。60年安保に戻れ、その方が再定義された安保や米軍再編の安保よりずっとましじゃないか、となるかも知れません。しかし巻き戻しには別の仕方もあるのですよ。既成事実の巻物を直角に巻き戻したら元に戻る。それではどうしようもないですね。60年安保がそもそもダメなもので、だからこそ大反対闘争が起こったわけですからね。
しかし私は違う戻し方があると思うのです。ちょっと斜めにこういう風に巻き戻すのです。巻き戻すのですけれども、そしてそれによって既成事実を取り消すんですけれども、ちょっと斜めに、斜め左に巻き戻すと、最初とは違うところに戻るのです。そういう巻き戻しをする必要があるのです。冷戦後の日米安保再定義状況、そして新自由主義的グローバル化の行き詰まった状況から始めて巻き戻していく、何に向かって巻き戻すかということを、はっきりさせながら、目前のゴミの山を取り崩していく、今はそういう作業にかかれる好機だと思うのです。巻き戻し過程はグローバルにも始まっている訳です。だから、日米関係だけ巻き戻さないというのはむしろ変なんです。そういうことをこの60年安保50周年に向かって、記念日闘争ではなく、始めていく必要がある。問題は、民主党というのは大抵の問題について原理も原則もないのです。原則が無くて政策だけがある。私たちは原則から出発し、できるだけ民主党まで巻き込みながら、どうやって大きく巻き戻すかを考え、実行する必要があります。このヤマトの地でも、95年以降の米軍再編を巻き戻す、そして60年安保を更に遡って1952年にまで巻き戻す、さらに1945年まで巻き戻す。そしてその先に近代日本全体を巻き戻す。今、そういう動きを始める時期だろうと思うのです。