田母神論文――文民統制が問題なのではない 山口響
田母神俊雄が航空幕僚長だった時代に書いた論文「日本は侵略国家であったのか」。
端的に言って、卒論以下の内容だ。まずもって、論文としての体を成していない。日本が行った戦争の評価、アメリカとの関係、国際政治における武力の役割など、さまざまな論点が整理されないままに登場し、わずか9ページの論文であるにもかかわらず、最後まで論理は混濁している。これが300万円を獲る論文だとは、どう考えても信じられない。
それは大目に見るとしても、とにかく事実誤認と思い込みが目立つ。「日本は19世紀の後半以降、朝鮮半島や中国大陸に軍を進めることになるが相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない」(p.1)「我が国は他国との比較で言えば極めて穏健な植民地統治をした」(p.2)などと言ったかと思えば、日米開戦はコミンテルンの仕掛けた罠だった(p.5)という、ほとんどギャグとしか言えない説まで披露している。あの秦郁彦にすら批判を浴びる始末だ(『週刊朝日』2008年11月28日号など)。
ただ、そうした個別の間違いよりも問題なのは、日本が侵略国家であったことをしゃにむに否定したいという、その姿勢の方だ。田母神は、「当時の列強といわれる国で侵略国家でなかった国はどこかと問いたい。よその国がやったから日本もやっていいということにはならないが、日本だけが侵略国家だといわれる筋合いもない」(p.2)と述べる。悪いことをしたと一応認めた上で「他の国もやりましたが何か?」「それが当時の常識ですが何か?」と居直って見せる態度である。
他方で彼は、日本が朝鮮や中国でインフラ整備を進め、現地住民の生活水準を向上させたと力説している。こうなると、悪いことをしたと認めてすらいない。日本はいい国だった、とにかくそれだけである。田母神は、辞職後のインタビューで、「『日本はいい国だ』と言ったら、『お前はクビだ!』と宣告された」と恨み言を口にしている(『週刊現代』2008年12月20日号)。ある国が「いい国」であるか「悪い国」であるか、ということしか言えないこの単純思考。このようなインテリジェンス(知性、軍事用語で言えば「諜報・情報」)に欠ける人間が空自のトップに座っていたとは、にわかに信じがたいことだ。
では、この事件を、「田母神という跳ね上がり者が暴走した」とまとめてしまってよいのだろうか? 主流のメディアから聞こえてくるのは、おおかたそういう意見である。つまり、政治が軍人をきっちり抑えることができなかった、これは「文民統制」の危機だ、というものだ。
これは間違った見方ではない。しかし、本質的なことからは目が逸らされている。私たちが問題にすべきなのは、軍人が暴走したということではなく、軍人の暴走を易々と許してしまうような環境を文民が率先して作り上げてきた、ということではないのだろうか。
それは、この20年くらいの歴史、とくに2001年以降の状況を見れば簡単にわかることだ。文民(自民党などの政治家や防衛省の文官=背広組)たちは、自分たちの提案が軍事的にみてリアリティを持つかどうかに関わりなく、「自衛隊を国際貢献のために海外へ!」と叫びつづけてきた。文民はあっけらかんとしており、戸惑いをしばしば表明していたのは、むしろ、現場を知る軍人(とくに前線に送られる自衛官)たちの方だった。
田母神の場合にはこの「戸惑い」の程度が低く、文民たちと同じことを、よりあけすけに語ってみせたに過ぎない。文官が自衛隊の外征軍化という「ぬるま湯」を張り、そのぬるま湯の中でぬくぬくと育った鬼子、それが田母神だったのではないか。
こう見ると、田母神論文が出たときの文民たちの腰の引けた対応の理由がよく理解できる。自分たちの年来の主張が生み出した田母神なのだから、「政府見解とちがう」とか「論文を出す前に許可を取らなかった」とかいう形式論議でしか辞職を迫れなかったのである。
文民の中で一番ひどいのは石破茂であろう。彼は、2002年9月から2004年9月にかけて防衛庁長官(当時)、2007年9月から今年8月にかけて防衛大臣の要職にあった。この間田母神は、2002年12月に空将昇任、統合幕僚学校長就任、2004年8月に航空総隊司令官就任、2007年3月に第29代航空幕僚長就任と順調に出世している。しかもここに、航空自衛隊のイラク派兵という事態が重なる。いわば、石破と田母神は手を取り合って海外派兵を進めてきたのである。
その石破は、『文藝春秋』2009年1月号に寄せた手記で、田母神は「熱血漢で人柄も明るく、部下には大変人望があり、非常に優れた資質を持っていた。私が押し進めてきた防衛省改革に関しても、積極的に支持してくれた」(p.182)と持ち上げる一方で、「田母神氏が、私の文民統制に対する基本的な考え方を完全に誤解していたのではないか、と思わざるをえなかった」(p.183)と批判している。
石破による「文民統制」の理解はこうだ。ひとつは、「いかにしてクーデターを起こさせないようにするか」という「消極的文民統制」。もうひとつは、「軍、我が国で言えば自衛隊という実力組織をいかに活用し、国益と、国際社会に対する我が国の役割を実現するかとの概念」である「積極的文民統制」である(p.185)。この「積極的文民統制」の文脈においては、自衛官(軍人)は専門家の見地から文民に意見を述べることが義務として求められる。
田母神からしてみれば、文民によってこのように大きくこじ開けられた空間で、「お国」のために必要なことを申し述べたに過ぎない、というのが正直な気持ちだろう。田母神は、石破の主張とは真逆に、石破の言う「積極的文民統制」の理念通りに動いただけだ。石破の手記の題名は「田母神前空幕長を殉教者にするな」というものだが、〈文民統制に関する私の意図を誤解して勝手に一線を越えたのは田母神だ〉と言わんばかりの石破の態度こそが、田母神を「殉教者」にするものである、といえよう。田母神的存在を生み出す環境を作り出した自らの口をぬぐっている分だけ、石破の方が田母神よりも数倍悪質である。
田母神問題とは、「文民が軍人をどう統制するか」という話ではない。私たちが、机上の空論だけで軍隊を海外に派遣したがる文民をどう抑えつけるか、という問題なのである。
田母神俊雄が航空幕僚長だった時代に書いた論文「日本は侵略国家であったのか」。
端的に言って、卒論以下の内容だ。まずもって、論文としての体を成していない。日本が行った戦争の評価、アメリカとの関係、国際政治における武力の役割など、さまざまな論点が整理されないままに登場し、わずか9ページの論文であるにもかかわらず、最後まで論理は混濁している。これが300万円を獲る論文だとは、どう考えても信じられない。
それは大目に見るとしても、とにかく事実誤認と思い込みが目立つ。「日本は19世紀の後半以降、朝鮮半島や中国大陸に軍を進めることになるが相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない」(p.1)「我が国は他国との比較で言えば極めて穏健な植民地統治をした」(p.2)などと言ったかと思えば、日米開戦はコミンテルンの仕掛けた罠だった(p.5)という、ほとんどギャグとしか言えない説まで披露している。あの秦郁彦にすら批判を浴びる始末だ(『週刊朝日』2008年11月28日号など)。
ただ、そうした個別の間違いよりも問題なのは、日本が侵略国家であったことをしゃにむに否定したいという、その姿勢の方だ。田母神は、「当時の列強といわれる国で侵略国家でなかった国はどこかと問いたい。よその国がやったから日本もやっていいということにはならないが、日本だけが侵略国家だといわれる筋合いもない」(p.2)と述べる。悪いことをしたと一応認めた上で「他の国もやりましたが何か?」「それが当時の常識ですが何か?」と居直って見せる態度である。
他方で彼は、日本が朝鮮や中国でインフラ整備を進め、現地住民の生活水準を向上させたと力説している。こうなると、悪いことをしたと認めてすらいない。日本はいい国だった、とにかくそれだけである。田母神は、辞職後のインタビューで、「『日本はいい国だ』と言ったら、『お前はクビだ!』と宣告された」と恨み言を口にしている(『週刊現代』2008年12月20日号)。ある国が「いい国」であるか「悪い国」であるか、ということしか言えないこの単純思考。このようなインテリジェンス(知性、軍事用語で言えば「諜報・情報」)に欠ける人間が空自のトップに座っていたとは、にわかに信じがたいことだ。
では、この事件を、「田母神という跳ね上がり者が暴走した」とまとめてしまってよいのだろうか? 主流のメディアから聞こえてくるのは、おおかたそういう意見である。つまり、政治が軍人をきっちり抑えることができなかった、これは「文民統制」の危機だ、というものだ。
これは間違った見方ではない。しかし、本質的なことからは目が逸らされている。私たちが問題にすべきなのは、軍人が暴走したということではなく、軍人の暴走を易々と許してしまうような環境を文民が率先して作り上げてきた、ということではないのだろうか。
それは、この20年くらいの歴史、とくに2001年以降の状況を見れば簡単にわかることだ。文民(自民党などの政治家や防衛省の文官=背広組)たちは、自分たちの提案が軍事的にみてリアリティを持つかどうかに関わりなく、「自衛隊を国際貢献のために海外へ!」と叫びつづけてきた。文民はあっけらかんとしており、戸惑いをしばしば表明していたのは、むしろ、現場を知る軍人(とくに前線に送られる自衛官)たちの方だった。
田母神の場合にはこの「戸惑い」の程度が低く、文民たちと同じことを、よりあけすけに語ってみせたに過ぎない。文官が自衛隊の外征軍化という「ぬるま湯」を張り、そのぬるま湯の中でぬくぬくと育った鬼子、それが田母神だったのではないか。
こう見ると、田母神論文が出たときの文民たちの腰の引けた対応の理由がよく理解できる。自分たちの年来の主張が生み出した田母神なのだから、「政府見解とちがう」とか「論文を出す前に許可を取らなかった」とかいう形式論議でしか辞職を迫れなかったのである。
文民の中で一番ひどいのは石破茂であろう。彼は、2002年9月から2004年9月にかけて防衛庁長官(当時)、2007年9月から今年8月にかけて防衛大臣の要職にあった。この間田母神は、2002年12月に空将昇任、統合幕僚学校長就任、2004年8月に航空総隊司令官就任、2007年3月に第29代航空幕僚長就任と順調に出世している。しかもここに、航空自衛隊のイラク派兵という事態が重なる。いわば、石破と田母神は手を取り合って海外派兵を進めてきたのである。
その石破は、『文藝春秋』2009年1月号に寄せた手記で、田母神は「熱血漢で人柄も明るく、部下には大変人望があり、非常に優れた資質を持っていた。私が押し進めてきた防衛省改革に関しても、積極的に支持してくれた」(p.182)と持ち上げる一方で、「田母神氏が、私の文民統制に対する基本的な考え方を完全に誤解していたのではないか、と思わざるをえなかった」(p.183)と批判している。
石破による「文民統制」の理解はこうだ。ひとつは、「いかにしてクーデターを起こさせないようにするか」という「消極的文民統制」。もうひとつは、「軍、我が国で言えば自衛隊という実力組織をいかに活用し、国益と、国際社会に対する我が国の役割を実現するかとの概念」である「積極的文民統制」である(p.185)。この「積極的文民統制」の文脈においては、自衛官(軍人)は専門家の見地から文民に意見を述べることが義務として求められる。
田母神からしてみれば、文民によってこのように大きくこじ開けられた空間で、「お国」のために必要なことを申し述べたに過ぎない、というのが正直な気持ちだろう。田母神は、石破の主張とは真逆に、石破の言う「積極的文民統制」の理念通りに動いただけだ。石破の手記の題名は「田母神前空幕長を殉教者にするな」というものだが、〈文民統制に関する私の意図を誤解して勝手に一線を越えたのは田母神だ〉と言わんばかりの石破の態度こそが、田母神を「殉教者」にするものである、といえよう。田母神的存在を生み出す環境を作り出した自らの口をぬぐっている分だけ、石破の方が田母神よりも数倍悪質である。
田母神問題とは、「文民が軍人をどう統制するか」という話ではない。私たちが、机上の空論だけで軍隊を海外に派遣したがる文民をどう抑えつけるか、という問題なのである。