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Re: 日本社会をそのまま映す橋下「慰安婦」発言

青山 薫
(ピープルズ・プラン研究所運営委員)
2013年5月15日記

山口さんのポイント、

橋下発言の問題は、それが「暴言」だという点にあるのではない。それが、本来は否定さるべき「暴言」であったなら、どれだけよかったことか。しかし、残念ながら、橋下の論理は、戦後日本社会のスタンダードそのものだったのである。


に賛成。プラス、橋下発言の問題は、それが、「戦後」以前から現在まで連綿と続く、日本社会の性差別スタンダードを反映しているところだ、と言いたい。

日本社会の「性差別」は、まずは「女性に対する差別」という面が強く、それは批判のために強調されてしかるべきなのだが、実は「女性差別」に限らない。「男性を女性から差別すること」であり、その逆であり、つまり、ジェンダー格差にのっとって人間関係と社会制度を組み立てようとする規範であり、さらには、男性の性はこういうもの、女性の性はこういうもの、と、個々人に属するはずのセクシュアリティについてさえも、ジェンダー格差にのっとって決めつける思考の様式だ。そのなかで、「男性」や「女性」の枠にうまく入らない人びとを排除する方法でもある。

だから私は、まず、VAWW RAC・アジア女性資料センター・アクティブミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」の3団体による抗議にも、日本軍「慰安婦」問題解決全国行動による抗議文にも、沖縄県女性団体連絡協議会・アイ女性会議・新日本婦人の会・ジェンダー問題を考える会・基地・軍隊を許さない行動する女たちの会など多数の女性団体による連名の抗議声明にも、賛成する。

とくに最後の文章が、「わたしたちが知っている嘘とは、性欲がコントロールできないという、レイプを正当化する神話。性産業で働く人は『欲求のはけ口』になるのを自ら認めているという神話、あるいはそうされても仕方がないという神話。誰かの性を犠牲にすることで護られる「貞操」という神話」として、橋下発言が基礎にしている、男女の性による二分法自体を「嘘」と見抜くセンスを共有したい。そして、性風俗産業で働く人たちを「わたしたち」から切り離すことなく、橋下の、「風俗業を活用して」兵士の性欲を「合法的に解消」させようとする戦時と同様の発想が、「わたしたち」の性に対する冒涜と地続きのものととらえられていることに、心から拍手を送りたい。

そのうえで、まだつけ加えたいことがある。

元「慰安婦」の人たちはもとより、今性風俗産業で働く人たちも、「特に男に」その解消策が必要と橋下が言う(http://mainichi.jp/select/news/20130514k0000e040171000c.html)、性欲の防波堤ではない。ただし、社会の大勢がそう思い、そのようにあつかえば、「彼女たち」が仕事のなかで自分の性を自分の側の事情に合わせて活用できる場面は減るだろう。そのことは、「わたしたち」が、自分の性を自分の事情に合わせてさまざまに活用する自由を奪われることにつながっているだろう。

しかし、現在の日本社会の大勢は、とくに性風俗産業で働く人たちについて、自分たちとは区別して、「そのように」性欲の防波堤としてあつかっているのではないだろうか。元「慰安婦」の人たちについては、「日本人『慰安婦』は『公娼制度下の女性たち』という漠然と刷り込まれた概念が、日本人『慰安婦』の被害者性を疎外してはこなかったでしょうか?」という問いを出発点に、VAWW RACが去年から日本人「慰安婦」調査研究を始めたが(http://vawwrac.org/?p=707)、現在も、わたしたちはこの歴史の延長にいて、性産業で働く女性(や男性)を一般の「女性」(や「男性」)の枠に入らない人びととして排除しているところがないだろうか。そこを、ポピュリストの才能豊かな橋下が敏感に察知し、フルに利用しているのとしたら、橋下発言の基礎をなす「男女の性による二分法」について、「敵」の側だけにあるのではない、場合によっては身近なものとして、批判する必要がないだろうか。

この点をふくめて、橋下発言をこの社会で可能にしている「何か」が根本的に差別的だということをまず自覚し、そして変えていかなければ、たとえ三つの抗議文が求めるように橋下が発言を撤回し、謝罪し、もしかして市長を辞任したとしても、第二第三の橋下が現れるだろう。そもそも橋下自身、このような発言も、このような地位にあることも、別の場所で続けていくことだろう。

別の角度から、こうも言える。

その後の橋下のTweetを見てみると、彼の発言はメディアや批評家によって局解されたが、言いたかったのは、戦時「慰安婦」制度は日本独特のものではなかったし米軍は現在でも性風俗産業を実際には利用しているのに、建前で日本だけが叩かれるのは「フェアでない」ということだそうだ。これに飛びつく人たちもいて、橋下発言を「なるほど」と思わせる「何か」は、依然として100万人を超える橋下フォロワーとそこから流れる情報に訴えているようだ。

典型的なのは、「そもそも最初から慰安婦容認というところが本質ではなく海外からの日本の評価についての話なのですね。これは各メディアの切り取りかたが悪い」という意見に代表される、橋下批判「ずれてる」説(https://twitter.com/rockstarhamouin/status/334469953438748672)。


ああいえばこういう橋下の論理的な支離滅裂さはいちいち指摘する暇がないくらいなので置くとして、橋下の今回の発言全部(http://synodos.jp/politics/3894)を受けて、本人をはじめ多くの発言者が(相手にならん、という感じで去る人もいて、それには安心するけれど)、具体例として挙げられた「慰安婦」問題や米軍基地と性風俗産業との関係についての彼の解釈も、それらが女性蔑視につながる問題だとする他者からの指摘も、ようするに傍論であって事の本質ではない、と言っている。抗議している「わたしたち」とは真逆の展開。その何が典型的なのかと言うと、これが、この社会に根強くはびこる、性差別(繰り返すが、「女性差別」だけを指すのではない)についてはそのことで足を踏まれた(ことのある)者だけが「痛い!」と叫び、かつ、その声がほぼ恒常的に「そんなの大したことじゃないじゃないか。大げさ言うな」と叱責さえする多勢の声にかき消される、という図式にハマっているところ。

この図式を批判するのは簡単だ。しかし、前述の性風俗産業で働く人たちのあつかいしかり、橋下批判をしているわたしたちのなかに、他の場面でこの図式にハマっていない、と確信をもって言える人間がどれだけいるだろうか? たとえば、橋下発言を「女性の人権の蹂躙」とだけ思った人は、そうではない、のだろうか?

沖縄のライターの知念ウシさんが、橋下発言が、「男性にとっても侮辱的だ。男性の健康的な性の在り方をも抑圧して、戦争や基地が成立していることを、この発言は暴露している」と言ったらしい(http://mainichi.jp/area/okinawa/news/20130514rky00m040001000c.html)。そのとおり――「健康的な性」が何かには議論があるだろうことを除いては。橋下発言のなかで自分が「男性」とくくられていると思う人こそが、自分の性の自由を奪われていることをあらためて自覚し、そのことを差別の本質として橋下発言に抗議するようになれば、この社会もかなり変わってくるのではないだろうか。
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